リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

展示・発表の中止を求めることは言論の自由に矛盾する

2019-09-25 | 政治
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が、脅迫・テロ予告を含む抗議の殺到で中止に追い込まれた件で、「電凸」と言われる抗議殺到のきっかけになった河村・名古屋市長は抗議するのも表現の自由だとうそぶいている(過去ブログ)。脅迫・テロ予告は論外だし、政治家があおる(あるいは積極的にあおらなくても政治家の影響力は大きく、結果的にあおったことになる)というもの問題だとは思いながら、「中止を要求するメッセージ」自体はたしかに表現の自由の範囲内ではないかと思って悩んでいた。
だが坂口正二郎教授(憲法)の指摘(朝日新聞2019-9-24)を読んで目からうろこが落ちた。いわく、「『中止』とは相手の表現の機会を奪うこと。自分たちが表現の自由を行使しながら相手には認めないということがまかり通れば、自由や民主主義は失われる」
こう言ってはくだけすぎかもしれないが、表現の自由を振りかざして他者の表現の自由を封じようとすることは、「3つの願いをかなえる」と言われて「無制限で願いをかなえてほしい」と願うようなチートにほかならないのではないか。「相手に言論の自由を認めない」人は「言論の自由」を主張する資格はない。

上記朝日記事にもある、権力の側が「言論の自由」を振りかざす「逆立ちの構図」がおかしいことも、そう考えればわかる。2014年、テレビ局5局の衆院選報道に自民党が注文をつけたことを野党が批判すると、安倍首相は「これはまさに言論の自由」と反論した。憲法21条が「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」というのは、権力者が冒してはならないと定めたものなのであるが、そうした立法の根本をべつとしても、他者の言論の自由を封じようとする「言論」は言論の自由に矛盾する。

追記:
秋葉丈志准教授(法社会学)も「平等や個人の尊厳を否定するヘイトスピーチは、相手の言論を封じる目的で行われる以上、保護に値する言論と言えず、その規制は必ずしも憲法違反にはあたりません」と述べている(朝日新聞2020-2-8)。「相手の言論を封じる目的」の言論は規制されていいというのは全く同感なのだが、「平等はおかしい」という主張くらいならヘイトにはならないと思う。「個人の尊厳を否定する」もよくないが、それだけで規制の対象とはならないのではないか。だから規制対象とするためにはやはり大々的に行なわれている(公共の場で大音量で、ネット上で繰り返し投稿してなど)というのが要件になるのではないだろうか。准教授も、国連人種差別撤廃委員会にヘイトスピーチの法規制を求められても日本政府が表現の自由を理由に留保していることに関し、「ヘイトスピーチをする側とマイノリティーの被害者との間には、圧倒的な差があります」という力の不均衡を理解しておく必要があると指摘している。
同じ記事で、福田紀彦川崎市長が、ヘイト規制条例の議論では、「日本人に対するヘイト」を問題視し、外国人へのヘイトのみを規制対象とするのは日本人差別だとの意見が寄せられたと述べている。圧倒的多数派に対する「差別」という問題意識は「深刻な分断」を示すとしているが、(政府が外国人に門戸を開いたことで「圧倒的多数」が今後ゆらいでいくという点は別として)多数派相手には過激な言動が許される、ということにはならないだろう。ただ、力をもつ者に対する保護は控えめでもいいとは思う。こうした非対称は差別とは異なる。

関連記事:
「ヘイト規制と言論弾圧の境界はどこに」
「「表現の不自由展」を守った大村知事が「ヘイト」展示は「中止すべき」」

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