ムンカミ日記byコオル兄ィⅢ

ムンカミ(=物噛み)とは奄美地方の古い方言で「物を噛む」=「食べる」という所から転じて「生活」という意味を持つ。

おぼくり

2005年06月26日 | シマ唄CD
師匠朝崎郁恵の新CD『おぼくり』をじっくり聴いてみた。家の中だけでなく車の中でも、またMDウォークマンでも聴いてみた。こうしていろいろな状況下で聴くと違って聞こえたりするから面白い。
何度も全体を通して聴いてみて感じた事は“物足りなさ”だった。もちろんこれは師匠の唄自体に対してではなく、選曲とアレンジに対する感想だ。相変わらず師匠は物凄い御韻(グイン)で味わい深く唄っている。それだけにこの選曲では「もったいない」と思えて仕方ないのだ。これも沖縄と奄美の区別すらつかない人やシマ唄を全く知らない人にはこういった作りが良いのかも知れない。そういった人たちのために作られたCDだと思えばまぁ合点がいく。
しかしコアなシマ唄ファン、朝崎ファンの一人である私にはどうにも物足りない。
唄と三味線だけの曲も2曲ほど入っていて、どちらも相方は若手実力派唄者の中孝介が務めているので単品で聴けば曲自体は素晴らしいのだが、何故その選曲なのか、何故その曲順なのかが全く解らない。
更に解らないのは『竹田の子守唄』『故郷』という選曲。これらは要らないでしょ。他にいっぱい歌う人がいる曲はその人たちに歌ってもらっておけば良い。師匠には唄って欲しい唄や後生に残して欲しい名曲、廃れてあまり唄われなくなったシマ唄がまだまだたくさんあるのだ。箸休めは1枚のCDに2曲も要らない。
また、『はまさき』、『あまぐれ』、『いとぅ』、『諸鈍長浜』の4曲はCD『詩島』収録曲の焼き直しではないか。これらも「何故またわざわざ違う伴奏者を使って収録し直したのか」とその意図が全然解らない。実はCD『詩島』の場合、ジャケットに書かれているアレンジャーの人が一人で全てアレンジした訳ではなく、特に『諸鈍~』『いとぅ』の2曲は師匠とシマ唄に敬意を払っている参加ミュージシャン全員で仕上げたものなのだ。だからこれらの曲はそのアレンジにメンバーの“リスペクト感”というか唄を大事にしている感覚が滲み出ている。それをわざわざまた別に録り直す必要があったのだろうか?特に『諸鈍』などは変で、CD詩島に収録されていたレゲエ・アレンジ・バージョンとコード進行はほぼ同じなのにそこからリズムトラックを抜いてピアノだけを残したような感じに聞こえる。そのピアノはウォンさんのような大御所が弾いているのだが、ズンチャチャズンチャ~と演歌のようなリズムで非常に中途半端なアレンジで、何だか違った意味で涙が出てきた。
『十九の春』もそうだ。今回はストリングスを加えた映画のサントラのような豪華なバージョンで入っているが、CD『わしたうた』に入っているピアノ+三味線バージョンでは何がいけないのだろう?制作者側の「“奄美島唄”ではなく“ワールドミュージック”で売りたいから三味線をなるべく使わない」という意図が感じられて非常に残念だ。
奄美シマ唄は決して“癒し系”ではない。中にはそういった曲もあるし、ピアノアレンジに適した曲もあるが、基本的に奄美の歌は生活の唄。仕事や恋愛、教訓が唄われている。そして明るく楽しい曲や下ネタの入った曲だってたくさんある。そういった唄をたくさん師匠に唄って欲しい。“癒し系のワールドミュージック”とはそもそも違うのだ。数年前にヒットした「おぼくり~ええうみ」の“二匹目のドジョウ”を探している感は否めない。
NET上の新譜ユーザーレビューにあった「好アルバムだが何でもかんでも『癒し系』でまとめてしまうってのは何とかならんのかな」という感想には私も同感である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿