台湾食材 BETHESDA KASHIWA

美味しい台湾食材をはじめ何だかんだ日々のこと書き綴ります。
クリスチャンファミリー

信仰によって触れる マルコ5:24-34 日本語原稿

2019-02-23 09:09:40 | 祈り

信仰によって触れる マルコ5:24-34 日本語原稿

新しい一年とまたつくば教会に来てメッセージができることを感謝します。今日はすでに、旧正月から13日目です。海外では、仕事や学校など日常と同じく過ごす為、旧正月を祝う雰囲気はないですが、新暦の新年は休暇がある為、年越しの雰囲気があります。皆さんはどのように新年を過ごしましたか?私は、昔は座って一年を振り返る時間が好きでした。そして、新しい一年の達成したい願望を書き出すのです。いつもダイエットや運動、新しい楽器を習ったり、毎月に1冊は本を読むなど活力・熱意溢れた目標や願いを立てます。しかし、1.2ヶ月後、その熱意は日常の中で、少しずつ減り、そしてすこしずつ元の生活・習慣が戻り、あげくは自分がどんな目標や願いを決めたのかさえ忘れてしまいます。目標や願望を貫き通すことは、とても簡単なことではないのです。
しかし、聖書の中ある一人の女性は12年間も貫き通し、最終的に彼女は願いを達成させたのです。マルコ5:24-34を見てみましょう。ここは、長血を患っていた女性が、会堂司の娘を癒しに行く途中のイエスの所へ行き、こっそりイエスの衣服に触れ癒してもらうお話しです。この女性のことはマタイやルカにも書かれています。それは、この物語がとても重要な奇跡の一つだと見て取れます。聖書でこの女性は長血を患っていました。それは婦人病の一種で月経が止まらないような病気でした。この病気は生活する上で不便があるだけではなく、月経の血は不潔と忌み嫌われ、社交生活する上で迫害を受けていました。

聖書では、彼女はこの病気を癒す為、12年間たくさんの医者の所へ行き、たくさんの治療を受けてきました。これらの治療は彼女に肉体的な苦痛を与えるだけではなく、彼女の財産も費やしました。しかし、病状は一向に良くならず返って悪くなったのです。そのような12年間の挫折の中で、みなさんならどのように思いますか?たくさんの人を信じてきて疲れて意気消沈し、解決策があるともう信じることができず、しょうがなく現状を受け入れ、もう二度と何かを試そうと思わなくなりませんか?
しかし、この女性はただイエスの噂を聞いただけで、積極的に向かい、混雑する人ごみの中に入り、こっそりイエスの衣服に触ったのです。彼女はイエスの衣服に触れば癒されると信じていたからです。彼女は12年間の挫折と失望の中にあってもなぜこのような積極的な信仰があったのでしょうか。

1. 積極的な信仰を貫きとおす:聖書には当時たくさんの人がイエスに押し寄せていたと記載されています。その中でイエスを必要としていた人がいると思います。彼らはイエスの後ろで、イエスの助けを必要としていたでしょう。しかし、この民衆が押し寄せている状況で、この長血の女性だけが癒されました。この女性は信仰によって、ただただイエスの衣服に触り癒されました。当時イエスは彼女と対面的に接触したことはありません。それは、イエスが自ら女性を癒そうとしてないとも言えます。しかし、女性の積極的な信仰によって触れた衣服のところから、イエスは力が出て行ったことがわかったのです。そして、女性をいやしました。このように触れたのはたった1回だったでしょうか?聖書では当時は人が押し寄せていたと書かれているので、イエスの衣服に触れた人もたくさんいたと思います。だから、その時イエスが使徒たちに誰が服に触れたかと聞いた時、使徒たちは呆れました。そして、「こんなに人が押し寄せているのに、あなたは「誰が触れたのか」と言うのですか。」と答えたのです。しかし、この女性の接触は、イエスにとってきっと予定外の中で、力が出て行き女性を癒したんです。これはどのような渇望が触れさせ癒されたのでしょう?どのような信仰で、彼女と他の人の違いは何だったのでしょう?聖書のルカ18章はやもめと不義な裁判官の比喩によって神にあきらめず祈りなさいと話しています。8節ではイエスは「人の子が来るとき、このような信仰が見られるか?」という質問をしています。諦めず堅く持って祈り求めることは信仰の表現の一つであり、神はこのような信仰を喜びます。

2. 信仰の対象はイエス:この章の聖句の前半は、イエスが悪霊を追い出す奇跡を起こし、二つめは会堂司に頼まれ彼の娘を癒しにいくところです。彼らは皆イエスが自らその場所へ行き、癒し、救っています。しかしこの女性は自分はふさわしくないと思い、ただこっそりイエスの衣服に触れました。このイエスの衣服に触る方法は、女性が自分で考え付いた方法でした。それは、彼女がもし神ならば衣服を触るだけでも癒されると理解していたからです。聖書でもう一人イエスを驚かせた信仰を持った人がいました、それは百人隊長です。マタイ8章に記載されています。百人隊長は権威を知っていました。だから、イエスが神なら言葉にするだけで治ると信じていました。女性と百人隊長の信仰の対象はイエスで、彼らはイエスが神と信じ、イエスには権威と癒しの力があると信じていました。だからこそ神に認知され、神に癒しを求めたのです。彼らの信仰は、神の栄光を証することができるのです。比喩と使って表現して見ましょう。女性と百人隊長が見たイエスの力は、発電所みたいに大きく偉大で、彼らが必要としている癒しは、小さな電球の電力だけで良いのです。今日私たちの信仰はどこにありますか?今日私たちが見るイエスの力はどのようなものですか?それは発電所みたいですか?それか、ただ小さい電球を点すだけの電力ですか?重荷、心配を降ろしてあなたの全てを知っているイエスの力に祈り求め、私たちもイエスの溢れる力と万能の神を証しましょう!アーメン

3. 自分の証を人に話す:最初女性は癒しを得た後、こっそり離れるつもりでした。それは、女性が自分は不潔でイエスが自分に触れるのはふさわしくないと思ったからです。癒される前、女性は人に軽蔑され孤立した社会の中で生きていました。だから、女性の病気が癒されたことを、イエスは女性を民衆の前に立たせ、民衆に自分の体が既に癒され、また命がまだ離れないことを証明させたのです。人前で証をしたことによって、改めて女性が癒されたことが証明され、人目をまた気にすることなく、新しい生活を聖霊とともに過ごしていけるということです。

以前女性はこの世の方法を尽くして使い、助けを受けることができませんでした。イエスのことを耳にするまでは。もし、最初に誰かが証をせず、伝えず、女性の耳にイエスの事が伝わらなければ、今日この長血を患った女性が癒される話しはなかったと思います。聖書ローマ書

私の教会には、金田さんという姉妹がいます。もう80歳以上で彼女は体が弱くたくさんの病気を患いました。心臓もずっと衰え、2年前に転んでから体はもっと衰弱し、外も出ることができず、毎日家にいました。しかし、彼女は証をすることを止めませんでした。彼女は体の状態が許す時は、家に人を呼んだのです。私が彼女のお見舞いに行った時、体はつらそうでしたが、金田さんは喜びに満ちていて、口を開けば聖書の御言葉を話すのです。彼女はよく私に彼女の証を話していました。私は本当に感動しました。私は、彼女の痩せて小さな衰弱した体から神の栄光が出ているのをみました。彼女は来客した人に分かち合い、たくさんの人の信仰を励まし、人に神様を信じるように伝道したのです。
金田さんのように、証することは人に神はいつも私たちと共にいて大きな事を成そうとしていることを証明することです。私たちに対してではなく、神の全能に対して一切を信じるのです。神の栄光はあがめることができるのです。福音を伝えることを英語で言うとshare faithと言い、意味は信仰を分かち合うという意味です。証を分かち合うという事は、私たちが神が私たちに起こした大きな奇跡を覚えさせることを助けます。いつでも感謝し、また信仰が分かち合うに連れ成長しているのです。
今日私たちは既に解放されています。私たちは続けて自分の救われた証を話し、イエスは救い主だと証明し、私たちと同様な新しい命があることを伝えていますか?今日私はみなさんに一つチャレンジして欲しいことがあります。今週一人未信者の方に自分の救われた証を分かち合ってください。神があなたの証を使ってどのように栄光を現すか試してみましょう。アーメン

https://bethesda.at.webry.info/201902/article_17.html

筑波福音基督教会2019年2月17日
メッセージ 林文慧宣教師(北京語)
日本語通訳 林佳慧姉
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【ムチ杖に打たれて】

2019-02-23 01:01:24 | 祈り

【ムチ杖に打たれて】

羊がムチと杖に打たれ
真直ぐに道を 
道端の溝にも落ちずに歩み行く
ように
私たちも痛みを負わなければ
横道に逸れて溝に足元をすくわれて
しまう

主は共にいて
常に慰め 励まし
共の頸木(くびき)で歩んで下さる
その痛みの抜け道を用意して
下さる

わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみと
が伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩編23篇6

金昌民牧師(船橋市純福音愛隣教会) 「イザヤ43章1-7」音声プログhttps://bethesda.at.webry.info/201902/article_19.html

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