1 鴨
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり 高浜虚子
幾度も数えなおして鴨の陣 拙
早朝や夜間に草の実や水草をとりにゆき、昼間は群れをなして水に浮いていることが多い。渡り鳥なので、飛来地での数が一定ではない。水中にもぐったり活発に動いているので、見ていても飽きない。
一匹の鴨に注目することもあるが、集団で行動しているので、全体に目を配り数えてみれは、その都度数が異なることはどうしてだろう。
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり 高浜虚子
幾度も数えなおして鴨の陣 拙
早朝や夜間に草の実や水草をとりにゆき、昼間は群れをなして水に浮いていることが多い。渡り鳥なので、飛来地での数が一定ではない。水中にもぐったり活発に動いているので、見ていても飽きない。
一匹の鴨に注目することもあるが、集団で行動しているので、全体に目を配り数えてみれは、その都度数が異なることはどうしてだろう。
「○の中の一つの○を見てゐたり」という表現法が出来たほど有名になった句。最初に表現したのはさすがに虚子だなと感心する。「雛の中の一つの雛を見てゐたり」、「梅の中の一つの梅を見てゐたり」など作れるが、二番煎じでは初見の新鮮さはない。
人間にはこんな見方をするときが確かにある。群全体に焦点が広がったり、中の一点に焦点が合ったりする。それを交互に繰り返しているようにも思う。虚子の句は人間の微妙な心理の動きを刺激するような気がする。
幾度も数えなおして鴨の陣 阿部
虚子の句では表現していないが「鴨の陣」を詠っている。阿部句では「鴨の陣」を言葉にして表現した。十数羽ぐらいの鴨の陣だったらよく数えたりする。数えるたびに一二羽数が合わない場合が多い。作者が『全体に目を配り数えてみれは、その都度数が異なることはどうしてだろう。』と云っていることは、実際よく経験する。本当はどうしてなのだろう。鴨の影に入っているのがいたり、数えたものが動いてまたか数えるということがあるのだろうか。数が合わないから困ったという感じは特に起こらず、水鳥というのはこんなものかなと思い、鴨の陣の悠々迫らぬ野趣を楽しむ気持ちになるのである。阿部句を読ませていただき、そのような気持ちを味わいました。虚子句には静的な感じ、阿部句には動的な感じを受けました。有難うございました。
願船
伊豆沼には沢山の水鳥が飛来しています。何万という水鳥の朝の飛翔には目を見張り、耳を閉ざします。穏やかな日和の時は見物にいって楽しんでいます。
近くにはサンクチャリセンターもあって、愛鳥家や観光客に人気もあります。