見出し画像

日本歴史紀行

歴史紀行 特別編 39 - 2 ノーベル文学賞作家 川端康成 墓所 2





川端康成(川端家墓所)
神奈川県鎌倉市十二所 鎌倉霊園


ノーベル文学賞を日本人で初めて受賞した川端康成は、大阪市北区に開業した医師の父、栄吉。母、ゲンの子として生まれ、早くに両親を亡くして祖父母に引き取られ、溺愛に近い育てられ方をします。


そして祖父〜三八郎は幼い康成に対して、くどい位に川端家の始祖について言って聞かせ、鎌倉幕府三代執権の北条泰時 (比企の乱や牧氏事件の初代執権 北条時政。承久の乱や、二代将軍 源頼家暗殺に暗躍した二代執権、北条義時は悪名高いためか?二人の先代執権の名は入れず。)に始まる由緒を語り続けました。



三代執権、北条泰時の異母弟〜北条有時に、駿河五郎道時なる人物が生まれます。【泰時も有時も共に父は北条義時】

さらにその道時の子が川端舎人助道政〜を名乗り、この頃には執権、北条氏が権勢を誇った幕府は滅び、ここから川端家として始まり、以来、川端家は現在の大阪府茨木市宿久庄(しゅくのしょう)に土着して続き、江戸時代には庄屋として連綿と続き、康成は1889年、明治32年に川端家31代目として生を受けました。
 

北条義時に始まる鎌倉幕府を牛耳る家系に連なる家に生まれたんですね。



ただ、康成自身は、祖父が明治35年に寄贈されたという系図を根拠に誇らしげに語り続けることに、信用ならないとして苦々しく思っていたと語っています。


川端康成は、
祖父母に育てられる少年時代を過ごすも、猛勉強の末に東大教養学部の前身である旧制第一高校に入学します。



27歳の時に発表した代表作【伊豆の踊子】は、川端康成の伊豆での実体験を元に描かれた作品で、鬱屈した精神を抱えていた主人公の【私】が、第一高校2年生の年の秋、10月末に伊豆へ一人旅に出かけ、天城峠で出会った旅芸人一家と、下田まで行動を共に、その踊子の娘〜薫との交流と淡い恋、別れを描いた作品で、発表当初はさほど話題とならずも、次第に認められ、大成して文豪としての名声も不動のものとなり、発表から10年を迎える頃、鎌倉市浄明寺に転居し、終生 鎌倉を住みました。


康成が終の棲家にしたのは、北条氏が幕府の権勢を誇り、滅んだ地 鎌倉。 

【伊豆の踊子】の舞台は、北条氏の治めた伊豆地方〜修善寺は北条義時が手勢に命じて二代将軍 源頼家を幽閉の後に暗殺した地です。


幕府の権勢に身をまとう前は、田舎武士として生きたであろう北条氏の故郷が伊豆で、その700年後の子孫であろう康成が国民的作品を生み出した地でもあります。

また機会がありましたら、伊豆の踊子を含め、川端康成の足跡を訪ねてみたいと考えます。














ランキング参加しています。応援お願い致します!

コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 おはようございます。
歴史書以外、久しく読んでませんが、今回の川端家墓所の訪問を経てまた、川端文学の沼にはまるのも悪くないと感じました。
kikokikonoriko19888888
「雪国」を読んだのは、小学6年生のときでしたが

長いトンネルをくぐると、、雪国の真っ白な世界で、駒子との
男と女の世界でした。描写にもペーソスがあり、、翻訳した人の腕の見せ所でしょうね。子供なのに絶句するような静かな感動がありました。伊豆の踊子の方が、さわやかですね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「歴史紀行 特別編」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事