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いぬやしき

2018-05-08 | 映画

 

最初ポスター見たとき、絶対見ないなと思ってたけど、他に見たい映画もなく

原作はちょっと、アニメは全部見ていて、スケールが大きくなりすぎて、打ち切りのような唐突な終わり方ががっかりだったけど、映画はちょうどいい感じでまとまってた。

見て良かった。面白かった。一か所だけ、四肢紙の背中のジェット音がうるさすぎてしおんのセリフが聞き取りずらく、いいシーンなのにわけわかんなくなってたところが、もったいない。

のりたけさんは強すぎ、若すぎ、背もありすぎと、絶対イメージあわないと思ってたのに、ちゃんと老けメイクと悲哀感たっぷりの演技で、はまってた。

寿司紙は漫画よりカッコよかったよ!ちょっこーも、しおんも漫画に近いが、しおんは何故ずらなのか、無理に髪型似せなくてもいいのになー

まりも、ラスト多くを語らず、脚本が良かったと思う。

 

オヤジVS.高校生!実写『いぬやしき』予告編

 


戦場のメリークリスマス

2013-01-19 | 映画

「戦場のメリークリスマス」は、ずっと観たいなぁと思いながら機会を逃していました。

難解な映画かと思い込んでいたのですが、とても判りやすく大島監督の素直な感性が、ある意味、子どものような無邪気さがバランスよく表現されていたように思います。

歴史観からは国益を損ねそうな映画ですが・・

まず、坂本龍一演じるヨノイ大尉の化粧、

おかしいと思うのですが、これで良しの大島渚の視力

ビートたけし演じるハラ軍曹の棒読みと素な「ばかやろー・このやろー」の台詞・・

デヴィッド・ボウイ演じるセリアズ英軍少佐 の魅惑のひとみ

ミスターロレンスが、地味なのもいいですね。

そして、原発反対ですが代替案は無いという坂本さんの音楽が素晴らしくマッチしていました。

戦争に逃げた兄セリアズの最期、弟との幸福だった思い出で浄化されていくようなシーン、

美しく悲しかったです。

 


ヒットラー 第1部:我が闘争  ヒットラー 第2部:独裁者の台頭

2012-09-05 | 映画

 

ぎゃおでみますた。

目がきらきらしたヒットラー

子ども時代から独裁者になるまでスピーディーに展開していきます。

ヒットラーと女性関係が生殺しのような描き方をされてて

不器用と言うか共感能力が無いというか、これで総統が務まるのかなぁと・・

脚色でしょうが。

 

私怨で政治やっちゃうとかいけない。

 

 

 


リアル鬼ごっことスイートリトルライズ

2012-05-12 | 映画

 

ぎゃおで、「リアル鬼ごっこ」みますた。

面白かったけど、本を先に読みたかったな。

そのオチは、主人公が疲れるだろう。

あと、「スイートリトルライズ」をみますた。

中谷美紀と、仁先生の映画だと思って探したら、

中谷美紀と、橋下徹風武市半平太の間違いでした。

なんでしょう、この気味の悪い人々は・・

 


おろち

2012-04-04 | 映画

 

  みますた。

面白かったです。

オチとか覚えてたけど、細かい部分忘れてたので、

また漫画を読み返したいです。

子どものころぴんとこなかった「おろち」でしたが、いつだったか読み返して

ぴんというか、ずんときました。

映画は、あんまり現実味が無いというか、劇を見てる様な感じでした。

木村佳乃は美しいのですが、大女優の貫禄がいまいちです。

この役柄は、岩下志麻クラスで、しっくりきそうです。

ミステリアスなおろちはというと、見た目は普通の可愛いおねえちゃんががんばりましたという印象です。

でもちゃんと報われてると思いました。


ファイナル・デスティネーション

2011-10-24 | 映画

 

ひさびさに心の栄養をと思い、映画鑑賞しました。

飛行機が落ちる描写が一番恐怖でした。

ホラー嫌いなんですが、(怖がりなので)物語性とか期待して観ることが多いです。

これもそういう意味では面白かったでした。

題名はすぐ忘れちゃいそうですが、アマゾンのレビューにあった、「ピタゴラスイッチ」が邦題にあってると思います。

 

 


ニート

2011-08-20 | 映画

監督の意図   

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。

高畑は、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている

 

ウィキペディアより

 

1988年5月号アニメージュより

反時代的だった清太と節子の生活

 

映画「火垂るの墓」は、昭和20年、空襲によって母を喪い、家を失った兄妹、清太と節子のふたりだけの生活を中心にすえている。この楽しくも、また哀しい”家庭生活”について、高畑勲監督にうかがった。

 

最小単位の”家庭”

 

 清太14歳、節子4歳。戦時下の日本ではやや恵まれた家庭に育ったと思われるふたりは、空襲によって母をなくし、親類の家にも居づらくなり、壕でふたりだけの生活をはじめる。それは節子の死によって終わりを告げるのだが、この映画は、そのふたりの生活を丹念に映像化している。その意図はどこにあったのか?

「はじめて原作を読んだとき、これは神話だな、と思ったんです。『神話』とは何か、ぼくもよくわからないので、いい加減なものですが、とにかく神話性のある物語は、同じ人物、同じ筋だてに様々な意味や肉づけを与えることができるんですね。どんなことをしても、簡単にはこわれてしまわない強さを物語自体がもっている。とまあ、この物語の扱い方が読者それぞれの思い入れやイメージとちがっていた場合の弁明を先にしておきたいんです。

 で、意図といわれると困るんですが、この物語はやはり”家庭”を描くことが前提だと思います。(海軍大尉である)父親のことはいつも清太の頭のなかにあったのでしょうが、現実にはいないし、空襲で母親も死んでしまって、兄妹ふたりになった。その最小単位の家族で独立した”家庭”を営もうとする。

 家庭を営むには、大きくいって衣・食・住が必要なわけですが、衣については親戚の未亡人の家にふとんや衣類を疎開しておいたので大丈夫だったとして、あと食と住の大問題があるわけです。この問題ぬきに”家庭”は成立しない。ふたりは如何にして彼らの”家庭”を築いたか----どうもこれは最小のホームドラマだと考えながら、この作品を作ってきたように思っています」(高畑勲監督。以下「」内コメントはすべて高畑監督のものです。

 とはいうものの、妹の死によってこの兄妹ふたりの家庭生活は失敗に終わってしまった、と考えられるのではないだろうか?

「そうではないんじゃないでしょうか。成功したんじゃないかと思います。成功したにもかかわらず妹が死んでしまうというところに、この物語の悲劇性、ひいては神話性があると思うんですが。

 なぜ成功だったかというと、たとえば、無人島で愛しあうふたりが生活したけれど、他人がいなくて退屈してしまい、いさかいばかりおこしていたというなら、これは失敗で、ふたりの天国を築きあげられなかったことになると思います。

 でも、清太は節子との生活のなかでイキイキしていたんじゃないでしょうか? 家庭生活を築く楽しさ、そのなかでの心のかよいあい、いうならば愛、その限りにおいて、清太は大変充実した生を生きたと思います。精一杯できる限り好きなように生きようとしたんじゃないでしょうかね。好きなようにといっても、清太が妹の世話をいやがるような少年であったならば、まったく話はちがってきたわけで、たとえば、ごく当り前のように節子をおぶい紐でおんぶしたりするところを見ても、空襲以前からそういうことに慣れていたということを感じさせますよね。病弱の母親にかわってオサンドンをするというようなことも、きっとあったんでしょう。妹への愛情だけでは”家庭”は営めませんからね」

 

反時代的な行為

 

 高畑監督は「火垂るの墓」の制作に入る前に、清太という少年と現代の少年たちが似ているということを指摘している。この家庭を営む兄妹という点から考えて、その類似はどんなところにあるのだろうか?

「清太と節子は”家庭生活”には成功するけれど、”社会生活”に失敗するんですね。いや、失敗するのじゃなくて、徹底して社会生活を拒否するわけです。社会生活ぬきの家庭を築きたかった。まわりの大人たちは冷たかったかもしれない。しかし、清太の方も人とのつながりを積極的に求めるどころか、次々とその機会を捨てていきます。お向かいの娘に、『うちらも2階の教室やからけえへん?』と誘われて『ぼくらあとでいきますさかい』と断り、学校へも行かず、先生にも相談しない、置かしてもらった親類の未亡人はいやみを次々いい放つけれど、あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。清太はそれを我慢しない。壕に移り住むことを決断して清太はいいます。『ここやったら誰もけえへんし、節子とふたりだけで好きに出来るよ。』そして無心に”純粋の家庭”を築こうとする。そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。

 心情的にはべつに現代の青少年たちとだけ類似があるのじゃないと思うんです。マイホームとか核家族とか、個室やオートバイを子どもに与えるとか、おとなもみんな清太になりたがり、自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。社会生活はわずらわしいことばかり、出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。それがある程度可能なんですね。ウォークマン、ステレオ、パソコン、みんなそれを象徴しているような気がします。清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。

 でも結局、実のところ、類似というのはこの出発点の心情だけかもしれないんです。清太と節子が生きた時代というのは、隣組とか、愛国婦人会、産業報国会、それにもちろん軍隊、内務班、分列行進歩調とれ! と、ことごとに抑圧的な集団主義がとられていました。制服はもちろん、登下校も集団で班を作っていく。社会生活の中でも最悪最低の”全体主義”がはびこっていたんです。清太はそういうところから自らを解き放つわけでしょう。”純粋の家庭”を築く、というのはおそろしく反時代的な行為ですよね。現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。こっちは時代の流れに乗っているにすぎない。もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします

 ところで、戦時下とはいえ、清太と節子の生活は、いわばふたりだけの天国だった。その充実した短い楽しい日々は、ふたりの死によって、かえって美しく感じられる。一種の”刹那主義”と感じられる危険性もあるのではないだろうか。

「それに対しては、死によって達成されるものはなにもないとぼくは思っているんです。清太と節子の幽霊を登場させているんですが、このふたりの幽霊は気の毒なことに、この体験をくり返すしかないわけです。それは、たとえそのふたりの生活が輝いていたとしても、うらやましいことでもなんでもない。

 人生のある時期をくり返し味わい返して生きるということは、非常に不幸なことだと思うんです。清太の幽霊を不幸といわずして、なにが不幸かということになると思います

 高畑監督といえば、これまで「アルプスの少女ハイジ」をはじめ「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」など、日常生活に密着したアニメーションを演出しつづけている。その姿勢は今回の「火垂るの墓」にも貫かれているようだ。

 原作をもとにしながらイキイキと描かれた清太と節子の生活が、現代の少年少女たちに、戦争を知っているおとなたちに、どう写るのか。高畑監督ひさびさの劇場用作品を観客のひとりとして楽しみに待ちたいと思う。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070816/hotaru

 

 

 


バタフライ・エフェクト

2010-07-07 | 映画

恐ろしく、悲しく美しい映画でした。

おまけの別エンディングは、最も悲劇的といわれるパターンは、入ってなくて残念、

それが一番観たかったです。

私も過去をふりかえり、

あの時、朝、こんにゃく畑と青汁を飲んでいなかったら・・とか いろいろ考えました。

 

バタフライ効果(butterfly effect)

カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、

やがては無視できない大きな差となる現象のことを指す。

カオス理論を端的に表現した思考実験のひとつ、あるいは比喩である。


プラダを着た悪魔

2010-06-30 | 映画

想像とは違いましたが、良い映画でした。

主役は白の女王ですが、悪魔役のメリル・ストリープが素敵です。

特に品のある口元に目が釘付けです。

綺麗な人は何着ても綺麗だという私の持論は変わりませんでした。

もちろん、内側から光ってこそですが。