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永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

せみしぐれ【蝉時雨】

2013年07月10日 | さ行
蝉が多く鳴きたてるさまを、時雨の音にたとえていう語。

 蝉がいっせいに鳴くことがある。他の蝉につられるのか、それとも張りあおうというのか。なんだか絞り出すように鳴いている蝉もいる。

 蝉時雨は夏の季語だが、虫時雨は秋の季語。蝉は虫の仲間に入らないのか、とツッコミたくなるが、気分としてはわかる。蝉時雨は騒々しいが、虫時雨は風流だ。
「木の葉時雨」は、木の葉が散る様子を時雨にたとえていう言葉。もっとも、木の葉が一気にザザザっと散ることはないだろうから、描写というよりもあくまでイメージだ。
 料理やお菓子にも時雨にたとえたものがたくさんある。

 時雨煮は「貝類のむきみにショウガ、サンショウなどの香味を加えて醤油・砂糖などで蒸した料理」。時雨蛤(しぐれはまぐり)は時雨煮にしたハマグリ。
 時雨羹(しぐれかん)は小豆餡(あずきあん)をそぼろにして蒸したお菓子。この時雨羹で餡を包むと時雨饅頭(しぐれまんじゅう)になる。

 時雨煮の語源は、いろいろな味が口の中を通りすぎることからとか、時雨の降るころハマグリがおいしくなるからとか、諸説あるようだ。


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せび【施火】

2013年07月09日 | さ行
精霊(しょうりょう)送りに焚く火。


 さらに「毎年8月16日(昔は陰暦7月16日)の夜、京都付近の山々で焚く火。如意ケ岳の大文字の火、船山の船形の火、松ヶ崎の妙法の火など。送り火」と書いてある。つまり、普通の家々でお盆に焚く送り火も施火だけど、なかでもとりわけ京都五山の送り火のことを指していうこともある、という意味だ。     

 送り火のことを「大文字焼き」というと、京都の人にばかにされる。「ダイモンジヤキ? ほーお、そんなおまんじゅうがありますの。いちど食べてみとおすなぁ」などといわれる。いや、実際にいわれたことはないけれど、「大文字焼きなんていうと、こんなふうにいわれるで」と、京都出身ではない関西人にアドバイスされる。

 そんなイジワルな伝説がもっともらしく語られるのも、それだけ京都の人は五山の送り火を大切にしているからだろう。たんに山に火で字や図形を描くというだけの行事なのだけど、いまかいまかと待っていて、火が点いて、やがて火が大きくなり、そして消えていく、一連の光景を見ていると、お盆のあいだ帰ってきていた死者の霊が、ふたたび山の彼方に去っていくような、しんみりとした気持ちになる。


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せってん【雪天】

2013年07月08日 | さ行
今にも雪の降りそうな空模様。ゆきぞら。


 ぼくは北海道で育ったが、聞いたことのない言葉、つかった記憶もない言葉。

 話し言葉ではなく、書き言葉なのかもしれない。手紙や日記ならありそうだ。「本日、雪天ナリ」なんていうふうに。晴天、曇天、雨天はあるのだから、雪天があっても不思議じゃない。でも、晴天も雨天もそのときの空のこと。雪天だけが未来を予測する言葉だ。

 それに、「今にも雪の降りそうな空模様」というのはどうだろう。どんな空模様なんだ。「今にも雨の降りそうな空模様」というのはある。雨雲は黒く低く、いかにもたっぷり水分を含んでいそうだ。しかし、雪を降らす雲は雨雲ほどはっきりした特徴がないのではないか。

 水滴と雪の結晶とでは、光の反射のしかたが違うのかもしれない。雨は黒っぽく、雪は白っぽく見える。

「雪曇り(ゆきぐもり)」という言葉もある。『広辞苑』には「雪雲のために空が曇ること。空が曇って雪模様になること」と書かれている。日常会話ではこちらをつかうことのほうが多い。
  

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せっちゅうしゆう【雪中四友】

2013年07月07日 | さ行
玉梅・臘梅・茶梅(さざんか)・水仙の称。

 画題、つまり伝統的絵画のテーマの定番だそうだ。

 どれも雪に映える花、冬の花だ。

 4種のなかで玉梅だけ『広辞苑』に載っていない。ネットで調べると青軸の別名らしい。『広辞苑』によると「梅の栽培品種。若枝・花軸・萼片ともに緑色。花弁は純白、一重と八重とがある」とのこと。

 日本画にしても、中国画(というのだろうか)にしても、決まったテーマ、決まった構図のものが多い。ぼくは若いころ、そういうのをバカにしていた。「日本画なんて、創造性も個性もゼロじゃないか」と、日本画専攻の人に面と向かって言ったこともある。技巧だけを競っているように感じたからだ。

 だが、中年になって、茶の湯の稽古に通いはじめて、少しずつ考えが変わった。定型の中で創造性を発揮することのおもしろさに気づいた。それは個性を出さなきゃとか、自分を表現しなきゃという強迫観念を越えた、いわば平凡を突き抜けた非凡だ。個性だの自己表現だのにこだわっているうちはまだまだ。

 古典落語だって歌舞伎だって、同じストーリーの繰り返しなのに、そのつどおもしろいじゃないか。


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せち【節】

2013年07月06日 | さ行
気候の変わり目の祝日。節会(せちえ)。節句。節日。


 ほかに「とき。時節。季節」という意味や、「節日、特に正月の饗応。せちぶるまい」という意味もある。後者は「おせち料理」の「節」だ。

「節会」や「節日」の項を読むと、昔の人びと、特に宮中では、季節ごとの行事をとても大事にしていたことがわかる。節日だけでも、元旦、白馬(あおうま。1月7日、白馬を庭上に引き出して天覧)、踏歌(とうか。男踏歌は1月14日か15日に、女踏歌は16日に、集団で足を踏みならして歌い舞う)、端午、重陽、豊明(とよのあかり。新嘗祭、大嘗祭の翌日の宴会)などがあった。

「相撲の節(すまいのせち)」とか「相撲の節会(すまいのせちえ)」と呼ばれる行事は、現代の相撲のルーツである。毎年、7月に、天皇が相撲を観覧した。『広辞苑』の「相撲の節」の項を読むと、なかなか大がかりな行事だったようだ。まず、2月、3月頃に、全国に使いが出て、相撲人を召し出す。7月26日に予行があり、28日が本番。本番は20番を取り、天皇が観覧するのはこれ。さらに翌29日には、前日の優秀者の取組などもあったという。


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