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日本歴史紀行

現代語訳 徳川実紀 54 東三河国人衆なびく




長篠城跡
愛知県新城市長篠市場


御大将が討たれたものの、弔い合戦を仕掛けようという自らの出馬もならず、和歌、蹴鞠に興じる日々を費やす今川氏真に愛想を尽かしたのは元康君のみならず、元康君を支える岡崎衆が尾張、織田家と和議を成すまで失われていた旧領を取り戻す様を伝え聞き、それまで今川の支配下にあり、生き残りを計って模様眺めをしていた東三河の国人衆たちが 元康君に帰参を願い出てきた。


長沢城の戦いでは、若き猛将〜本多平八郎忠勝が奮迅の戦いを見せて首級を挙げ、家老の石川与七郎数正は、元康君の叔父上である水野下野守信元の家老、高木清秀と七度にも及ぶ槍合せを繰り広げたという。
 
祖父、父君の非業の死により失いし旧領を必死に取り戻し、守り抜こうと主従一願となっている姿を見聞きした彼らである。


五本松城主の西郷正勝
形原城主の松平家広
竹谷城主の松平清善
井道城主の菅沼定勝 
野田城主の菅沼定盈
田峯(だみね)城主の菅沼忠定
長篠城主の菅沼定景
作手(つくで)城主の奥平貞能
川路城主の設楽貞通


いずれの国人衆も英邁の誉れ高い元康君の祖父であられた清康公の時に従う契りを交わしたものの、松平宗家そのものが今川家を頼る危急の折りに今川家に頭を垂れる流れとなっていた。


その国人衆たちが代替わりした今川家には御大将の弔い合戦すら出来ない有り様を見るに
凄まじい数の国人衆が今川家を見限り、元康君へ拝謁を願い出てきた。

一つひとつの力は小さい国人衆ではあるが、横の繋がりが深い彼らは、流れにとても敏(さと)いものだった。




東三河国人衆
東三河の要衝、吉田、牛久保の北から伊那街道の街道筋を固める小豪族である。

野田城主の菅沼定盈は、後に武田信玄が三方原で徳川軍を大いに打ち破るも、頑強に城を守ったために攻略に手間取り、病を押した信玄は西上を諦めざるをえなかった。

作手城主の奥平貞能は、国人衆の中でも一際敏く、武田の人質にあった倅の九三郎信昌の妻を家の生き残りのために見捨てさせ、徳川家から替わりの嫁を娶るということをやってのけ、この後に長篠の戦いで武田勝頼の大軍、一万五千を釘付けにした活躍を見せた。


彼らの松平宗家への帰順は、駿河の大国だった今川家の崩壊が西から始まったことを暗示していた。








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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kourei-flow 徳川ファンのぼくでも、全ての城址を巡れる機会はないのですが、少しずつ巡りたいと考えています。
以前、家康公の命日である4月17日に久能山東照宮へ参りましたが、悪天候にも関わらず、家臣団のご子孫の皆さんが集まって参拝する姿を拝見しました。
苦楽を共にして生き抜いた結束力は世代が変わっても健在だと感じるものがありました。
kourei-flow
こんにちは
以前東三河に住んでいたので、こちらに紹介されているお城はすべて行きました。
長沢城の跡地に住む子孫にお話を伺ったり、その分家の松平さんが母校の教頭だったりと思い出が尽きません。
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