goo blog サービス終了のお知らせ 

永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

そでのあさあけ【袖の朝明け】

2013年07月15日 | さ行
袖に肌寒く感ずるあけがた。


 夏の終わりの夜明け、Tシャツ1枚では二の腕のあたりが寒くて、思わず手のひらでさすってしまう。「袖の朝明け」とは、そういう意味だろうか。

 いや、まさか。日本人がTシャツを着るようになったのは、最近のことだ。この場合の「袖」は、Tシャツの袖のことではなくて、着物の袖だろう。

 着物の袖は手首の近くまでおおっている。洋服と違って袖口が大きく空いているから、外気は入ってくる。この袖口から入る外気が肌寒く感じるということだろう。

 いつごろの季節だろう。夏なら袖口まで寒く感じることはない。春か、それとも秋もかなり後半だろうか。

 もしかすると、けっこう色っぽい意味かもしれない。妻問婚の時代、明け方になると男が女のもとを去っていく。さっきまで肌を合わせていたときは寒くなんかなかったのに、ひとりになったとたん、袖から寒い空気が入ってくるのを感じる。さびしさや、また来てほしいという願望や、さっきまでの楽しさを反芻する気持ちなど、さまざまな感情が「袖」に込められているのではないか。



このブログが本にまとまりました! 
 

そこうついにぞうげなし【鼠口終に象牙なし】

2013年07月14日 | さ行
つまらない人間が立派なことを言えるわけがない。


「鼠の口に象のきばが生えたためしはないという意から」だそうだ。

 鼠の口から象牙が生えたら大変だし、当の鼠だって嬉しくないと思うのだが。

 しかし、象牙を「立派なこと」の象徴とするのはともかく、鼠の歯を取るに足らないものとするのはどうか。

 ぼくの郷里では、乳歯が抜けると、上の歯ならば床下に向かって、下の歯なら屋根に向けて、「鼠の歯と替えておくれ」と唱えながら放り投げた。鼠のように頑丈な歯になりますようにというおまじないである。象牙はいろんな工芸品の原材料になっていいかもしれないが、純粋に歯としての機能を考えると鼠のほうがすぐれているのではないか。だいたい象の牙なんて、喧嘩するとき刃物がわりに振り回すぐらいで、あとはあまり価値がない。象牙でご飯を噛むわけではないし、ごはんを食べるときじゃまになってしょうがないじゃないか。

 そういえば昔、動物の大きさによって流れる時間が違う、という本がヒットした。本川達雄さんの『ゾウの時間、ネズミの時間』だ。象の時間はゆっくり流れるらしい。

 

このブログが本にまとまりました! 
 

そうよう【霜葉】

2013年07月13日 | さ行
霜にあたって紅葉した葉。しもば。

 しもやけになったところは赤くなる。それとおなじように、植物も霜で凍傷になり、赤くなるのだろうか。植物も痒みを感じるのだろうか。

 まさか。

 紅葉の原因は、葉のつけ根に水分や養分が詰まり、葉に合成された糖分が溜まるため。この糖分からアントシアンが合成される。凍傷というよりも、老化現象に近いだろう。

 霜葉が美しいのは、霜の白さと、紅葉した葉の赤、あるいは黄葉した葉の黄色との取り合わせによる。あまりにも強烈なので、まるで霜が原因で赤くなったり黄色くなったりしたかのように感じるのだ。

 霜葉が見られると、冬がそこまで近づいている。秋の終わりというと、人生の岐路というイメージがある。中学生や高校生のころ、進路を決めるのがこのころだったらかもしれない。中学3年生の晩秋は、受験する高校を絞り込むころ。高校2年生は、進学するか就職するか、大学か専門学校か、理系か文系かなどを決める時期でもあるだろう。そのときの選択が一生を左右するのだから怖い。
 


このブログが本にまとまりました! 
 

そうたい【掃苔】

2013年07月12日 | さ行
墓参り。特に、盂蘭盆(うらぼん)の墓参。

「墓石の苔を掃く意」とある。墓掃除だ。

 しばらく前から掃苔ブームだ。といっても、自分のご先祖さまの墓参りではなく、作家はじめ有名人の墓参りをする。だから、慰霊とか故人を偲ぶというよりも、新種の名所めぐり、ちょっと変わった散歩のようなものである。

 ぼくは掃苔マニアではないけれども、たとえばわが家から歩いて20分ぐらいのところにある洗足池を散歩するときは、かならず勝海舟のお墓にお参りすることにしている。池上本門寺の境内を歩いていて、力道山のお墓の前を通りがかれば、一応、手を合わせる。プロレスファンでもないのに。

 義父と義兄の墓が東京の郊外のお寺にあり、年に2度ほど掃除に行く。墓石を洗っていると、なんだか小津安二郎の映画の登場人物になったような気分になってくる。死んだ人のことが思い出されて(義兄には会ったことないけれども)、過去と対話しているような気分になる。

 2013年に逝ったぼくの父と母は、父の実家である寺の納骨堂に入っている。屋内なので苔が生すこともないから、掃苔というより掃埃(そうあい)、掃塵(そうじん)か。


このブログが本にまとまりました! 
 

そうしゅうそう【掃愁草】

2013年07月11日 | さ行
酒の異称。

 なぜ酒が草なのか。果実酒ではない。「愁いを掃(はら)う玉帚(たまばはき)の意」なのだそうだ。粋な言葉だ。「ちょっと掃愁草をいただきましょう」なんて使うのか。
「掃愁帚」ともいうようで、『大辞泉』には「東坡は洒落て掃愁帚とし、梵(ぼ)さまは呼びかへて般若湯といへり」という、曲亭馬琴『胡蝶物語』の一節が引かれている。東坡(とうば)は11世紀、北宋の詩人、蘇軾(そしょく)の号。『洞庭春色』のなかに、「應呼釣詩鈎 亦號掃愁帚」という一節がある。

 このように東坡も馬琴もいうわけだけど、うさばらしに酒を飲むのはおすすめできない。不愉快なときに酒を飲むと、ますます不愉快になる。「あんなこともあった。こんなこともあった」と、次々と不愉快なことが思い出され、ますます腹が立ってくる。そうなるとどんどん杯を重ねることになり、酔いがまわるにつれエスカレート。「あの野郎、生かしちゃおけねえ」などとわめいて、刃物を持って家を飛び出すなんてことになりかねない。愁いをはらってくれるどころか、新たな災いをもたらす。刃傷沙汰に至らなくても、うさばらしからアルコール依存症になる人もいるのでご用心。
 
 

このブログが本にまとまりました!