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日本歴史紀行

現代語釈 信長公記 6 斎藤道三と会見 1



斎藤道三と会見


天文二十二年 四月下旬のことである。

濃姫(帰蝶夫人)の父、斎藤山城守道三から、【 富田の寺内町の正徳寺まで出向きますので、織田上総介殿もここまでお出で下されば幸いです。体面いたしたい。】と言ってきた。

その訳は、近頃、信長を妬(そね)んで、婿殿は大馬鹿者ですぞ。と人々が道三に面と向かって言っていた。

人々がそう言うと、【 いやいや、馬鹿ではないのだ。】と道三はいつも言っていたのだが、体面して、その真偽を見極めるのだ、と聞こえてきた。


信長は遠慮もせず承諾し、木曽川、飛騨川という大河を舟で渡り、出かけて行った。

富田という所は人家が七百軒ほどあって豊かな所である。

斎藤道三の計画は、信長は実直ではない男という噂だから、驚かせて笑ってやろう。ということで、古老の者、七~八百人ほどに折り目正しい肩衣、袴、上品な身支度をさせて正徳寺の御堂に縁に並んで座らせ、その前を信長が通る様に準備した、その上で道三は町外れの小家に隠れ、信長の行列を覗き見した。

その時の信長の出で立ちは、髪は茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻き立てて、湯帷子を袖脱ぎにし、金銀飾りの太刀、脇差二つとも長い柄を藁縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、腰の周りには、猿廻しの様に火打ち袋、瓢箪七つ八つぶら下げ、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴をはいた。

お供の衆を七~八百人ほど、ずらりと並べ、柄三間半の朱槍五百、弓、鉄砲五百挺を持たせ、元気な足軽を行列の前を走らせた。
その軍勢は見事なものであった。

宿舎の寺に着いたところで、屏風を引き回し、生まれて初めて髪を折り曲げに結い、いつ染めておいたか知る人のない褐色の長袴をはき、これも人に知らせず拵えておいた小刀を差した。


この身支度を家中の者が見て、【 さては近頃の阿保ぶりは、わざと装おっていたのだな。】と肝をつぶし、誰もが次第に事情を了承した。


信長は御堂へするすると出た。
縁の上がり口に春日丹後、堀田道空が出迎えて、お早くお出でなさいませ。と言ったが、信長は知らん顔、諸侍が居並ぶ前をすいすいと通り抜け、縁の柱に寄りかかっていた。


つづく



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