鹿児島の方なら、流通団地、鹿実高校、文化工芸村・・いった地名で通ずるでしょう。
山間のなかで、残るのは、この小さい碑だけ。後ろには、昭和19年建立とある。
明治6年、鹿児島へ帰ってから西南戦争までは、武(たけ)屋敷にいたのですが、ここ「野屋敷」は、この武の頃に、農作業に来たところだという。
西南戦争の幕開け(明治10年2月)には、家族は、この「野屋敷」にいたとのこと。
実は、今日は、天気もよく急に思い立って「野屋敷跡」へ来たのは、昨日、3月22日付の日本経済新聞の「風見鶏」p.2という論評欄で、編集委員の秋田浩之氏が、日本の外交政策に及んで西郷の偉大さに触れていたからです。
3月19日の、大学の卒業式でも校歌に西郷の言葉が書かれてありました。
【折に触れ西郷】
鹿児島の人の西郷への深い思いには到底及びませんが、今、検索してみると、このブログでも、長短10回、西郷のことを書いています。
*通し番号は、2008.09.01より。
第2528号 2009.03.15 共研公園の屋敷跡(上之園町屋敷跡)
第2484号 2009.03.15 日本経済新聞の「核心」欄で、田勢康弘
第2095号 2009.01.10 五木寛之(テレビ)
第2059号 2009.01.01 鈴木貞美の著書
第1771号 2008.10.30 真の人材は地方にあり
第1581号 2008.09.20 鹿児島県の人材
2008.08.31 写真、城山の洞窟。「晋どん、もうここらでよか」
2007.09.24 西郷の命日
2007.08.25 佐高 信の著書
2007.08.19 テレビで映画「ラスト・サムライ」をみて
【奄美が残る・・】
西郷ゆかりの地で、鹿児島市内では、上記上之園屋敷跡のほか、
○ 加治屋町(生誕の地。石碑)
○ 武屋敷跡(西郷公園)
○ 吉野開墾社跡
へいきました。
*南州墓地、銅像、維新ふるさと館、黎明館などはもちろんいっています。
残るは、奄美の龍郷町です。(奄美には2回行ったのですが、日程が合わなかった)
山間のなかで、残るのは、この小さい碑だけ。後ろには、昭和19年建立とある。
明治6年、鹿児島へ帰ってから西南戦争までは、武(たけ)屋敷にいたのですが、ここ「野屋敷」は、この武の頃に、農作業に来たところだという。
西南戦争の幕開け(明治10年2月)には、家族は、この「野屋敷」にいたとのこと。
実は、今日は、天気もよく急に思い立って「野屋敷跡」へ来たのは、昨日、3月22日付の日本経済新聞の「風見鶏」p.2という論評欄で、編集委員の秋田浩之氏が、日本の外交政策に及んで西郷の偉大さに触れていたからです。
3月19日の、大学の卒業式でも校歌に西郷の言葉が書かれてありました。
【折に触れ西郷】
鹿児島の人の西郷への深い思いには到底及びませんが、今、検索してみると、このブログでも、長短10回、西郷のことを書いています。
*通し番号は、2008.09.01より。
第2528号 2009.03.15 共研公園の屋敷跡(上之園町屋敷跡)
第2484号 2009.03.15 日本経済新聞の「核心」欄で、田勢康弘
第2095号 2009.01.10 五木寛之(テレビ)
第2059号 2009.01.01 鈴木貞美の著書
第1771号 2008.10.30 真の人材は地方にあり
第1581号 2008.09.20 鹿児島県の人材
2008.08.31 写真、城山の洞窟。「晋どん、もうここらでよか」
2007.09.24 西郷の命日
2007.08.25 佐高 信の著書
2007.08.19 テレビで映画「ラスト・サムライ」をみて
【奄美が残る・・】
西郷ゆかりの地で、鹿児島市内では、上記上之園屋敷跡のほか、
○ 加治屋町(生誕の地。石碑)
○ 武屋敷跡(西郷公園)
○ 吉野開墾社跡
へいきました。
*南州墓地、銅像、維新ふるさと館、黎明館などはもちろんいっています。
残るは、奄美の龍郷町です。(奄美には2回行ったのですが、日程が合わなかった)