吟遊詩人の唄

嵯峨信之を中心に好きな詩を気ままに綴ります。

声/嵯峨信之

2008-11-25 16:34:49 | 嵯峨信之


大凪の海で出会ったのだから
ふたりは
どこの海よりも遠い

櫂は
心の中にしまっておいても
夜中になるとひとりでに水面をぴちゃぴちゃたたいている

ふたりは話し合うのに
はじめて自分の声をつかった
生まれたときの真裸の声を

やがてふたりは港にはいるのだろう
あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために
ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

野火/嵯峨信之

2008-11-25 16:02:27 | 嵯峨信之




孤独
それはたしかにみごとな吊橋だ
あらゆるひとの心のなかにむなしくかかっていて
死と生との遠い国境へみちびいてゆく
そしてこの橋を渡って行ったものがふたたび帰ってくる日はない
それは新しい時空の世界へたち去るのだろう

一本の蝋燭がふるえながら燭台のうえで消える
もし孤独のうえでとぼしい光を放って死ぬのが人間のさだめなら
その光はだれを照らしているのだろう
あの遠い野火のように
ひとしれぬ野のはてで燃え
そしていつとなく消えてしまう火
時はどこにもそれを記していない
時もまた一つの大きな孤独だ
たれに記されることもなく燃えさかり
そして消えてしまうものは尊い

僕はまるでちがって/黒田三郎

2008-11-25 15:42:03 | 黒田三郎


僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じ服を着て
昨日と同じように飲んだくれで
昨日と同じように不器用にこの世に生きている
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口を歪めた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕のなかを明日の方へとぶ
白い美しい蝶がいるのだ

旅情/嵯峨信之

2008-11-25 09:53:34 | 嵯峨信之


ぼくにはゆるされないことだった
かりそめの愛でしばしの時をみたすことは
それは椅子を少しそのひとに近づけるだけでいいのに
ほんとうにそんな他愛もないことなのに
二人が越えてきたところにゆるやかな残雪の峰々があった
そこから山かげのしずかな水車小屋の横へ下りてきた
小屋よりも大きな水車が山桜の枝をはじきはじき
時のなかにひそかに何か充実させていた

ぼくたちは大きく廻る水車をいつまでもあきずに見あげた
いわば一つの不安が整然とめぐり実るのを
落ちこんだ自らのなかからまた頂きにのぼりつめるのを

あのひとは爽やかな重さで腰かけている
ぼくは聞くともなく遠い雲雀のさえずりに耳をかたむけている
いつのまにか旅の終りはまた新しい旅の始めだと考えはじめている

GAZA