2019.9.8.新約聖書における御使い
聖書 ルカ22:41~44、使徒10:1~8
題 新約聖書における御使い
暗唱聖句 詩篇91:11
「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」
はじめに
先週はダニエルに現れた御使いの話でした。ダニエルが神の前に心からへりくだった時に、祈りが聞かれ、その祈りの答えを御使いが届けに来てくれました。
御使いの介入は旧約聖書にばかり、見られるものではありません。新約聖書にもたびたび現れています。新約聖書では祈りの答えだけでなく、特別な使命をもって、神から、遣わされた御使いもいます。例えば、マリヤの所に「男の子を産みます。」と伝えに来たガブリエル、ベツレヘムの羊飼いたちに救い主が生まれたと知らせに来た御使いと天の軍勢、イエスの復活の時、空になった墓にいた2人の御使いなどは特別な使命をもって派遣された御使いでした。
イエス様より半年先に生まれたヨハネの時も御使いが現れています。祭司ザカリヤの祈りの当番の時、御使いガブリエルが現れ、ヨハネの誕生について、告げ知らせています。
聖書によれば、神を信じる者は,神から遣わされた御使いたちに囲まれており、見守られているそうです。
(詩篇91:11)「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」
しかし、普通は御使いの存在を感じることはありません。ゼカリヤやマリヤなどは、それを感じる敏感な心を持っていました。それは熱心に祈り続けることによってのみ、できてくる霊性なのです。「聖さ」ともいうべき霊の賜物なのでしょう。
1.イエス様も受けられた御使いの助け
イエス様も御使いの助けを受けられました。ゲッセマネの園で祈っておられた時です。イエス様が私たちの罪のために犠牲になられる直前でした。犠牲の死を迎えられる直前でした。イエス様はわたしたちのために罪とされたのです。同時に罪の捧げものになられたのでした。
(Ⅱコリント5:21)「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
この時、主はこの地上での働きの中で、最も苦痛に満ちた祈りを捧げられました。罪のための捧げものになるという計り知れない苦痛、人間が絶えることのできる苦痛をはるかに超えた重荷に直面しておられました。そのような時、クリスチャンにはこのような約束が与えられています。
(1コリント10:13)「 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
イエス様もこの十字架から逃げるようにと誘惑を受けましたが、主はこの重荷を負うことができるように、御使いを遣わされました。そして強めてくださいました。
(ルカ22:41~44)「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」
「イエス様も、御使いの助けを受けられた」ということは私たち普通のクリスチャンにとっては大きな励ましです。
人生の中で、不可能と思われることに出遭うとき、神が御使いを送ってくださり、助けてくださるのです。
(へブル1:14)「 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」
私たちが助けを必要としているその瞬間に、祈りは、人間の能力を超えた強さを与えてくれます。それは、御使いの働きかもしれませんし、聖霊の働きかもしれません。どっちにしても、神の助けが与えられるのです。
2.コルネリオに現れた御使い
コルネリオは異邦人でしたが、「敬虔な人で、神を恐れかしこみ」規則正しく祈る人でした。祈る時には「神の導きが与えられるように」と心から神の導きを強く求めていました。
(使徒10;1~8)「 10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。」
神は御使いをコルネリオの家に遣わされました。福音を伝えるためではありませんでした。御使いの働きは福音を伝えることでしょうか。違います。御使いの働きは福音を伝えることではありません。それは、私たち、人間に与えられた責任です。
コルネリオの所に来た御使いは2つの目的をもってやってきました。
目的① 天に彼の祈りを聞いておられる方がいるということを知らせるためです。そして、彼が安心できるようにすることでした。
目的② ヨッパに人を送るように伝えることでした。
「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(4節)というメッセージを聞いたコルネリオは、どれほど慰められたでしょうか。
別の御使いガブリエルは、同じメッセージをザカリヤに告げています。「あなたの願いが聞かれたのです。」そしてバプテスマのヨハネが生まれました。
そして、同様の慰めは、切なる祈りを捧げたクリスチャンの元にも、数多くもたらされてきました。
人々が誠心誠意をもって、神を求める時、神は答えてくださいます。神は、必要なら、御使いを用いてでも、応答してくださるのです。
(エレミヤ29:13)「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
3.パウロに現れた御使い
御使いはパウロにも現れました。パウロは皇帝の前で裁判を受けるためにローマに向かっていました。台風が起こるような季節にクレタ島を出発した船は嵐の暴風に捕らえられてしまいました。状況はひどくなり、乗っていた人々は助けられる望みを捨ててしまいます。パウロは祈りが習慣の人でしたから、恐ろしい航海の間、お祈りをしていたと思われます。
(使徒27:21~24)
「7:21 だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。
27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
27:23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
27:24 こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』」
嵐が何日も続き、パウロもほかの人と同じように、「助かる最後の望みも、今や絶たれようとしていた」ことでしょう。パウロも恐れを感じるようになっていました。
しかし、神は裏切ることはありませんでした。神は、難破しそうになった頃、御使いを遣わし、希望と慰めのメッセージを送られました。ギリシャ語(ウィリアムズ訳)では「怖がるのをやめなさい。パウロ」と訳すのがぴったりだそうです。パウロは間違いなく、皇帝の前に立つことになっていました。また乗船していた全員が助かることになっていたのです。
ここで、「神はなぜ、最初からこの嵐に遭ないようにされなかったのでしょうか。」という疑問が出てきます。この答えは、起こったすべてのことにおいて、神の栄光があがめられたということで十分です。パウロの神が本物の神であったことも学びました。難破した船員と乗客を迎えた島の人々は、神の強大な力を見て、福音を聞きました。
そして、パウロはやがてローマに到着するのです。
このパウロの話には、祈りについての重要な教訓が含まれています。問題が圧倒的なものになってきたなら、人々は祈るのです。人が耳を傾けてくれないなら、祈るのです。嵐につぶれそうになったら、祈るのです。希望が尽きてしまったなら、祈るのです。いかに邪悪な状況にあっても、祈るのです。人や物が問題をいかに悪化させたとしても、祈るのです。人生のあらゆる荒波に向き合うにつけ、祈りこそがふさわしい応答なのです。
祈りこそが、すべての問題の解決につながるものです。