時価が億単位の名器の値段は、楽器としてではない、骨董品としての値段。
ヴァイオリンの音は、その楽器を奏でる人の音であり、楽器の持つ音に非ず。
モーツァルトや、バッハ、ベートーベンのころのヴァイオリンは、
もっと小さな音しか出なかった。
だから現在の大編成で大音量で奏でられる音は、
彼らの音楽とは別物といえなくもないらしい。
(これが、タイトルの意味)
残ってる作品みな、その作者の脳裏を離れて実在化した瞬間から
別物になるのではないか。
当の作者ですら、自分の意図したもの・創造したものを正確に表現できない。
まして、時代背景や環境が違っていたら、その落差はどんどん大きくなるかもしれない。
こんなものは、私の(作者)の本当に表現したかったものではないと、
いいたくなるほど、かけ離れてしまうこともあるだろう。
その落差も、作品の一部といえるのではないのか。
のちに表現(演奏)する者たちの魂に訴えかけ、作者たちですら思いもよらないもの
が生み出されるのも、その作品の持つ力ではないのか。
『殺されたヴァイオリン』の亡霊たちが奏でる現代の演奏を、
当時の音楽家たちに聞いてもらえたらいいのに。
ひょっとすると
「こんな音が欲しかった。こんな音楽が聞きたかった。」とか
「わたしの作った音楽は、こんな素晴らしいものだったのか。」とか
思ってくれるかもしれないじゃない。
素人のおばさんでも、聴いて鳥肌がたつような思いをさせてくれる音楽が、演奏が
現代には、たくさんたくさんあるのだもの。
ヴァイオリンの音は、その楽器を奏でる人の音であり、楽器の持つ音に非ず。
モーツァルトや、バッハ、ベートーベンのころのヴァイオリンは、
もっと小さな音しか出なかった。
だから現在の大編成で大音量で奏でられる音は、
彼らの音楽とは別物といえなくもないらしい。
(これが、タイトルの意味)
残ってる作品みな、その作者の脳裏を離れて実在化した瞬間から
別物になるのではないか。
当の作者ですら、自分の意図したもの・創造したものを正確に表現できない。
まして、時代背景や環境が違っていたら、その落差はどんどん大きくなるかもしれない。
こんなものは、私の(作者)の本当に表現したかったものではないと、
いいたくなるほど、かけ離れてしまうこともあるだろう。
その落差も、作品の一部といえるのではないのか。
のちに表現(演奏)する者たちの魂に訴えかけ、作者たちですら思いもよらないもの
が生み出されるのも、その作品の持つ力ではないのか。
『殺されたヴァイオリン』の亡霊たちが奏でる現代の演奏を、
当時の音楽家たちに聞いてもらえたらいいのに。
ひょっとすると
「こんな音が欲しかった。こんな音楽が聞きたかった。」とか
「わたしの作った音楽は、こんな素晴らしいものだったのか。」とか
思ってくれるかもしれないじゃない。
素人のおばさんでも、聴いて鳥肌がたつような思いをさせてくれる音楽が、演奏が
現代には、たくさんたくさんあるのだもの。