阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

地の塩、世の光

2013-01-30 00:15:38 | Weblog

2013.1.27.地の塩、世の光

聖書 マタイ5:13~16

題  地の塩、世の光

暗唱聖句

マタイ5:16

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 

はじめに

1.生活における価値観を築く。

2.いのちだけが成長をもたらす。

3.地の塩、世の光として献身する。

 

 

はじめに

先週、中四国セルコーチングに行きました。火曜日の夜からずっと、宣教について、話し合ったり、教えてもらったり、交わりの中で考えたりしてきました。テーマは「教会が生き生きと喜びにあふれた生活をするにはどうしたらよいか。どうしたら、変えられていくか」などです。

今回はベン先生にお尻をたたかれてきました。二つのことを実行するように言われてきました。「①世の中に愛と善行をするために集まり、励まし合って出ていくこと。②1対1のコーチングをすること。これを続けていけば、教会は自然と変わってきます。」と。

 

 その中で、とても感動したのは、津田キリスト教会の中にあるチャーチスクールの子供たちの姿でした。

彼らは今回いろいろなところで奉仕をしてくれました。小さい子供から中学生まで一緒に賛美し、一人ひとり、暗唱聖句を発表してくれました。長い暗唱聖句を間違えないで、はっきり大きな声で、言えるのです。この聖句を握りしめていたら、生きることができるという大切な聖句で、聞いているだけでも、励ましと力をいただきました。

 この子供たちは天パパ(天のお父様のこと)の為に生きることが自然と身についているようです。国内はもちろん海外でも奉仕することが多くなり、最近では中国に聖書を届けに行ったそうです。この出ていくこと、これが楽しいようです。彼らは寝袋一つでどこにでも寝ることができるようになったそうです。生き生きしていました。私も将来、阿南で、チャーチスクールをするぞと思って帰ってきました。

 

1.生活における価値観を築く。

 私たちは生活の中で、大事なことに時間とお金をかけます。お金や時間の使い方を見ていると、その人が何を大事にしているかがわかります。これを価値観と言います。これは口先だけのことではなく、行動に現われてくるものです。

生活の中では2つの重要なことがあります。

一つは視点、見る方向です。もう一つは確信です。

視点について、リーダーには大切なことが3つあります。

①    遠くを見る。他の人よりもっと先のことを見る。ビジョンを持つことです。10年先のこと、20年先のことを考えます。どんな方向で行くか考えるのです。

②    将来のことを見る。

③    内側を見ることです。

 阿南では10年前に将来子供たちが、教会に来るように、若者が教会に来て、救われるようにと願い、ハッピースクールを始めました。それが今日、中学生や高校生がときどきやって来るきっかけとなっています。また英会話教室も将来若い人が救われるようにと願ってやっています。

私たちは今後の10年間を考えて、10年後に間に合うように、祈り、準備していかなければなりません。

「内側を見る」とは「本当の問題を見抜く力、洞察力」のことです。神の霊は私たちより、私たちを深く知って見ておられます。この洞察力は重要です。神様から、ソロモン王のように、洞察力や知恵をいただきましょう。

 

もう一つの重要なことは「確信」です。

多くの人たちは何かを信じていますし、信念を持っています。しかし、その信念が確信となって、その確信をしっかり抱いている人は多くありません。確信を抱いていたら、その確信があなたを抱いて育ててくれます。

 

私はある時イスラエルに行くという信念を持ちました。そうしているうちに、それが神から与えられた使命だという確信に変わりました。すると、その確信のゆえに、どんなにつらいことがあっても、忍耐することができました。そして、その日が来ることを信じて待つことができたのです。それだけでなく、困難な中で、イスラエルで働けるように着実に準備することができたのです。確信はわたしを抱きしめて育ててくれました。

「あなたは信念を抱く。確信はあなたを抱く。」

 

Ⅱテモテ2:2

「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

教える力のある人は「能力のある人」のことです。これだけでは十分ではありません。次に「忠実な人にゆだねなさい、任せなさい」と言っておられます。「忠実な人」というのはとても重要です。「忠実な人」とは「信頼できる」「頼りになる」「信用できる」「しっかりした」「一貫した」人です。

多くの人たちは外からの刺激によって生きています。しっかりした価値観がないので、状況が変わるとその人の考えも変わります。生活も安定していません。信頼できないことになります。しかし、確信を持って生きる人は自分の価値観を築くことができます。その価値観に従って生きることができます。そうすると生活が安定してきます。信頼できる人に変えられます。忠実な人になることができます。一貫した考えを貫くのです。

 

2.いのちだけが成長をもたらす。

一貫した考えを貫くと、いのちになります。キリストの価値観の中に生きるといのちが生まれるのです。そのいのちが家庭のいのちになり、家庭の雰囲気になります。リーダーのいのちが教会の雰囲気になります。

いのちだけが成長をもたらすのです。もし教会にいのちがなければ、教会は死んでいます。死んだ教会は何をしても、成長しません。

成長するのはそこにいのちがあるからです。システムや方法論にいのちがあるのではありません。大切なのはキリストの命が流れているかどうかです。大切なことは価値観を築くことです。自分のうちに聖書の価値観を築くことが大切です。その価値観がその教会の雰囲気を作ります。その雰囲気の中にいのちがあります。

 

3.地の塩、世の光として献身する。

イエス様は山上の説教の中でこの世の考えとは異なったことを言っておられます。ここには神の国の文化があります。この世に反するクリスチャン文化があるのです。イエス様は私たちが新しい生活を送ることができるように、新しい生活を送ることができるように、新しい命を与えるために来られました。

そして、教えられたのです。

(マタイ5:13~16)

「5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

ここでは具体的に人々の役に立つように行動するように教えておられます。地の塩として、世の光として存在するように教えておられます。

光を輝かせることができる教会は生き生きしています。それは木に例えると根が良いのです。根は目に見えませんが存在しています。根がしっかりしていると、木はすくすく成長し、実がなります。時間がかかりますが、そのうちに実がなってきます。何を大事にするかによって、根がしっかり張るかどうか決まってきます。木が生長するのは目に見えない価値観を実践している時です。

「価値観とはあなたがいつも大事にしていることです。」「あなたは、今、何を大事にしていますか。」

たとえば、「関係」が大事だと知っていますが、関係を作るために犠牲を払ったり、努力したりすることができません。その場合、関係がその人の価値観になっているとは言えません。価値観になっている場合、たとえば、「母親を愛する為」あらゆる犠牲を払い、努力をする人です。

 

価値観が変わらない場合、根が枯れ、そのうち、教会は死んでしまうのです。私たちは生き生きしたキリストのいのちに生きる群れです。価値観を変えましょう。教会の7つの本質に焦点を合わせましょう。

教会の7つの本質にはキリストの命があふれています。

1.関係

2.参加

3.能力付与

4.イエス中心

5.伝道と増殖

6.ネットワーク

7.適応可能な構造

 

これはすぐには理解できないし、身につくわけでもありません。でも、意識をしてこの価値観で生きようとすれば、だんだんわかってきて、変えられていきます。まず、変わるのは自分からです。

 

今日、皆さんに宿題を出します。皆さんは教会から出たら、家庭や職場に帰ります。そこが、皆さんの証の場、礼拝の場です。今週、家庭、または、職場で「世の光」「地の塩」としてあなたのできることをやってください。生活の中ですから、たくさんあると思いますが、一つのことで結構です。関係を作るために、あるいは、もっと親しくなるために、誰かを愛して、その人が喜ぶことをやってきてください。あなたがやりたいことではなく、その人が必要としていることに焦点を当てて考えてください。そして、どんな結果を得たか、来週、証してください。相手はどんな反応をしたか、また、自分の気持ちはどうだったかなどを分かち合いましょう。


上から生まれる

2013-01-22 00:25:26 | Weblog

2013.1.20.上から生まれる

聖書 ヨハネ3:1~15

題  上から生まれる

暗唱聖句

ヨハネ3:3

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。』」

 

はじめに

1.ユダヤ教の指導者ニコデモ

2.新しく生まれる

3.風と聖霊

4.適応

 

はじめに

 先週は「大切なつながり」について、イエス様につながることの大切さ、そして人々につながることの大切さについて、お話しました。その時のみ言葉は、ヨハネ15章5節でした。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネ15:5)」この約束どおり、イエスさまの中にとどまって、生きていくなら、イエス様から命をいただいて、成長し、多くの実を結ばせていただくのです。

今日はニコデモの話です。ニコデモはイエス様と対話をしに来ました。テーマは「新しく生まれる」ことについてです。イエス様とニコデモの対話です。

 

1.ユダヤ教の指導者ニコデモ

 今日の登場人物はニコデモという人です。彼はパリサイ人で名前をニコデモと言いました。ユダヤ人の指導者でした。この人が夜にそうっとイエス様のもとに来て、言ったのです。「先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは誰も行うことができません。」

ニコデモはパリサイ人です。パリサイ人は死者の復活を信じていました。サドカイ派の人は死者の復活は信じていません。このパリサイ派の人々は、ユダヤ人として生まれた者は、すべて神の国に入れると信じていました。しかし、イエス様の教えはそうではありません。

(ヨハネ14:6)

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

神の国に入るにはユダヤ人も異邦人もイエス・キリストを信じ、彼を通してのみ可能なのです。

 

ニコデモは「ユダヤ人の指導者でした。ユダヤ人に聖書を教えるラビ(先生)でした。また、サンヘドリン議員です。日本で言ったら、国会議員です。その彼が、イエス様は神様から遣わされた教師であることを認め、ひそかに教えを受けに来ました。このニコデモはイエス様のもとに夜、やってきました。きっと、人に見られないように気をつけながら来たのだと思います。ニコデモはイエス様のことを「先生」と呼んでいます。これは特別に尊敬をこめた呼び方です。ユダヤ人の指導者(ニコデモはおそらく50歳を過ぎている)が若いイエス様(30歳)のことを「ラビ(先生)」と尊敬をもって呼ぶのは特別なことです。彼はイエス様に救いを求めてやってきました。イエス様はそのことを見抜いてすぐ彼を受け入れました。イエス様は私たちが真剣に神を求めるなら、ご自分を私たちにわかるように現わしてくださいます。(「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」)

 

2.新しく生まれる

イエス様は「霊的な話をしたい」と飢え渇いてやってきたニコデモにたいして、こんな話をされました。

(ヨハネ3:3)

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』

強調して言われるときに使われる言葉:「まことに、まことに(アーメン、アーメン)」

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ここで「新しく生まれる」と言っておられます。ここでいう「新しく」はギリシャ語では「上から」と訳することができます。ですから「上から、新しく生まれなければ」という意味になり、「上から、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」となります。英語では「ボーン・アゲイン」と言います。「神の国」というのは神の支配のことです。目に見えない神の国は、やがて、イエス様が再臨されると、地上に実現します。今、神の国を見ることができるとしたら教会を通して見ることができます。教会は神の支配の中にあり、神の国なのです。愛と聖さのある品位を持った教会でなければならないのです。あなた方は自分のうちに愛と聖さと品性の良さを保っていますか。あなた方は一人ひとりが教会なのです。自覚しましょう。自分たちは神の国の住民であることを。

 

次にニコデモの言ったことを見ます。

 ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』」

ニコデモは「新しく生まれなければならない」と聞いて、戸惑ってしまいました。ニコデモは「新しく生まれる」という言葉を知っていました。イスラエルの国では、当時、このように使われていたのです。6つのことが起こる時、「新しく生まれた」言われていました。

①  異邦人がユダヤ教に改宗した時

②  王になった時(たとえばダビデが王になった時)

③  バール・ミツバ(13歳で成人式)を終えた時

④  結婚した時(サンヒドリンの議員になる資格は結婚した後)

⑤  30歳でラビ(ユダヤ教の教師)になった時

⑥  ユダヤ教の神学校の校長になった時(通常50歳)

ニコデモはさいしょの2つを除いて、バール・ミツバと結婚、30歳でラビになった経験、また、ユダヤ教の神学校の校長というすべてのことを経験していました。ユダヤ教の世界で、「新しく生まれる」と言われることは全部経験済みだったので、ほかにまだあるのかと思って、質問したのです。

「老人になってから、どうやって生まれ変わるのですか。もう一度、お母さんのお腹に中に入りなおすのですか。そんなことができるのですか。」と真面目に質問しているのです。

彼は人生をやり直ししたかったのです。「人生のやり直しはできるのですか」と聞いているのです。イエス様は霊的な救いについて語っておられるのですが、彼はそこまで理解できていません。話がかみあっていないのです。イエス様は霊的な天上のことを話し、ニコデモは地上の人生のこれからのことについて話しているからです。

救いは人間の業の続きではなくではなく、「上から新しく生まれた」結果、与えられるのです。これを「新生」、「新しく生まれる」「ボーン・アゲイン」と言います。私たちは、人種、家系、知識などによって救われるのではなく、信仰により、恵みによってのみ救われます。

ニコデモが「新生」についてわからなかったので続けて言われました。

 

「3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」「水によって生まれる」とはイスラエル的には人間としての自然の誕生のことです。人間の赤ちゃんが生まれる時には羊水が流れてくるので、そう言われたのではないかと思います。「霊によって生まれる」というのは聖霊によって生まれる超自然的な誕生のことです。

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ここでは肉と霊が比べられています。自然と超自然的な誕生が良く分かるように「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と言われています。

 

3.聖霊と風

「 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 

イエス様はニコデモが「上から、新しく生まれる」ということが理解できないので、ここでもう一度、教えておられます。私たちにわかる方法で教えておられるのです。風は誰でも知っています。風がわかれば、聖霊のこともわかるだろうと、「知っていることから知らないこと」へ話を進めておられます。

ここではへブル語がわかれば面白いのですが、へブル語では、風と霊は同じ言葉なのです。風(ルーアフ)も霊(ルーアフ)も見えません。しかし、風は吹けば、木や枝が揺れます。音も聞こえます。また、冬は風が吹くと寒いです。そのように風がふいている結果はわかります。聖霊(ルーアフ・コーデシュ=聖い霊)も同じです。聖霊は見えませんが、霊によって生まれた者はわかります。(Ⅱコリント5:17)「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」古い悪習慣から抜け出し、新しい歩みをすることができるのです。

イザヤ32:15「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」聖霊が注がれた結果、私たちの人生に、このような果樹園を生み出すことになります。素晴らしい祝福です。

 

イエス様は神学校の校長であるニコデモが「新生について」わからなかったので、驚いて言われました。

(ヨハネ3:11~13)

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」

イエス様は地上のことを話したら信じると思ったけれど、信じない。そうだったら、天上のことを話してももっと信じられないだろうと言われているのです。天上に行って、天上のことを見てきた人はいません。ただイエス様だけが天上のことを知っておられるのです。そして天上のことを教えることのできるお方です。なぜなら、イエス様は天上から下って来られたからです。

 

3.適応

イエス様は天上から来られた方です。私たち、クリスチャンも上から新しく生まれた者です。上から生まれた人というのは、母の胎から生まれた人が、もう一度、イエス様を信じて聖霊によって生まれる人のことです。ですから、私たちの国籍は天にあります。この世に属していますが、同時に天のみ国に国籍があるのです。私たちはこの世のものですが、同時に天にも属しています。上からの支配、神の国の支配の下にあります。私たちは上から生まれた者です。上から新しく生まれた人は上のものを求めます。そうすると自分が本当に上から新しく生まれた者であり、神の国に生きているものだということがだんだんわかってきます。私たちは上にある物を求めなければなりません。上から生まれた人は「神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されている人です。」

(コロサイ3:12~16)

「 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」


大切なつながり

2013-01-13 14:55:43 | Weblog

2013.1.13.大切なつながり

聖書 ヨハネ15:1~5

題  大切なつながり

暗唱聖句 ヨハネ15:5

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」

 

はじめに

1.心のつながりはできているか

2.神とのつながり

3.つながり続ける努力

 

はじめに

新しい年になって、新しいつながりの中で仕事をしている人もいると思います。古いつながりを温めている人もいることでしょう。

アッセンブリー教団の標語は「御霊による輪、愛の広がり」という言葉です。ポスターでは、十字架を中心に、手をつないで輪になっている人々の姿が王冠の飾りのようになっています。そこに聖霊が鳩のように寄り添っています。人々のつながり、絆を強めて、協力し合って、宣教の業を進めていこうという目標が掲げられています。

 私たちの教団は教会の格差が大きく、いろんなことに差があります。そこで、ある牧師が教団総会の時、このような発言をしたそうです。「私は中ぐらいの教会から、事情があって信徒一人という教会に遣わされてきました。それで、教団から援助をいただいて、教会の立て直しをしています。いつか私たちもほかの教会を助けることができる教会になることを夢見て、取り組んでいます。大きな教会は小さな教会を助けることで神の祝福を受け、小さな教会は支援を受けることで神の祝福をいただき、キリストの体に連なる教会として、互いに助け合うことこそ、主が望んでおられる教団の在り方だと思います。」と。

今、私たちの教団はメガチャーチ志向ではなく、本当に「使徒の働き」の時代にあったような、キリストのいのちが注がれることをめざして歩み始めています。教会がキリストのいのちにつながり続ける時、愛があふれ、福音の力はもっと爆発的な力となって、町々、村々を駆け巡っていくのです。

 

1.心のつながりはできているか

 現代はとてもグローバルな世界です。地球の反対側のことでもすぐニュースが伝わってきます。また、フェイスブックを通して、いろんな人と会話ができます。人々はつながりを求めて、インターネットの世界でコミュニケーションを試みています。つながりが成功しているかどうかはわかりません。彼らはつながりとは反対にかえって孤独を抱えているかもしれません。

ある牧師が『「つながり」力』(ジョン・C・マクスウェル著)を読んで、学んだとことを分かち合っておられました。その中から、少し、みなさんにも分かち合いたいと思います。

この本を読むと「誰もがコミュニケーションをしているが、つながっている人は少ない。」ということを考えさせられるそうです。世界中の人とコミュニケーションができるのに、自分の周りの人と本当にコミュニケーションができているかどうか、心が通っているかどうかを考えさせられます。人は一人でできることは多くないので、ほかの人と協力して成し遂げるのですが、その力はつながりです。しっかり人とつながることです。多くの人と協力して何かを成し遂げるためには、まずしっかりとつながることです。「つながり」とは相手を思いやり、相手に良い変化を起こさせるような形で関わっていく力です。人は、「つながり」を築くことができれば、自分の将来にも何か、希望を見つけることができます。人は、何かを成し遂げたいと思ったら、人と協力して、連携する方法を学ばなければなりません。

このマックスウェルがあげる「つながり」の5原則は次の通りです。

①    「つながり」は人を動かす力を強める。

②    「つながり」とは、相手を尊重すること。

③    「つながり」とは言葉以上の言葉で語ること。(口先だけではなく、態度で伝える。)

④    「つながり」つくりには、エネルギーが必要。

⑤    「つながり」つくりの力は、学んで身につける能力(スキル)

私たちはこの素晴らしい福音を人々に伝えようと思っています。その時、力になるのがこの「つながりの力」です。本当にコミュニケーションができていたら、良い人間関係、また、成功のカギを握っていることになります。

 

2.神とのつながり

「つながり」という言葉から、イエス様も同じようなことを言われていることに気がつきました。次の聖書の言葉です。

ヨハネ15:5「 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(新改訳)

 

 「わたし」というのはイエス様のことです。「あなたがた」というのはイエス様の弟子のことであり、あなたやわたしのことです。あなたやわたしがイエス様の中にとどまっているなら、多くの実を結ぶのです。「とどまる」というのは「つながっている」ということより、さらに一歩深いつながりを感じさせられます。イエス様のふところにじっととどまっていると考えるどうでしょうか。とっても温かい感じがします。猫がコタツにくるまって平穏な顔をして寝ているような、そんな感じです。それでいて、季節が来れば多くの実を実らせてくださるのです。それはイエス様にいのちがあり、イエス様がいのちの君だからです。枝は幹につながっていれば、それだけで花が咲き、実が実るのです。

 

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(新共同訳)

 

 新共同訳はそのまま、『つながる』と訳されています。ぶどうの木を想像してください。ぶどうの収穫が終わると、実のならない枝は切り落とされます。実のなる枝はもっと実がなるように整理されます。その刈り込まれた枝がぶどうの幹につながっていたら、自然と実を結びます。しかし、つながっていなかったら、実を結ぶことはできません。だから、幹であるイエス様につながっていなさいと言われます。

 

「そうです。わたしがぶどうの木で、あなたがたはその枝なのです。人がわたしのうちに生き、わたしもその人のうちに生きていれば、その人は実をいっぱい結びます。わたしを離れては何もできません。」(リビングバイブル)

 リビングバイブルは「生きる」と訳してあります。イエス・キリストのうちにある命を強調しておられます。人がイエス様と共に生きるなら、その人は豊かな実を結ぶのです。

「つながる」ことは、その幹から命をいただいて、共に生き、成長し、豊かな実を結ぶことです。キリストのいのちがその人をうるおし、生かしてくださるのです。

 

3.つながり続ける努力

 「つながり」を作るのには時間がかかります。努力も必要です。しかし、「つながり」を作りたいなら、人を勇気づける努力をしなければなりません。人を勇気づけることができるなら、世界を変えていくことも可能です。人間関係では相手を尊重したり、人を勇気づけるなどの「つながり」力が必要とされます。その力をしっかり身につけることが大切です。

 さて、先ほどのみ言葉は

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(新共同訳)でした。

主とつながることの大切さを学びました。実際にはどのようにしてつながり続けるのでしょうか。

次の3つのことが大切です。

①    礼拝につながることです。霊とまことを持って礼拝し、霊的な祝福に預かることです。

②    クリスチャンにつながることです。これはクリスチャンと交わることです。個人的でも良いし、家庭集会、セルなどを通してもかまいません。一人で信仰を持ち続けることは大変です。お互いの弱さを出し合って、お互いに祈りあうことで、信仰が強められ、成長していきます。み言葉を分かち合って、交わりをするなら、もっと燃えてきます。

 

③    み言葉につながることです。これは毎日、聖書を自分で読んで、主と直接に交わることです。普通「デボーション」と言われています。信仰の成長の為にはこの自分で聖書を読むことが非常に重要です。忙しいとつい、動くことが早くなり、静まることが抜けてしまいます。でも、どこかで聖書を読む時間を作りましょう。み言葉を読んで、み言葉を握りしめて生活をしましょう。

私は毎日の聖書日課は「クレイ」と「リビングライフ」を使用しています。まだほかにも良い本があると思いますので、自分に合うものをさがして使ってください。

 

それから私たちの教会には、毎年、聖書を1回から2回通読する人たちがいます。去年も通読し終わった方がおられることと思います。聖書通読をすると信仰が骨太くなり、信仰が上がったり、落ちたりしないで、安定してきます。私は一年に一回の聖書通読はできなくて、何年かかかって読みあげます。今回は3年かかって、リビングバイブルを読み上げました。1月1日に黙示録を読んで終わりました。今はマクチェイン聖書通読にチャレンジしています。

 

とにかく読んでみることです。聖書通読にチャレンジしましょう。

どのくらい、時間がかかるかといいますと、次の通りです。

①    新約聖書を一年間に一回読むとします。一日4分の時間があれば読めます。52週間で27巻の新約聖書を読むには、一日4分捧げればよいのです。

②    新約聖書と旧約聖書を一年間で一回全部読むには、新約聖書4分、旧約聖書13分の時間を捧げます。一日、17分、聖書を読めばよいのです。15分程度の所要時間というのは、一日の時間の約1%ぐらいです。一日1%の時間を捧げて、聖書通読を続けるとして、人生の1%を聖書の言葉に耳を傾け、主の言葉を聞いていく生き方はどうですか。素晴らしいと思いませんか。

③    旧約聖書を年一回、新約聖書を年2回読むとしたら、どのくらいの時間が必要でしょうか。新約聖書が8分、旧約聖書が13分です。合計21分です。「クリスチャンが初めて聖書通読するのに無理のない分量です。」と勧めてあります。

 

 受付に聖書通読表をコピーしておいてあります。いろいろな種類の通読表が置いてありますので、皆さんの希望にそった通読表を持って帰って、読み始めてください。今、途中の人はそのまま、読み続けてください。いつか読み終えることができます。読み終えたときの気持ちは感動的です。(通読表はインターネットで「聖書通読表」を入れて検索すると出てきます。)

今年も一年間、頑張って読んでいきましょう。主につながり、また、人々とつながり続けることが大切なのです。 

詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」


私たちの町にも大きな喜びを!

2013-01-08 22:02:07 | Weblog

2013.1.6.私たちの町にも大きな喜びを!

聖書 使徒8:1~8

題  私たちの町にも大きな喜びを

 

暗唱聖句 使徒8:4,8

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

それでその町に大きな喜びが起こった。」

 

はじめに

1.東北に救いの喜びが始まっている

2.熱心に祈る。

3.聖霊によって一つになる。

 

はじめに

明けましておめでとうございます。新しい年が始まりました。私たちも心を新たにして、主に従い、賛美し、心から礼拝を捧げていきたいと思います。日本にリバイバルの足音が聞こえているような気がします。私たちの町にも救われる人たちが起こるようにと期待しています。

東日本大震災の被災地に福音を届け、数多くの教会を生み出そうと取り組んでいる宮城宣教ネットワークが12月に宮城県・松島のホテルで「被災地の方々を励ますクリスマスの集い」を開催しました。109名集まりました。その中で被災地の中で、良い関係を持っている人たちが53名、信仰告白をした人たちが14名加わっていたそうです。あとは関係者たちの方々です。被災地の方々を励ます集いは、今回で3回目だそうです。今回は、賛美、証、ゲーム、ゴスペルフラなどが披露されました。その中でも、素晴らしかったのは被災地の人たちの主に出会った人々の証だったそうです。

 

1.東北に救いの喜びが始まっている(リバイバルジャパンより)

 T.Oさん、女性:気仙沼第一バプテスト教会で受洗

 私の家は道路より少し高いところにあったので、自宅に避難しました。しかし、その後高台に避難している人の声がしたので、急いで上に登って行きました。すると足もとまで水が来て、自分の家が流されていきました。それを見ながら、「夢だよね。夢だよね。」と言いながら、もっと高いところに逃げました。午後3時過ぎのことです。

 それから雪が降ってきて、何度も津波が押し寄せてくるのを上から見ていると、次に火事になりました。なんだか、テレビを見ているような、自分を見失った感じがありました。

 

 それから、避難生活が始まりました。私がクリスチャンになったきっかけは、隣の人がクリスチャンだったことがきっかけです。いろんなものをいただき、やがて、サマリタン・パースの方と出会い、物資をいただきました。スタッフの方が聖書を読んでいたのを主人が見ていると、彼らが避難所に聖書を持ってきてくれました。50年以上生きていたものをすべて失った悲しみがありました。そんな中で、何か、心の支えになるものが欲しくて『聖書』を読むようになり、その教えに感動して涙するようになりました。そして、いただいた印刷物の中に「教会に行ってみよう。」と書いてあったので、避難所にいたクリスチャンの人に「連れて行って」と頼んで、教会に行くようになりました。

 

教会に行ってみて不思議だったのは、どうしてこんな私を温かく迎え入れてくださるのかということでした。驚くことばかりでした。それから、教会に行ったり、行かなかったりしました。牧師の話だけでなく、訪問してくださる先生方のお話にも、心が満たされ、いつも涙が出てきました。支援物資を本当にたくさんいただきました。周囲から妬まれることもありました。しかし、自分はイエス様を信じて受け取ったので、祝福されるのだと思うようになりました。私を助けてくださる方を信じたから祝福されるのだと思いました。

 

聖書にも、「わたしは、世の終わりまで、いつも、共にいます。」と書かれていますが、その言葉を信じ、自分の人生でも、それを体験するようになりました。それから、牧師先生と聖書の勉強をして、10月に洗礼を受けました。その時も多くの方から祝福されて、幸せを感じました。本当に感謝でした。どんなにつらいこと、苦しいことがあっても、神様の御計画のもとで救われているという気持ちでいっぱいです。これからの人生をイエス様にゆだねて歩んでいきたいと思います。

 

K.T.さん、女性(塩釜聖書バプテスト教会にて受洗)

 私には娘が一人います。塩釜の教会の副牧師をしている大友さんとは中学校の同級生でしたが、卒業後、交流はありませんでした。一度、娘の運動会で再開したことがありました。その後、東日本大震災が起き、私の家は全壊しました。小学校に避難している時、極限の精神状態で、神様だけが頼りだと思って祈っていました。そんな避難生活の中で、大友さんご夫妻が声をかけてくださり、様々な支援をしてくれました。心の中の氷が解けていくようでした。そんな中で教会に行くようになり、生かされているんだということがわかりました。そして、私のために、十字架にかかって亡くなられ、三日目によみがえったイエスさまこそが本当の神様だと信じました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)という御言葉が心にあります。イエス様と一緒に生きていこうと思っています。

 

サマリタン・パースの働きを通して救われた方々もあります。サマリタン・パースの支援の働きは2012年の12月で終わりましたが、この後、宣教ネットワークが地域の教会として重要な働きをすることになります。

このネットワークのビジョンが素晴らしいのです。

①    最初の3年間で、5つの教会ネットワークがそれぞれ20の家の教会を生み出す。

②    次の3年間で3倍に増やす。60になる。

③    次の3年、2020年まで1000の家の教会に増殖するというビジョンを持っています。1000というのは宮城県のコンビニの店舗とほぼ同じ数だそうです。

 

また、釜石のアッセンブリーの支援センターから車で30分ぐらいの所にある大槌町の体育館でもゴスペルコンサートが開かれました。そこには町の人々が120名ぐらい集まって、ゴスペルソングを歌い、救いの証を聞き、クリスマスをお祝いしたそうです。アンケートの結果ではほとんどの人たちが「大変感動した」と書いておられたそうです。その中で11名ぐらいの人たちが教会に行ってみたいと表明されていたそうです。

今「町が喜びで満たされる」ことが現実化しています。なぜなら、聖霊様の破れの業が起こり始めているからです。この聖霊様の働きはやがて、日本全国に広がっていくと信じています。

 

2.熱心に祈る。

 さてみことばに帰りましょう。使途の働き8:4,8の聖句は今年のアッセンブリー教団の聖句です。標語は「御霊による輪、愛の広がり」です。

(使徒8:1~8)

「8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

 8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。

 8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

 8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。

 8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。」

 

この時、激しい迫害がありました。サウロは迫害に熱心であり、ステパノの処刑にも賛成していました。ステパノは石打ちの刑にあって、殺され、その日、エルサレムの教会は激しい迫害を受け、イエスの弟子たちはエルサレムから散らされてしまいました。エルサレムに残ったのは使徒たちだけでした。

 

弟子たちはユダヤとサマリヤの町や村々に散らされてしまいました。そこで、彼らは、福音を伝えながらユダヤとサマリヤの町々、村々をめぐり歩きました。

そうすると、素晴らしい神のみ業が起こったのです。汚れた霊は追い出され、病の人たちは癒され、足の歩けなかった人も歩けるようになったのです。聖霊の不思議なみ業が次々とおこったのです。宣教する良い条件があったわけではなく、むしろ、伝道すると捕えられるという迫害の中で、宣教の業がどんどん進んでいったのです。弟子たちを通してなされた聖霊のみ業でした。彼らの働きに実が結び始めたのです。

 

実を結ぶ前提条件がありました。彼らはかって二階座敷で祈っていた時、聖霊のバプテスマを受けたのでした。聖霊のバプテスマを受けるためにも一生懸命祈っていましたし、受けた後も、日々熱心に祈っていました。彼らは聖霊の賜物をいただきました。彼らが手をおいて祈ると聖霊が下りました。病がいやされました。悪霊が追い出されました。奇跡が起きました。この聖霊の破れの業は祈りによるものでした。祈ることによって、霊の破れの業が起こったのです。みんなで心を合わせて祈ることは力です。お互いに祈りあうことも力です。聖霊の業を推し進めていただくには祈りがカギです。祈りましょう。今年は2~3人集まったら、交わりをし、別れる前に一言祈りましょう。交わりの中で出た祈りの課題を祈ったり、相手の祝福、家族の祝福を祈ったりしませんか。恥ずかしがらないでやってみましょう。宣教は小さなことの積み重ねです。一度に大きなことはできませんので、できることから始めましょう。まずは小さな祈りから始めましょう。

 

3.聖霊によって一つになる。

第二に教会が一致して一つにされていることです。教会に加えられるということは主にあって一つとされることです。互いに祈りあい、助け合いましょう。

 

教会を一つとするものはなにか。

①    教会はキリストの命によって一つとされています。キリストの血による絆で結ばれているのです。これは、血のつながった親族よりももっと霊的な深い絆で結ばれていることの事実を示しています。キリストの命を分けあい、キリストの体に属する肢体です。聖餐式でパンと葡萄酒を分け合う時にキリストにある霊的事実が確認され、信仰の基盤が整えられていく時に、信仰者としての一体感と連帯感が生まれてくるのです。ここに、聖餐式の深い意味があります。私たちはキリストの血によってあがないだされた者です。これは霊的な事実です。このキリストの血の絆を取り除くと何もなくなってしまいます。

 

②    また、私たちは、キリストの体にバプタイズされたものです。ただ、聖霊によって、キリストの体にバプタイズされ、同じ御霊を飲むものとされたものです。この霊的事実の自覚を共有し、それを強めることによってのみ、本当の御霊による一致が起こります。また、御霊による愛の共同体が具体的に目に見える形で姿を現すのです。

 

Ⅰコリ 12:13

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、自由人であろうと奴隷であろうと、一つの御霊によって一つの体にバプタイズされ、一つの御霊を飲むものとされたからです。(RSVの英語の日本語訳、佐々木訳)」

これは聖霊によって一つの体にされ、一つの御霊によって生きている状態です。一つなので、切り離すことはできません。私たち自身が同じキリストに連なり、愛し合う教会、助け合う教会、共にキリストに仕える教会なのです。

 

そのキリストの愛をもって、打ちひしがれた人々に希望をもたらすのが私たちの使命です。キリストにある愛が適切な形で示され、その人の心に届く時、お互いに、喜びがあふれ出てくるのです。

今年は阿南の町にもう一度新たな気持ちでチャレンジしてみましょう。聖霊様は先立って働いておられます。私たちは従うだけです。

主よ、この町を変革してください。この町がキリストの町に変えられますようにと願いましょう。そして、私たちを用いてくださいと祈りましょう。