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阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

目に見えないものを探して

2012-12-30 18:10:50 | Weblog

2012.12.30.

聖書 マタイ2:1~12

題  目に見えないものを探して

 

暗唱聖句 へブル11:1

「信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(新改訳)

 

「信仰を、どう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。」(リビングバイブル、へブル11:1)

 

はじめに

2012年の最後の礼拝がやってきました。この一年間、主に守られたことを感謝したいと思います。わが内側にあるものすべてを持って主をほめたたえましょう。教会の礼拝の場でも、生活の中でも主を賛美し、ほめたたえていきましょう。

(詩篇103篇1~5)

「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」

 

1.東方の博士たち

ローマ皇帝に従属していたヘロデ王はB.C.37年からB.C.4年までユダヤの国の王として、イスラエルを治めた人でした。この時代にイエスはユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。主イエスの誕生はB.C.4~6年だろうと言われています。それは、ヘロデ王がベツレヘムの2歳以下の男の子たちを全部殺したという記事から考えられたものです。ヘロデは虐殺事件の後、すぐ亡くなっているからです(B.C.4年没)。ヘロデ王は建築の手腕にすぐれ、2000年後の今日にイスラエルに残っている多くの建築物はヘロデ王の時に造られたものです。 なかでも有名なものはエルサレムの神殿を広くし、美しく改築したことです。

 

 この時代に、東の方の国から博士たちがやってきました。おそらく、今のイランの方から来た人たちでしょう。この人たちの職業は占星術の専門家か、または天文学者であったろうと言われています。3人の博士がやってきたと言われていますが、聖書には3人の博士たちが来たとは書いてありません。彼らは知的階級者であり、富豪の人たちです。砂漠の中を3人で旅をすることはありません。それはあまりに危険なことだからです。おそらく、200人ぐらいの人たちでやってきただろうと想像します。なぜか。2500キロメートルぐらいの距離だとしたら、最低3ヶ月間はかかるでしょう。その上、砂漠を越えてきます。まず、食料を確保しなければなりません。今のように、冷蔵庫の付いている車はないので、生きた羊やヤギを連れて旅をすることになります。穀物などの荷物はラクダに積んで、一緒に来ます。そうすると、それらをお世話する僕たちも一緒に来ます。宝物も携えてきました。途中、強盗に襲われたら、大変です。護衛の為の兵士も必要です。ペルシャ風の衣装をまとった人たちが200人ぐらいでエルサレムに入ってくるとかなり目立ちます。彼らは「ユダヤ人の王になる人が生まれた」と言うので、当然、宮殿にいると考えました。立派な衣装を身に付け、堂々とした風格の博士たちはヘロデの宮殿に行きました。

 

この博士たちは言ったのです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、その方の星を見たので、拝みに来ました。」と。そうすると、ヘロデ王は新しい王の出現を恐れました。このユダヤの王は自分なのだ、自分がメシヤなのだという気持ちがあったからです。しかし、ヘロデ王は純粋なユダヤ人ではなく、イドマヤ人でした。エルサレム中の人々も、この博士たちの一行とその言葉を聞いて、不安になりました。

そこで王は、エルサレムの智者・賢者たちを全部呼び集め、キリストはどこで生まれるのかと質問しました。すると彼らは「ユダヤのベツレヘムです。」と答えました。これはミカ書にかかれています。(ミカ5:1)ミカはB.C.8世紀の預言者でした。その人が将来、メシヤはユダヤのベツレヘムから出ると予言していたのです。

「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決していちばん小さくはない。わたしの民を治める支配者が、あなたから出るのだから。」(ミカ5:1、マタイ2;6)

ヘロデ王は博士たちから星の出現の時間を突き止めておきました。東の方に出現した星は2年前ぐらい前です。(マタイ2:16)

ヘロデは「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」と言って送り出しました。しかし、これはまっかなうそです。幼子に危害を加えようと計画をしていたからです。

 

2.主を受け入れる人、受け入れない人

ここには主イエスを受け入れる人とそうではない人々がいます。いつの時代にあっても、イエス様を受け入れる人と、受け入れない人がいたことを物語っています。主イエスは自分の民(ユダヤ人)の所に来たのに受け入れてもらえなかったのです。ヘロデは自分の繁栄のことだけを考えた人でした。自分に不都合な人がいると処刑しました。残虐な人でした。わたしたちにもヘロデのような罪深い心があります。現代のいじめの問題は、不都合な人をいじめ、排除している社会です。

しかし、信仰というのは見ないで信じることです。物は見えますが、大切なものは見えないのです。

「信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11・1)

現代の社会は見えないものにたいする価値観を失ってしまいました。大変さびしい社会になってしまったのです。見えないもの?何がありますか。もっとも大切なものは愛です。愛し合っていますか。信頼はどうでしょうか。お互いに信頼して生活をしていく、信頼関係は日々努力しなければくずれていきます。お互いに時間を与えあって、信頼関係を築いているでしょうか。

 

3.導きの星

東方の博士たちは王からベツレヘムだと聞いて、再び旅を続けました。すると、東方で見た星が彼らを先導し、幼子の家まで導いたのです。博士たちは喜びました。

導き手が与えられました。

一つは聖書を通して、「ベツレヘム」と教えられ、道が備えられました。その次には星が導いています。この星は東方でみた特別な星でした。実際にその頃に現われた星があったそうです。ただ、その星に関心を持つ人は少数であり、その中に神の愛を見出す人もいませんでした。この東方の博士たちはその星に神の御計画を見出したのです。偉大な王が生まれるという神の啓示を受けたのです。これは聖霊の導きでした。現代も私たちを主イエスの所に導く方は聖書と聖霊です。そして、先に救われたクリスチャンをとおして導かれていきます。私たちクリスチャンはイエスさまのところに人々を導く星の役割をするのです。

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」のです。星は彼らの闇に光を与えました。

 

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」

長い旅をして、ついに、メシアである救い主に会うことができました。星の出現からかなりの時間がたっていました。2年ぐらい経過したでしょうか。ヨセフとマリヤとイエスはベツレヘムに家を借りて住んでおられたようです。

その幼子に出会った瞬間、博士たちの人生は変わりました。新しい命を得たのです。それは永遠の命でした。今まで味わったことのない平安と喜びでした。

 

4.放浪の地から平安の地へ

「東の方」には「放浪の地」という意味があるそうです。それはどこから来たかというと(創世記4:16)「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」この「ノデの地」が「放浪の地」という意味になるそうです。カインは弟アベルを殺しました。その後、平安のない生活をしました。これは罪を犯した者が心に平安がなく、絶えず、心が定まらず、放浪する、何かを求めていく、そのような状態だそうです。人間は罪人ですから、そのような心を持っており、神から去っている時は心が落ち着かないことを表しているようです。この博士たちは全財産をはたいて、このベツレヘムに旅をしてきました。東の国からです。心の中に神に対する飢え渇きがあり、実際に危険を冒し、砂漠を通りぬけてエルサレム、そしてベツレヘムにやってきたのです。その情熱、求める心を主は祝福してくださいました。

 

5.宝物を捧げる。

 

幼子であるイエス・キリストに出会った博士たちは彼を礼拝し、持ってきていた宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を捧げました。

イエスさまに出会った彼らは「あれが真理だ、いやこれが真理だ」と求め続けていた放浪の心の旅に終止符を打ったのです。まだ赤ん坊のイエスさまは何も言わなかったと思います。しかし、恵みとまことに富むお方であった神のみ子は彼らの心を癒し、聖霊で満たしたのでした。真理に出会った彼らは惜しみなく、喜んで、主に宝を捧げたのです。黄金は王の王なる方へ、乳香は大祭司となるお方へ、そして、没薬は十字架にかかって人類のあがないをされるお方に捧げました。これらは彼らにとって宝物だったのです。宝物のあるところに、私たちの心があります。あなたの心のあるところが宝物なのです。その心が主にあるものは幸いです。

 

ある韓国の一家がアメリカにいた時の話です。娘さんのジョイは高校3年で受験生でした。夏のことでした。とても忙しく学校生活をしていました。ところがある日、「南アメリカのニカラグアに宣教旅行をする。」と言ってきました。そこで、お母さんは「高校を卒業して、大学に行くまで3カ月休みがあるので、その時に行ったらよい。」と答えました。すると娘はこう言いました。

「お母さん、私の人生で、一番貴重な時間を、神様に捧げたいのです。有り余る時間を捧げるのはだれでもできるでしょう。」

 お母さんはびっくりしたそうです。ジョイは2ヶ月間の宣教師訓練を受け、15日間、

ニカラグアに宣教に行きました。南米宣教です。娘の一生で一番大切な時期に宣教旅行に行きました。 

 神はそのような娘の信仰と献身を喜ばれました。主はジョイに3200人の中で、成績一番で高校を卒業する名誉をくださいました。その上、8000人の前で卒業演説をすることになりました。また、ハーバード大学とイェール大学に同時に合格しました。この二つの大学はアメリカの名門校です。またビル・ゲイツ財団の奨学金を100万ドルが与えられたのです。神を恐れ、礼拝するものには神が責任をとって祝福してくださいます。

 

私たちは本当に自分の宝物を神にささげているでしょうか。一年の終わりにあたって、主がなしてくださった恵みに十分感謝しているでしょうか。       宝物は人にとって、それぞれ違います。今日、神の前に1年の感謝とともに、主に捧げるべきものを考えてみましょう。

そして、新しい年、もう一度献身の気持ちを新たにして始めましょう。

 

 

6.新しい年は新しい道を主とともに歩もう

博士たちは夢の中で「ヘロデの所に帰るな」という戒めを受けたので別の道を通って帰りました。私たちも、今年の道と同じではなく、もう一段と信仰の高嶺を目指して、新しい道を主とともに歩んでいきましょう。

目に見えない気高きものに目を注ぐ人生であってほしいと思います。

「信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11・1)」


クリスマスは神の愛が示された日

2012-12-26 12:30:29 | Weblog

クリスマスメッセージ

聖書 ルカ2:10~12

   Ⅰヨハネ4:9~10

題  神の愛が示された日

 

はじめに

クリスマスおめでとうございます。ようこそ、おいでくださいました。神様の祝福が豊かにありますように。

1.八重の桜

皆さんはNHKの大河ドラマを見ておられますか。来年からのドラマは「八重の桜」ですね。主人公の「新島八重」は同志社大学を創立した新島襄(にいじまじょう)の妻です。彼女の旧姓は山本八重で徳川幕府の幕末から昭和の初期にかけての生き、非常にエネルギッシュに活躍した女性です。会津藩の砲術師範であった山本権八・さくの子供として誕生しました。八重はおてんばで父に鉄砲の使い方を習い、男たちと混じって、城の籠城戦にも加担しました。しかし、戦争に負け、徳川幕府が倒れると鉄砲にも興味を持たなくなりました。心にむなしさを覚えました。そして、明治4年に京都に兄の山本覚馬を頼って上洛したのです。そこで京都女紅場(女学校)の権舎長、および茶道試補となります。

その頃、京都に来ていたゴードンという宣教師は京都のある旅館で聖書研究会を開いていました。八重はそこに出入りをして、聖書を学んでいました。

その頃、新島襄はアメリカから帰国し、京都に大学をたてようとしていた時でした。宣教師のゴードンが大阪に帰らなければならなくなったので、新島は代わりに聖書を教えることになりました。新島襄はクリスチャンでなければ結婚しないと心に誓いを立てていましたが、伝道するには結婚が必要だと考えるようになっていました。襄の聖書研究を通して、八重は信仰に導かれ、襄と結婚することになりました。明治8年10月に婚約、明治9年1月3日に結婚をしたのです。日本で初めての日本人同士のクリスチャンの結婚式でした。八重は女学校に勤務していた経験を生かし、同志社の運営に助言を与えました。襄は彼女を愛し、アメリカにいる時、親代わりだった人に「彼女は、外見は美しくないが、内面の行いがまことに美しい人です。」という手紙を送っています。

 

2.激動の時代を走りぬいた人たち

新島襄や八重が生きていた時代は激動の時代でした。江戸幕府が倒れ、新しい明治維新がやってきました。日本は1859年(安政6年)鎖国政策をやめ、世界に向かって開港したのです。当時、函館、横浜、長崎が開港されました。その時、明治時代の指導者たちになった多くの若者たちは聖書に触れ、聖書を学び、聖書を読んだのです。そこから、諸外国に遅れていたにもかかわらず、真摯に聖書の言葉を受け止め、従ったのでした。その結果、日本は勢いよく文明開化をしていったのです。

鎖国が解かれたその年にアメリカらオランダ人の宣教師、フルベッキが11月7日に長崎に上陸しました。それから6~7年後、フルベッキの周りには幕末維新を導いた指導者たちが集まり、聖書を学んでいるのです。ある一枚の写真にはフルベッキと当時の指導者の若き日の姿が40人も写っているのです。西郷隆盛、坂本竜馬、勝海舟、伊藤博文、大隈重信、桂小五郎、高杉晋作などは・・・明治維新に興味のある人なら、誰でも知っている名前です。これらの人々が日本を支え、新しい日本を作ってきたのです。一体この力はどこから来たのでしょうか。

 

3.世界の歴史を支配しておられる方

 皆さんは歴史が好きですか。歴史はイエス・キリストを中心に動いていることはご存知でしょうか。キリストが誕生した年を境に、B.C.とA.D.で区別されていますね。B.C.とは紀元前のことです。これはbefore Christ の略です。ADはラテン語でanno domini(主の時)の略です。今年は2012年です。キリストの誕生から2012年が過ぎたという意味です。ですから、私たちは神が定めてくださった時間の中のキリストが地上に来てくださった後の歴史の中で生きています。宗教や、民族、文化に関係なく、世界共通の認識の中にいます。不思議なことです。私は昨日、一枚のクリスマスカードをいただきました。

非常に短いメッセージが書いてありました。しかし、大きなインパクトを受けました。

それはへブル語で書かれていました。「イエスは生まれた。そして、もう一度来られる。」と。私たちはこのイエスの誕生ともうひとたび、今度は王の王として来られるイエスさまの再臨の間に生きているのです。その下には、日本語で、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

私たちの今の時代はこの神の時計に合わせるとどんな時代でしょうか。終わりの時代です。

聖書はどのように言っているでしょうか。

マタイ24:3~13

「 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

私たちは現在、神様の時計の中ではこのような状況の時代に生きているのです。

 

4.クリスマス

クリスマスは神の愛が示された日です。世界で最初のクリスマスは小さな家畜小屋で始まりました。ヨセフとマリヤは住民登録の為にベツレヘムに行かなければなりませんでした。救い主はベツレヘムで生まれることになっていました。イエスさまは神のタイミングとして預言されていた場所で生まれたのです。ベツレヘムは「パンの家」という意味です。「わたしは天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」と言われたイエスさま。パンの家であるベツレヘムはイエスさまの生まれ故郷です。

天と地を創造された父なる神は、人間を愛していたので、その証としてイエスさまを遣わされました。イエスさまには一つの使命がありました。それは人間の罪を赦し、神と和解させるという働きでした。そのために十字架にかかって死ななければなりませんでした。

33年の生涯の後、十字架の上で「主よ。彼らの罪を許したまえ。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈って、息を引き取られました。そして墓に葬られました。すると、3日目によみがえり、墓は空っぽになったのです。主イエス・キリストは復活され、今も生きておられるのです。その力は全地にあまねく響き渡っています。なぜなら、彼は神だからです。

詩篇19:1~4「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」

 

5.その力は復活の力

今、世界は病んでいます。経済も不景気ですし、貧富の差も拡大しています。日本は東北大震災の後です。まだ十分な復興の目安も付いていません。日本も世界も復活しなければならない。今こそ、クリスマスの主人公であるイエス・キリストの復活の力によって、復活しなければ、ほかに手立てはなくなってきたのです。人々は物に頼ってきました。消費することが美徳とされてきました。お金が神様になっていました。その結果、何が起こったか、家族の崩壊が起こってきました。家族や友人知人との関係がこじれ、いさかいが多くなり、醜い犯罪が多くなりました。聖書の言うとおりに「愛が冷えてきたのです。」

 

6.神はあなたに目を留めておられる。

聖書はこう言っています。

Ⅰヨハネ4:9~10)

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

神は私たちを愛しておられます。どのくらい愛しておられるか、それは神のひとり子を私たちに与えてくださったほどに、そして、十字架に付けてくださったほど、痛みを持って愛してくださいました。

主は言われます。「私の目にはあなたは高価で貴い。」と。そしてあなたにやさしい目を注いでおられるのです。天使は羊飼いに「今日、あなた方の為に救い主がお生まれになりました。飼い葉おけに寝ておられるみどりごがしるしです。」と告げました。

今日のクリスマスはあなたの心に主イエス・キリストがお生まれになる日なのです。神はあなたを選んでおられます。イエスさまを心にお迎えしましょう。そして、明治維新の指導者たちのように、若き日に、主イエスに従い、日本を、いいえ、日本だけでなく世界を導く指導者になってほしいのです。インマヌエルの神、それはいつも共にいてくださる神です。そして全知全能の神です。神に不可能はありません。神はあなたに目を留め、期待しておられます。ハレルヤ!


救い主のお生まれ

2012-12-25 21:26:18 | Weblog

2012.12.23.

聖書 ルカ2:1~20

題  救い主のお生まれ

暗唱聖句 ルカ2:11「今日ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 

 ついこの間イスラエルとパレスチナは戦争していました。その間にイスラエルツアーに行かれた方がありましたので、祈りながら、無事に帰って来られるのを待っていました。

待つというのは大変忍耐のいることです。

 

聖書によれば、イスラエルに住んでいるユダヤ民族は特別な民で、神が選ばれた民族だと言われています。何のために選ばれたのかといいますと、神が生きておられることをこの民を通して、世界中に知らせるために選ばれたのです。そのような民ですから神様の約束を信じて、待ち望んでいたことがあります。

 

それは何百年も昔から語られていたことでした。「救い主がやってくる」という約束でした。旧約聖書はこの救い主がやってくるということを約束したものです。そして、新約聖書は「救い主はイエス・キリストです。」ということが書いてあります。

 クリスマスはそのイエス・キリストの誕生日なのです。誕生された場所はベツレヘムでした。この誕生の次第は次の通りでした。それは約2000年前にイスラエルの国で起こった出来事なのです。

 

1.クリスマスストーリー

 その頃のイスラエルはローマ帝国に支配され、税金をローマに納めなければなりませんでした。そのために、皇帝アウグストから、「国民は故郷に帰って住民登録をせよ」と命令が出ました。そのために、人々は、登録の為にそれぞれの町に向かって旅立ちました。住民登録があったことは歴史的事実として大切なことです。

イエスさまのお父さんであるヨセフもがリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムという町へ上って行きました。ヨセフの家系はイスラエルの第2代目の王であったダビデ王家の子孫でした。身重になっている妻マリヤも登録するために一緒に連れて行きました。お腹の大きいマリヤにとっては大変な旅だったと思います。

 普通だったら、3~4日歩いたら着く道のりですが、身重だったので、一週間ぐらいかかってしまったかもしれません。ベツレヘムに着くと、ヨセフはマリヤの為に宿屋を探しましたが、どこも満員で断られてしまいました。そして、やっと探しあてたところは宿屋の客間ではなく、家畜小屋でした。ここで休んでいると、陣痛が始まり、男の赤ちゃんが生まれました。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせました。

 さて、この土地に、羊飼いたちが、羊の番をしながら野宿をしていました。

数人の羊飼いたちが羊を見守りながら、夜番をしていたのです。すると、神の使いがやってきて、神の栄光が、周りを照らしました。羊飼いたちはひどく恐れました。御使いは羊飼いたちに言いました。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなた方の為のしるしです。」

 すると、すぐさま、天使たちの群れが空いっぱいに現われて、神様を賛美しました。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

地の上に、平和が、み心にかなう人々にあるように。」

そして、素晴らしい歌声を残して天使たちは羊飼いたちから離れて行きました。

羊飼いたちは互いに話し合いました。「さあ、ベツレヘムに行って、見てこよう。主が知らせてくださった出来事を。」

急いでベツレヘムに行きました。そして家畜小屋を探しました。そして、ヨセフとマリヤと飼い葉おけに寝ておられるみどりごを探し当てました。羊飼いたちは天使たちが言ったとおりだったので、それをほかの人々にも伝えました。それを聞いた人々はびっくりしました。マリヤはこのことをすべて心に納めて、思いめぐらしていました。御使いたちは、見たことや聞いたことが何もかも天使たちの話の通りだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。

 

これがクリスマスのストーリーです。

さて、どうして、このストーリーが私たち、全世界の人たちが大騒ぎするほど大切なのでしょうか。

なぜなら、第一番目に、神が人間の歴史に介入されて、人間の歴史に光と希望が与えられた日だからです。神は時間の制限のない国に住んでおられました。また霊であるために見えませんでした。肉体の制約もありませんでした。しかし、神は御ひとり子のイエスさまを人間として、この世に送ってくださったのです。人間としての歩みには肉体が必要でした。そのために処女マリヤから赤ちゃんとして生まれてくださったのです。「見よ。わたしはいつまでもあなた方とともにいる。」と約束してくださった神は「インマヌエル」の神でした。インマヌエルというのは神が共におられるということです。

神がともにいてくださるので、私たちは暗闇の中に光を見ることができるのです。失望だらけの中であっても希望を見出すことができます。なぜなら、神に不可能なことはないからです。真っ暗やみの世界に光を与えてくださるのは神です。暗闇の人生に光と希望をくださるのはこのベツレヘムにお生まれになったイエス・キリストです。

 

第二番目にこの救い主は「飼い葉おけ」に寝かされました。

神のみ子であるなら、宮殿に生まれても不思議ではありません。ところがこの幼子は家畜小屋の中でうぶ声を上げました。宿屋も満員、マリヤとヨセフは泊めていただく家もありませんでした。最後にやっと見つかった所は家畜小屋でした。粗末なわらが布団代わりでした。布にくるんで、飼い葉おけに寝かされました。神のみ子が生まれたというのに、何もありませんでした。赤ん坊をくるんだ布は死んだ人を包んで墓に納める時の布だったと言います。旅人はいつもこの布を持ち歩いていたそうです。そんな習慣があったそうです。ほかの言い伝えでは町や村の通りの脇にいつでも、葬式のときにはだれでも使うことができるように、この布が置いてあったとも言われています。

マリヤとヨセフは何も持っていなかったので、とりあえず、この布を借りて、赤ちゃんをくるんだのです。それでも、赤ちゃんは元気で神の恵みとまこと、豊かさを満面にたたえていました。

のちにやってくる東方の博士たちの贈り物の中にも死を暗示させる贈り物がありました。博士たちが捧げた者は黄金、乳香、没薬でした。没薬は、死んだ人の体に塗って墓に納める薬でした。出産祝いにこのようなものを捧げるのはおかしいのですが、博士たちは神様に示されたものを捧げました。赤ちゃんの将来を予測しているものでした。黄金は王の王となる方の為に捧げられました。イエス・キリストは王の王なるお方です。乳香は大祭司となる方の為でした。イエスさまは大祭司として、神と人間との間のとりなしをしておられます。没薬は罪のあがない主として十字架の上で死なれるお方の為でした。飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんは33年の生涯の後、人間の罪を赦すために十字架の上で死んで、墓に葬られ、3日目によみがえられるお方です。そして、今も生きておられるお方です。

 

この主イエスの十字架の上での犠牲こそが神の愛を私たちに伝えているのです。

(Ⅰヨハネ4:9~10)「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

第三番目に弱い赤ちゃんのゆえに、喜びがあふれた。

イエスさまは神様だったのに、普通の赤ちゃんとしての姿と変わりなく、平凡にお生まれになりました。しかし、天使たちは羊飼いたちに「救い主の誕生」を知らせに行きました。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなた方の為のしるしです。」

 

天使たちはこのことを非常に喜んで羊飼いたちに伝えました。「素晴らしい喜び」として伝えたのです。「救い主が生まれた」それはうわさで「もうすぐ救い主が来るだろうと言われていた救い主」でした。イスラエルの国では救い主の出現をだれもが待っていました。しかし、だれも赤ちゃんとして生まれてくるとは思っていませんでした。赤ん坊は一人では生きることができません。もっとも弱い存在です。しかし、赤ん坊の持っているエネルギーはすごいものです。何もできないのに、周りの人たちの関心を一人占めにしてしまいます。弱さが出す力がそこにあるのです。

羊飼いたちは天使が告げたことを信じて、すぐに行動を起こしました。ベツレヘムに赤ん坊を探しに行きました。そして、家畜小屋で布にくるまって飼い葉おけに寝ている赤ちゃんを見つけたのです。何もかも、天使たちの言うとおりでした。羊飼いたちは喜びに包まれて、神を賛美しながら帰って行きました。

 

神が御ひとり子を最も弱い赤ん坊の姿でこの世に送り出されたのは「一人では何もできない存在」を神は大切なものとして見ておられるからだと思います。

この一人では何もできない赤ちゃんからもらった喜びと生きる力は羊飼いたちののちの生涯を変えたに違いありません。この日の出来事は彼らの一生の宝になったことでしょう。

羊飼いたちは貧しい何も持たない人たちでした。このような貧しい人たちに救い主のお生まれが告げられたのです。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです。」と言われました。

「より頼む物を持たない貧しい人」、健康も才能も学歴も美貌も社会の保護もない、親や親類の保護もない、何もかもない人が「心の貧しい人です。」そういう人こそが謙虚に、上におられる神の力を求めるのです。そういう人をイエスさまは幸いな人と呼ばれました。

 

使徒パウロと呼ばれるイエスさまの弟子は目の病を持っていたと言われています。そして、そのことについて癒してくださるように何度も祈ったようです。ところが、その弱さについて神様は彼にこう言われました。「私の恵みは、あなたのうちに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と。その時からパウロはこう言いました。「ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストの為に、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時こそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:9~10)

 

クリスマスは何もない、取るに足りない者に偉大な神の訪れを知らせてくださった出来事です。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなた方の為のしるしです。」


神様からの贈り物

2012-12-19 18:30:04 | Weblog

2012.12.16.神様からの贈り物

 

聖書 ルカ1:39~45、マタイ1:18~25

題  神様からの贈り物

暗唱聖句:ルカ1:45「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう。」

 

はじめに

1.マリヤの信仰の応答

2.ヨセフの悩み

3.インマヌエルの神

 

はじめに

 

金曜日に徳島市民クリスマスがありました。講師は福島バプテスト教会の佐藤彰先生でした。最初、地震が起きて、原発が起こった時、「もう誰も神様がいるなんて信じないだろうな。」と思ったそうです。ところが、そうではありませんでした。津波と競争するかのようにして、車のアクセルを踏んだという人が、「その時、神様が一番近くに迫ってくださった」、「津波の中を泳いで逃げた」という教会員も同じことを言っていたそうです。「あの時、神様が近くに来てくださった。」と。

以前は「空の鳥を見よ。神様が養っていてくださる。」と何気なく言っていましたが、本当に自分たちも空の鳥と同じように養われて1年9カ月を生きてきた、本当に必要なものはあまりないのだと教えられました。

家も教会もなくして、流浪の民として生活する中に、イエスさまがそばに来てくださった感じがしました。

 

クリスマスは神様が私たちの所に来てくださった、私たちの歴史、私たちの生活に介入してくださったことを祝う日です。だから、私は、『クリスマスおめでとうございます。』と言います。」と話してくださいました。「どのくらい神様が私たちを愛してくださったか、ここに現われています。」と言って、ヨハネ3:16を語ってくださいました。

ヨハネ3:16

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

突然、神は人間の社会に介入してくださいました。それは前から預言されていたことですが、その時が来たら、その恵みを受ける人にとっては突然の出来事で、びっくりすることでした。

 

1.マリヤの信仰による応答

 先週は、お話はこうでした。マリヤに御使いガブリエルが現われ、「あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と告げたのです。マリヤはヨセフという婚約者がいましたが、まだ結婚したことのない娘さんでした。そのマリヤに「神の御子が生まれる。名をイエスとつけなさい。」という知らせが告げられたのです。誰も信じられないようなことが起こりました。しかし、本当のことでした。

佐藤先生も、地震、津波、原発を経験して信じられない、夢を見ているような日々を過ごされたそうです。この世には想定外のことが起こるのですね。

マリヤは想定外の恵みを受けました。イエスさまは神様からの贈り物として

マリヤに与えられ、そのマリヤを通して、人類に与えられたと尊い贈り物でした。マリヤはイエスさまを受け取る相手として選ばれました。私たちもまた

イエスさまを受け入れる相手として、神が選んでくださったのです。

 

ヨハネ3:16に「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉があります。イエスさまは、神様のとても大事な、愛するひとり子でした。子は父のコピーと言いますが、神ご自身そのものでした。天のあらゆる祝福を満たしておられました。「恵みとまことに満ちておられた。」「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:14、16)

そのイエスさまを、神様からの贈り物として私たちに与えてくださったのです。

マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょうか。まだ、結婚していないのに。」と御使いに問いかけました。

御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。神には何でもできるのです。」と言いました。

 マリヤはこれを聞いて「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通りになりますように。」とお受けしました。素直に純粋な気持ちで受け取りました。何が起こっているのか、まだ、はっきりとはわかりませんでした。しかし、御使いが告げた、神様の贈り物であるイエスさまを自分の一部分として受け入れました。

 私たちも同じようにすなおに神様の贈り物を受け取る必要があります。神様からの贈り物はマリヤだけに与えられたものではありません。私たちすべてに与えられているのです。マリヤの次にヨセフが受け入れ、そして、イエスさまに出会っていく人々が受け入れていきました。今日、すべての人たちに与えられている神様の贈り物です。

 神様の愛、力、すべての祝福は、このイエスさまの中にあるのです。このお方は神ご自身だからです。

どんな時もイエスさまを信じ、愛し、従う人は、永遠の命を持ち、天上のあらゆる祝福を受け継ぐのです。

 

私は、このみ告げの後、マリヤはどうしただろうかと想像してみました。

マリヤはこの御使いのお告げを受けると、まず、婚約者のヨセフに話しました。愛するヨセフに、神の素晴らしい恵みを分かち合いたかったからです。「昨日、天使がやってきて、私にこんなお告げをしたのです。神様の力によって、男の子を産みます。・・・・」と。ところが、ヨセフはマリヤの言うことがわかりません。夢でも見たのだろうと思ったぐらいです。マリヤはわかってもらえない気持ちをどうしてよいかわかりませんでした。悲しく、さびしい気持ちでいっぱいでした。そして、不安になりました。そして、だんだん、自分の体にも変化が起きてくるのがわかりました。誰がわかってくれるでしょうか。

 

マリヤは御使いが語ってくれたエリサベツおばさんのことを思いました。そうだ、あそこに行けばわかってもらえる、マリヤはそっとナザレを後にして、ユダの山地(エルサレム)へ上って行きました。一人旅は危険でした。しかし、マリヤは孤独でほかに選択肢はなかったのです。ただ、祈りながら、主の守りを頼りに、必死にエルサレムへと歩いて行きました。そして、やっと、ユダの山地にあるザカリヤとエリサベツの家を見つけました。うれしくて、まっすぐに家に入って、おばさんに挨拶をしました。すると、不思議なことが起きたのです。エリサベツおばさんのおなかの赤ちゃんがエリサベツに「主の母上が来たよ。」教えてくれました。聖霊に満たされたエリサベツはマリヤを祝福してくれました。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎(おなかのこと)の実も祝福されています。私の主の母上が私の所に来られるとは、なんということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入った時、私の胎内で子供が喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう。」

 マリヤはうれしくて主をほめたたえました。今までひとりでこの重荷を抱えていましたが、今や、理解者が現われたのです。エリサベツおばさんは、ことばで説明する前から、マリヤに赤ちゃんがおり、しかもメシヤとなる神のみ子だとわかってくれたのです。聖霊が教え、導きました。

 

 マリヤはこのとき、すべての重荷から解き放たれ、心から喜びが湧きあがり、主を賛美したのです。それが46節から始まるマリヤの賛美です。

「わが魂は主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです。本当に、これから後、どの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう。力あるお方が私に大きなことをしてくださいました。・・・・」ザカリヤは祭司です。家には神を愛し、敬う雰囲気が漂っていました。マリヤは毎日主をほめたたえ、祈り、エリサベツおばさんと語り合って、このおばさんの家に、3ヶ月間、滞在し、それから家に帰りました。

 

2.ヨセフの悩み

ヨセフはマリヤから御使いが来たこと、そして「男の子を産む」と告げられたことなどを聞きましたが、どうしても納得がいきませんでした。マリヤを疑うほかに、何を考えることができるでしょうか。ヨセフは怒り、悲しみ、悩み、苦しみました。そのうちにマリヤはユダの山地のエリサベツおばさんの所に行くと言って出掛けたまま、帰ってきません。一ヶ月経っても何の便りもありません。2ヶ月経っても、何の知らせもありませんでした。ヨセフは、マリヤが、ますます、わからなくなりました。そこで、悩んだ結果、出した結論はこうでした。

 

マタイ1:19「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」

ヨセフはひそかに離縁しようと決めたのです。なぜなら、マリヤを愛していたからです。さらし者にして、石打ちの刑にしたくはありませんでした。また、彼は正しい人でした。ヨセフは正しい人だったので、悩みました。彼は誠実で善良な人でした。やさしい人でもありました。ですから、余計に悩んだのです。ヨセフは自分が傷つけられながら、マリヤ傷つけまいとするのでした。やさしい人ほど、正しい人ほど、心に痛みをもち、悩んだり、苦しんだりします。また、人の痛みに敏感で、人を傷つけまいとするからです。その上、人の痛みまで自分で背負ってしまいがちです。

神様はこのような人をご自分の友としてくださいます。神様がそのようなおかただからです。

 

ヨセフはひそかに離縁しようと決心をしました。そのような日の夜のことです。御使いが夢の中にやってきました。

(マタイ1:20~21)「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

神様はヨセフの苦しみを知っておられました。これだけでヨセフは救われた気がしました。神は私たちの悩みを知っていてくださるのです。

 

24~25節「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

 

イザヤ66:2「──【主】の御告げ──わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

 

ヨセフにふさわしいことばだと思います。苦しみ、砕かれ、しかし、神の言葉にたいする恐れを持っていたからです。ついに、マリヤを信じました。マリヤの胎の子を神様からの贈り物であると信じ、受け取ることができました。

 

3.インマヌエルの神

マリヤとヨセフは、神さまからの贈り物であるイエスさまを受け取りました。

マリアは、ヨセフとの結婚を控えていて、ささやかでありますが平和で明るく幸せな日々を送っていたのです。そこに御使いが現れて、「あなたは子供を産む」と言いました。このことで、マリアは急に悩める女性になってしまいました。
一方、ヨセフは深い悩みの中にありました。そこに天使が現れて、「マリアは聖霊によって身ごもったのだ」と言います。御使いの言葉は、ヨセフの悩める心に光を与えました。


 神様が私たちにイエス様をお与えになる時にも、このような二通りの方法があります。ある人は神様の言葉を聞いて、かえって悩みの中に陥るでしょう。ある人は、神様の言葉を聞いて、光を得るでしょう。そのどちらにしても、それは私たちが神様の贈り物であるイエス様を受け取るための、神様の方法なのです。

 

たとえば、私は仏教の家で一人だけ、イエス・キリストを信じました。父は反対で、それ以来、いろいろなすれ違い、生き方の違いからなかなか理解し合うことができませんでした。私も悩み、父も悩みました。母は家族の中に違う宗教があると理解し合うことが難しいと言って悩みました。

 

 また、佐藤先生の証によれば、こんなこともあったそうです。あるご主人が刑務所から出てきた時、奥さんは、なけなしのお金をはたいて、ワイシャツを買って、迎えに行ったそうです。ところがその御主人はそれをびりびり破って、何でこんなものを買ってきたのだ、と怒鳴ったそうです。ご主人はお酒が欲しかったようです。奥さんはひれ伏して「すみませんでした。気がつかなくて。」と謝ったそうです。ご主人は知っていました。自分の感情をコントロールすることができないことを。その場は何もなくおさまったそうです。それから、しばらくしてから、奥さんが「私は教会に行っているけど、洗礼を受けてもいいかしら?」とご主人に相談したそうです。反対されると覚悟していましたら、ご主人が、「いいよ。僕も一緒に洗礼を受けてもいいかな?」と言ったそうです。そして、一緒に教会に行って、主イエスを信じ、洗礼を受けました。教会に行き出してから、お酒も止みました。新しい人生がこの家族の上に始まったのです。この家ではイエスさまをお迎えすることによって、暗闇に光が訪れたのです。

 

マリアも、ヨセフも、神様の言葉を聞いて、それを信じました。そして、ことばを信じることによって、イエス様を受け取ったのです。私たちもこのことを覚えておきましょう。


聖書にはこう書いてあります。
 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』 この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」

 

これは徳島市民クリスマスで朗読された詩です。

 

ある夜私は夢をみた 
 イエスさまと一緒に 砂浜を歩いていた
 私の人生の ひとこまひとこまが 空いっぱいに 映しだされた

 どの場面にも 二人の足跡が 砂の上についていた
 ひとつは私のもので もうひとつは イエスさまのものだった

 私の人生の最後のシーンが 映し出されたとき
 私は砂の上の足跡をふりかえってみた

 なぜか ところどころ 一人分の足跡しかないことに気づいた
 しかもそれは私の人生の どん底で いちばん悲しい時だった
 私はどういうことか わからず イエスさまにたずねた

 『イエスさま 私があなたに従うと決心してから
 いつも一緒に歩いてくださると
 約束してくださったではありませんか

  それなのに私の人生で 
 一番辛い時 一人分の足跡しかないのです
 なぜ私があなたを最も必要とした時
 私をみすてられたのですか 』

 イエスさまはこう言われた
 『私の大切な子よ 私があなたから離れたことは
 いちどもなかった

 あなたが試みにあって苦しんでいた時
 一人分の足跡しかないのは そのとき
 私はあなたを背負っていたからだよ』

 イエス様は神様から贈り物です。イエス様によって、神様がいつも私たちのそば近くに来てくださるのです。感謝をしましょう。そして、御言葉を信じ、イエス様を愛し、喜び、心にお迎えしましょう。御子を心に宿す者は永遠の命を持つのです。



 

 

 


マリヤの信仰による応答

2012-12-10 22:43:17 | Weblog

2012.12.9.マリヤの信仰による応答

聖書 ルカ1:26~38

題  マリヤの信仰による応答

暗唱聖句 ルカ1:37

「神にとって不可能なことは一つもありません。」

 

はじめに

1.イエスの誕生の背景

2.マリヤへの受胎告知

3.マリヤの信仰による応答

 

はじめに

 いよいよ、クリスマスの季節になってきました。クリスマスは世界で一番幸せを呼ぶお祝いの日ではないかと思います。町中が元気になる、そして、プレゼントももらえる。こんなにうれしい日はありません。なぜ、プレゼントの交換があるのでしょうか。それは神様が御ひとり子であるイエスさまをこの世に贈り物として、遣わしてくださったからです。神様からイエス様という尊い贈り物をいただいたので、私たちもお互いに贈り物をし合って、お祝いをするのです。

1.イエスの誕生の背景(事の次第)

「(ルカ 1:26 )ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。」

「この6カ月目」というのは何のことを言っているかといいますと、エリサベツの妊娠のことを言っています。エリサベツはバプテスマのヨハネのお母さんです。祭司であったザカリヤは神殿で祭司としての務めを果たすために、神殿に入って香をたくことになりました。その時、御使いが現われて、言いました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」

その御使いが言った通り、老人夫婦であるザカリヤとエリサベツの間に赤ちゃんが宿ったのです。これはユダのエルサレムでの出来事でした。そして、エリサベツが妊娠6カ月になったころの出来事です。

 さて、今度は御使いがイスラエルの北の方にあるガリラヤ地方に現われました。町の名は「ナザレ」という田舎の町です。この町は旧約聖書には出てきません。また、ユダヤ教の経典であるタルムードにも出てこない町です。全く、知られざる町でした。あるいは小さな村だったかも知れません。

御使いは「ひとりの処女」のところにやってきました。選ばれたのは、誰にもいられていない、小さな町のひとりの処女です。

「(ルカ1:27)この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」

この処女の名は「マリヤ」です。当時の女性の婚約年齢から考えますと、たぶん13歳ぐらいだったろうと思います。

当時の結婚はこのようにして決められ、進んで行きました。一昔前の日本の習慣のような感じです。

①            花婿のお父さんが、嫁を探すところから始まります。

②            良い娘がいたら、その父親に申し込みをします。(娘の意見は聞かれません。)

③            話が決まったら、花嫁の父親に花嫁料を払います。結納金ですね。

④            花婿が同意したら、正式な婚約となります。

⑤            同じ家に住むようになるのは、婚約してから1年後ぐらいですが、この婚約時代は法律的には結婚と同じです。

⑥            もし、花嫁がほかの男性と関係を持てば、姦淫の罪を犯したことになります。(姦淫の罪は石打ちの刑)

⑦            婚約関係を解消するには、離婚手続きをしなければなりませんでした。

 

「ダビデの家系のヨセフ」とはどんな人でしょうか。

昨年、マタイの福音書の家系図から学びましたね。ヨセフはダビデの家系の出身です。また、ルカによる福音書からマリヤもダビデの家系であることを学びました。

メシア(救い主)が生まれる前提条件は「ダビデの家系」であることです。

マリヤはヨセフと結婚していることで法的にダビデの家系です。また、マリヤは主イエスの母です。その母がダビデの家系であることは、イエスは血のつながりとしてダビデの家系から生まれることになります。

神はこの知られざる町の小さな人々をお選びになりました。取るに足りない者を用いて、神の偉大な恵みの業を行われます。

 

私たちはどうでしょうか。本当に小さな田舎の町の誰にも知られていない者です。しかし、主は私たちを選んで、救ってくださいました。これから、恵みの器として用いようとしてくださっているのです。「主よ、どんなことに用いてくださいますか。用いてください。」と祈って、考えてみましょう。

ヨハネ15:16「 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 

2.マリヤへの受胎告知

(ルカ1:28)「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

ザカリヤに現われた御使いガブリエルがマリヤに現われました。「おめでとう。マリヤ。」と声をかけています。マリヤは一体何のあいさつのことかとひどくとまどって考え込んでしまいました。ザカリヤは御使いのあいさつを受けた時、「不安を覚え、恐怖におそわれた」と感じました。しかし、マリヤは「とまどって考え込んだのです。」御使いは励ましの言葉を語ります。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。(30節)」

ザカリヤにもマリヤにも「こわがることはない」と声をかけています。ザカリヤの場合は長い間、祈っていた祈りが聞かれて「ヨハネ」を授けていただきました。しかし、マリヤはそうではありません。「あなたは神から恵みを受けたのです。」と御使いは告げています。マリヤは100%神の一方的な恵みを受けたのです。つまり、マリヤは祈ったり、願ったりしなかった祝福を受けました。それはメシア、救い主の母となる特権でした。

マリヤはイエスを妊娠する前も後も処女でした。男の人と関係した事はありませんでした。ヨセフも一緒に住むようになっても、イエスさまが生まれるまでは関係しませんでした。本当の意味でヨセフと結婚生活に入ったのはイエスさまを出産した後でした。そして、子供を産んでいます。

マタイ13:55,56「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではありませんか。」ここから、考えてみて、少なくてもマリヤは7人以上出産したようです。

 

 マリヤは神から一方的な恵みを受けました。当時、女性の夢はメシアの母になることだったと思われます。しかし、神の選びはそんなことも考えたことのないような乙女マリヤでした。

 

ガブリエルのことばです。「ごらんなさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(31節)」

これはイザヤ7:14の預言の成就です。

「(イザ 7:14 )それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

聖書の中には私たちの頭では理解できない超自然的なことが起きています。超自然の中で現わされる神のみ業と自然な生活の中で現わされる神のみ業があります。処女懐胎はマリヤを通して成就しました。

ザカリヤには子供の名前を「ヨハネ」とつけるようにいわれました。しかし、マリヤには「イエス」とつけるように言われます。イエスの名前の意味は「主は救い(イェシュア)」です。

この子供は「いと高き方の子」と呼ばれます。

「(32~33節)その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

 1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

この子はすぐれた者になる、すなわち偉大な者になるという意味です。ヨハネよりも偉大なものになるという意味が込められています。「いと高き方の子」というのは神の子という意味です。「いと高き方(ハ・エリヨン)」とは神の御名です。へブルの文化では子供は父親と同じとみなされます。ですから、イエスさまは神の性質を持った方です。

「父、ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、」とあります。この意味は、一つ目は「ダビデと約束したダビデ契約の成就である」こと、二つ目はイエスさまがユダヤ人のメシヤ(救い主)として来られたことを示しています。

「その国は終わることがありません。」というのは、将来、主イエスの再臨によって、メシア王国が出現し、この預言は成就していくことを示しています。

 

3.マリヤの信仰による応答

「(34節)そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

マリヤは御使いにたずねています。「自分は男の人を知らないし、まだヨセフと結婚生活はしていません。どうして、私から赤ちゃんが生まれるでしょうか。」と質問をしています。これはとても素朴な質問です。ヨハネはもう赤ん坊が生まれない年齢になった老人から生まれました。これも神の奇跡的なみ業でした。しかし、マリヤへの御使いの語りかけは想像を超えた超自然的なものでした。すごいことが起こりかけていたのです。

御使いは答えました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

御使いは「聖霊によってみごもる」と宣言します。だから、生まれてくる子は「聖なる者であり、神の子です。」と。

イエスさまは最初から神様です。その方はマリヤを通して人間となられました。しかも、罪を持たない人間となられたのです。そのためには罪の種を持っていない受肉が必要でした。処女懐胎が必要だったのです。ヨセフを通すと人間の罪が入ってきます。そうすると「神の子羊」としての資格がなくなるのです。人間イエスは原罪を宿していない人間になる必要がありました。100%神であり、100%人間になられたのです。これは神の業で、私たちには説明できません。

御使いは言いました。「(36~37節)ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

御使いは「エリサベツおばさんを見なさい。もう、妊娠6カ月だよ。」と言います。これがマリヤへのしるしでした。マリヤはエリサベツの妊娠のうわさを聞いていました。奇跡的な妊娠でした。御使いは「神にはできないことはない」と言います。マリヤは信じる決心をしました。大きな決断でした。

「(38節)マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

マリヤはヨセフと婚約中でした。「ヨセフがどのように反応するか」、心配でしたが、彼女は大きな決断をしました。マリヤは答えました。「本当に、私は主のはしためです。あなたのお言葉がこの身になりますように。」と。マリヤは御使いのお告げを、信仰を持って受け止めました。神への従順を選んだのです。彼女は神の最善を受け取りました。マリヤはこれからの生活の中で起こる闘いを覚悟しなければなりませんでした。信じることには犠牲が伴います。しかし、信じる喜びはそれ以上のものです。ピリピ1:29「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」

みなさんの中にも信仰の戦いがたくさんあるかもしれません。しかし、マリヤが信仰を持って、まだ見ぬ胎児のイエスさまを迎えたように、イエスさまを心に迎えてください。このクリスマスの時、もう一度、主イエスを迎えた時の喜びを思い出し、信仰の戦いに勝利をしましょう。栄光の主が来られる再臨の日を待ち望んで、信仰の戦いを打ち破って行きましょう。


神が人間となられた

2012-12-03 23:48:57 | Weblog

2012.12.2.神が人間となられた

聖書 ヨハネ1:14~18

題  神が人間となられた

暗唱聖句

 ヨハネ1:14「 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

1.          神が人間となられた。

2.ひとり子としての栄光

3.受肉の説明

4.主は富んでおられたのに貧しくなられた

 

1.神が人間となられた。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)

ここには「ことばが人となって」とあります。ヨハネは「ことば」には永遠性と神性があること、また、この「ことばは」宇宙の創造主であると言っています。今日の学びでは「ことば」が人類の歴史の中に入ってこられたことを説明しています。

ことばが「人となって」というのは、「ことば」が神から人間に変わったことではありません。「ことば」は神の性質を持っておられます。その神の性質の上に人間性が付け加えられたのです。ことばが人間のように見えたのか、そうではなく、本当に100%人間になられたのです。完全に人間の性質を持たれたのです。これを受肉と言います。人間のように肉体を授かったのです。この人間性は罪とは無関係でした。アダムも罪を犯す前は完全に作られたのです。その時まで、罪は無関係でした。人間の本来の姿にも、罪はありませんでした。創造された後、生活の中で神に不従順という罪を犯し、人類に罪が入ってしまったのです。この肉体を持ってこの世に来てくださった主イエスを受け入れる人は神の子にされます。

使徒ヨハネはこう語っています。(Ⅰヨハネ4:2~3)「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。 4:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」

イエス・キリストは100%神であり、100%人間です。これを否定する教えはキリスト教ではありません。反キリストの教えです。イエス様は100%人間になってくださったので、私たち、人間の弱さを思いやってくださることができます。

 

2.ひとり子としての栄光

次に「私たちはこの方の栄光を見た。」とあります。「私たち」というのは主イエスの弟子たちのことです。イエス様の栄光を見た人たちです。ことばは神の栄光の表れでした。そしてイエス様も神の栄光の表れとしてこの世に来てくださいました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」「住む」「宿る」というのは原語で「テントを張った」「幕屋を張った」という意味になります。

これはイスラエルの民がエジプトを出て、荒野を旅しました。その時イスラエルの民の間に、礼拝する場所として、幕屋が建てられました。そして、その幕屋には神の臨在が満ちていました。この神の臨在の輝きが「神の栄光」と呼ばれるものです。出エジプトでは「雲」の存在の中に神の栄光が表されています。

出エジプト40:34~38

「40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。

 40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。 40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。 40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。」

この雲は神の臨在を現していました。イスラエルの民が荒野を旅した時、いつも共におられた方です。

この荒野の「幕屋」と「人となられたイエス様」が私たちと共におられることには関係があります。「ことばが人となって、私たちの間に住まわれた」というのは「ことばが人となって、私たちの間に幕屋を張られた。」ということになります。すなわち、私たちに適応すると、私たちの人生の荒野においても、神の幕屋がある、それはイエス様がおられるということを示しています。悲しい時、苦しいと時、困難な状況の時、イエス様が共にいてくださるのです。イエス様は、目には見えない神の臨在を示すお方です。そのイエス様が私たちとともにいてくださいます。「インマヌエルの神」と呼ばれるというのはこのお方のことです。

 

「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」これは他と比べることができない、ただ一人の御子であることを示しています。

ここで「栄光」ということばを考えてみます。

ヨハネの福音書では「栄光」と「十字架の『時』」が関係しています。十字架は、とても残酷な刑罰です。しかし、御子であるイエス様が神の栄光を受けるためには通過(とおりすぎる)しなければならない出来事でした。

①    ヨハネ7:30

「 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」

②    ヨハネ12:23

「すると、イエスは彼らにこたえて言われた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。』」

③    ヨハネ13:1

「さて、過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を余すことなく示された。」

「私たちはこの方の栄光を見た。」とありますが、どこで、栄光を見たのか、次の6段階をすべて含みます。

①    イエス様の誕生

②    公生涯(変貌のメシア)

③    十字架(これがクライマックス)

④    復活(十字架の有効性を証明した)

⑤    昇天(大祭司としての働き)

⑥    再臨(クリスチャンの希望)

 

「この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「恵み」とはへブル語で「ヘセッド」と言います。これは契約への忠実さ、契約に基づく愛のことです。「まこと」はへブル語で「エメット」、「揺るがされることのないお方」という意味です。信頼できるお方です。この2つは神の基本的な性質です。このような恵みとまことに満ちたお方が、私たちとともにいてくださることをもう一度、再確認しましょう。そして私たちにはどんな時も希望があることを認識しましょう。素晴らしいですね。

                 

3.受肉の説明

(ヨハネ1:16)「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」

ここに「恵みの上に、さらに恵みを受けた」と表現してありますが、それは大いなる恵み、素晴らしい恵みを受けたという意味です。

17節「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

ここには律法の時代であった旧約の時代と、恵みの時代である新約時代を比べています。「ことば(ロゴス、メムラ)」の意味の中に「契約の仲介者」という意味があります。イエス様が新約の仲介者になられました。

次に(18)「いまだかって神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」

イエス様は父なる神をこの世に示すために来られた方です。イエス様はある時弟子たちに言われました。「私を見たものは、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」と。

(ヨハネ14:6~7)

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』」イエス様と父なる神様は一つであることを示しておられます。

イエス様は契約の仲介者であり、啓示の仲介者です。私たちを新しい一人の人に造り上げてくださるお方です。イエス様を信じた時、神とともに歩む人生が始まります。かって、幕屋の中にあった神の栄光が私たちの心の中に入ってくださり、私たちの人生を導いてくださいます。神の栄光が人生の道しるべとなってくださるのです。

 

4.主は富んでおられたのに貧しくなられた

(Ⅱコリント8:9)「Ⅱコリ 8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

イエス様は神であられたのに、人間となってこの世に来てくださいました。

100%神である方が100%人間になられたのです。すべての富をおいて、この世に来てくださいました。そして、貧しい、家畜小屋でお生まれになりました。これがクリスマスです。それは私たちが豊かにされるためでした。イエス・キリストの貧しさには人を富ませる力があるというのです。パウロ先生もそう語っています。

(Ⅱコリント6:10)「 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」これが、イエス・キリストを信じる人々の中にある豊かな恵みです。

これは主が富んでおられたのに、私たちの為に貧しくなり、身を低くして人間となってくださったからです。

さらにパウロ先生はこう語っています。

ピリピ4:12「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」

イエス様が人となられ、私たちとともに生きてくださる、歩んでくださるということは、あらゆる境遇に対処できるということです。何というたくましい生き方ができるのでしょうか。

貧しさもよし、富めるもよし、どちらにも満足と感謝の日々を過ごすことができる、これこそ、今日、多くの人々が求めている生活です。

不況の世の中にあって、豊かに生かしてくださるお方がおられるのです。

(ヨハネ1:16)「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」

貧しさの中に来てくださったイエス様に感謝しましょう。主の貧しさによって、富むものにしてくださった神に感謝しましょう。何も持たないようでも、ほかの人を富ませることができるようにしてくださったお方に感謝しましょう。また、御ひとり子を送ってくださった父なる神に感謝しましょう。