吟遊詩人の唄

嵯峨信之を中心に好きな詩を気ままに綴ります。

I was born /吉野 弘

2009-01-26 18:07:20 | 吉野弘
 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。
僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

西院駅/浜田裕介

2009-01-20 14:24:44 | 浜田裕介
地下から吹き上げる風が少し冷たい10月
信号待ちの人込みの中 僕は上着を羽織る
そう言えば君はあの頃君はボサノバなんかに目覚めて
ジョビンや小野リサのことばかり 僕に質問したね
91番のバスを待つ僕は どんな風だろうか?
急ぎ足の街の背中ばかり 追いかけてる気がする
僕にとっての1秒 君にとっての永遠
何を奪い 何をあげられたの
もう誰にもわからないけど
ドーナツ屋に寄り道して
気まぐれにいくつか選び
電車の中で読んでた 新聞をくずかごに捨てる
91番のバスはまだ来ない 渋滞は続いてる
あの日君は何を言おうとしたの?
さよならの前に
君にとっての真実 僕にとっての言い訳
何を見つけ 何を失ったの?
もうどうでもいいけど

91番のバスはもう待たずに 歩いて帰ろう
あの時君が暮らした部屋の窓も
目をそむけないで
僕にとっての日常 君にとっての溜め息
何を壊し 何を縛り合ったの?
もうどうでもいいけど



冬の動物園/浜田裕介

2009-01-11 17:32:06 | 浜田裕介
二月の寒い午後 君のわがままで
バスに乗りでかけた 街はずれの動物園
君の言う言葉なら 痛いほどわかるけど
僕のその痛みは 檻の中のライオン

悪いことばかり さっきから考えてる
君の風向き 少し思わしくない
だからほら温かいコーヒーを飲もうよ
シロクマが見てるよ 穏やかな無表情で

僕のモスグリーンのハーフコート 君が羽織り
君の黒のパーカーは いつも僕の肩の上
シマウマの檻の前で もし君が泣き出しても
僕が気がかりなのは 帰りのバスの混み具合

はしゃぎすぎた後の子どもみたいに
君の背中が 少し小さく見える
別れても続けても 僕は君が好きだよ
ペンギンがはしゃいでる 人の気も知らないで

もうさよならね 君がそっと微笑んだ
記念写真より 動かない笑顔で

二月の寒い午後 君のわがままで
バスに乗り出かけた 街はずれの動物園




愛そして風/吉野弘

2009-01-06 10:35:11 | 吉野弘
愛の疾風に吹かれた人は
愛が遥かに遠のいた後も
ざわめいている
揺れている


風に吹かれて 枯れ葦がそよぐ
風が去れば  素直に静まる

人だけが
過ぎた昔の  愛の疾風に
いくたびとなく  吹かれざわめき

歌いやめない ・・・・ 思い出を


GAZA