2013.11.10.イスラエルの証(掲載がおそくなりました。)
聖書 Ⅱペテロ3:3~3:10、ヨエル2:23、使徒1:8~12
題 イスラエルの証
高橋朗兄(日本メノナイトブレザレン教団 石橋キリスト教会)
はじめに
10月に、高橋ご夫妻は、イスラエルの友人の結婚式に招かれました。その結婚式に出席するために、日本からイスラエルに旅立ちました。その時の証です。
Ⅰ.イスラエルの結婚式
その結婚式はエルサレムから北へ約100Kmのキブツ・エイン・ハショフェットで行われました。 ハルマゲドンのメギドのすぐ近くのキブツ(農場)です。 農地をローラーで平らに整地して、結婚式を行いました。夜8時から、結婚式が始まる予定でしたが、実際に始まったのは9時半頃でした。待てども、待てども、結婚式が始まる気配がなく、新郎はただお客を迎えて挨拶だけをしていました。日本人の私たちには、考えられないことでした。
夜空は満月。結婚式の写真:フッパ(天蓋)の下で結婚式をします。このフッパは結婚する二人の新しい家を象徴しています
結婚する二人は、結婚式前の7日間は、 会ってはいけないことになっています
聖別のためと、説明されていますが、・・・。
聖書は、このことについて、何を示しているでしょうか?
黙示録 21:9 「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。
『ここに来なさい。私はあなたに、 小羊の妻である花嫁を見せましょう。』
21:10 そして、御使いは御霊によって 私を大きな高い山に連れて行って、 聖なる都エルサレムが神のみもとを 出て、天から下って来るのを見せた」
ここに「小羊の妻である花嫁」と書いてあります。「小羊」はイエスさまのことです。「花嫁」は、この聖書箇所では「新しいエルサレム」です。
Ⅱペテロ3:3~4「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、3:4 次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」
Ⅱペテロ3:8「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
「キリストの来臨」についての、この文脈の中で、「千年は1日」と語られています。
天地創造からアブラハムまでが約2000年で、日曜日と月曜日。アブラハムからイエス・キリストの初臨までが約2000年で、火曜日と水曜日。十字架から主の再臨までが?年。その後、千年王国があります。千年王国が土曜日「安息日」と考えると、ユダヤ人の間で、彼らの待ち望んでいるメシアは、6000年を遅れることはないと言われていますので、その時が永遠の安息になります。
今年は西暦2013年です。ユダヤ暦では5774年です。度重なる捕囚の為に約250年の誤差が生じているそうです。ですから、5774年+250年は6024年となり、主の再臨の時はもうすでに熟していると言えるかもしれません。
千年王国の後に「新しいエルサレム」が下りてきます。ですから、結婚式まで、花婿と花嫁は7日間会えないわけです。
私たちの救いの完成は、民族としてのイスラエルの回復と無関係ではありません。ですから彼らの救いと、イスラエルの回復のために、私たちは懸命に祈る必要があります
主の再臨が近いと言われていますが、今回、ユダヤ人の結婚式に招かれたことで、主が「その日は本当に近いんだよ。」と語ってくださったように思いました。
Ⅱ.初めの雨 後の雨
ヨエル書 2:1~2「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない」
ヨエル書 2:23~25 「シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」
初めの雨 モ―レー(ヘブライ語)(詩篇84:6、ヨエル2:23)
先の雨 ヨ―レー(ヘブライ語)(申11:14、エレミヤ5:24)
秋の雨 プロイモス(ギリシャ語)
これらの雨は10月から11月にかけて降る雨のことです。
*初めの雨:モ―レー
詩84:5~6 「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」
*後の雨:マルコーシュ
3月から4月頃に降り,穀物の豊かな実りをもたらすので,祝福の雨とされる。
(申11:14,ヨブ29:23,箴16:15,エレ3:3,5:24,ホセ6:3,ヨエ2:23,ゼカ10:1)
*初めの雨の「モ―レー」と教師の「モ―レー」はへブル語では同じ単語。
ヨエル2:23「 シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」
「義とするための初めの雨 」は「義なる教師」と同じ。
過越の食事の準備(エッセネ派の集団)
マルコ14:13そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、 その人について行きなさい。
ルカ22:10~13イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生(ホ ディダスカロス)があなたに言っておられる』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。
ここで、「先生」には、定冠詞がついています。エッセネ派が待ち望んでいた、死海写本にでてくる光の子と闇の子の戦いを導くメシアのような「あの先生」です。義なる教師のことです。へブル語で「モ―レー」と言います。これは初めの雨と同じ単語です。雨には2つの種類があります。初めの雨と後の雨です。初めの雨であるイエスさまの初臨、その時の主イエスの存在は初めの雨のように激しい雨となりました。
「エッセネ派 」についての説明
ヨセフォス『ユダヤ古代誌』
「彼らは妻もめとらず,奴隷も手に入れない.……彼らは自分たちだけで生活し召使の仕事を互いにやり合っている」
彼らは,物を共有する生活共同体を構成し,儀式的なきよめを重視し,結婚,奴隷制,戦争に反対したと言われている.この宗教との関連性が論じられているのがクムラン教団である.死海沿岸を居住地としていたエッセネ派は,聖地巡礼の時にはエルサレムの南側にある建物を修道院にしていた.
Ⅲ.壁
使徒1:8~12 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。・・・
ゼカリヤ 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
私たちは、主が昇天されたオリーブ山を見ることができます。
私たちは、主がこのオリーブ山に再び戻って来られることを信じています。
西壁の前で熱心に祈っている彼らには、壁しか見えません。
この壁はだれが作ったのでしょうか。私たちが作ったのかもしれません。この約2000年間、キリスト教はユダヤ人を迫害してきました。その結果、彼らは主イエスを見ることができなくなってしまいました。この壁はわたしたちクリスチャンが作ってしまった、といっても過言ではないでしょう。悔い改めと同時に、ユダヤ人に謝罪をする必要があると、壁の前で祈る彼らを見る私に、主は語られました。
またこのことを、日本の私たちの生活に適応すると、どのようになるでしょうか。先に救われたクリスチャンたちの思いの中に高慢な思いがなかったでしょうか。その高慢な思いによって、まだ救われていない人々に対する接し方を間違ってしまったのではないでしょうか。上からの目線で見てしまい、大柄な態度を取ってしまったかもしれません。「主よ、お赦し下さい。私たちを、へりくだって人々に仕えさせてください」と、思わず祈りました。
〈祈祷〉
私たちは、主がこのオリーブ山に再び戻って来られることを信じています。
そのオリーブ山を見えなくした壁を作ったのは、私たちです。
ああ主よ、どれほど多くの先人たちが今のこの時代に生きることを望んだことでしょう。
主よ、あなたの再び来られる日が、日一日と、近づいています。
どうか、私たちの友人、知人、家族とともに、 喜んで、その日を迎えることができるように、 ここに集う、私たち一人一人を主が聖霊で満たしてくださり、家庭へと、職場へと、学校へと遣わしてください。 主の十字架の死と復活、再臨を宣べ伝えさせてください。