この諺を「住むならやはり、都、東京が一番いい。」という意味で使っている人に時々出会います。いまや文化的な事業を筆頭に、経済も、高度医療、行政も、すべてが東京に一極集中している現象を見れば、当然ともいえる誤解です。
ただし、その意味でなら、仮定条件で「住まば都」となるわけで、“住めば“という確定条件では、「どんなに辺鄙な処でも、住み慣れると、都に住んでいるように快適なものになる。」という意味になります。
さらには、人はみな、自分の住んでいる里を、よい所と思って満足している。といった意味に発展させる人もあります。つまり、荀子にいう「越人は越に安んじ、楚人は楚に安んず」と同じ意味です。
また、住んでみれば、何処も同じことで、あまり変わりはない。という使い方もあったようです。
「鳥も通わぬ山なれど、住めば都よ、わが里よ」松の葉 ということでしょうか。
地方自体にも問題がないわけではなく、企画といえば常に「ミニ東京」版の真似事に終始して、なにか引け目を持っていて、胸を張った独自性は、「和」を前面に出す京都以外には少ないと見受けます。(京は古くからの都です)
同じ日本国民なのに、住んでいる地域によって、享受できる恩恵の格差は、さらに拡大していると感じるこのごろです。
昨日の日曜日、病院への往きに思いがけなく九州一周各県対抗駅伝に出会い、交通規制で車を停められました。中継所まで約700mの地点なので、走者はかなり疲れていました。トップは宮崎、次が福岡の順でした。おかげで応援の一齣が写せました。
ただし、その意味でなら、仮定条件で「住まば都」となるわけで、“住めば“という確定条件では、「どんなに辺鄙な処でも、住み慣れると、都に住んでいるように快適なものになる。」という意味になります。
さらには、人はみな、自分の住んでいる里を、よい所と思って満足している。といった意味に発展させる人もあります。つまり、荀子にいう「越人は越に安んじ、楚人は楚に安んず」と同じ意味です。
また、住んでみれば、何処も同じことで、あまり変わりはない。という使い方もあったようです。
「鳥も通わぬ山なれど、住めば都よ、わが里よ」松の葉 ということでしょうか。
地方自体にも問題がないわけではなく、企画といえば常に「ミニ東京」版の真似事に終始して、なにか引け目を持っていて、胸を張った独自性は、「和」を前面に出す京都以外には少ないと見受けます。(京は古くからの都です)
同じ日本国民なのに、住んでいる地域によって、享受できる恩恵の格差は、さらに拡大していると感じるこのごろです。
昨日の日曜日、病院への往きに思いがけなく九州一周各県対抗駅伝に出会い、交通規制で車を停められました。中継所まで約700mの地点なので、走者はかなり疲れていました。トップは宮崎、次が福岡の順でした。おかげで応援の一齣が写せました。