毎年成人の式を祝って、旧村民が総出で綯うのです。
伝ながら岡部六弥太忠澄が阿弥陀如来をまつった6別所のひとつにふさわしい寺格のたたずまい
だった。横手の入口には「糸ヒバ」の老木と100年は越している老桜がどっしりと門構えをなして
仏界への隔たりをおもわせて清浄の気をそそいでくれているようだった。
庭を手入れするご住職さんはにこやかにあいさつを返してくれたので、ごく自然に話のながれが
できて居心地のよさは座布団でも敷いてもらったような気分になれた。
「ここが、常光別所です」と箒の柄で○を描いてトンとうってしめしました。
「浦和の別所からきたって」?
「以前(20年ほど)そんなこと言って訪ねてきた人がいたけど、知り合いなの」?
「no]知りません。
かつて、この寺のある土地は今より1,5mほど高かった。
阿弥陀堂と塔頭が6堂あって周囲の信仰を集めて大きくにぎわっていた。
資料 ・新編 武蔵風土記稿参照
1800年前後の武州の様子がよくわかる重要な基礎資料に、各地の神社仏閣の挿絵がのっていて
此の無量寿院もこんな風にえがかれています。
本堂のまえのひなたで説明をききました。
ご住職は元国語の教師だったとかで、精度の高い、解りやすいお話しぶりでまことに聴きとり
やすくて助かった。字の説明はいうまでもなく同音異義もなんなしだった。
武蔵風土記以前のことでは、近くの姫宮神社は延喜式に載る古社で、そのころの水運のことを
言い伝えと断りながら、まるで最近の風景のようにいきいきとかたってくださいました。
資料・延喜式とはなあに
頼朝の家人で「足立馬之丞」という武士がこの地にねを張っていて、奥州藤原氏を滅ぼして戻った時に
捕虜を連れてきてこのあたりに住まわせたとの伝えもあると。
そして、必ずと言っていいほど「坂ノ上田村麻呂」が登場してまるで諸説にクサビを打ち込むようにあるいは道しるべを立てるように「別所話」に形式が整えられるようだった。
此処から南に10k程の地「小室別所」でも坂ノ上田村麻呂は輝くように記入されていた。かれは言い伝えのとうりに、智勇兼備の敬愛を受けるような人物だったのか?どうなのだろうか?
資料・坂ノ上田村麻呂将軍とは?
つぎに話題となった小型ながら10枚ほどの青い石の板碑は文永(蒙古来襲のころ)年間銘のもの、
でいつのころか、ここに集まって枕を並べているとのことで、市文化財担当に調査されたが
特別めだったことはなかったようだった。それでも近くを流れる「赤堀川」あたりで大きな
板碑がみつかって市に引き取られていったとかの伝聞もあり、これも此の場所の盛時を裏ずける証拠といっていた。
a
まだまだはなしは尽きなかったがさすがのご住職さんも御用をかかえているようで、来客もあり当然
自分も遠慮せねばならなくなって、さることにした。
目的のひとつ、別所の霊水を1リッターほどいただいてぶらぶら散策しながらバス停にもどった。
北本駅の改札口でやっとひといきいれた。
それにしても、20年まえのお寺をたずねた研究者ふうの先輩とはひょっとして
「別所研究家の柴田氏」ではなかろうかと思ったが、多分あたっているだろうと
今日投稿しながら確信するにいたった。だとしたらぜひにもお目にかかりたいものだ。
資料:別所地名辞典・柴田弘武氏とは>font>
伝ながら岡部六弥太忠澄が阿弥陀如来をまつった6別所のひとつにふさわしい寺格のたたずまい
だった。横手の入口には「糸ヒバ」の老木と100年は越している老桜がどっしりと門構えをなして
仏界への隔たりをおもわせて清浄の気をそそいでくれているようだった。
庭を手入れするご住職さんはにこやかにあいさつを返してくれたので、ごく自然に話のながれが
できて居心地のよさは座布団でも敷いてもらったような気分になれた。
「ここが、常光別所です」と箒の柄で○を描いてトンとうってしめしました。
「浦和の別所からきたって」?
「以前(20年ほど)そんなこと言って訪ねてきた人がいたけど、知り合いなの」?
「no]知りません。
かつて、この寺のある土地は今より1,5mほど高かった。
阿弥陀堂と塔頭が6堂あって周囲の信仰を集めて大きくにぎわっていた。
資料 ・新編 武蔵風土記稿参照
1800年前後の武州の様子がよくわかる重要な基礎資料に、各地の神社仏閣の挿絵がのっていて
此の無量寿院もこんな風にえがかれています。
本堂のまえのひなたで説明をききました。
ご住職は元国語の教師だったとかで、精度の高い、解りやすいお話しぶりでまことに聴きとり
やすくて助かった。字の説明はいうまでもなく同音異義もなんなしだった。
武蔵風土記以前のことでは、近くの姫宮神社は延喜式に載る古社で、そのころの水運のことを
言い伝えと断りながら、まるで最近の風景のようにいきいきとかたってくださいました。
資料・延喜式とはなあに
頼朝の家人で「足立馬之丞」という武士がこの地にねを張っていて、奥州藤原氏を滅ぼして戻った時に
捕虜を連れてきてこのあたりに住まわせたとの伝えもあると。
そして、必ずと言っていいほど「坂ノ上田村麻呂」が登場してまるで諸説にクサビを打ち込むようにあるいは道しるべを立てるように「別所話」に形式が整えられるようだった。
此処から南に10k程の地「小室別所」でも坂ノ上田村麻呂は輝くように記入されていた。かれは言い伝えのとうりに、智勇兼備の敬愛を受けるような人物だったのか?どうなのだろうか?
資料・坂ノ上田村麻呂将軍とは?
つぎに話題となった小型ながら10枚ほどの青い石の板碑は文永(蒙古来襲のころ)年間銘のもの、
でいつのころか、ここに集まって枕を並べているとのことで、市文化財担当に調査されたが
特別めだったことはなかったようだった。それでも近くを流れる「赤堀川」あたりで大きな
板碑がみつかって市に引き取られていったとかの伝聞もあり、これも此の場所の盛時を裏ずける証拠といっていた。
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まだまだはなしは尽きなかったがさすがのご住職さんも御用をかかえているようで、来客もあり当然
自分も遠慮せねばならなくなって、さることにした。
目的のひとつ、別所の霊水を1リッターほどいただいてぶらぶら散策しながらバス停にもどった。
北本駅の改札口でやっとひといきいれた。
それにしても、20年まえのお寺をたずねた研究者ふうの先輩とはひょっとして
「別所研究家の柴田氏」ではなかろうかと思ったが、多分あたっているだろうと
今日投稿しながら確信するにいたった。だとしたらぜひにもお目にかかりたいものだ。
資料:別所地名辞典・柴田弘武氏とは>font>