昭和天皇発言・富田長官メモで、日経新聞が最終報告掲載
2007年5月1日 ASAHI.COM
昭和天皇が靖国神社参拝取りやめの理由について自ら語った言葉を書き残したとされる故富田朝彦・元宮内庁長官のメモに関して、日本経済新聞社は1日付朝刊で、有識者らによる「富田メモ研究委員会」の最終報告を掲載した。昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとする発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論づけたほか、新たに昭和天皇の靖国への思いを記した記述も見つかったという。
1988年4月28日付のメモに、昭和天皇がA級戦犯の合祀に触れ「だから 私あれ以来、参拝していない それが私の心だ」と記されていた。この記述について、昭和天皇の発言かどうかを疑問視する声もあったことなどから、同社は昨年7月の報道後、委員会を設置して検証してきた。
靖国参拝に関しては、88年5月20日付の手帳にも「松平宮司になって 参拝をやめた」との記載があったという。「松平」はA級戦犯合祀に踏み切った当時の松平永芳・靖国神社宮司を指しているとみられる。同じ日付で「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意味か)お気持を逸脱するのは困る」とも記されており、委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」との見方を示している。
靖国参拝中止については、このほど明らかになった故卜部亮吾侍従の日記にも「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」との記述がある。
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■ 「富田メモ研究委員会」の最終報告
2007/05/01 NIKKEI NET
A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認――富田メモ委検証報告
故富田朝彦・元宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。
精査したところ、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」などと昭和天皇の靖国への思いを記した新たな走り書きが見つかった。日付は1988年5月20日で、天皇が「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた同年4月28日から約3週間後。
天皇は「松平(永芳)宮司になって 参拝をやめた」と話し、4月のメモでも述べていた「松岡(洋右元外相)」「白取(白鳥敏夫元駐イタリア大使)」の名を5月20日にも繰り返している。
委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と解釈した。
また、88年5月に富田氏が次期長官に藤森昭一宮内庁次長(当時)が決まったことを説明する際、昭和天皇が「後任に政治家でも来てはと思ったが」と話している記述もあった。富田氏の後に政治家が起用されるのではないかと、天皇が心配していたことがうかがえる。
メモにはこれ以外に天皇が政治、経済、国際情勢などを常に気にかけ、宮内庁側も最新の情報を提供するよう配慮していたことが記されている。87年9月に天皇が開腹手術を受け、88年9月に吐血、89年1月に逝去するまでの宮内庁内の動きも詳述。各委員から「六十数年ぶりの代替わりに備える政府内の動きがよくわかる」との指摘が相次いだ。
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んと。
筆跡鑑定は?
紙の分析は?
インクの分析は?
メモを手帳に貼ったノリの分析は?
基本的な事だけどね。
その結果が無いってことは、識者の研究もアテにならないね。
昭和天皇は、そんな人間じゃ無かったと思うけど?
特にアサピーの嬉しそうな記事みると、それだけで疑える。
まぁ、人徳の問題だけどね。
2007年5月1日 ASAHI.COM
昭和天皇が靖国神社参拝取りやめの理由について自ら語った言葉を書き残したとされる故富田朝彦・元宮内庁長官のメモに関して、日本経済新聞社は1日付朝刊で、有識者らによる「富田メモ研究委員会」の最終報告を掲載した。昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとする発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論づけたほか、新たに昭和天皇の靖国への思いを記した記述も見つかったという。
1988年4月28日付のメモに、昭和天皇がA級戦犯の合祀に触れ「だから 私あれ以来、参拝していない それが私の心だ」と記されていた。この記述について、昭和天皇の発言かどうかを疑問視する声もあったことなどから、同社は昨年7月の報道後、委員会を設置して検証してきた。
靖国参拝に関しては、88年5月20日付の手帳にも「松平宮司になって 参拝をやめた」との記載があったという。「松平」はA級戦犯合祀に踏み切った当時の松平永芳・靖国神社宮司を指しているとみられる。同じ日付で「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意味か)お気持を逸脱するのは困る」とも記されており、委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」との見方を示している。
靖国参拝中止については、このほど明らかになった故卜部亮吾侍従の日記にも「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」との記述がある。
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■ 「富田メモ研究委員会」の最終報告
2007/05/01 NIKKEI NET
A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認――富田メモ委検証報告
故富田朝彦・元宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。
精査したところ、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」などと昭和天皇の靖国への思いを記した新たな走り書きが見つかった。日付は1988年5月20日で、天皇が「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた同年4月28日から約3週間後。
天皇は「松平(永芳)宮司になって 参拝をやめた」と話し、4月のメモでも述べていた「松岡(洋右元外相)」「白取(白鳥敏夫元駐イタリア大使)」の名を5月20日にも繰り返している。
委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と解釈した。
また、88年5月に富田氏が次期長官に藤森昭一宮内庁次長(当時)が決まったことを説明する際、昭和天皇が「後任に政治家でも来てはと思ったが」と話している記述もあった。富田氏の後に政治家が起用されるのではないかと、天皇が心配していたことがうかがえる。
メモにはこれ以外に天皇が政治、経済、国際情勢などを常に気にかけ、宮内庁側も最新の情報を提供するよう配慮していたことが記されている。87年9月に天皇が開腹手術を受け、88年9月に吐血、89年1月に逝去するまでの宮内庁内の動きも詳述。各委員から「六十数年ぶりの代替わりに備える政府内の動きがよくわかる」との指摘が相次いだ。
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んと。
筆跡鑑定は?
紙の分析は?
インクの分析は?
メモを手帳に貼ったノリの分析は?
基本的な事だけどね。
その結果が無いってことは、識者の研究もアテにならないね。
昭和天皇は、そんな人間じゃ無かったと思うけど?
特にアサピーの嬉しそうな記事みると、それだけで疑える。
まぁ、人徳の問題だけどね。