芭蕉の言葉
物の見えたるひかり、いまだ消えざるうちにいひとむべし。
句作になると、するとあり。
内をつねに勤めて物に応ずれば、
その心のいろ句となる。
内をつね勤めざるものは、
ならざる故に私意にかけてする也。
芭蕉の言葉
物の見えたるひかり、いまだ消えざるうちにいひとむべし。
句作になると、するとあり。
内をつねに勤めて物に応ずれば、
その心のいろ句となる。
内をつね勤めざるものは、
ならざる故に私意にかけてする也。
芭蕉の言葉
松の事は松に習へ竹の事は竹に習へ 芭蕉
昨日の我に飽くべし 芭蕉
西行の和歌における、
宗祇の連歌における、
雪舟の絵における、
利休が茶における、
その貫道するものは一なり。
しかも、風雅におけるもの、
造化にしたがひて四時を友とす。
見るところ花にあらずといふことなし。
思ふところ月にあらずといふことなし。
像、花にあらざる時は夷狄にひとし。
心、花にあらざる時は鳥獣に類す。
夷狄を出て、鳥獣を離れて、
造化にしたがひ、
造化にかへれとなり。
生きること(坂村真民)
生きることとは愛することだ
妻子を愛し
はらからを愛し
おのれの敵である者をも愛することだ
生きることとは人間の美しさを失わぬことだ
どんなに苦しい目にあっても
あたたかい愛の涙の持ち主であることだ
忍術はめずらしくなくなった
猿飛佐助は 猿になって飛んだ
霧隠才蔵は 霧になってかくれた
それは こどものころの夢で
今では 不思議と思えない
変身 それをなしとげて今があり
それをなしとげて ここを去る
私は猿になり 霧になる
というよりも 霧が私になり
石が私になって 今いるので
この私が 変幻
ここをはなれては
われらは たがいに知らず
私は私に
会う時もない
(鶴見 俊輔 詩集より)
二度とない人生だからー坂村真民
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにかよろこぶことだろう
二度とない人生だから
一ぺんでも多く便りをしよう
返事は必ず書くことにしよう
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの星々の光にふれて
わがこころをあらいきよめてゆこう
二度とない人生だから
戦争のない世の実現に努力し
そういう詩を一遍でも多く作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる若い人たちのために
この大願を書きつづけてゆこう
尊いのは足の裏である(坂村真民)
尊いのはあたまではなく
手ではなく、足の裏である
一生人に知られず
一生汚いところと接し
黙々として
その努めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの
しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ
頭から光がでる
まだまだだめ
額から光がでる
まだまだいかん
足の裏から光がでる
そのような方こそ
本当に偉い人である
何かをしよう
坂村真民
何かをしよう
みんなの人のためになる
何かをしよう
よく考えたら自分の体に合った
何かがある筈だ
弱い人には弱いなりに
老いた人には老いた人なりに
何かがある筈だ
生かされて生きている御恩がえしに
小さいことでもいい
自分にできるものをさがして
何かをしよう
一年草でも
あんなに美しい花をつけて終わって
ゆくではないか
爽やかな五月に
月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた……
《星よ おまへはかがやかしい
《花よ おまへは美しかつた
《小鳥よ おまへは優しかつた
……私は語つた おまへの耳に 幾たびも
だが たつた一度も 言ひはしなかつた
《私は おまへを 愛してゐる と
《おまへは 私を 愛してゐるか と
はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心を どこにおかう?
立原道造「優しき歌 II」
青いあさがおあっち向いてさいた、
白いあさがおこっち向いてさいた。
ひとつの蜂が、
ふたつの花に。
ひとつのお日が、
ふたつの花に。
青いあさがおあっち向いてしぼむ、
白いあさがおこっち向いてしぼむ。
それでおしまい、
はい、さようなら。
(金子みすゞ詩集『わたしと小鳥とすずと』