種袋
種袋振ればはるかに花のこゑ 高橋悦男
遠嶺や振って確かむ種袋 拙
遠い山の雪形は農暦の一種である。雪形の変化によって農作業をすすめるのは当地の慣習で、
種まき坊主 という 農夫が種を蒔く形の雪形が出れば蒔種のきせつである。
その雪形をみて、枝豆とトウモロコシを庭の隅に撒いた。種や肥料の代金も馬鹿にならず、買う
方が安いかも知れないが、育てる楽しみを買うと思えば安いものだ。
種袋振ればはるかに花のこゑ 高橋悦男
遠嶺や振って確かむ種袋 拙
遠い山の雪形は農暦の一種である。雪形の変化によって農作業をすすめるのは当地の慣習で、
種まき坊主 という 農夫が種を蒔く形の雪形が出れば蒔種のきせつである。
その雪形をみて、枝豆とトウモロコシを庭の隅に撒いた。種や肥料の代金も馬鹿にならず、買う
方が安いかも知れないが、育てる楽しみを買うと思えば安いものだ。
播く前に種袋を軽く振ってみると、はるかな未来から花の声が聞こえてくる。「はるかに花のこゑ」は詩的な表現である。袋の中の種はしゃりしゃりという乾いた音を立てるが、それが作者には花の声に聞こえるのであろう。種を播き、長い間水や肥料の世話をし、やがて美しい花をつけるという一連の仕事に愛情を注ぐ作者の気持ちが表れた句であると思う。
遠嶺や振って確かむ種袋 阿部
阿部句も「振って確かむ種袋」という措辞を用いて、種袋を振ることを表現しているのは前句と共通している。違いは前句が「はるかに花のこゑ」で完結した 一句仕立てであるのに対し、阿部句では中七・下五が「遠嶺や」に取り合わされた形となっていることである。
「振って確かむ種袋」からは将に種を播こうとする作者の喜びの姿が想像される。目をあげると遠景にはいつもの山脈の嶺々が見える。花種を播こうとする眼前の畑地と遠景の山嶺。その二物の対比と大自然の中における二物の融和が一句から読み取れるのである。しかし作者が『種まき坊主という農夫が種を蒔く形の雪形が出れば蒔種のきせつである。その雪形をみて、枝豆とトウモロコシを庭の隅に撒いた』と述べているのを見て、句中に用いられた「遠嶺」に自分が見過ごしていた深い意味があることを知ったのである。東北の地に長く伝えられた雪形と農耕の伝統を考えるとき、阿部句に見られる社会性の特徴がこの句においても見られると思うのである。それが「はるかに花のこゑ」という美しい詩情で完結する高橋悦男の句との相違点でると鑑賞いたしました。 願船
怠け者が庭の片隅に菜園を造ったら、連日が晴天。
嬉しいことだが、水かけに一汗をかく。そんなわけで
夕方は少し体を動かしています。近くに鴉がくるので、
芽を啄まれないように空き箱を集めています。