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路上の宝石

日々の道すがら拾い集めた「宝石たち」の採集記録。
青山さんのダンスを原動力に歩き続けています。

◆来日版『ウエスト・サイド・ストーリー』観てみました。

2006-09-10 01:07:39 | ウエスト・サイド・ストーリー
『テネシー・ワルツ』My楽日の翌週、結局来日版『ウエスト・サイド・ストーリー』を渋谷のオーチャードホールで観てきました。まず全体的な感想としては、同じ作品で、同じマクニーリーさんによる演出・振付でも、こんなにも違った感じの作品になるのか・・・、ということです。振付の変更はほとんど許されないので変わっていないのでしょうが、演出はジャニーズ版とかなり異なっていました。

まず舞台装置、少年隊版・嵐版のものとはかなり違いました。あの鉄パイプのようなもので組んだアパートの1階・2階部分のような装置が、終始舞台の両脇に配置してあって、体育館のシーンでも置いてあるのです。・・・だもんで、左右にワッ~とJetsとSharksが走って行くところとか、狭くて物足りない、臨場感が全く違いました・・・。ただでさえ、量感のある(私にしてみると「ちと重すぎ!」、あ~言ってしまったぁ~~)なダンサーたちがひしめいているのに、どうしていつもそのセットあそこに置いてあるの?状態でした。挙句の果てに、Somewhereに至っても、その装置がど~んと置いてあって、ん・・・???少年隊版、嵐版をご覧になった方は、劇場全体が舞台と客席とが分け隔てなく、あの美しい「どこか・Somewhere」を共有した時空間を覚えていらっしゃると思いますが、少なくとも私にとって、今回のアレは申し訳ないけれど”Somewhere”ではありませんでした・・・。

それから、今回は舞台の奥に、ニューヨークの町並み(白黒の写真)が背景として映し出されることがありました。4月の『ビューティフルゲーム』(マクニーリーさん演出・振付、青山航士さんご出演)でもこんな演出がありましたよね。WSSでは、ちょっとコレ余計な感じがしました・・・。装置はできるだけシンプルにして、ダンサーたちの身体によって当時のニューヨークの空気に想いを馳せたい・・・、私なんかはそういうことを望んでしまいます。何てったってせっかくヴィジュアル的に「欧米人ダンサー」が踊るわけですから・・・。

冒頭のプロローグでも、日本版では最初から幕が上がった状態で、開演時間になると、照明が暗くなって、音楽とともに舞台ギリギリまではりだしているレンガの壁の隙間から、男の子たちが出てきて・・・、みたいな感じで、最初からとてもスリルがあり、あの始まり方大好きだったのです。ハイウェイの高架下でのランブルのシーン、今回は先ほどのセットが前の方に出てきて、その陰で取っ組み合いが見えるというような感じでした、確かに「高架下の感じ」はリアルと言えば、リアルなんだけれど、あそこまでしてリアルさを出す必要はあるのかな、お客さんの想像力はもっとたくましいんじゃない?という気はしました。そしてそういうお客さんのイマジネーションを膨らませていくのが、ダンスの役目ではないですか?2幕最初のI Feel Prettyも今回は2階部分のマリアの部屋ではなくて、1階部分で行われていました。(個人的に日本版のあのI Feel Prettyの感じ好きだったのです・・・、宙に舞い上がっているようなマリアの気持ちの高揚感と一抹の危うさがとてもよく出ていた感じがした・・・)

女性陣の衣裳は、JetsもSharksもイイ感じでしたが、男性陣のものは・・・。体育館のシーンのジャンパーには、今回もJetsのロゴが入っていましたが、日本版のJetsの男性陣の衣裳は、故意に「50年代のアメリカらしさ」から「現代の日本寄り」にうまく逸脱していて、かなりよかったのではないでしょうか。確かにあのプロダクションの衣裳は、「50年代のアメリカのニューヨークの片隅」というそれらしさは、あまり感じさせないものだったのだけれど、逆にそのことがよかったのだと思います。特にタイガーの「青いタンクトップとジーンズ」、あれは青山さんのタイガーの魅力を最大限引き出していましたよね!!!他のアンサンブルの方々の衣裳も、日本版のものは個性があってわかりやすかったと思います。今回、私はパンフレットで事前にお顔は確認してみたものの、あの衣裳のせいか、あまりキャラクターというものの感じられないダンスのせいなのか、「タイガー」がどなたなのか、結局判別できませんでした。勿論、青山さんが踊っていらしたパートの部分は終始、チェックしていましたが・・・。その部分が果たしてタイガーによって踊られているのかがわからなかったんです。青山さんがソロで踊っていた部分は、映画版では、ActionやARabが踊っていたりして、そのシーンの見せ場のようなところでした。青山さんだからこそ、そういうパートを、マクニーリーさんはまかせたのだと思います。以前かのかさんの掲示板にも書かせていただきましたが、ああいう重要なパートでの青山さんは特に、シーン全体にはスパイスとして効き、それだけ観ているとWSSのエッセンスがギュッと凝縮されている、そんな表現をみせてくれていたのです。

ああだこうだ文句ばかりですみません~。もうそんなこと言うなら、観に行かなければよかったのに、と自分でも思うのです。私は、青山さんの幻影を観に行った、それははっきり自分でもわかっているのですが、それでもこの新しいプロダクションに対して何の期待もしていなかった、と言ったら嘘になります。それなりの期待はしていったのです。小言はもう充分な感じもしますが、これからが一番言いたいことです。「ダンス」!!!私にとって、「ダンス」さえよかったのなら、きっと上に述べたような細かいことはどうでもよくなっていたのかもしれません。あくまで印象ですけれど、オーケストラの音楽も全体的に勇み足な感じがして、う~ん、言ってしまってよいのかわかりませんが、ダンスとの一体感がなくて疲れた、というのが正直な印象です。このオーケストラの音楽とも関係があるのかもしれませんが、一触即発、破裂寸前の張り詰めたギリギリの緊張感、ダンスが語ることによって、ストーリーを先へ先へと動かしていく疾走感・スピード感、これがWSSだと思っていたもの、いつまで経ってもそれを感じることが、今回の私が観た回においては難しかったのです・・・、かなしいけれど。そして逆にもっと時間がゆったりと流れていたはずのシーンが、あっけらかんと終わってしまった。(体育館のシーンでトニーとマリアの出会いのシーンに移っていく幻想的なところ。Somewhereの「悪夢」に襲われるちょっと前に、皆が揃って正面を向いて一歩一歩歩いてくるところ。そして一番最後のシーン。)舞台の上でおこっていることに、いつになっても同調できずに、舞台との温度差を感じたまま時間が過ぎてゆきました・・・。

パンフレットのマクニーリーさんのコメントによると、パフォーマーは25歳以下しか雇わないようにしていて、ツアー中でもコンスタントにキャスト変更しているそうなのですが、ダンサーたちの動きは、やはり最初から最後まで重たかったです・・・。緊張感や疾走感がなかったのは、やはりそのあたりが原因かと思います。またパンフレットに寄せられたケンジ中尾さん(ジャニーズ版の振付助手をされていた方です)の言葉に、次のようなものがありました。「どんなにダンスが上手くても、ただきれいにターンしたり、美しい型を見せるだけではダメ、というのがこの作品の難しさなのです。なぜなら、彼の振り付けでは、すべての体の動きの隅々にまで、役者としての表現力が要求されるからです。」この「役者としての表現力」という点においても、終始物足りなさを感じてしまいました。もう、このあたりのことについては、青山さんのタイガーを観てしまっていたら、誰が出てきても物足りなさを感じてしまうでしょうから、仕方がないのでしょうね。青山さんのタイガーには、それまで持っていた先入見のような思考の枠組みを軽やかに取り払ってしまう力がありました。(コレが前の記事で述べた、「ホンモノ」をめぐる力学的議論ということです。)そして同時にこうして改めていくつかのプロダクションをあえて比較しながら見渡してみると、あのタイガーには、容易に古めかしさを漂わせ得る、50年も前のこの作品のリアリティーというものを、「これだ」という「今」の感覚で観客にみせる力があったということです。

今回のプロダクションの主催は、ジャニーズ版とは異なるテレビ局なので、パンフレットのマクニーリーさんのプロフィールのところに、あの夏と冬の素晴らしいプロダクションのことが触れられていなくても、それは当然だと思います。(でも秋の『ボーイ・フロム・オズ』の再演については書かれていました。)そのことを非難しようなんて、少しも思っていないのですが、でも万が一、ちょっと前にこの日本であの素晴らしい舞台が、同じ演出・振付家の手により、日本人キャストによって上演されていたことすら知らずに、WSSはこういうものと思われている方がいらっしゃるとしたら、それは確かに残念なことであると思うのです。青山航士さんというひとがタイガーを踊っていたあのプロダクションの存在すら知らずに、『ウエスト・サイド・ストーリー』って、こういう作品である、と思われている方がいらっしゃるのだとするならば・・・。控えめに、「ここ日本における」としておきますが、この作品のこの国における上演史において、青山さんがあのようにこの作品を踊っていたというのは、本当にスゴイことだったのだな、と改めて思います。とにかく観る者をひきつけるあの吸引力が普通じゃなかったし、観た後ではいわゆるクラシックとも言える「映画版」がかすんで見えました。観終わった後に(特に少年隊版の後は)、振りなどを確認したりするために、映画版DVDを観たりすることも結構ありましたが、タイガーのいた舞台を生で体験してしまった後では、あれほど素晴らしいはずだった映画版の映像すら邪魔に思えるほどでした。そんなわけで嵐版以降現在に至るまで、私のWSS脳内再生時のバックミュージックは、Original Broadway Cast Recordingのバーンスタイン指揮によるSymphonic Dancesです。そして今度は、この作品の生まれた国のキャストによって上演されている今回のプロダクション。青山さんのタイガーを思い出す限り、この作品を踊るのに「欧米人ダンサー」である必要は全くない、と言い切れることを改めて痛感しました。そしてこの『ウエスト・サイド・ストーリー』という作品が、単に「トゥナイト」などの素晴らしい楽曲、冒頭のベルナルドたちの有名なダンスだけが一番の見どころである作品では決してない、ということをあの青山さんのタイガーは、間違いなく示してくれたのです。

2年前と1年8ヶ月前に私が観た青山さんのタイガーがどんなものであったのか、話始めるとどうしようもなく長くなりそうです。昨年2月、舞台の興奮も冷めやらぬ状態のときに(「WSS祭りの後症候群」真っ最中のときに)へーまさんのブログPlatea、2005年2月11日のWSSKoji Aoyama plays it coolの記事のコメント欄に投稿した文章をこちらにコピ&ペーストで掲載させていただきます。思えばこの投稿が、記念すべき(?)私の劇長コメント第1号でした。

☆Platea/プラテア 2005年2月11日 WSSKoji Aoyama plays it coolの記事のコメント欄から(一部文章の意味がわかりやすくなるように言葉を補いました)。抽象的な表現が多いです。来日版『ウエスト・サイド・ストーリー』のブログ検索などで万が一お越しいただいた方で「よくわかんないよ~」という方は、是非是非へーまさんのプラテアに行かれて、記事自体をお読みください。こちらのBookmarkから飛べます。

 WSSのCDを聞きながら、ライナー・ノーツ(Original Broadway Cast Recording版と映画版 )を読んでいたら、こんなエピソードが載っていました。「J.RobbinsとP.Gennaro(共同振付)は、ほんのわずかなスカートの翻し方、小指の曲げ方のようなものまでを探求し続けた。それらが舞台上で、彼らがまさに求めているその表現になるまで。」 また、Rita Moreno(映画版アニータ役)の談として、「J.Robbinsに独特なことは、彼が役(character)のために振付けるということ。つまり、アニータが踏むひとつのステップが、まさにアニータ以外の誰によるものでもないということがわかるような仕方で・・・」こんな二つの逸話を聞くと、即座に舞台での青山さんの姿に合点が行く気持ちになるし、逆に舞台での青山さんの姿を思い起こすと、これらの文言も単なる「逸話」以上の響きを持ってきますよね。 WSSという大作が世に送り出される過程で、「振付の細部へのこだわり」、「人物の性格、感情のようなものを、振りで伝えることへのこだわり」がいかなるものであったかが窺われます。まさに細部にまで精緻を尽くした表現が散りばめられている作品なのですね。そのうえ、へーまさんが素晴らしい解説をされているように、「厳格なバレエの技術」の上に立脚し、「変更がほとんど許されない」という振付。へーまさんが書かれているように、表現者は多くの厳しい要求を突きつけられるのでしょう。
 
しかし、青山さんはそのような数々の表現を、単なる「模写」というレベルでなく、作品の世界が顕現するような、言葉の厳密な意味における「再現」のレベルにまで、高めていたように思います。すでに偉大なる古典として立ちはだかるWSSの世界を忠実に「再現」するべく、その世界に迫ろうとする気迫、予在する世界を自らの内なるものとするための飽くなき追求が、青山さんの動きのひとつひとつにみなぎっていました。一方で、青山さん演ずるタイガーが、私達の眼前に、ひとりの人物として輪郭鮮やかに、「生」を持つ者として生きていたことも事実です。まるで、「果実から果汁をしぼりだした(express)」かのような、「内なるものの表出(express)」を、随所でみることができました。タイガーという役柄は、主要人物のような、わかりやすいタイプ分けをできるような性格を持っているわけでなく、JETSのひとりの若者です。(そうはいうものの、タイガーという名が語っているように、文字通り、立っているだけで「精悍、しなやかさの極み」でしたが・・・)しかし、青山さんのタイガーには、「内なる感情」、「現代の都会に生きる若者のエネルギー」、いわば「このストーリーを動かしてゆくような力」が、確かに息づいていました。そして、それらが私たち観る者に向けて、具体的なひとつの動きとなって、内から外へと表出されていたのです。
 
このように相反するベクトルを持つ表現契機(再現と表出)が、青山さんのなかで、「タイガー」という形となって、融合していくのを目の当たりにするたびに、私達観客はWSSという作品世界と、重なっていくのを感じました。その「ひとつの細部/断片」ともいえる表現が、観る者の感性に深く入り込んでくるとき、まさにタイガーを通して、WSSの世界が顕現してくるように思えたのです。
 
Quintet、その場面自体、舞台の構成が立体的で、オペラティックにTonightを歌い上げる、大迫力の「見せ場」ともいえるシーンです。このシーンのタイガー、いわゆる「ダンス」という動きのある「振り」をみせるわけでもなく、舞台左手JETS一団の前列左に膝をついてしゃがんでいます。このとき舞台でTonightを歌い上げるタイガーは、私達観る者と対峙しているはずですが、タイガーのまなざしの先に広がるものを、一緒の方向を向いてみているような錯覚に捕らわれると同時に、逆にタイガーのまなざしの奥にあるものまでみえたような気もするという、不思議な場面でした。それは、あの場面自体の大迫力のせいもあったかもしれませんが、「ことばのやりとりなし」でダンスによって語られるPrologue、さらにThe Dance at the Gym、Coolというシーンを経て、重層的に厚みを増していった、タイガーのキャラクターというものが、あの場面で一気に結実して、一本の軌跡としてつながり、タイガーのまなざしに顕現した瞬間だったということかもしれません。「神は細部に宿る」、そんな言葉が、私のなかで、にわかに現実味を帯びた瞬間でもありました。
by あゆあゆ (2005.02/26 23:46)


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