阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

カイザルのものはカイザルへ、神のものは神へ

2008-11-30 23:34:03 | Weblog
聖書 マタイ22:15~22

はじめに
先週のメッセージは天のみ国は王子の結婚披露宴のようなものであるという例え話をしました。その中に、間違いがあったのを発見しました。訂正をいたします。それは第2番目にしもべたちはだれかというのに「イエスとその弟子たち」と言いましたが、これは「イエスの12弟子たち」のことです。花婿であるイエス様が使いに出されることはありません。イエス様は神のひとり子ですから、王子のことです。そうすると、王子であるイエス様の結婚披露宴に、イエス様を信じていない人が入ってくるのはおかしいわけです。天国に入るには必ずイエス様を信じ、罪を許されて、神様が無料(ただ)で準備してくださる救いの礼服を着なければなりません。救いの礼服は罪が許されたという証拠になる義の礼服のことです。ですから、私たちは一人でも多くの人たちが天国に行けるように、一生懸命伝道をするのです。行いの良い人が天国に行きのではなく、イエス様を信じる人が天国に行くのです。どんな人でも、イエス様を信じたら天国に行けるのです。だから、この聖書を信じる信仰はすばらしいのです。
1. パリサイ人のわな
イエス様は今、人生の最終コースを走っておられます。パリサイ人たちはどのようにして、イエス様をとらえようかと相談しています。そして、そのとらえる理由を作るためにはどうしたら良いかと相談しています。そして考えついたのが次の質問でした。最初には調子の良い言葉を述べています。「あなたは真実な方です。」と、いかにもイエス様を尊敬しているような言い方ですが、心は違いました。そして、罠にかけるために考えついた質問をしています。17節「あなたは税金についてどう思われますか。あなたの意見を言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことなのでしょうか。」イエス様はすぐに彼らの悪意を見抜かれました。「偽善者たち。どうしてわたしを試すのか。」と言われました。それから、不思議なことを言われました。「納め金にするお金をわたしに持ってきなさい。」と言われました。そこで、質問した人たちは、デナリ1枚を持ってきました。デナリというのはローマのお金です。その頃、イスラエルの国に広く使われていました。一デナリというのは一日働いてもらえる賃金に相当するものでした。このお金を使ってローマの税金を払っていました。そこで、彼らに言われました。「これは誰の肖像(顔)ですか。誰のめい銘ですか。(お金に書いてある名前は誰ですか。)」彼らは「カイザルのです。」と言いました。カイザルというのはローマの皇帝のことです。皇帝は自分がこの国を支配していることを示すために、一般の商業で用いられるお金に、自分の肖像と名前を刻みつけました。これは権威と権力を表すものです。このような貨幣が見つかると、その時代の権力者はだれか、すぐにわかります。その頃にエルサレムの総督であり、イエス様を十字架の刑にしたポンテオ・ピラトの名前が書かれている貨幣も見つかっています。聖書は作り話ではありません。歴史書です。イエス・キリストは歴史の中に本当におられた方です。話を元に戻しましょう。イエス様は「これは誰の肖像ですか。誰の名前がきざ刻まれていますか。」と尋ねられました。すると彼らは「カイザルのです。」と言いました。
2. カイザルのものはカイザルへ
そこでイエス様は言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて、びっくりし、イエス様をそこに残して、去って行きました。
この当時、イスラエルはローマに支配されていました。ローマの軍隊が配置されていました。ローマの軍隊の一年間の給料が300デナリだったそうです。
ローマの皇帝アウグストゥスは皇帝になると、基本的なお金の値段を決めました。たとえば銀貨25枚で金貨1枚分、銅貨では100枚分に当たると決めました。これはそれから300年間、ローマ帝国のお金の単位の基本になりました。ローマ皇帝は自分の肖像の入った貨幣を広く流通させました。ローマの税金には当然、ローマのお金で支払わなければなりませんでした。イスラエルにはそのほかイスラエルのお金も出回っていました。
3. ローマ時代の税金制度
ローマ時代の税金制度は極めて過酷でした。①ローマ帝国へ税金(属州民)収入の10%、②穀物税 収穫の10%、③神殿税 (エルサレムの神殿に納める税金)がありました。他にもいろいろな税金があり、民は苦しんでいました。これらの税金のおかげで、ローマの国は大変豊かになり、「レンガの町が大理石の街になり、非常に美しい『永遠の都ローマ』」と言われるようになりました。
 税金を払うことは国民として当然のことでした。しかし、パリサイ人たちは考えました。もし、イエスがカイザルに税金を納めないというなら、ローマに反逆するものとして訴えようと思っていました。しかし、イエス様は国に納める税金は、税金として納め、また神のものは神に返しなさいと言われました。
イエス様の答えは現実のあったものでした。国にも、神にも自分の義務を果たしなさいと教えられました。
私たちはこの世に生きています。この世の制度に従わなくてはなりません。日本の税金も高いです。国税、地方税、健康保険税などいろいろあります。イエス様に今これらの税金は払うべきでしょうかと尋ねたら、なんとお答えになるでしょうか。「カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返しなさい」とおっしゃるでしょう。
4. 神のものは神へ
(すべては神のもの、自分を捧げ、神の宮に納入するべきものは納める。)
イエス様は「神のものは神に返しなさい。」と言われました。神のものとは何でしょうか。すべては神のものです。神が造ってくださいました。カイザルもまた神の作品です。日本も神の作品です。私たち人間も神の作品です。私たち人間には神の姿が刻まれています。それはローマのお金にカイザルの銘、名前が刻まれていたように、私たち人間には神の持っておられた人格が刻まれているのです。神の姿にどこかが似ているのです。それは外側の姿ではありません。霊的な存在として造られ、良心を与えてくださいました。私たちは神と交わることを求めます。また清さや正義、愛を求めるものとして造られました。作られたものは造ってくださった方のために存在します。私たちも神のものであり、神のために存在しているのです。ですから、すべては神のものです。ですから、まず、自分自身を神に捧げます。朝起きてから寝るまで、それだけでなく眠っている間も神にささげるのです。眠ることも、また、神様のためです。よく睡眠をとって、あさ、元気に起きて、主のために働かなければなりません。
第二番目に、すべては神のものですから、私たちはすべての物を神様からいただいています。自分の持ち物は神様からの預かりものです。ですから、大切に取り扱わなければなりません。その中で経済的なものがあります。イエス様の時代、神殿税というのがありました。これは、男子は一年に一回、2分の1シケル捧げることと十分の一の捧げものでした。収穫の十分一を主の神殿に納めていました。
イエス様は神の律法もこの世の法律も両方大切にしなければならないことをこの短い言葉によって答えられました。パリサイ人たちはどちらかにかたよった場合、わな罠にかけようとねらっていました。しかし、イエス様は彼らの思いを超えて、見事な返事をなさったのです。
私たちはイエス様に救われ、神の恵みの中で生きています。そして、すべては神の愛とあわれみによって生きています。健康も神様からのプレゼントです。
ですから、神様への感謝と自分自身を捧げることを現わすという意味で十分の一献金を捧げましょう。献金をしなければ救われないとは書いてありません。救いは無料であり、献金しなくても救われます。イエス様が自分の罪の身代わりになって、十字架についてくださった、だから私は罪許されて、天国に行けるのだということを信じるだけで救われるのです。これはすばらしい神様からのプレゼントです。神はあなたの存在そのものを愛し、喜んでくださるのです。
しかし、聖書は「収穫の十分の一は神のものである。」と教えています。そして、この十分の一を神様にお返しすると、神様は天の窓を開いて豊かに祝福してくださると教えています。この十分の一を捧げるという行為は、自分の持っている財産に頼るのではなく、神を信頼し、神に頼るという姿勢を現わしています。この姿勢を神は喜んでくださるのです。財産は大切ですが、神様以上に財産に頼ることはお金が偶像になる、偶像礼拝になるというのです。
(マラキ書3:9~10)「十分の一をことごとく、ほうもつくら宝物倉にたずさ携えてきて、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。-万軍の主は仰せられる。-わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」
種をまくと増加の法則によって、収穫の時は増えます。良い種をまくと増加した祝福の実を刈り取ることができます。これは聖書の原則です。天国の富というのは経済のことだけではありません。「幸せ感」というのはお金があるかないかでは決まりません。その人が飢え渇いて求めているものが与えられていく時、「幸せ」を感じるのです。十分の一を神様にお返しすると、神様はあなたの必要を満たして下さいます。私が言うのではなく、聖書の約束です。私も十分の一の献金をするようになってから、貯金ができるようになりました。本当は少なくなるはずですが、増えたのです。神様の不思議なみ業の一つです。
題3番目に時間も神様のものです。神様にお祈りしながら、上手に時間を使いましょう。その中で神様に奉仕する時間も見つけて、捧げましょう。

5.まとめ
イエス様は「カイザルのものはカイザルへ、神のものは神にかえしなさい」と言われました。イエス様は現実的な社会で、とても現実的に生きておられました。神に対しても100%の献身をし、人々にも心から仕えられたのです。この世の制度である税金を払うことにおいても忠実でした。また、神殿への税金も忠実に支払われました。イエス様は忠実に生きておられたのです。私たちの生活はいかがでしょうか。神様は今日私たちにチャレンジをしておられます。あなたのこの世における生活は忠実でしょうか。また、神様への献身の心はいかがでしょうか。あなたは幸せですか。心からイエス様を信じて、重荷を下ろしましょう。詩編55:22「あなたのすべての重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」
 

救いの礼服

2008-11-23 23:45:51 | Weblog
聖書 マタイ22:1~14

はじめに
総会の報告
先週、東京の本部に行きました。ここでは一年に一回、総会があります。この総会に出席できるのは選挙で選ばれた人だけです。この3年間は全国から65人でした。でも、来年から51人になりました。将来はもっと減らす予定です。それは、人が多いとなかなかまとまりません。また費用もかかるからです。
今年の予算編成はできるだけ節約をするということになりました。そこで、話し合いの結果、聖書学校を縮小することになりました。今年から、インターネット通信制の聖書学校が始まりました。とても調子よく運営できています。内容も良いのです。これはパソコンさえあれば、全国どこからでも学ぶことができます。そのために今まであった関東の分校と関西の分校を2011年をもって、インターネットの通信制の聖書コースに併合することになり、中止することになりました。来年からの入学者の募集はありません。これから、働きながら学びたい人は、通信制に入学することになります。今学んでいる人たちが卒業するまでは分校はありますが、そのあとはありません。アッセンブリーの献身者は駒込の本校に入っていただくか、通信制で学ぶことになります。それから、ろう者の献身者は関西福音センターで聖書学校が開かれます。夜だけの授業で、週に3日です。来年の学生を募集しています。
1. 王子の結婚披露宴
天のみ国のたとえ話です。イエス様が与えてくださる神の国というのは「王子の結婚披露宴を設けた王のようなものである」と言っています。ですから、天国は祝福に満ちたところです。結婚式に悲しいい顔をする人はいません。娘や息子の結婚式はうれしくて、最大のもてなしをしようと心づかいをします。この王は喜んで最高の準備をしました。王は、前もって招いていたお客を呼びに、しもべたちを遣わしました。しかし、彼らは来たがりませんでした。おかしいですね。それで、もう一度、別のしもべたちを遣わしました。王は言いました。「お客にこう言いなさい。『さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ、宴会にお出かけください。』と。ところが彼らは、気にもかけず、ある者は畑に、別のものは商売に出かけて行きました。その他の者たちは王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまいました。
お客を招待した王とは「父なる神様」のことです。遣わされた最初のしもべたちはバプテスマのヨハネとその弟子たちです。その次のしもべたちとはイエス様の「12弟子たち」のことです。彼らは宴会の準備が整いました。どうぞお出かけくださいと誘いました。しかし、招かれた人々は自分の仕事のことで頭がいっぱいです。ですから、その招きを無視しました。現代の日本の多くの人々も同じですね。その上、しもべたちを殺してしまいました。これはバプテスマのヨハネを殺したことやこれからイエス様を殺すことを意味しています。怒った王は兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払ってしまいました。これはエルサレム崩壊の預言です。この予言どおりに、紀元70年にエルサレムはローマによって崩壊しました。父なる神はローマの兵隊を使ってエルサレムの町を焼かれたのです。今でも2000年前の焼け跡の家が残っています。そして、ユダヤ人たちは世界中に散って生活するようになりました。自分の国を持たない民になってしまったのです。国が復活したのは1948年です。
2. 最初に招いた客
最初に招かれた客というのはイスラエルに住んでいたユダヤ人です。ここではイエス様の時代のユダヤ人です。しかし、彼らはこの結婚披露宴に出席するのを断ってしまいました。すなわち、「神の国に入りなさい、天国に入りなさい」と言われたにもかかわらず、断ってしまった人々です。
3. 大通りの人々
王はしもべたちに命じました。大通りに行って、出会った人々をみな宴会に招きなさい。」それで、しもべたちは、通りに出て行って良い人でも、悪い人でも、出会った者を皆集めました。宴会場は客でいっぱいになりました。これは、神の国に招かれる資格のない人たちが招かれている姿です。この招かれる資格のない人たちで招かれる人たちとは次の人達です。第一番目にはかんなん時代のユダヤ人たちです。第二番目には、異邦人の私たちです。私たちが含まれていることは神の恵みです。招かれていることを感謝しましょう。
4. 礼服を着なかった客
ところが王が宴会場の客を見ようとして、宴会場に入ってくると、そこには婚礼の時の礼服を着ていない人がいました。そこで、王は言いました。「どうしてあなたは、礼服をつけないで、ここに入ってきたのですか。」しかし、彼は黙っていました。そこで、この王はしもべたちに言いました。「あれの手足をしばって、外の暗闇に放り出せ。」と言いました。
どうしたのでしょうか。新しい洋服を買うことができなかったのでしょうか。違います。当時の習慣では、結婚式のときに着る洋服は、皆招待した人が準備をしたそうです。ですから、招かれた人は普通の洋服で行って、その家に着いてから、その家の主人が用意してくれた洋服に着替えました。この間、天皇家の秋のお茶会に招かれた人の話を聞きました。ここでも、宴会の部屋に行く前に着替えさせられたと言っているのを聞きました。面白いなと思って聞いていました。
ですから、招かれた人はご主人が用意してくれた礼服を着るだけでよかったのです。それを着ていなかったので、彼は外の暗闇に放り出されてしまいました。ここにはたいへん重要な意味があります。この礼服というのは何でしょうか。
これは「神の義の衣」ことです。すなわち「救いの衣」のことです。結婚式の礼服というのは罪人である私たちにただでくださる救いの礼服のことです。
どのようにして、その礼服をいただくかといいますと、イエス様を救い主と信じることです。イエス様を信じることによって礼服をいただくことができ、永遠の命をいただくことができます。「(ヨハネ3:16 )神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ここに滅びるということばが出てきます。これは暗闇の世界に放り出されるのと同じ意味です。暗闇の世界は滅びの世界です。はっきり言うと地獄の世界です。この世でも地獄を体験することがあるでしょう。しかし、この世の地獄はほんの少しの間です。しかし、永遠の世界で、神のみ国である天国に入り損ねてしまった場合、永遠に苦しまなければなりません。その苦しみがはかりしれないことなので、神様は神の一人子であるイエス様をこの世に遣わしたのです。でも人々はイエス様を信じませんでした。そして十字架の上で殺してしまったのです。それでもイエス様は苦しい十字架の上でこう祈られました。「主よ。彼らをゆるしたまえ。彼らは何をしているのか分からないのです。」ととりなしの祈りをされました。ここに神様の深い愛があるのです。
5. 救いの礼服を着ることの重要性
人間の歴史はいつの時代も神様に反抗してきました。それはアダムとエバが神に従わないで、エデンの園にあった木の実を食べてしまったときからはじまりました。罪の遺伝子(DNA)が子孫に遺伝し、人々はだんだん罪を犯すようになったのです。最近は殺人の話が多くニュースの話題に上がっています。聖書には創世記の4章で「カインが弟アベルを殺した」と人類最初の殺人について語っています。同じ母親から、生まれた子供たちでした。同じように育てたはずの子供たちでした。しかし、こんな恐ろしいことが起こってしまったのです。
神様はアダムとエバが罪を犯したとき、怒ってエデンの園から追い出されました。しかし、憐みの心も示しておられます。それは創世記3:21「神である主は、アダムとその妻のために,皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」この皮の衣は彼らがこれから立ち向かうであろう数々の困難を乗り越えることができるようになる神のあわれみの衣でした。この皮の衣がいつか義の衣に取って代わることを父なる神は願っておられました。そして、神は救いの日が来ること、女から救い主が生まれることを約束されたのです。
それから長い年月がたって、神の一人子であるイエス様がベツレヘムにお生まれになりました。そして、神は私たちの罪の身代りに彼を十字架につけて、罰をくだし、本当に裁かれなければならない私たちは、イエス様の十字架の死とともに罪が許され、罪の縛りから解放されたのです。「Ⅱコリント5:21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
それ以来、私たちには父なる神が準備してくださったこの救いの礼服を着るだけで天国に入れていただけるのです。これを「義の衣」と言います。こんなに幸いなことがほかにあるでしょうか。今日のテキストに出てくる礼服を着ていなかった男は救いの衣を着ていませんでした。すなわち、救われていなかったのです。イエス様を信じることなしに神の一人子である王子(イエス・キリスト)の結婚披露宴に出席することはできません。
私たちは今イエス・キリストの愛と救いを信じて義の衣、救いの衣を着せていただこうではありませんか。今日、イエス様を自分の救い主として信じ、心の中にイエス様をお迎えする人はいませんか。そっと手を挙げてください。その方のためにお祈りをしたいと思います。(祈り。)


いしずえ礎の石

2008-11-16 10:13:50 | Weblog
マタイ21:33~46

はじめに
1. ぶどう園のたとえ
このたとえ話は祭司長や民の長老たち、パリサイ人に対して、話しておられるものです。マタイ21:32では、バプテスマのヨハネのことにふれておられます。バプテスマのヨハネのことを神がつかわした預言者だと信じなかったと責めておられます。このことを少し頭の中に置いておくとわかりやすいと思います。
 一人の、家の主人がいた。これは誰でしょうか。これは父なる神様です。この主人はぶどう園を造りました。どろぼうが入らないように垣根をしました。その中にぶどうを集めて、足で踏んで、ぶどうジュースをつくる所やそのぶどうジュースをあつめ、発酵させてブドウ酒を造るところも造りました。また、泥棒や敵などが来た時にすぐわかるように見張りやぐらもたてました。これらの施設を農夫たちに貸して、この家の主人は旅に出かけました。このぶどう園とはイスラエルの民です。この農夫たちとは民の指導者たちのことです。さて収穫の時が近づいたので、主人は自分のものを受け取ろうとして、農夫たちの所へしもべたちを遣わしました。すると、農夫たちが、そのしもべたちを捕まえて、一人は袋だたきに、もう一人は殺し、もう一人は石打ちにしてころしてしまいました。しもべたちというのは神の預言者たちのことです。そこで、もう一度、前より、もっと多くの別のしもべたちを遣わしましたが、やはり、同じでした。
 イスラエルの民は神の選びの民です。神はイスラエルを造り、聖別し、大切に育てられました。そして、多くの霊的な収穫を期待されたのです。ところが結果は反対でした。神のしもべである預言者たちを殺し、神に反抗したのです。神はバビロン捕囚前も預言者を遣わされました。また、捕囚後も預言者たちを遣わされました。最後に遣わされた預言者がバプテスマのヨハネです。イスラエルの指導者たちは、遣わされた預言者たちをすべて受け入れませんでした。
2. 最後に送られた息子とは誰か
この家の主人は人が良いというのか、とても愛と忍耐に満ちていたので、「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言って、最後に息子を遣わしました。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合いました。『さあ、あれは後とりだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」そして、彼を捕まえて、ブドウ園の外に追い出して殺してしまいました。ぶどう園の外とはカルバリの丘、ゴルゴダ(されこうべ)の丘のことです。とてもひどい話です。この息子とは誰のことですか。それはイエス・キリストのことです。イエス様は神の一人子です。
3. さばき
イエス様は質問されました。「この場合、ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするでしょうか。」すると、祭司長たちは答えました。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める別の農夫たちに貸します。」
そこで、イエス様は預言をされました。42節「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。」と言われました。これは詩篇の118:22節に予言されていた言葉です。「家を建てる者たち。」というのは指導者たちです。イエス様はこの指導者たちからは見捨てられた石となります。しかし、その石が「礎の石」となるのです。イエス様は十字架の上で殺されるのですが、三日目によみがえって救いの土台となられるのです。「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」という言葉のとおり、父なる神様は不思議なことをなさったのです。
もう一つの預言はさばきの預言です。
43節に「神の国はあなたがたから取りさられる。」と預言されています。そして「神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」と言われました。44節では「また、この石の上に落ちるものは、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その日を粉みじんに飛ばしてしまいます。」と預言されました。これは滅びの預言です。この言葉通り、エルサレムは紀元70年にローマによって滅ぼされてしまいました。ユダヤ人であっても、ユダヤ人以外の外国人、すなわち、異邦人であっても、イエス・キリストに敵対するものは自分に滅びを招く人です。永遠の救いを拒否するからです。ですから、私たちは、イエス様を信じて、今日まで歩ませて下さる神の恵みに感謝しましょう。
4. 神の国の実を結ぶ国民とは誰か
ここで、残った疑問は何かと言いますと「神の国の実を結ぶ国民とは誰か」ということです。ある学者はこの実を結ぶ国民は「異邦人の教会」であると解釈します。これは「置換神学」の立場の人です。簡単に言うと、文字通り、イスラエルを教会と置き換えた神学です。これ(置換神学)は歴史におけるイスラエルの役割が終わり、教会が新しいイスラエルになったという解釈です。分かりやすく言うと「神の国の祝福はイスラエルから取り上げられて、教会に与えられた。だから教会は霊のイスラエルである。」というような解釈です。ですから、しばらくの間、イスラエルという言葉を教会と置き換えて読む人もいたぐらいです。しかし、これは間違いです。1948年にイスラエルが国として再建国されたときから、この考えはおかしいとされてきました。聖書の中で「イスラエル」と書いてあるものは「イスラエル」と解釈すべきであって「教会」ではありません。ですから「国民」を「教会」と置き換えてもいけません。これは、イエス様の時代に生きていたユダヤ人たちからはイエス様がたてあげられる神の国は取り上げられて、別の時代のユダヤ人たちに与えられるということです。季節が違うのです。ですから、この時代から数えるともうすでに2000年がたちましたが、まだその時は来ていません。もっと後の時代のユダヤ人たちに与えられるものです。その国はメシヤ的王国と呼ばれています。おそらく、かん難時代を生き延びるユダヤ人たちに与えられるのでしょう。かん難時代はこれから後にきます。いつかはわかりませんが、かん難時代が近くなっているのは事実です。
5. 礎の石とは誰ですか。
詩篇118:22「118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
118:23 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」
この預言は成就しました。「礎の石」とは誰のことですか。これはイエス様のことです。祭司長たちやパリサイ人たちはイエス様に敵意を抱き、彼はメシヤではない、悪霊がついているとさえ言って、イエスをとらえ、殺そうとしていました。間もなく、イエス様は十字架につけられるためにとらえられ、裁判にかけられます。そして、十字架の刑という残酷な刑によって殺されます。しかし、イエス様はその見捨てられるであろう自分が救いの土台となること、礎の石となることを預言されました。後日、その見捨てられた命が聖霊によって復活するのです。神様でなければ、できないことが起こったのです。不思議なことが起こったのです。イエス様がよみがえられたのです。それを見た弟子たちは驚き、感動して、神の救いのすばらしさを人々に命をかけて、伝えたのです。
6. 収穫の季節
41節に「そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める別の農夫に貸すに違いありません。」と言っています。
もし、私たちが霊の収穫を目の前にしながら、忠実に働かなかったらどうなるでしょうか。神様は収穫をともに喜びたいと思っておられます。もし、ともに喜ぶことができなかったら、別の農夫に与えられるかもしれません。
この那賀川町には織田信長時代、豊臣秀吉時代に殉教した人がいます。その時代に救われて、喜びに満たされて、一所懸命に福音をのべ伝えました。リバイバルが日本に起こりました。間もなく恐ろしい迫害がやってきました。国外追放にされた人々、また、おそろしい弾圧で亡くなった人たちも大勢います。それから、日本のキリスト教は鎮圧され、ほとんど死んでしまったかのようになりました。しかし、数百年後、この那賀川町に阿南教会が建てられました。「殉教の血が流されたところには必ず神の教会、神の国が建てられる」ということわざがあります。阿南に神の国をたてあげることは神の願いです。そして、離婚のない町、犯罪のない町、平和で喜びのあふれる町、また経済的にも繁栄した町になるように祈りましょう。神の助けなしで、このような町になることはできません。神の救いこそが解決の道なのです。
私たちは、今、救われていることを感謝しましょう。そして、イエス様を知らないで滅びに向かっている人たちのために、涙を流し、とりなしの祈りをしましょう。彼らは何も知らないので、イエス様に敵対して歩いているのです。彼らを救いに導くには祈らなければなりません。これは霊的な戦いです。
「今の季節は恵の時、救いの時です。」この季節を大切にして、主に喜ばれる忠実な働き人になりましょう。世界は金融混乱の時代です。もっと暗い時代になるでしょう。その中で、ひときわ輝くのがイエス・キリストの救いです。「あなたがたは世界の光です。」とあるように光を輝かせましょう。この救いは健全です。十字架のことばは救いを受ける私たちには神の力です。(1コリント1:18)
あかし(鈴木留蔵さん)
今、私は長い間日本ギデオン協会の会長をされていた鈴木留蔵さんの本を呼んでいます。もう年は98歳を超えておられますが、とてもお元気で世界中を走り回っておられます。この方が救われる時の話ですが、奥さんを通して救われたそうです。
鈴木さんはクリスチャンの女性と結婚されました。しかし、クリスチャンの存在をなんとも思っておられませんでした。しかし、奥さんはどんなときも祈っている人でした。戦争の時には何度も奇跡的に命を助けられたそうです。
ある時、奥さんが特別集会に行きました。数日して帰ってきました。すると別人のように変わっていました。それまではおとなしく、体が弱くていつもお薬を飲んでいたそうです。ところがその集会から帰ってくると、「私はいやされました。」といってお薬を全部捨てたそうです。そのお薬はもったいないので、またご主人が拾って保管されたそうですが。・・それ以来、とても元気で、明るく、はっきりとものをいう人に変えられました。それを見た留蔵さんはこんなに家内を変えてくださる方は神さましかいないと思ったそうです。その姿を見て、イエス様を信じる決心をされました。それからずっと、神様のために奉仕をして、頑張っておられます。ギデオンの仕事が本業で、建築の仕事が副業ですと言われるほどです。この方は自分の人生を振り返ってみる時、神様に奉仕するために備えてくださったものが3つあると言っておられます。まず、健康、次に時間、そして経済的祝福です。信仰をもって神様に従っていく時、健康は守られ、時間は与えられ、経済的な面も祝されてきました。
 私(鈴木さん)にとってはこの世の仕事は「アルバイト」のようなものです。主のために働く方が「本業」なのでした。福音のすばらしさが本当にわかったら、そうしたくて、他のことは考えられません。
 主は、十字架の血潮をもって、私たちを無条件で救ってくださいました。そればかりではなく永遠の命を与えて下さいました。この地上の使命が終わった時には、神の国に住まわせでくださるというのですから、素晴らしい恵みではありませんか。この素晴らしい福音に生き、これを伝えることが私の生涯の願いです。

権威を敬う祝福

2008-11-02 10:12:39 | Weblog
聖書 マタイ21:23~32

はじめに
 この一週間、エリヤハウス祈りのミニストリーの研修会に行きました。このミニストリーは祈りによって、心のいやし、行動の変革をもたらすものです。どのような成長の時期に傷ついたかを探って、それを十字架の元へ持っていきます。十字架の上にその傷をつけると同時に悔い改めをしなければなりません。そして、傷つけられたと思っている相手を許します。許すことによって心が解放されます。そして新しい命の祝福を祈っていただきます。神の命の祝福がその人を潤し、その人から祝福が流れるようになるのです。朝9時半から夕方の6時まで、ずっと講義や祈り会などが続きました。四日間にこれだけ内容の深いものを学ぶのは無理な感じがしました。次の研修は来年の5月です。今回、皆さんの祈りと協力によって基礎Ⅰの修了証書をいただいてきました。一緒に喜んでください。来年、できたら、短いエリヤハウスの体験セミナーをしたいと思っています。今から祈って心の準備をし、待っていて下さい。ぜひ、皆さん、受けてください。自分が変えられていきます。
1. 権威
今日の聖書の個所はイエス様が何の権威をよって、罪を赦し、いやしを行い、奇跡をしておられるのかを祭司長や民の長老たちが質問しています。権威は敬うものであり、その権威の下にはへりくだって、従うものです。しかし、彼らは、正しい、神を求める気持から質問したのではありません。イエス様に反抗するためです。そこで、バプテスマのヨハネについて、彼はどこから来たのかと質問されました。すると、パリサイ人たちは答えることができませんでした。イエス様の権威はどこから来ましたか。それは父なる神様から来ました。イエス様の権威が父なる神から来たものであることを示すために、二人の兄弟の話をしました。「二人にぶどう園に行って働いてくれ」と父親が言った時、兄は「行きます」と言ったが行かなかった。弟は「いいえ、行きたくありません」と言ったが後から悪かったと思って出かけて行った。誰が父の願いどおりにしたかというとこの弟でした。イエス様は「この弟の方が先に神の国に入ったのです。」と言いました。「取税人も遊女たちもヨハネを通して神を信じたので、先に神の国に入ったのです。あなたがたは、神の権威を認めないので神の国に入ることができないでいるのです。」と言われました。
ここでは父親と子供の姿を通して神の国の救いが語られています。聖書には父親と子供の関係がよく出てきます。父親に従うということは神に従うということにつながっているのです。父親や母親に与えられている神の権威を敬い、従うことは人生の祝福につながるのです。ここに例としてエリヤハウス祈りのミニストリーの一部を紹介します。
2. 父と母を敬え
先週、私が受けてきたエリヤハウス祈りのミニストリーはこのようなことを教えています。人々が持っている多くの問題は両親との間に受けた心の傷から来ているというのです。それは両親が良い親だったからとか、悪い親だったからということには関係ありません。親は神様でないので、どんなに立派な親でも、100%十分だったという親はいません。問題はその人が子供の時に、親に対してどんな思いや感情をもったかということなのです。その時の思いや感情が十字架に付けられて、解決しないなら、クリスチャンとして御霊の実を結ぶことはできません。どんなにすばらしい聖書の知識や信仰があっても無理なのです。神は親に親としての権威をお与えになりました。親子関係を通して、神との関係がわかるようになるためです。神の法則の最も大切な法則は「父母を敬え」ということです。聖書には申命記5:16(エペソ6:1~3)「5:16 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」
「父と母を敬うと幸せになる」というのが聖書の教えであり、神の法則です。これはクリスチャンの人もクリスチャンでない人もこの法則によって生きています。知っていても知らなくてもその通りになるのです。自分の両親を敬い、尊重したら、人生はうまくいくのです。しかし、両親を敬わなかったり、裁いたりすると、人生で問題にぶつかるのです。「敬う」というのは「重んじる」ことです。良いと思って誉れを与えること、祝福することです。心から、お父さんやお母さんを敬うと神様の祝福を受けていきます。反対に「敬わない」というのは親を軽く見ることです。親の言うことを聞かない、拒絶する、信頼しない、悪く思う、恥ずかしく思う、呪うことも入ります。
神様は天地創造の時、男と女を神に似せて創り、結婚という形をとって人類を祝福されました。子孫が増えるようにと祝福されました。親としての立場を与え、権威をお与えになりました。ですから。親を敬わないと悪いパターンが子供から孫たちへと引き継がれていき、打ち切ることができません。両親を敬わない人の家庭では、自分の子供たちも親を敬わなくなります。またその子供たちは結婚しても自分の妻や夫たち、子どもたちを敬いません。夫婦で悪い実を刈り取ることになります。子供たちが反抗的になり、自分ではどうすることもできない悪い習慣や破滅的な生き方をはじめます。たとえばアルコール中毒の子供はまたアルコール中毒になったりします。これらは増加の法則によって、もっと悪くなるのです。しかし、イエス・キリストの十字架の恵みによって、この悪い法則から逃れることができます。キリストによって解放されます。キリストなしでは解決できません。
これらの悪い種は生まれてすぐのゼロ歳から12歳ぐらいまでの間に蒔かれます。そして、この悪い種が芽を出し、悪い実を結ぶのは大人になってからです。それまではわかりません。そして、大人になってしまうと小さい時のことを忘れているので、どこにその悪い習慣の根があるのか、すぐにはわかりません。悪い実を刈り取っている人は言い訳をしたり、人のせいにしたり、なかなか自分の罪を認めようとしません。たとえば、よくかんしゃくを起こす人がいます。この人は親への怒りがどこかに隠されているのです。 問題を持っている多くの人々が、大人になっても、小さい子供のころの傷や裁く思いのために次のような状態になります。
① 自分が何者かわからない
② ありのままの自分が愛されているということがわからない。
③ 何かに属しているという意識を一度も感じたことがない。このような人は家族の一員という意識がない。
④ それは間違っていると他の人が言っても、わからない。正しいことを言っても受け入れない。
しかし、神様の願いはみんなが神の子であり、祝福の中に入れられることを願っておられます。神様はみんなが解放され、変革されていくことを願っておられるのです。どうしたら、解放され、変革していくかというと、お父さんやお母さんをいやだと思った時のことを思い出します。その中で、いやだ、こんな親にはならないと思った罪を告白して、お父さん、お母さんを赦し、悔い改めます。親をさばいて、親のせいにしても問題の解決はありません。悔い改める時には心の痛みを感じます。しかし、痛みのない、悔い改めというのはありません。
その後、復活の命の祝福を祈ってもらいます。十字架はすべての呪いを打ち砕く力があるのです。そして、復活の命の祝福はその人の上に流れ、それから、家族に流れ、地域に、また国に流れていきます。それほど大きな祝福があるのです。
3. しつけや間違った親子関係からくる問題行動
① パフォーマンス指向・・・これはきまった行動様式ではなく、その人の心の中にある姿勢が間違っているものです。これは小さい子供の時に間違って受け取った親からのメッセージによってできた思いこみで、その思い込みは正しくない思いこみによる行動です。
人から受け入れてもらうためにがんばる人です。これをしたら、愛されると考えて一所懸命がんばる人です。人から好かれようとして一所懸命になるので、自分のことがわからなくなる。愛されるために何かをする。やりながら腹が立つ。怒りが隠されている。反抗し始める。時にはわざと失敗をして人の愛情を試す。絶対に成功しなければと思いこむ。仕事熱心。
結果はこのようになる。恐れがある。がんばる。いつも疲れている。不安感がある。いつもほめられている必要がある。うつ状態や虐待が起こる。
この人は自分で自分を癒すことはできません。自分を十字架につけることが必要です。祈ってもらうことが必要です。また無条件に愛される関係が必要です。この行動パターンは「愛されたい、ほめられたい」という気持ちが心の奥底にあります。しかし、やっていることは良いことなので、罪がわからないという難しい面があります。この人は子供の時に、一生懸命頑張って生きてきた人です。自分の力量以上に頑張ってきたので、いつの間にか、がんばることが性格の一部になりました。でも、がんばらないと愛されないという間違った思い込みがあり、それらが罪なのです。何もしなくても存在しているだけで愛されるということが信じられないのです。ですから、行動の背後に愛やほめられることや成功を願ってしまうのです。もし、それが与えられなかったら、うつ状態になったりします。家族や教会、友達が祈って、教え、無条件に愛する関係を築くなら、いやされていきます。
4. 解決方法(手の絵を見る)
① まず、問題を認める。悪いことが起こっていることを認めさせる。悪い実がどんな実であるかをはっきりする。どんな木も一度に赤くはならない。だから、長い時間をかけて一つずつ、解決していく。実がはっきりしたら、根を掘っていく。(実と根の絵が必要ですがここにはありません)適切な悪い根にたどりつくようにする。実と根をはっきりさせる。
② 告白と悔い改めを本人がする。(基本的な鍵:裁き、許せない心、いやな気持、偽りの誓いなど)
③ 赦しの宣言をする(祈ってあげる人)
④ 十字架につける。(古い方法や古い悪いパターン)
⑤ 命を注ぐ(新しい命、新しい方法、変革)祈る人は祝福を祈る。悔い改めたことの反対の肯定的なことを祈る。このように祈っていくと普通の私たちの間で奇跡が起こるのです。
この祈りのほかに、愛すること、しかも無条件の愛、忍耐の愛が必要です。また愛のある人間関係が必要です。愛情をどのように表現するかも人それぞれです。結婚すると違う文化の中で育った二人が一緒になるので、自分が求めている愛の形を相手が持っているとは限りません。そうすると失望したり、行き違いが起こったりします。良く、成長の過程をお互いに知ることです。
まとめ
神様の救いは確かにイエス様を信じた時に与えられます。しかし、それは救いの始まりです。救いの完成は神の時が来た時に私たち肉体が復活することです。私たちはそれまで、キリストの花嫁として清め続けられなければなりません。このミニストリーは清めのためにすばらしい、気づきを与えてくれます。また親の権威がどんなに神によって尊い立場として置かれてあるかを知りました。親を敬うことができなければ、多くの場合、神への信頼が損なわれているのです。親と和解し、神と和解して、深い信頼関係を築きましょう。聖書は神がたてたすべての権威を敬うように教えています。そうすると、人生が祝福されます。私はこのミニストリーを通して十字架の力と復活の命の祝福がどれほどすばらしいかを教えられました。イエス・キリストなしでは、救いはなく、この世は暗闇だということやすべての問題解決はイエス様の手にゆだねられているということが分かりました。お祈りいたしましょう。