■司馬遼太郎にみる地域復興の秘訣
書斎にあった司馬遼太郎さんの講演集を眺めていたところ
1986年に司馬さんが奄美大島で講演したときの講演録
「奄美大島と日本の文化」で参考になることが書いてありました
のでご紹介したいと思います。
司馬さんは講演の冒頭から「薩摩藩は奄美を差別していた。
その理由は奄美でお米が取れなかったからだ」と始めます。
しかし薩摩藩は奄美の「さとうきび栽培」に目をつけ、その
「さとうきび」からの収入が薩摩藩を日本一裕福にし、討幕運動の
資金源になった。
また、西郷隆盛は奄美に島流しになったが何もすることがない
のでここ(奄美)で読書をした。
それが彼を大政治家にしたのだと奄美の果たした役割を指摘しました。
ここが司馬さん一流の聴衆をぐいと引き付ける上手いところです。
それから司馬さんは、国家観についてステートとネーションという
言葉を使って説明していきます。ステートとはアメリカの様に法律
重視の人工的な国家を指し、
一方、ネーションとは昔からある国のことを言います。
日本はネーションの集合体であったがそこにステートという法律国家を
作ったのが明治時代だと指摘しています。
ネーションとは非合理なものを含み「雑多なもの」も「よき伝統」も
含む地方の文化を意味します。
このステートとネーションのバランスが崩れ、ネーションの持つ
「雑多なもの」がステートを食ってしまったために戦争に突入して
いったのだという示唆に富む指摘もありました。
ここから司馬さんの文化論がステートとネーションの違いを文明と文化の
違いに置き換えて展開していきます。
「文明とは合理的なものであり、文化とは非合理なもの」で、言葉で
たとえると共通語と方言に似ていて「文化は非合理であればあるほど迫力
をもち」、「ステレオタイプの文化は必ず滅びる」、「文化が滅びない
ためには存在理由が必要」で、「人間は自分だけがあるいは少数が持って
いるものを持ちたがるものだ」と述べます。
そこで司馬さんは益子焼で有名な栃木県の益子がどうやって再生を
果たしたのかを例に挙げます。
「浜田庄司さん(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E7%94%B0%E5%BA%84%E5%8F%B8)
という陶芸家が益子に移り住み一生懸命やったからこそそうなった」
と紹介しました。
私の調べたところでは、益子焼は、陶器市が開催され賑わって
いて、焼き物を売る店が道路の両側に立ち並び、大通りが新しく
生まれ変わり広い歩道には街路樹、歩道には陶器製の点字ブロックが
埋め込まれるなど見違えるように変わったそうです。
また、益子焼に携わっている人たちは、後継者の心配はないと
いっているそうで、その理由に、栃木県が益子町に作った「窯業指導所」
が地元の後継者を育てるために1年のコースがあり、そこで焼き物の
基礎技術が学べるようになっていて、卒業後、益子焼の窯元で修業して
やがて一人前の陶芸家として独立できるようになっているそうです。
司馬さんは奄美の聴衆に奄美文化の構築のために次のように結んでいます。
「誰かいい人を呼び、そのひとを中心にしてやる。大勢で寄ってたかって
議論をしてもだめなものなのです。こいつはできると思う人を、とにかく
見つけておだてることです。
おだてて何事かをさせていく。益子に浜田さんがいらっしゃったことの意味
をお考え下さい」
司馬さんの講演には説得力がありました。