誓願寺
静岡市駿河区丸子
旧東海道の宿場町 丸子(まりこ)にある誓願寺は、源頼朝が鎌倉から上洛する折に無念の死を遂げた両親のために開基しました。
やがて戦国時代後期に駿河に侵攻した武田信玄の兵火により焼かれたものの、頼朝公開基の寺を廃墟にしたままでは忍びないと、重臣 穴山信君(入道梅雪)に命じて再建させました。
やがて駿河の大名となった徳川家康にも庇護されます。
誓願寺 本堂
片桐且元の墓(左)
その後、1614年、慶長19年 幕府を開いた徳川家と旧主である豊臣家の間で勃発した方広寺鐘銘事件において、方広寺の再建奉行だった片桐且元が交渉役として この誓願寺に逗留し、徳川家康に弁明に訪れますが、結局 徳川方の豊臣家への疑念は払拭できずに大坂へ戻ると、獅子身中の虫として裏切り者扱いされた片桐且元は身の危険を感じて居城の茨木城に籠もると、大坂方が攻め寄せる行為に出たことで、徳川と豊臣は手切れとなり、大坂の陣を迎えることとなりました。
豊臣家を追われた片桐且元は徳川方につき、大坂城攻城の案内役となります。
冬、夏の二度の陣を戦った豊臣家は滅亡。
旧主を滅亡に追いやった且元は豊臣秀頼自刃の三七日(みなのか)に突如亡くなります。
幕府には病死と届けられますが、殉死とも囁やかれました。