「花子とアン」楽しんでみていますが、やはり村岡花子さんの精神を培うことで、大きな役割をになった東洋英和のホスピタリティの部分は、やはり映像化にともなってずいぶん削ぎ落とされてしまったな、と感じますので、その点をすこし補足できたら、と思います。
ドラマにもでてきた孤児院の誕生のことについてふれたいと思います。
「アンのゆりかご」p71によると、この孤児院は、この辺りの乏しい貧家から、ふたりの女の子が売られていくことに心を痛めた(東洋英和の)女学生達の要望をうけ、ミス・ブラックモアが明治36年に建てたものだとあります。女学生たちは、靴下を編んだり、バザーを行ったりして、お金を集め、奉仕活動を真剣にされていました。
本によると、「赤い靴」の童謡のなかに出てくる異人さんにつれられていってしまう女の子の話がありますが、その女の子は、花子が日曜学校に通っていた頃に実際にこの孤児院にいた女の子だそうで、実際には異国の土地にいくことなく、結核をわずらってしまい、9才の薄命を終えたそうです。乏しい農家に生まれた花子にとっても、東洋英和でのこの奉仕活動の経験と、子ども達の未来を助ける「本」について、翻訳家になることの使命を培った時期だったに違いありません。そして、ロマンスに憧れてはいたものの、女学生たちも、花子と同じように、使命に燃えていたことでしょう。それにしても、やはり、ブラック・モア校長先生は、本当に信念の人という気がします!