「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

祭りの後

2008年07月16日 | 塵界茫々
 半月に亘った博多祇園山笠も昨日早暁の“追い山”でフィナーレを迎えました。
 とうとう今年は出かけることなく、テレビで見ていました。
 徒然草に言うような、物事は「目のみにて見るものかは」の悟りが、あればいいのでしょうが、俗物は、「家を立ち去らでも」とは行かず、やはり目の前を全力疾走で駆け抜ける山を、勢い水のしぶきを浴びながら熱狂してこそ、祭りが果てた後の鎮めの能に、祭りの終わりの情趣もしみじみと味わえるというものです。

 山笠に気をとられている中で、大野 晋さんの訃報を遅れて知りました。
 日ごろお世話になっている岩波古語辞典、広辞苑の編集者の一人であるだけでなく、何度となく引用する岩波の「日本古典文学大系」で、万葉集1~4、日本書紀上下の頭注執筆の仕事もなさっていました。
 国語学の学者としても積極的に時代へ関わり、率直な発言をなさっていました。、
 狭山事件にも、脅迫状の鑑定で、筆跡と文章表現から、国語学者としての見
解を述べられ、再審への道を提言されていたのは、記憶に新しいところです。

 思えば、「上代仮名遣いの研究」で、万葉集の時代には、カ行やハ行、ワ行
などに二通りの発音があり、50音の今とは異なり数が多かったのを知ったのが最初の出会いでした。もう書かれていた大方を忘れていますが、面白がって、「ふぁな」(花)とか、春を、PARU-FARU。蹴るをKWERUなどと言い替えて喜んでいた記憶が蘇りました。
 近年では、180万部を超えるミリオンセラーとなり、日本語本ブームの火付け役になった「日本語練習長帳」がありました。このブログでも何度か登場しています。
「が」と「は」の使い分け始め、随分この本には教えていただき、自分の不確かな「日本語」を顧みたものでした。

 ご自分の意見を明確に主張されるため、軋轢も少なくはなかったようですが、行動する学者というイメージと、それに加えて、南インドのタミル語を日本語のルーツとする説のロマンも私好みでした。
 まだまだ、大きな仕事をなさる方と思っていたのに、惜しい方がなくなってしま
いました。導きの恩恵の深さにあらためて感謝し、ご冥福をお祈りします。

 かくて、今日は祭りの後の寂しさが一段と身にしむことです。

 櫛田入りの画像は先年撮影したものです。