聖書 マタイ22:15~22
はじめに
先週のメッセージは天のみ国は王子の結婚披露宴のようなものであるという例え話をしました。その中に、間違いがあったのを発見しました。訂正をいたします。それは第2番目にしもべたちはだれかというのに「イエスとその弟子たち」と言いましたが、これは「イエスの12弟子たち」のことです。花婿であるイエス様が使いに出されることはありません。イエス様は神のひとり子ですから、王子のことです。そうすると、王子であるイエス様の結婚披露宴に、イエス様を信じていない人が入ってくるのはおかしいわけです。天国に入るには必ずイエス様を信じ、罪を許されて、神様が無料(ただ)で準備してくださる救いの礼服を着なければなりません。救いの礼服は罪が許されたという証拠になる義の礼服のことです。ですから、私たちは一人でも多くの人たちが天国に行けるように、一生懸命伝道をするのです。行いの良い人が天国に行きのではなく、イエス様を信じる人が天国に行くのです。どんな人でも、イエス様を信じたら天国に行けるのです。だから、この聖書を信じる信仰はすばらしいのです。
1. パリサイ人のわな
イエス様は今、人生の最終コースを走っておられます。パリサイ人たちはどのようにして、イエス様をとらえようかと相談しています。そして、そのとらえる理由を作るためにはどうしたら良いかと相談しています。そして考えついたのが次の質問でした。最初には調子の良い言葉を述べています。「あなたは真実な方です。」と、いかにもイエス様を尊敬しているような言い方ですが、心は違いました。そして、罠にかけるために考えついた質問をしています。17節「あなたは税金についてどう思われますか。あなたの意見を言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことなのでしょうか。」イエス様はすぐに彼らの悪意を見抜かれました。「偽善者たち。どうしてわたしを試すのか。」と言われました。それから、不思議なことを言われました。「納め金にするお金をわたしに持ってきなさい。」と言われました。そこで、質問した人たちは、デナリ1枚を持ってきました。デナリというのはローマのお金です。その頃、イスラエルの国に広く使われていました。一デナリというのは一日働いてもらえる賃金に相当するものでした。このお金を使ってローマの税金を払っていました。そこで、彼らに言われました。「これは誰の肖像(顔)ですか。誰のめい銘ですか。(お金に書いてある名前は誰ですか。)」彼らは「カイザルのです。」と言いました。カイザルというのはローマの皇帝のことです。皇帝は自分がこの国を支配していることを示すために、一般の商業で用いられるお金に、自分の肖像と名前を刻みつけました。これは権威と権力を表すものです。このような貨幣が見つかると、その時代の権力者はだれか、すぐにわかります。その頃にエルサレムの総督であり、イエス様を十字架の刑にしたポンテオ・ピラトの名前が書かれている貨幣も見つかっています。聖書は作り話ではありません。歴史書です。イエス・キリストは歴史の中に本当におられた方です。話を元に戻しましょう。イエス様は「これは誰の肖像ですか。誰の名前がきざ刻まれていますか。」と尋ねられました。すると彼らは「カイザルのです。」と言いました。
2. カイザルのものはカイザルへ
そこでイエス様は言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて、びっくりし、イエス様をそこに残して、去って行きました。
この当時、イスラエルはローマに支配されていました。ローマの軍隊が配置されていました。ローマの軍隊の一年間の給料が300デナリだったそうです。
ローマの皇帝アウグストゥスは皇帝になると、基本的なお金の値段を決めました。たとえば銀貨25枚で金貨1枚分、銅貨では100枚分に当たると決めました。これはそれから300年間、ローマ帝国のお金の単位の基本になりました。ローマ皇帝は自分の肖像の入った貨幣を広く流通させました。ローマの税金には当然、ローマのお金で支払わなければなりませんでした。イスラエルにはそのほかイスラエルのお金も出回っていました。
3. ローマ時代の税金制度
ローマ時代の税金制度は極めて過酷でした。①ローマ帝国へ税金(属州民)収入の10%、②穀物税 収穫の10%、③神殿税 (エルサレムの神殿に納める税金)がありました。他にもいろいろな税金があり、民は苦しんでいました。これらの税金のおかげで、ローマの国は大変豊かになり、「レンガの町が大理石の街になり、非常に美しい『永遠の都ローマ』」と言われるようになりました。
税金を払うことは国民として当然のことでした。しかし、パリサイ人たちは考えました。もし、イエスがカイザルに税金を納めないというなら、ローマに反逆するものとして訴えようと思っていました。しかし、イエス様は国に納める税金は、税金として納め、また神のものは神に返しなさいと言われました。
イエス様の答えは現実のあったものでした。国にも、神にも自分の義務を果たしなさいと教えられました。
私たちはこの世に生きています。この世の制度に従わなくてはなりません。日本の税金も高いです。国税、地方税、健康保険税などいろいろあります。イエス様に今これらの税金は払うべきでしょうかと尋ねたら、なんとお答えになるでしょうか。「カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返しなさい」とおっしゃるでしょう。
4. 神のものは神へ
(すべては神のもの、自分を捧げ、神の宮に納入するべきものは納める。)
イエス様は「神のものは神に返しなさい。」と言われました。神のものとは何でしょうか。すべては神のものです。神が造ってくださいました。カイザルもまた神の作品です。日本も神の作品です。私たち人間も神の作品です。私たち人間には神の姿が刻まれています。それはローマのお金にカイザルの銘、名前が刻まれていたように、私たち人間には神の持っておられた人格が刻まれているのです。神の姿にどこかが似ているのです。それは外側の姿ではありません。霊的な存在として造られ、良心を与えてくださいました。私たちは神と交わることを求めます。また清さや正義、愛を求めるものとして造られました。作られたものは造ってくださった方のために存在します。私たちも神のものであり、神のために存在しているのです。ですから、すべては神のものです。ですから、まず、自分自身を神に捧げます。朝起きてから寝るまで、それだけでなく眠っている間も神にささげるのです。眠ることも、また、神様のためです。よく睡眠をとって、あさ、元気に起きて、主のために働かなければなりません。
第二番目に、すべては神のものですから、私たちはすべての物を神様からいただいています。自分の持ち物は神様からの預かりものです。ですから、大切に取り扱わなければなりません。その中で経済的なものがあります。イエス様の時代、神殿税というのがありました。これは、男子は一年に一回、2分の1シケル捧げることと十分の一の捧げものでした。収穫の十分一を主の神殿に納めていました。
イエス様は神の律法もこの世の法律も両方大切にしなければならないことをこの短い言葉によって答えられました。パリサイ人たちはどちらかにかたよった場合、わな罠にかけようとねらっていました。しかし、イエス様は彼らの思いを超えて、見事な返事をなさったのです。
私たちはイエス様に救われ、神の恵みの中で生きています。そして、すべては神の愛とあわれみによって生きています。健康も神様からのプレゼントです。
ですから、神様への感謝と自分自身を捧げることを現わすという意味で十分の一献金を捧げましょう。献金をしなければ救われないとは書いてありません。救いは無料であり、献金しなくても救われます。イエス様が自分の罪の身代わりになって、十字架についてくださった、だから私は罪許されて、天国に行けるのだということを信じるだけで救われるのです。これはすばらしい神様からのプレゼントです。神はあなたの存在そのものを愛し、喜んでくださるのです。
しかし、聖書は「収穫の十分の一は神のものである。」と教えています。そして、この十分の一を神様にお返しすると、神様は天の窓を開いて豊かに祝福してくださると教えています。この十分の一を捧げるという行為は、自分の持っている財産に頼るのではなく、神を信頼し、神に頼るという姿勢を現わしています。この姿勢を神は喜んでくださるのです。財産は大切ですが、神様以上に財産に頼ることはお金が偶像になる、偶像礼拝になるというのです。
(マラキ書3:9~10)「十分の一をことごとく、ほうもつくら宝物倉にたずさ携えてきて、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。-万軍の主は仰せられる。-わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」
種をまくと増加の法則によって、収穫の時は増えます。良い種をまくと増加した祝福の実を刈り取ることができます。これは聖書の原則です。天国の富というのは経済のことだけではありません。「幸せ感」というのはお金があるかないかでは決まりません。その人が飢え渇いて求めているものが与えられていく時、「幸せ」を感じるのです。十分の一を神様にお返しすると、神様はあなたの必要を満たして下さいます。私が言うのではなく、聖書の約束です。私も十分の一の献金をするようになってから、貯金ができるようになりました。本当は少なくなるはずですが、増えたのです。神様の不思議なみ業の一つです。
題3番目に時間も神様のものです。神様にお祈りしながら、上手に時間を使いましょう。その中で神様に奉仕する時間も見つけて、捧げましょう。
5.まとめ
イエス様は「カイザルのものはカイザルへ、神のものは神にかえしなさい」と言われました。イエス様は現実的な社会で、とても現実的に生きておられました。神に対しても100%の献身をし、人々にも心から仕えられたのです。この世の制度である税金を払うことにおいても忠実でした。また、神殿への税金も忠実に支払われました。イエス様は忠実に生きておられたのです。私たちの生活はいかがでしょうか。神様は今日私たちにチャレンジをしておられます。あなたのこの世における生活は忠実でしょうか。また、神様への献身の心はいかがでしょうか。あなたは幸せですか。心からイエス様を信じて、重荷を下ろしましょう。詩編55:22「あなたのすべての重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」
はじめに
先週のメッセージは天のみ国は王子の結婚披露宴のようなものであるという例え話をしました。その中に、間違いがあったのを発見しました。訂正をいたします。それは第2番目にしもべたちはだれかというのに「イエスとその弟子たち」と言いましたが、これは「イエスの12弟子たち」のことです。花婿であるイエス様が使いに出されることはありません。イエス様は神のひとり子ですから、王子のことです。そうすると、王子であるイエス様の結婚披露宴に、イエス様を信じていない人が入ってくるのはおかしいわけです。天国に入るには必ずイエス様を信じ、罪を許されて、神様が無料(ただ)で準備してくださる救いの礼服を着なければなりません。救いの礼服は罪が許されたという証拠になる義の礼服のことです。ですから、私たちは一人でも多くの人たちが天国に行けるように、一生懸命伝道をするのです。行いの良い人が天国に行きのではなく、イエス様を信じる人が天国に行くのです。どんな人でも、イエス様を信じたら天国に行けるのです。だから、この聖書を信じる信仰はすばらしいのです。
1. パリサイ人のわな
イエス様は今、人生の最終コースを走っておられます。パリサイ人たちはどのようにして、イエス様をとらえようかと相談しています。そして、そのとらえる理由を作るためにはどうしたら良いかと相談しています。そして考えついたのが次の質問でした。最初には調子の良い言葉を述べています。「あなたは真実な方です。」と、いかにもイエス様を尊敬しているような言い方ですが、心は違いました。そして、罠にかけるために考えついた質問をしています。17節「あなたは税金についてどう思われますか。あなたの意見を言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことなのでしょうか。」イエス様はすぐに彼らの悪意を見抜かれました。「偽善者たち。どうしてわたしを試すのか。」と言われました。それから、不思議なことを言われました。「納め金にするお金をわたしに持ってきなさい。」と言われました。そこで、質問した人たちは、デナリ1枚を持ってきました。デナリというのはローマのお金です。その頃、イスラエルの国に広く使われていました。一デナリというのは一日働いてもらえる賃金に相当するものでした。このお金を使ってローマの税金を払っていました。そこで、彼らに言われました。「これは誰の肖像(顔)ですか。誰のめい銘ですか。(お金に書いてある名前は誰ですか。)」彼らは「カイザルのです。」と言いました。カイザルというのはローマの皇帝のことです。皇帝は自分がこの国を支配していることを示すために、一般の商業で用いられるお金に、自分の肖像と名前を刻みつけました。これは権威と権力を表すものです。このような貨幣が見つかると、その時代の権力者はだれか、すぐにわかります。その頃にエルサレムの総督であり、イエス様を十字架の刑にしたポンテオ・ピラトの名前が書かれている貨幣も見つかっています。聖書は作り話ではありません。歴史書です。イエス・キリストは歴史の中に本当におられた方です。話を元に戻しましょう。イエス様は「これは誰の肖像ですか。誰の名前がきざ刻まれていますか。」と尋ねられました。すると彼らは「カイザルのです。」と言いました。
2. カイザルのものはカイザルへ
そこでイエス様は言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて、びっくりし、イエス様をそこに残して、去って行きました。
この当時、イスラエルはローマに支配されていました。ローマの軍隊が配置されていました。ローマの軍隊の一年間の給料が300デナリだったそうです。
ローマの皇帝アウグストゥスは皇帝になると、基本的なお金の値段を決めました。たとえば銀貨25枚で金貨1枚分、銅貨では100枚分に当たると決めました。これはそれから300年間、ローマ帝国のお金の単位の基本になりました。ローマ皇帝は自分の肖像の入った貨幣を広く流通させました。ローマの税金には当然、ローマのお金で支払わなければなりませんでした。イスラエルにはそのほかイスラエルのお金も出回っていました。
3. ローマ時代の税金制度
ローマ時代の税金制度は極めて過酷でした。①ローマ帝国へ税金(属州民)収入の10%、②穀物税 収穫の10%、③神殿税 (エルサレムの神殿に納める税金)がありました。他にもいろいろな税金があり、民は苦しんでいました。これらの税金のおかげで、ローマの国は大変豊かになり、「レンガの町が大理石の街になり、非常に美しい『永遠の都ローマ』」と言われるようになりました。
税金を払うことは国民として当然のことでした。しかし、パリサイ人たちは考えました。もし、イエスがカイザルに税金を納めないというなら、ローマに反逆するものとして訴えようと思っていました。しかし、イエス様は国に納める税金は、税金として納め、また神のものは神に返しなさいと言われました。
イエス様の答えは現実のあったものでした。国にも、神にも自分の義務を果たしなさいと教えられました。
私たちはこの世に生きています。この世の制度に従わなくてはなりません。日本の税金も高いです。国税、地方税、健康保険税などいろいろあります。イエス様に今これらの税金は払うべきでしょうかと尋ねたら、なんとお答えになるでしょうか。「カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返しなさい」とおっしゃるでしょう。
4. 神のものは神へ
(すべては神のもの、自分を捧げ、神の宮に納入するべきものは納める。)
イエス様は「神のものは神に返しなさい。」と言われました。神のものとは何でしょうか。すべては神のものです。神が造ってくださいました。カイザルもまた神の作品です。日本も神の作品です。私たち人間も神の作品です。私たち人間には神の姿が刻まれています。それはローマのお金にカイザルの銘、名前が刻まれていたように、私たち人間には神の持っておられた人格が刻まれているのです。神の姿にどこかが似ているのです。それは外側の姿ではありません。霊的な存在として造られ、良心を与えてくださいました。私たちは神と交わることを求めます。また清さや正義、愛を求めるものとして造られました。作られたものは造ってくださった方のために存在します。私たちも神のものであり、神のために存在しているのです。ですから、すべては神のものです。ですから、まず、自分自身を神に捧げます。朝起きてから寝るまで、それだけでなく眠っている間も神にささげるのです。眠ることも、また、神様のためです。よく睡眠をとって、あさ、元気に起きて、主のために働かなければなりません。
第二番目に、すべては神のものですから、私たちはすべての物を神様からいただいています。自分の持ち物は神様からの預かりものです。ですから、大切に取り扱わなければなりません。その中で経済的なものがあります。イエス様の時代、神殿税というのがありました。これは、男子は一年に一回、2分の1シケル捧げることと十分の一の捧げものでした。収穫の十分一を主の神殿に納めていました。
イエス様は神の律法もこの世の法律も両方大切にしなければならないことをこの短い言葉によって答えられました。パリサイ人たちはどちらかにかたよった場合、わな罠にかけようとねらっていました。しかし、イエス様は彼らの思いを超えて、見事な返事をなさったのです。
私たちはイエス様に救われ、神の恵みの中で生きています。そして、すべては神の愛とあわれみによって生きています。健康も神様からのプレゼントです。
ですから、神様への感謝と自分自身を捧げることを現わすという意味で十分の一献金を捧げましょう。献金をしなければ救われないとは書いてありません。救いは無料であり、献金しなくても救われます。イエス様が自分の罪の身代わりになって、十字架についてくださった、だから私は罪許されて、天国に行けるのだということを信じるだけで救われるのです。これはすばらしい神様からのプレゼントです。神はあなたの存在そのものを愛し、喜んでくださるのです。
しかし、聖書は「収穫の十分の一は神のものである。」と教えています。そして、この十分の一を神様にお返しすると、神様は天の窓を開いて豊かに祝福してくださると教えています。この十分の一を捧げるという行為は、自分の持っている財産に頼るのではなく、神を信頼し、神に頼るという姿勢を現わしています。この姿勢を神は喜んでくださるのです。財産は大切ですが、神様以上に財産に頼ることはお金が偶像になる、偶像礼拝になるというのです。
(マラキ書3:9~10)「十分の一をことごとく、ほうもつくら宝物倉にたずさ携えてきて、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。-万軍の主は仰せられる。-わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」
種をまくと増加の法則によって、収穫の時は増えます。良い種をまくと増加した祝福の実を刈り取ることができます。これは聖書の原則です。天国の富というのは経済のことだけではありません。「幸せ感」というのはお金があるかないかでは決まりません。その人が飢え渇いて求めているものが与えられていく時、「幸せ」を感じるのです。十分の一を神様にお返しすると、神様はあなたの必要を満たして下さいます。私が言うのではなく、聖書の約束です。私も十分の一の献金をするようになってから、貯金ができるようになりました。本当は少なくなるはずですが、増えたのです。神様の不思議なみ業の一つです。
題3番目に時間も神様のものです。神様にお祈りしながら、上手に時間を使いましょう。その中で神様に奉仕する時間も見つけて、捧げましょう。
5.まとめ
イエス様は「カイザルのものはカイザルへ、神のものは神にかえしなさい」と言われました。イエス様は現実的な社会で、とても現実的に生きておられました。神に対しても100%の献身をし、人々にも心から仕えられたのです。この世の制度である税金を払うことにおいても忠実でした。また、神殿への税金も忠実に支払われました。イエス様は忠実に生きておられたのです。私たちの生活はいかがでしょうか。神様は今日私たちにチャレンジをしておられます。あなたのこの世における生活は忠実でしょうか。また、神様への献身の心はいかがでしょうか。あなたは幸せですか。心からイエス様を信じて、重荷を下ろしましょう。詩編55:22「あなたのすべての重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」