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日本歴史紀行

現代語釈 信長公記 8 清洲城乗っ取り 2



尾張の守護、自害

信長が義父、斎藤道三と会見を終えた尾張では異変が起きる。

事の始まりは、
天文二十三年、七月十二日、尾張守護斯波義統の若君のお供をして、屈強な若侍は全員川漁に出かけた。

清州城内の守護の屋敷には、老臣が少々残っているだけだった。

坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位らは、【守護屋敷には、殆んど年寄りが残っているだけだ。今こそ好機だ。】と謀議し、手勢を率いて守護屋敷を取り囲んだ。

異変を察知した守護屋敷から、何阿弥とかいう同朋衆が飛び出して攻撃側を斬りまくり、手柄は比類なかった。

また、狭間を守る森 刑部丞の兄弟も斬りまくり、多数に傷を負わせるも、結局討ち死にした。

裏口では、柘植宗花という者が斬りまくり、比類なき働きだった。

だが、守護屋敷を囲む四方の屋根から弓の衆が矢継ぎ早に散々射立てたので、守護側は防ぎきれずに屋敷に火をかけて、守護 斯波義統を始め、一門、家臣らが切腹した。

侍女たちは堀に飛び込み、渡り越して助かった者もいたが、溺死した者も出て哀れな有り様だった。

異変を聞かされた守護の若君は、湯帷子(ゆかたびら)のまま、信長を頼って那古野城へ逃げて来た。

信長は若君に二百人扶持を給し、天主坊に住まわせた。

守護のもう一人の幼君を毛利十郞が保護して、那古野へ送り届けた。

尾張の守護は、織田氏の主君ではあるが、今は織田氏が実権を握っており、その織田氏に無謀な反抗を企てたので、神仏の加護もなく、このように浅ましくも、むざむざと死んだのである。

自ら招いた最期とはいえ、時の流れに背いて秩序を乱すと、それ相応の結果となるから、恐ろしいものである。

守護に日夜心遣いをし、粉骨砕身仕えた者たちも、一旦は義憤を感じて息巻いたけれど、誰も彼もが衣食住に不自由をして、難儀なことになったのである。




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