阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

信仰がなくならないように

2018-01-25 22:37:23 | Weblog

2012.1.21.信仰がなくならないように。

聖書 ルカ22:31~34、54~62

題  「信仰がなくならないように。」

暗唱聖句 ルカ22:32

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

はじめに

 私たちには誰にでも弱さがあり、その弱さと戦って、信仰の勝利をして行かなければなりません。その時、励ましになるのが、イエス様が祈られた祈りです。イエス様はペテロのために祈られました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」この祈りは、あらゆるクリスチャンの人を励まし続けている御言葉だと思います。私たちが自分の欲や誘惑の力に引っ張られる時、サタンの力に負けそうになります。しかし、主イエスはわたしたちを勝利の道に導こうと願って、脱出の道を備えてくださいます。脱出の道があることを信じて、祈り、探してください。

(Ⅰコリント10:13)

「 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

1.ペテロのための祈り

先週はヤコブとヨハネとペテロがイエス様と一緒に山に登りました。そして、恐らく夜中になったのでしょう。彼らは眠くて仕方がなく、うとうとしていましたが、目をさますと、イエス様の姿が変わっていて、真っ白に輝いていました。そして、モーセとエリヤの二人と話しておられたのを目撃したのです。彼らはイエス様の中にある神の栄光の目撃者でした。生涯、このことを忘れることがありませんでした。しかし、彼らは主イエスの最後の十字架の栄光が、どんなに悲惨なものであるかはわかっていませんでした。それは屈辱と敗北を受け入れたイエス様の強さとは比較にもならないほどの弱さでした。自分に弱さがあるという自覚が無いことほど、恐ろしいものはありません。ペテロはまさにそういう状態でした。

(ルカ22:31~34)

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 22:33 シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』

 22:34 しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』

イエス様はこれから弟子たちの上に起こってくるあらゆる悪をよくご存知でした。ペテロは自分のことをよく知りませんでした。ですから、「主よ。牢であろうと、死であろうと、覚悟はできています。」と言ったのです。それに対して、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように祈った。」と言われたのです。事実、ペテロの信仰はこの時のイエス様の祈りによって、保たれたのです。この後、イエス様は弟子たちに言われました。「財布を持ち、袋を持ち、着物を売って、剣を買いなさい。」と言われました。イエス様は弟子たちを取り巻く状況が今までと全く違うようになることを見通しておられました。そして、その試練を乗り越える準備をするように言われたのです。私たちも周りがいつも同じ状況であるとは限りません。その環境の変化に応じて、準備したり、立ち向かって行くことが大切です。

2.誘惑

(ルカ22:54~62)

「22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。

 22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。

 22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

 22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

 22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。

 22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。

 22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

 22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

 22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。」

ペテロは「自分がイエスの仲間」と言われると大きな声で「そうではない」と否定しました。

ただ、捕まりたくないという、本能から出た自分を守るための言葉でした。このことによってイエス様を裏切ってしまったのです。しかし、イエス様はペテロを見放すことはありませんでした。

「あなたの信仰がなくならないように祈りました。」という祈りによって、彼の信仰がなくなることを防いでくださいました。

 このペテロの失敗から、私たちは多くのことを教えられます。「私は、絶対に大丈夫、失敗はしない。」と言える人は一人もいないということです。サタンはあらゆる知恵を使って、クリスチャンの信仰を滅ぼそうとします。特に良く活躍している伝道者や牧師達が狙われます。過ち、不信仰、高ぶり、虚栄、身勝手、自己中心、俗っぽさ、忍耐力の無さ、不純など、霊におけるあらゆる罪、悪を行ってしまう性質などは、クリスチャンになっても、残っているのです。ですから油断してはいけません。

(箴言4:23)

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」

(Ⅰペテロ5:8~9)

「5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」

 

3.イエス様の祈り・・・失敗と向き合う

イエス様は喜んでペテロのために祈られました。それだけでなく、イエス様は今に至るまで生きていてクリスチャンのためにとりなしをしておられます。イエス様は大祭司です。大祭司はとりなしの祈りをします。

(ヘブル7:25)「 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

しかし、イエス様は「クリスチャンになった人が失敗しないように、誘惑に遭わないように、」とは祈っておられません。

なぜなら、失敗を通して、人は成長し、神をもっと深く知ることができるようになるからです。神が力の源であることを悟るようになるからです。

(詩篇46:1)「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」

ですから、人間がなすべき責任は自分で果たさなければなりません。何もしないで成功するようなことはありません。神が代わって働かれることはないのです。私たちはわたしたちの責任範囲においては努力する義務があります。あらゆる努力をして、後は神様にゆだねるのです。道徳的なことについても、良いことと悪いことを識別して、選択する知恵をいただいています。

大切なことは失敗した後に、どのようにその失敗を乗り越えるかです。ペテロは自分がイエス様を裏切るなどとは夢にも思っていませんでした。ですから、恥ずかしさと、自分の弱さへの腹立たしさもあっただろうと思います。長い間、彼の心の中には戦いがあったと思います。しかし、イエス様の「信仰が無くならないように」という祈りがありました。これによって、彼の信仰は守られました。また、ガリラヤ湖で「あなたはわたしを愛しますか。」とイエス様に言われて、和解しました。ペテロは「わたしがあなたを愛することは、あなたが良くご存知です。」と答えました。この和解ゆえに、さらにイエス様とペテロの絆は強くなりました。完全に立ち直ったのです。そして立ち直ったペテロはイエス様の祈りのように、リーダーとして仲間たちを励まし、使徒としての働きを全うしました。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

私たちが失敗しないようにするにはどうしたら良いでしょうか。

(マタイ26:41)「 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

(ガラテヤ5:16)

「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

聖書はわたしたちの生きる道を示してくれています。聖書を通して、神のみこころを知ることができるように祈ることです。イエス様は父なる神のみこころだとわかっていることに従って祈られました。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

この言葉はペテロに取って信仰の言葉でした。彼の魂に再び希望の光をともすものとなりました。

私たちにとっても、このみ言葉が希望の光になりますように。お互いに信仰が無くならないように祈りましょう。他人の信仰を裁かないように。互いに励まし合いましょう。

 


祈りは主の栄光を現わす。

2018-01-17 21:30:45 | Weblog

2018.1.14.祈りは主の栄光を現わす。

聖書 ルカ9:28~36

題  祈りは主の栄光を現わす。

暗唱聖句 ルカ9:35

「 すると雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい』と言う声がした。」

 

はじめに

今年は祈りについて学び、生活の中で、祈りの力を深く知って行きたいと思います。祈りは私たちの生活の中では、車のガソリンと同じです。ガソリンが切れたら、車は走れません。同様に、私たちの生活も霊的にどこかで故障を起こしているのですが、気がつかずに走ることはあります。あとで、気がついて、背筋が寒くなります。早めに点検して、事故を起こさないように、気を配りたいものです。霊的な生活も同じです。聖霊の油が切れる前に、霊の油を注いでいただきましょう。

今年の教団の聖句はエペソ人への手紙6:18です。

「 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」標語は「御霊による祈りと宣教の前進」です。

私たちの教会の聖句はこの標語を受けて、コロサイ人への手紙4:2としました。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」です。そして、「聖書の祈りが私の祈りになる」(新約編)という本を学びながら、成長して行きたいと思っています。2週間前には「イエスさまも祈られた」という題にしました。「イエス様は、神さまであられたのに、祈りを必要として、絶えず祈られたのです。」人間である私たちは、もっと祈りを必要としますね。イエス様は「天のお父様に向かって、アバ・父よ」と祈られました。私たちも「天のお父様、・・・・イエス様のお名前によってお祈りいたします。」と祈りましょう。祈りは聖霊の助けによって、誰でも祈ることができます。

 

1.イエス様が洗礼を受けられた時の祈り

イエス様が宣教活動を始められたのはおよその年、30歳からです。まず、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。その時、イエス様は祈っておられます。その前には、祈りの記録はありません。しかし、成長の過程で、父なる神との深い交わりを持ちながら、大きくなられたことは疑うことはできません。なぜなら、12歳の時に、神殿で、律法学者たちと議論しておられた時、心配して探しに来た母マリヤにこのように答えておられるからです。「わたしが必ず、自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と。洗礼を受けられる時の祈りの内容は分かりませんが、深く祈って、特別な気持ちで、洗礼を受けられたのだと思います。なぜなら、ここに父なる神の存在、御子のイエス様、聖霊の姿が目に見えるような形で、現われています。

(ルカ3:21~22)

「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、

 3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

イエス様が祈っておられると天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエス様の上に降りて来られたのです。おまけに天から声がしたのです。それは父なる神の声で『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』という愛の言葉でした。イエス様は父なる神に愛され、祝福されて、公生涯をお始めになったのです。イエス様のお祈りは父なる神との深い交わりでした。

洗礼は単なる宗教儀式ではありません。聖霊がイエス様の上に臨まれたように、洗礼を受ける、クリスチャンの上にも、特別な聖霊の満たしが与えられるのです。その証拠に、洗礼の時、病が癒されるケースが多くあります。イエス様でさえも、謙虚な気持ちで、洗礼をバプテスマのヨハネから受けられました。私たちは何者でしょう。謙虚な気持ちで、洗礼を受けて、クリスチャン生活を始めましょう。イエス様と共に歩む生活は他の何物にも勝る祝福の道であり、祝福の人生です。

2.変貌山での祈り

変貌山での祈りはペテロとヨハネとヤコブにとって、生涯、忘れることのできない素晴らしい経験でした。神の栄光に包まれたイエス様を見たのです。

さて、ここで、この変貌山はどこの山だったか、気になる人もいるかもと思います。聖書は「高い山」とだけ記録しています。イスラエルで最も高い山はヘルモン山です。2814mあります。しかも、変貌山のストーリーの前にはマタイ16章でイエス様は弟子たちと一緒にヘルモン山のふもとのピリポ・カイザリヤという地方で過ごしておられたという記録があります。その時、十字架にかかって死ぬことと3日目の復活について話しておられます。そんなわけで、変貌山はヘルモン山という人もあります。

しかし、もう一つの候補地があります。それはタボール山です。ここは海抜588mです。ナザレの近くの山です。ガリラヤ湖南の端から西へ20kmぐらい行ったところに、おわんを伏せたような形の丸い山が見えます。その山頂に教会があり、「ここが変貌山です」と言われています。マタイ、マルコはピリポ・カイザリヤから、「6日目に」、ルカは「8日目に」3人の弟子を連れて、「山に登られた」と証言しています。このくらいの日数があれば、タボール山まで、降りてくることは可能です。周りを見渡すと、タボール山はひときわ高い山です。人里離れて祈りに専念するにはちょうど良いくらいの高さです。

 

 さてここでは主イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、山に上られました。著者の先生方はイエス様の目的は父なる神との交わりをするために山に上られた、それは最後の十字架の屈辱と敗北を受け入れるための力をいただくためであったと書いておられます。

 この変貌山での祈りの頃には、イエス様の人気も落ち着いてきており、イエス様の生涯の最後の時が近づいてきていました。そして、十字架の苦しみと復活の事をイエス様は時々弟子たちに打ち明けて、予告しておられました。

(ルカ9:22)「そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』」しかし、弟子たちには何のことがわからなかった、そういう時でした。

 ですから、「この高い山に上られる時には、弟子たちと話もすることなく、黙って歩いて行かれただろう。それはアブラハムがイサクを連れて、モリヤの山に上った時のようではなかっただろうか。」と著者は言っています。3人の弟子は何も考えずにイエス様について行きました。イエス様が祈られている時、モーセとエリヤが出てきて、イエス様とお話をしているのです。モーセはネボ山で死にましたが、遺体は見つかっていません。神の国に直接引き上げられたと考えることもできます。エリヤの時は、一台の火の戦車と火の馬が現われ、エリヤはたつまきに乗って天に上って行きました。これらの記事から二人は永遠に生きていると考えてもおかしくはないのです。そして、神の永遠の御計画について話しあっておられたのです。旧約聖書で預言されていたことが、今起こって、神の栄光を現わす、その時が来たことです。それは主イエスの最期(さいご)の時についてでした。イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる十字架についてでした。この時、イエス様は様子が変わり、神の栄光の姿で輝いておられました。

(ルカ9:29~32)

「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

 9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

 9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。」

イエス様が山に登られたのは、モーセやエリヤと交わりを持つためではなく、父なる神との交わりのためでした。本当の目的は、父なる神と語られることにより、ご自分の霊の中に、天からの力をいただくことでした。この時、イエス様は、父なる神と一つだったのかもしれません。イエス様が人間になる前に持っておられた、神の栄光で輝いておられたからです。

ペテロとヨハネとヤコブはこの時のことを生涯忘れることはありませんでした。それはこの世的には考えることのできない、神の栄光を見たからです。3人はこの時から、完全に変えられてしまいました。イエス様に愛された弟子のヨハネは、後にこのように証しています。(ヨハネ1:14)「 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

3.「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ペテロもヨハネと同じようにこの変貌山での祈りは、彼の信仰の生涯に大きな影響を与えました。その時のことをペテロの手紙で証言しています。

(Ⅱペテロ1:17~18)「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。

 1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』

 1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

 ペテロは変貌山で見た神の栄光と神の臨在を現わす雲の存在を見ました。そしてその中から、父なる神の声を聞いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしは選んだものである。彼の言うこと聞きなさい。」と。このことを忘れることはありませんでした。ペテロは死に至るまで忠実な聖徒として、主に従って行ったのです。ペテロはローマで逆さ十字架の刑を受けて、殉教したと伝えられています。

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』という愛の言葉は、イエス様が宣教活動をされる出発点の洗礼の時に、父なる神から発せられた祝福の言葉でした。イエス様が何を祈られたかは書いてありませんので、わかりませんが、イエス様が祈られた祈りに答えて、父なる神が答えてくださったのです。その時、天が開かれました。そして、聖霊が下って来られたのです。そして聖霊に満たされました。「さて、聖霊に満たされたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、・・・」(ルカ4:1)と記録されています。

父なる神はイエス様が最期の時に関して、深く悶えながら祈っていたイエス様を励まされたのです。「これはわたしの愛する子、わたしは選んだものである。」イエス様はこれを聞いて、力に満たされたと思います。また、弟子たちも主の栄光を体験したのです。この体験は一回限りのものでした。一回限りのものであったとしても、これ以上の神の栄光を見ることはなかったと思います。そののちに現わされる神の栄光は十字架と復活と昇天と聖霊降臨です。

 

4.まとめ

イエス様がお祈りされると天が開かれました。聖霊が下って来られました。父なる神が雲の中から、声をかけてくださいました。イエス様はわたしと父は一つであると言っておられました。

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』この語りかけは現代のクリスチャンにも適応できます。なぜなら、私たちはイエス様を信じることを通して、神の子供にされているからです。そしてこの変貌山のイエス様の祈りは、今に至るまで信じるものに励ましを与えるものです。

①    祈る時、神の栄光が現わされる。「イエス様は御顔の様子が変わり、・・光り輝いた」、モーセも、シナイ山で主と交わりをした後は顔が輝いていました。

神学校には祈祷室というものがありました。祈祷室から出てくる学生の顔は輝いていました。お祈りはその人を変えるのです。

②    「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」このみ言葉は試練に遭遇している兄弟姉妹たちにとって、大きな励ましになります。父なる神は霊の子どもたちに今日も語りかけておられます。「あたしの愛する子よ。あなたはわたしが選んだ者です。」と。失望してはいけません。

③    主は祈りを通して、主の栄光を現わしてくださいます。失望しないで祈り続けましょう。

祈ると天が開かれて、神の御国が降りてくるのです。

 


聖書の世界観を子供たちに伝えよう

2018-01-10 21:35:47 | Weblog

2018.1.7.礼拝と8日四国新年会のために

聖書マルコ10:13~16

題 聖書の世界観を子供たちへ伝えよう

暗唱聖句 マルコ10:14

「子供たちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」

はじめに

四国教区は長い間、「次世代を育てよう」と頑張ってきましたが、なかなか、成果が上がりませんでした。しかし、2年前にぶっとびキャンプに参加した子供たちが劇的に変わったのです。そして、その子供たちを中心に四国教区が掲げてきたファミリーキャンプが運営されるようになりました。今、次世代の子供たちを中心に四国教区は生まれ変わろうとしている大切な時期に来ています。これからの10年間、日本には収穫の時が来るそうです。この収穫の時、次世代に福音を伝え、日本を変えるのは四国からというビジョンを持って、祈って行きましょう。

 

1.日本伝道会議(JCE)の子どもプロジェクトのアンケート調査結果から。

まず、第一に日本伝道会議の子どもプロジェクトの調査結果を見てみたいと思います。

この調査は2015年12月から2016年3月にかけて行われたものです。日本の32の教会で1849人のクリスチャンを対象としたものです。アンケートに答えた人数は1808人です。ですから、かなりの数のクリスチャンに対して調査されたもので、信頼できるものです。質問に答えている約80%以上が19歳以上の大人です。(グラフ①)

①    信じた人の年齢は16~18歳で信じた人が一番高く、次いで、13~15歳、7~12歳です。高校生、中学生、小学生の順です。その次に来るのが19~25歳の青年達、そして0歳~6歳までの幼児の順となっています。46歳以上で信じた人の割合は全体の10%でした。(グラフ②)

②    初めて福音を聞いた年齢は0~6歳が39%、7~12歳が19%、過半数が12歳以前に福音にふれていました。(グラフ③)

③    信じたきっかけは1)親の影響、2)教会学校や子供向けイベント、3)礼拝・特伝、4)友人の誘い、5)キャンプの順でした。(グラフ④)

④    信じたきっかけを年代別に見ると、幼児は親の影響、教会学校や子供向けイベント、キリスト教幼稚園・保育園の影響が多かった。小学・中高生の場合、親の影響、教会学校や子供向けのイベント、キャンプが多かった。

⑤    クリスチャンホームや教会学校に来ている人たちの場合、80%が18歳以下で信じています。15歳以下では70%の人が信じています。

⑥    クリスチャンホームでなかったり、教会学校や子供イベントなどの影響がない人は、18歳以下で信じた人は23%でした。(少ない)

 

2.調査の結果から、どの年齢の人に福音を届けることが大切か。

この調査結果から言えることは、クリスチャンホームや日曜学校、子供イベントなどの影響を受けている人は、多くの場合、18歳以下で救われているということです。18歳以下で救われた人たちが全体の80%を占めます。

46歳を過ぎると、なかなか福音を信じることができないとも言えます。そう状況の中で、高齢者になってから救われた人は神の特別な憐れみと恵みによって救われたのです。特別に感謝しましょう。

 

特に「いつ初めての福音を聞いたのか、」という質問に対しては、幼児期というのがトップです。6歳までの間に福音に触れていた人は大きくなって救われる可能性が高いということです。また、日本では高校生、中学生、小学生の順に救いの決心をする人が多いと結果が出ました。

 

これらのことから、クリスチャンホームの確立、そして、日曜学校や子供イベント、子供キャンプなどがとても大切であると言えます。私たちが今、教会や教区でやっていることは決して無駄ではなく、適切な福音の種まきをしていることになります。

 

どの年齢の人々に伝えるのか、この調査の結果からの結論は「幼児期、小学生、中学生、高校生に福音を伝える」、これがベストです。四国のファミリーキャンプは頑張っているということです。もし、今この次世代と言われる人々、子供たちに、福音を伝えなかったら、将来、教会も自然に消滅してしまうということになります。ですから、子供たちに福音を伝えることは急務の問題です。

和歌山県の田舎の町に、A教会とB教会がありました。40年前、A教会は大変栄えていたそうです。礼拝人数は100人前後だったと聞いています。B教会は子供たちが10人ぐらいでした。しかし、開拓伝道をしていた牧師夫妻は、子供たちの日曜学校に力を入れ、10人の子供たちをしっかり育て上げたのです。40年後の現在、150人ぐらいの人々が礼拝に集っておられます。A教会は10人を切ってしまうくらいまで寂れてしまったそうです。子供や若者たちにいかに伝道するかは、将来の教会のあり方を決めてしまうくらい、重要なことです。

 

3.何を伝えるのか。創造主がおられることを伝える。スマホは誰が造ったのか。

それでは、私たちは次世代に何を伝えるのでしょうか。まず、伝えなければならないことは「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)ことです。「創造主がおられる」ということ、「聖書は神の言葉であることを信じ、その言葉に従って生きて行く」ということです。

この世には大きく分けて二つの考え方があります。この考え方のことを世界観と言います。世界観は人生観でもあり、価値観でもあります。物事を決める時の物差しになる考え方です。一つは人間中心の世界観、もう一つは聖書的世界観です。この二つには大きな隔たりがあります。人間中心の世界観では、神は存在しないというのが前提ですから、人間は自然に進化してできたと考えます。聖書的世界観では人間は創造主によって造られたと考えます。

 

私はここにスマホを持ってきました。このスマホはとても賢いです。このスマホは偶然にできましたか。それとも、誰かがデザインして、研究されて、できましたか。もし、このスマホを分解して、袋の中にいれて、この部品を振っていると自然に賢いスマホができてきますか。

できませんね。このスマホは賢いデザイナーがいて、計画的に造られたものです。スマホは賢い人によって造られました。

 同じようにこの世界には、この宇宙や地球、そして私たちを造られた方、知恵と知識に富んだ創造主が存在しておられるのです。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と、聖書は宣言しており、聖書のいたるところで、「わたしが被造物を創った。」と神は宣言しておられます。

もし私が「分解した部品を振っていると偶然にこのスマホに出てきた」と言うなら、おかしいですね。しかし、このおかしい考え方を多くの日本人は信じています。これらの考え方は聖書の創造論とは全く異なるもので、進化論と呼ばれています。

 進化論に対して、2人のノーベル賞受賞者の対話がありますので紹介します。一人は2008年にノーベル物理学賞をもらった益川敏英博士、もう一人は2012年にiPS細胞の研究でノーベル生理学・医学賞をもらった山中伸弥博士の対談です。これは「『大発見』の思考法という本に出ているものです。

山中:アメリカでは今も人口の半分が「進化論」を信じていないと言われています。

益川:そういう話を聞くと日本人は「進化論」を信じないなんて怖いな、と思うかもしれませんが、実は「進化論」を信じるのもある意味では怖いことなんですね。

山中:なぜなら「進化論」はまだ誰にも証明されていないからです。なぜか、日本人はみんな猿から進化したと信じていますが、証明はされていない。

益川:「ヒトは猿から進化したのか、それとも神が造ったのか」と訊かれれば、日本人はなんとなく「猿から進化した」というほうを信じますが、それには、何の根拠もないわけです。

山中:そのうち、ダーウィンの「進化論」は間違いだった、ということになるかもしれません。

 

皆さんはどのように考えますか。もちろん、「神が私たちを創られた」と答えますね。

ノーベル賞をもらった世界のトップ科学者たちが進化論には証拠がない、そのうち間違いだったという時が来るかもしれないと予言的証言しているのです。

 

次に、誰もが考える人間の大切な命題に対して、どう考えてよいでしょうか。進化論と創造論では全く答えが違います。

人生の問い?

①      自分はどこから来たのだろう。

②      生きている目的は何だろう。

③      いったいどこへ行くのだろう。(もし、死んだら?)

進化論の答え

①    自分は偶然の結果、出現した存在にすぎない。

②    偶然の存在に目的はない。

③    人は単なる物質にすぎないから、ただ、分解して存在しなくなる。

進化論の答えには希望がありません。日本人に自殺願望が多いのはこの進化論のせいではないかと考えています。一昔前に、医学が進歩して試験管ベイビーというものが脚光を浴びた時代があります。試験管ベイビーで生まれた男子がいました。すくすく育って大学は医学部に入学しました。ある日、DNAの検証をすることになったそうです。すると、自分の父親の遺伝子と違うということを発見し、悩んだそうです。父親に身元を尋ねたら「誰かわからない」という答えだったそうです。彼はますます混乱し、うつ状態になってしまいました。自分がどこからきて、どこに属するのかがわからなければ、人間は安心して生活できないのです。

創造論の答え

①    人は創造主によって目的を持って創られた。

②    人は創造主の目的に従って役割を果たす為に生きている。

③    人の人生が創造主の目的に従って生きたかどうかで、永遠の過ごし方が決まる。

創造論には、明確な希望のメッセージがあります。それは命を造ってくださった創造主が生きておられるからです。創造主は私たちを愛して、創造主の目的に従って、私たちを創造されたのです。私たちには神に造られた目的に従って、使命があります。その使命を探しあて、その使命を全うする生き方ができる人は最高の幸せ者です。また、私たちにはこの世だけではなく永遠の世界が用意されています。それは御子を信じる者には永遠の命が与えられているからです。

ですから、この二つの世界観の中でどちらを選んで生きるかというのは大きな人生の選択です。私たちは次世代の子供たちに創造主を敬い、愛し、創造主に従順に従う生き方、神を敬う世界観を教育しなければなりません。目標は主を愛し、人々を愛することです。まず、私たちが手本になれるように、祈り、実行しなければなりません。

(ルカ10:25~28)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

 10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

 10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

主に従って、実行する生き方ができるように大人は子供たちを励まし、助けることです。

 

4.          具体的にどうするか。親が神に従う姿を見せる。教会が従う。

 最初のアンケート調査で、「イエス様を信じたきっかけは何か」という質問がありました。答えの一位は「クリスチャンの親の影響」でした。中高生までは、親の影響が大きいということがわかります。子供の教育は親にゆだねられています。ここから考えられることは親が誠実に主を愛し、主に従う生活を毎日しているなら、子供も同じように親のまねをして、同じように熱心に主を受け入れて行くということです。ですから、親は命がけで主を愛し、隣人を愛して行かなければなりません。

隣人の第一は夫であり、妻です。そして子供たちです。夫婦の仲が良いと子供たちは安心して、心が安定します。夫婦喧嘩が絶えまないと、「クリスチャンなのにどうして?」という疑問を抱かせることになります。私たちは罪を赦されて、神の家族になりました。私たちは罪人ですから腹が立つこともあります。しかし、夕べには赦すことです。聖書のどこかに「朝まで怒ってはなりません」と書いてあります。クリスチャンは天使ではありません。罪人です。(エレミヤ17:9)「 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」イエス様を信じても、罪を犯す性質は残っているわけです。私たちは、相手を責めがちです。しかし、相手に「変わってくれ」と期待するのはやめましょう。まず、自分が変わることです。

聖書は新生した後は、イエス様の身丈まで成長するという約束してくださいました。(Ⅱコリント3:18)「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 教会もまた、子供と両親を命がけで助けなければなりません。教会の一人一人が声を掛け合い、互いに助け合うことです。子供たちが騒いでも忍耐しましょう。騒ぐ期間はわずかの時です。騒ぐ子供がいるということは教会の恵みです。子供が少々教会を汚しても赦してあげましょう。「飼葉桶は牛がいなければきれいだが、牛がいれば汚れる。」と言います。しかし、牛がいるのでその家は豊かなのです。

若いお母さんには心の余裕はありません。教会の先輩のお母さんが知恵を分かち合って、助けてあげるのです。

教会は子育てを支援する義務があります。子供がいることは神様の祝福です。

(詩篇127:3~5)

「127:3 見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。

 127:4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。

 127:5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。」

子供たちは主の賜物、祝福なのです。

子どもプロジェクトのまとめにこのように書いてありました。

「信徒の家庭の親が子供たちに与える影響は決定的に大きい。親に対する信仰継承の教育の必要性を指摘したい。『子供たちをわたしのところに来させなさい』というイエスのことばは、親から切り離して教会に来させるという勧めではない。親が子供を愛し、主にあって子供を教育できるように、親に対する教育と教会による家庭教育への支援が求められる。」

(マルコ10:13~16)

「10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

 10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

子供たちは素直な心を持っています。神を信じやすい心です。幼い時、主を信じることができるなら、長い人生、どんなに多くの祝福を受けるでしょうか。個人だけではなく、その人から流れ出てくる神の愛によって、周りの人々をも祝福されて行くのです。

イエス様が子供たちを抱いて、祝福されたように、私たちも、子供たちをしっかり抱きしめて祝福しましょう。子供伝道のために重荷を持つ人が起こされるように祈りましょう。子供伝道は教会の柱です。私は将来チャーチスクールをやりたいと思っています。

 

5.証

最後にわたしの人生の上に起こった神の恵みを証をしたいと思います。なぜなら、高校生で主を信じる人が一番多かったと調査結果が出ました。私も高校生の時、イエス様に出会い、生涯を主にささげました。若い人にとって、人生の先輩になります。この証が皆さんの励ましになればいいなと思います。

 

私は高校2年生の時、初めて教会に行き、3年生の時、イエス様を信じ、洗礼を受けました。最初に習ったことは、聖書を読むということでした。ですから、どこに行っても聖書を読み続けました。この時、信仰の土台が築かれたのだと思います。また、礼拝を守り続けました。どこに行っても、近くの教会で礼拝しました。長い間、親に反対されましたが、信仰を捨てることはありませんでした。私には3つの夢がありました。一つは先生になりたい。もう一つは通訳者になりたい。もう一つは看護婦になりたい。

神様はみんなかなえてくださいました。第一に看護婦になりました。それから保健婦学校に行って、保健婦と養護教諭の一級の資格を取りました。その後また助産婦学校に行き、助産婦として働きました。その後で、日本バプテスト看護学校で専任教員として教える働きをしました。すなわち、先生になったのです。

その後でイスラエルの宣教師になったので、英語とヘブライ語を学ぶことになりました。英語は下手ですが、ヘブライ語は必死に学んだので上手になりました。

若い方々にお勧めいたします。ビジョンを持つことです。「幻の無い民は滅びる。」と言います。小さなビジョンから大きなビジョンまで、主の前に掲げて祈りましょう。私たちの創造主は紅海の海を分けて、渡らせてくださるお方です。道の無い所に、道をつくってくださるお方です。主に不可能なことはありません。志を立てさせた方は、実現に至らせてくださるのです。私はただひたすら、祈りながら、夢中で人生を走りました。失敗もたくさんあります。しかし、主に赦されて、今日まで歩んできました。イエス様と共に歩むということは赦されながら歩むことです。また、冒険をすることです。失敗しない人はいません。しかし、その失敗を乗り越えて、前進するのです。主が共にいてくださいます。それが若さです。若い人たちを祝福いたします。私を支え続けた御言葉を紹介して終わります。

 

(Ⅰコリント10:13)「 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

片手は主の手を握って、前進して行きましょう。失敗した時は、十字架の血潮を仰いで、悔い改めましょう。そして、十字架の元で休み、悔い改め、力をもらって、よみがえりましょう。復活の力に満たされて、再出発をするのです。何度も、そうやって、人生を前向きに歩み続けるのです。主はあなたを愛しておられます。「あなたはわたしの目には高価で尊い」のです。


イエス様も祈られた

2018-01-09 15:51:42 | Weblog

2018.1.1. イエスさまも祈られた

聖書 マルコ1:35、マタイ14:23、ルカ5:16、9:18,28、ルカ18:1

題  イエスさまも祈られた

 

暗唱聖句  コロサイ4:2

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」

“Devote yourselves to prayer, being watchful and thankful.”

 

はじめに

新年おめでとうございます。今日は新しい年の初めの日です。主が造られた日です。主が造られて「非常に良かった」と言われた祝福の日です。今年はいろいろな計画があり、希望に燃えておられることと思います。新しい年はこのように自分を変えるチャレンジの日でもあります。今年も主に祈りつつ、主を第一にして、一緒に歩んでまいりましょう。

 私の友人にユニークな牧師がいます。その人がいつも言うのです。「創造主は宇宙を6日間で創り、7日目には休まれた。私たちは人間だよ。神様さえも休まれたのに、私たち人間が7日目も8日目もずっと働くのはおかしいと思う。疲れ果てるのは当然だ。だから、7日に一日は休まないといけない。そう思っているよ。どう思う?安息日は必要だよね。」その牧師は上手に安息日をとっているようです。安息日には寝て休んでいることではありません。生計を立てている活動「仕事」から離れて、ほかのことをすることです。気分転換をして、霊肉共に新しい力を得ることです。礼拝は霊を新しくするために最も適切な行為です。これはまず、神が手本を見せてくださいました。「7日目を祝福して、聖である」とされました。7日目は、礼拝の日であり、また、家族との交わりの日です。

 今日は「イエス様ご自身が神であるのになぜ祈りが必要なのか」ということについてです。神であるイエス様でさえも、祈られました。「イエスさまも祈られた」とするなら、人間の私たちが神を必要としてお祈りすることは当然のことです。イエス様は100%神であり、100%完全な人間でした。そのイエス様が絶えず祈ること、熱心に祈ることを教えておられます。

 

1.キリストは誰に祈られたのか

キリストは誰に祈っておられたかという答えは、「天の父に向けて祈られた。」というのが正しい答えです。これは非常にはっきりしています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は18回、天の父に向けて祈られたと記録しています。

(マタイ11:25)「 そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。』」(ルカ10:21同じ呼び方)

わが父よ :マタイ26:39, 「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(42節同じくわが父よ。)

アバ、父よ:(マルコ14:36)またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

聖なる父よ:(ヨハネ17:21)「聖なる父。あなたがわたしにくださっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。」

父よ:マタイ11:26「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(ほか10カ所)

マタイ6:9「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』この祈りの中には御子である自分は含まれてなく、ただ天の父なり神を指しておられます。

*イエス様は父なる神に祈っておられます。ですから、私たちも、父なる神に「アバ、父よ」と親しくお祈りしてよいわけです。祈りの模範はイエス様です。

 

2.キリストが神であるということは、神が神に祈られたのでしょうか。

イエス様は神でした。(マタイ1:23)「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

イエス様は神ですが、人間になって、私たちと共にいてくださるようになりました。その時は人間と同じ肉体を持っておられましたので、限界を持っておられました。

ピリピ2:6~8「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」イエス様が完全に神であったにもかかわらず、100%人間であられたことも、ここに書かれています。その結果、イエス様は父なる神様との交わりが必要でした。天のみ国におられる時にはいつも父なる神と一緒でしたが、この世に来られてからは肉体を受け入れ、肉体の限界の中におられたのです。自由ではありませんでした。100%人間でした。イエス様はご自分の声を出して祈られたのです。イエス様は父なる神に祈られたのです。

そして、父なる神と交わりをなさったのです。

 

3.キリストは神です。自分に祈っておられたのでしょうか。

イエス様は神の御子として、確かに神です。しかし、父なる神ではありません。私たちは三位一体の神を信じています。一位の神は父なる神です。二位の神は御子なるイエス様です。三位の神は聖霊です。それぞれが独自に人格を持っておられる神です。ですから、イエス様は自分に向かって祈っておられたわけではありません。御子なる神が父なる神に祈っておられたのです。

誰に向かって祈るのか、という答えは「父なる神に向かって祈る」というのが正しい答えです。なぜなら、イエスさまも父なる神に向かって祈られました。

 

4.キリストは神であるのに、なぜ祈る必要があったのでしょうか。

 「キリストは神である方なのに、なぜ祈りが必要だったのか。」このような質問は考えたことがありませんでした。神様なのに、どうして祈るのか?皆さんは考えたことがありますか。

一緒に考えて行きましょう。

イエス・キリストは神様です。しかし、この地上におられた間は、神だけではありませんでした。神であり、人間であるお方でした。神としては祈る必要はありませんでした。しかし、イエス様はアブラハムの子孫として、ダビデ王の子孫として人間の社会にお生まれになったのです。私たちと同じ肉体を持ってこの世に生まれ、この世で成長され、悲しみも苦しみも味わいつくされました。祈りはアブラハムとその子孫にとって重要であったように、人間であるイエス様にも重要だったのです。本質的なものでした。

モーセの生涯を見ると、モーセは神と顔と顔を合わせて語り合っています。いつも祈っていました。イエス・キリストも同じです。キリストの活動(公生涯)は三年半でしたが、彼の祈りはまさに命の息であったことを聖書は記録しています。

 

イエス様は規律のある生活を送られました。福音書にはいくつか習慣となさっていたことが見られます。一つは定期的に、安息日に会堂に出席することでした。そこにも祈りの時が含まれていました。イエス様は定期的になされている礼拝に出席されていたのです。

(ルカ4:16)「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」

イエス様は会堂や神殿などに足を運び、祈りの時を持っておられました。イエス様がいつも祈りの姿勢を持っておられたということを示す教えがあります。「いつも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)ことを教えるために、一つのたとえ話をされました。不正な裁判官の話でした。「あきらめないで激しく求め続けると悪い裁判官でも役に立つ裁判をしてくれる、だから失望しないで祈り続けなさい。」というものでした。

 

イエス様が宣教活動を始められた時、すでに、祈りにより頼む姿勢を持っておられ、祈りはいつも聞かれるという確信を持っておられました。

(マルコ1:35)「 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

マタイ14:23「 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」

ルカ5:16「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」

ルカ9:18,「 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」

ルカ9:28「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。」

ルカ18:1「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」

 

これらの聖句を読む時、イエス様はよく祈っておられたこと、また、一定の時間、父なる神と良い交わりの時を持つために定期的に祈っておられる事がわかります。

イエス様は父なる神と一対一の関係を持つために努力しておられたことも分かりますね。昼間は神の国のことを教え、祈り、病を癒し、奇跡をなし、忙しい生活でした。しかし、それを支えたものは祈りでした。父なる神との一対一の時間を確保しておられたのです。

 

現代の私たちの社会はめまぐるしく忙しいです。動いていないと、怠け者のような気がします。

これはサタンの策略です。今年はわずかの時間でも良いですから、神との交わりをゆっくりした気持ちで持ちましょう。

神であられたイエス様でさえも祈られたのです。ましてや、人間である私たちは祈りなしに生活できるはずがありません。祈りましょう。祈りは車のガソリンと同じです。油注ぎを受けましょう。

祈りは父なる神に向かって祈ります。「『天のお父様・・・・」で始めましょう。そして『御子イエスのお名前によって祈ります。』と結びます。」

 

 証

この証は1951年に起こったことです。

ポールというアメリカ人が戦後の日本に宣教師の働きを助けるためにその年の1月に大阪にやってきました。そして、宣教師を助け、大阪の焼け跡で教会を立てたのです。

そして5月の初めでビザが切れるので4月の初めに帰ることにして、飛行機のチケットを取りました。帰る時が近づくと、不安が出てきて、この飛行機はやめた方が良いという気になってきました。飛行場でチケットをキャンセルして、ほかの便を探してもらうことにしました。30日間待たなければならないと言われました。30日間待ってもこの飛行機はやめた方が良いと確信が来たので待つことにしました。すると、しばらくして、ほかの飛行機に空席が見つかり、その飛行機にのってアメリカに帰ることになりました。

 サンフランシスコで飛行機を乗り継ぐ時、新聞を見ました。「東京発アンカレッジ便・アリューシャン列島で墜落」という記事が出ていました。ポールはこの飛行機に乗って帰る予定だったのですが、聖霊の導きにより、胸騒ぎがしてやめたのです。驚きました。そして、神に感謝しました。

 家では父親(75歳)がポールの飛行機に胸騒ぎがすると言って、午前3時に起きて祈り始めたそうです。父の祈りが聞かれて息子ポールは違う飛行機に乗って、無事にアメリカに帰ることができました。

とりなしの祈りは力があります。神は祈りに答えてくださるのです。


幼子を抱いて、主をほめたたえた。

2018-01-03 20:41:52 | Weblog

2017.12.31.「幼子を抱いて、主をほめたたえた。」

聖書 ルカ2:21~38

題  「幼子を抱いて、主をほめたたえた。」

暗唱聖句 (Ⅰテサロニケ5:16~18)

「 いつも喜んでいなさい。

  絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

はじめに

楽しいクリスマス礼拝やクリスマス会が終わり、いよいよ2017年も今日で最後になりました。今年一年の恵みを数えて、主に感謝しましょう。

今日は先週の続きです。ヨセフとマリヤに男の子が生まれました。そこへ、天使が現われ、羊飼いたちに「今日、救い主が、ベツレヘムにお生まれになりました。」と告げたのです。羊飼いたちは天使のお告げを信じて、ベツレヘムに行き、幼子を見つけ、礼拝したのでした。彼らは喜びに溢れ、家に帰りました。今日は律法に従い、神殿に捧げものを捧げに行かれた時の出来事です。

 

1.律法に従う両親

両親は律法に従って、幼子をエルサレムの神殿に連れて行きました。

21節、22節に、モーセの律法による規則というものが書いてありますね。これは旧約聖書のレビ記12章1~4節に書いてあります。

12:1 それから、【主】はモーセに告げて仰せられた。

 12:2 「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。

 12:3 ──八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない──

 12:4 その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所に入ってもならない。」

これがわかると、「清めの期間が満ちた時」というのが時間的にいつのことか理解できますね。

イエス様は生れて8日目に割礼をうけ、その日に命名式があり、「イエス」という名前がつけられました。この名前は「救う、救い」という意味で「救い主」のことを指します。当時はどこにでもある一般的な名前でした。清めの期間というのは男の子を産んだ場合は40日間です。この間は外に出ることはできませんから、母親は赤ちゃんの世話のほかは、ゆっくり休むことができました。

 この夫婦は律法に従って、犠牲を捧げました。お金持だったら子羊一頭を捧げなければなりませんでしたが、彼らは貧しかったので、「山鳩一つがい、または、家鳩のひな2羽」を捧げました。(レビ12:6,7,8、)このようにして、男子の初子は、すべて、主に聖別された者となり、主から預かった子どもとして、大切に育てられることになるのです。

 

2.シメオン

ヨセフとマリヤがイエスを連れて、エルサレムの神殿にやってきた時、彼らは不思議な老人に出会いました。祭司ではありません。律法学者でもありませんでした。しかも、年をとった老人でした。彼はエルサレムに住んでいるシメオンという人でした。この人は神の前に正しく歩んでいる敬虔な人でした。そして、イスラエルが慰められるのを長い間、待ち望んでいた人でした。「イスラエルが慰められる」とは「イスラエルが救われること」と同じだと考えられます。大事な言葉があります。「聖霊が彼の上にとどまっておられた」のです。シメオンは聖霊に満たされた人でした。創造主訳は「聖霊に満たされていた。」と訳されています。その彼がお告げを受けていたのです。「救い主であるキリストを見るまでは、決して死ぬことはない。」というお告げでした。預言者マラキの後、主の御降誕まで、聖書の神は沈黙されています。ですから、シメオンが聖霊に満たされて、お告げを受けていたということは特別なことだと思います。それに、シメオンは普通の信徒です。特別に祭司の仕事をしているわけではありません。神の御計画はただ、神の前に正しく歩む人を選んで進められるのです。特別な人ではありません私たちも同じです。神様は、普通の私たちを用いて、神の御計画を進めて行かれるのです。もし特別なこととして言えるとしたなら、それは聖霊の御臨在です。聖霊の導きです。

 

シメオンはきっと「私の生きる目的や意味を教えてください。」と祈ったことでしょう。そして、聖霊に教えてもらっていたことは、「メシアに出会う、救い主を見る」ことでした。シメオンが御霊に感じて、神殿に入ると、ちょうど、幼子イエスを抱いていたご両親が宮に入ってきたのです。これこそ、大きな神の御計画でした。御計画なしには出会うことはありません。

 

シメオンにはすぐ「この方こそ、救い主であること」がわかりました。シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえました。神殿にはたくさんの人がやって来てお祈りをしています。お祭りのようなものです。そのような人ごみの中で、幼子を連れた両親に出会い、その幼子が救い主だとわかるというのは聖霊の導きです。シメオンは本当に聖霊に満たされていました。

 幼子を抱くと彼は神をほめたたえました。両親は彼の口から出る言葉に驚きました。

(ルカ2:29~32)「2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。

 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

 

驚いた一つの事は、「救い主に出会った、だからもう死んでも良い、思い残すことはない。」と告白していることです。皆さんの中には「孫を抱くまでは死ねない。孫を抱いたから、もう安心だ。」という人もいるでしょう。シメオンは何時来られるかもわからない救い主をずっと待ち続けてきたのです。そして「救い主を見るまでは死なない。」というお告げを固く信じて、主の宮で待っていたのです。ですから、この救い主と出会った喜び、満足感は言葉では言い表すことのできないものでした。

「2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」この言葉は、まだ成就したわけではありませんでした。十字架もまだ、復活もまだの時です。救いの業は今始まったばかりでした。しかし、シメオンは救いの業の完成を霊の目で見たのです。この救いはすべての国民の前に備えられているものです。それはユダヤ人も、異邦人も救われるという意味です。先に異邦人に福音が届けられ、後にイスラエルが救われるという、その時も来ていませんでしたが、それらの全部を霊の目で見たのです。あるいは、神の言葉が臨んで、そう告白させたのかもしれません。どういうことかわからなくても、神の言葉が臨む時、預言者はその通りに語るからです。イスラエルの民族的救いはイエス・キリストの地上再臨の前です。イスラエルが救われて、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」(マタイ23:39)と祈る時、イエスキリストの再臨が来ます。

 

私たちは主の再臨を待ちわびている時代にいます。主の再臨の前の異邦人にリバイバルがおこる時代に生きているのです。日本にも間もなくリバイバルがおこるでしょう。私たちは収穫の準備をしなければなりません。

 

シメオンは両親を祝福します。そして、母マリヤに真実を告げました。マリヤの心を喜ばせるためではありません。マリヤに心の覚悟を決心させるためです。

「ごらんなさい。この子は、イスラエルの民を2つに分けてしまいます。ある者は信じて救われ、ある者は信じないで滅ぼされるでしょう。また、必ず、反対する者が起こるでしょう。この子のために、あなたは刀で胸が刺し貫かれるような思いをしなければなりません。そのことは覚悟しなければなりませんぞ。それは、この子の事件によって、人々の心の奥底にある思いが、はっきり現われてくるようになるのです。」刀で胸を刺し貫かれる、それは十字架の時を指していましたが、この時は、どういうことかわかりませんでした。

マリヤはこれらのことをすべて心に留めて、この幼子の成長を見守り、育てるのです。そして十字架の時も、イエスのそばに立って、我が子イエスの苦しみを一緒に味わっていました。

 

3.アンナ

シメオンとマリヤたちが出会った時、そこに女預言者アンナという人がいました。この人は非常に年をとっていて、84歳になっていました。女やもめでした。長い間、昼も夜も、断食と祈りを持って創造主に仕えていた人です。イエスと両親が清めのために主の宮に来られた時、ちょうど彼女もそこにいて、創造主に感謝を捧げました。そして、救い主を待ち望んでいるイスラエルの人々に、この幼子こそ、救い主だと語りました。

アンナは主にこの幼子と出会ったことを感謝しました。主をほめたたえました。そしてそこに来ていた人々にこの子は救い主だと伝えたのです。

 

4.主の恵みを抱いて、主をほめたたえよ

 このエルサレムの神殿にご両親がイエス様を連れて、清めの捧げものを捧げに行った時、二人の老人に会いました。二人とも祭司でも律法学者でもありません。普通の信徒たちでした。しかし、ほかの人たちと違っていたことは、主を礼拝することに熱心な人たちでした。祈りの人です。

シメオンは正しい敬虔な人で、聖霊に満たされていた人でした。預言者アンナもまた、断食と祈りを持って、創造主に仕えていた人です。二人とも聖霊に満たされていた人でした。シメオンは自分の手で救い主を抱きました。この上もない幸せなひと時だったことでしょう。きっとアンナも抱かせてもらったかもしれません。彼女もまた、預言の霊に満たされて「この子は救い主です。」と周りの人々に伝えました。シメオンよりアンナの方が有名だったのではないかと思います。だから、アンナの登場で、シメオンは確信を得たのだと思います。

 私たちも祈り、待ち望んでいたことが実現したら、どんなに嬉しいことでしょう。霊的に満足します。

今年、皆さんはどんな恵みをいただいたでしょうか。礼拝後の証の時、ぜひ、分かち合ってください。それは、主をほめたたえることです。証は礼拝になります。

幼子イエス様のことを考えながら、私たちは主がくださった恵みを抱きしめて、主をほめたたえましょう。

そして、主イエスは救い主であることをほかの人々に伝えましょう。

 今年、感謝したいことは2つあります。一つは教会の屋上の防水工事ができたことです。この工事によって、雨が降り込まなくなりました。今まで、大雨の時は急いでカーテンを窓から離して置かなければ、びっしょり濡れていたからです。これが雨漏りだとは知りませんでした。今では、大雨や台風でも大丈夫になりました。ハレルヤ!

 もう一つは8月にアグローの賛美礼拝に参加して、霊的な解放が与えられました。聖霊に満たされると聖霊が感情を支配してくださるということを経験しました。そして、自分では自制できないことでも、いつの間にか、克服できていることがあるということを経験させられました。ですから、聖霊の深い臨在のある所に身を置く、そういう所で時間を過ごすということが大切だと思いました。皆さんも、聖会などにはできるだけ積極的に参加されることをお勧めいたします。聖霊に満たされて成長して行きましょう。

主をほめたたえます。