阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

仕えられるためではなく、仕えるために。

2016-07-29 20:33:34 | Weblog

2016.7.24.香港チームの短期宣教師たちの日

聖書 マルコ10:45

題  仕えられるためではなく、仕えるために。

 

暗唱聖句 マルコ10:45

「 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 

はじめに

今年も、香港から短期宣教師たちのチームが来てくださいました。6人です。土曜日は子供たちのデイキャンプをしました。午前中は英語の勉強をして、午後からプールで水遊びをしました。ミニプールですが、結構大きくて、子供たちはキャーキャー大騒ぎをしていました。

今日は香港チームのメンバーが証をしてくださいます。中国語から英語へ、英語から日本語へ、日本語から手話に通訳されます。英語の人はそのまま日本語へ通訳されます。

 

証1.アンディさん(カナダから参加の男性、18歳)

 多くの人は親に愛されていると思います。私は親に話せないことがありました。自分の内に秘めておきたいことがありました。しかし、ゆっくり、両親に話すようになりました。自分にとって重要なことを両親に話すと、その後で、物事が悪くなっていきました。そして、両親との関係が悪くなりました。両親との関係が悪くなると、部屋に閉じこもっていました。いわゆる、引きこもりです。

教会に行くようになりました。教会を通して良い関係を持つようになりました。コミニケーションが重要であることが分かりました。他の人とコミニケーションすることが大切だと気がつきました。神様は両親と話す機会を与えてくださいました。話すことを通して、仲の良い家族に変えられました。今では両親は友達以上のものです。

 

証2.ニハルさん(インドから参加の男性)

 私はクリスチャンの家庭に生まれましたが、13歳まではクリスチャンではありませんでした。神様を信じてはいなかったのです。イエスさまの話は作り話だと思っていました。12歳の時、大学に入るためのセンター試験を受けました。その頃は暗い生活をしていました。多くの悪いことをしていました。自分の好き勝手な生活をしていました。

ある兄弟がイエスさまの事を話してくれました。私は私の知っている限りのイエスさまの事をたくさん、その友人に話しました。すると、その友人は「あなたはイエスさまの事を知っているふりをしているだけだ。本当は知らない。」と言いました。私は怒りました。その友人は「イエスさまが私のために死んでくださったので、生きることができる。」と言いました。

その夜、私は眠ることができませんでした。とうとう、イエスさまに従う決心をしました。その夜から、私は自分を神様に捧げました。私は変わりました。家族を愛するようになりました。私がここにいるのはイエスさまのためです。私はイエスさまのためだけに生きています。イエスさまはあなたと私たちを愛しています。

 

証3.スミスさん(ホンコンから来た男性)

 2004年11月、身体の検査をしました。その結果、鼻の奥にガンがあることがわかりました。そのガンが見つかった時、もう人生の望みはないと思いました。その時、大学を卒業して3年しかたっていませんでした。どうしてこんなことになったのか、何か悪いことをしたのか、罰を受けたのか、いろいろ考えました。私の両親が病気のことを聞いた時、心を痛めました。これからの人生にどのくらい影響があるのか、心配しました。家の中にガンにかかった人が4人います。家族がまたガンになるのではないかと心配しました。病気の治療中に、従兄弟が教会に導いてくれました。日曜日の礼拝で、イエスさまが十字架で私の罪のために死なれた事がわかりました。平安が与えられました。数回、教会に通った後、私はクリスチャンになりました。

治療中の私が一番気になることは注射でした。いつも別々の看護師が来て、注射をします。忙しい日は雑に扱われて、注射が痛いのです。心配して祈りました。「どうか、熟練した看護師が来て、上手に注射してくれますように。」ある日、ある看護師がやってきました。その人は注射が上手ではありません。私はすぐ、神さまにお祈りしました。「どうか、注射の上手な看護師が来るように。」と。すると、その看護師は別な用事で忙しくなり、どこかに行ってしまいました。別の注射の上手な看護師が来ました。あんまり痛くありませんでした。神様がお祈りを聞いてくださったことがわかりました。治療を受けた時、一人ではない、神が共におられる事がわかりました。

現在、ガンはありません。主の奇跡です。

 

証4.キャロルさん(ホンコン、女性)

 私の経験をお証できて、感謝いたします。私は若い日にイエス様を信じました。2001年12月から2014年3月まで、私は手術を受けました。最初の診断はガンでした。2度目は腫瘍があると言われました。その腫瘍は首のところにあります。イエスさまが共にいてくださいました。2回の手術の間、平安がありました。イエスさまが導いてくださっていることを感謝しました。私には計画がありました。注意深く、内科の医者を選びました。何をすべきか、気をつけて選びました。2つの手術後、全部、よくなりました。いろんな人生の計画がありましたが、それらを全部、主にゆだねました。

私は20カ月の抗がん剤治療を受けました。髪が無くなりました。私の身体はとても弱りました。自分の感情をコントロールすることができなくなりました。家族でさえ、理解してくれませんでした。この20カ月の間、イエスさまだけがわかってくださいました。イエスさまは多くの天使たちを送ってくださいました。また、日本の兄弟姉妹たちも、涙を流して祈ってくれました。

イエスさまがこの世に来てくださった事を感謝しました。イエスさまが血を流して、私の罪を赦してくださいました。私の兄弟を救いに導いてくださいました。人生の困難な時も守ってくださいました。主イエスに在って、命があると言われました。なぜなら、イエスさまは道であり、真理であり、命だからです。神の命をいただきました。クリスチャンになってから、とても幸せになりました。多くの困難を乗り越えなければなりませんでした。その中でも、イエスさまは喜ぶ心を与えてくださいました。

(ヨハネ14:27)「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

 

証5.コーラさん(ホンコン、女性)

 私はこの教会に2回(去年と今年)も来ることができて、とても幸せです。

私は小学生の時、イエス様を信じました。私はとても若かったので、あまり、イエスさまの事を知りませんでした。しかし、問題が起きた時はいつもイエスさまにお祈りしました。

 子供時代は幸せではありませんでした。私は愛されなかったので、悪い子になりました。私は両親と姉妹を好きではありませんでした。両親は私を支配するだけで、愛していませんでした。父は家では怒ってばかりいました。中学校に入るまでは、悪い友人と会っていました。私はタバコを吸い、反抗的でした。私は時には他の人をやっつけたり、時には他の人が私をやっつけたりしました。また、自分が不幸だと思う時は、自分で自分を傷つけました。

 ある日、学校でタバコを吸っているのを、先生に見つかってしまいました。これが人生の折り返し地点でした。先生は私の母を呼んで、煙草の話をすると言いました。私は神様に祈りました。「どうか、お母さんが電話を取らないように。」しかし、母は電話を取りました。何が起こったのかを母に言わなければなりませんでした。母はそんなにひどく私を責めませんでした。そして、母は優しく言いました。「家に帰って、何かを食べなさい。何か、先生のまちがいかもしれない。」と言いました。私の心はふれられました。母は私のことを知らないのだと思いました。母はいつも私の見方でした。父は何も言いませんでした。父は「タバコは吸わないように。健康によくないから。」と言っただけでした。私は悪い子でしたが、両親が私を受け入れるように、神がそうしてくださいました。

それから、変わりました。どのように他の人を愛するかを学び、愛するものになりました。今は教会に通っているし、神様を愛しています。先月、聖霊のバプテスマを受けました。信仰の次のステップに移っています。聖書学校に入学します。日本への宣教師になる決心をしました。

 

証6.ニックさん(ホンコン、女性)

 私は英語の勉強をして、英語の教師です。8年間、学校で英語を教えました。しかし、今は学校の教師を止めて、聖書学校の1年生です。2つの短い証をします。

中学校の時、教会に通いました。教会は、学校の中にあって、5分間の勉強時間でした。両親は忙しいので、かまってくれませんでした。学校へ行くと言って、教会に行きました。父は教会に行って欲しくないと言いましたが、教会に行きました。私は父のために祈りました。「イエス様、私は本当に教会に行きたいです。父が許してくれますように。」6カ月後、「あなたはどこへ行くのか。」と尋ねました。父は怒って「教会に行くな」と言うかと思いましたが、そうではありませんでした。父はクリスチャンではありませんが、「教会の人は良い人たちだ」と思っています。

2つ目は神学校の生徒になったことです。英語の教師の仕事を止めました。私の人生と自分自身を捧げました。日本の宣教師になりたいと思っています。

神様は実がなるお米を、日本のために作ってくださいました。今の時期はまだ実はなっていません。実は熟していないのです。実と葉はまだ青く、どれが実で、どれが葉であるか、わかりません。日本の教会はまだ熟していませんが、そのうちに収穫する時が来ると思います。日本の教会は祝福されて、リバイバルされると思います。今回の日本の宣教旅行は4回目の日本宣教旅行です。2003年は仙台、2008年は和歌山、2013年は山口、2016年は徳島です。

神は香港で多くの人を救いに導き、多くのクリスチャンを起こしてくれています。多くの人々は日本のために祈っています。希望を捨てないでください。「何かが起こるまで祈り続けなさい。」と言われています。祈り続けましょう。日本の教会の歓待を感謝しています。愛されている事を感じています。

 マルコ10:45

「 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」


カインとアベル

2016-07-21 18:00:18 | Weblog

2016.7.17.カインとアベル

聖書 創世記4:1~16

題  カインとアベル

暗唱聖句 箴言16:32

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

 

はじめに

 ニュースでは毎日のように、テロ事件や戦争や殺人事件についての報道があります。本当に悲しい世の中です。これは現代の病気でしょうか。そうではなく、聖書にはアダムとエバに生れた最初の子どもが殺人を犯したと記録しています。誰も、殺人について教えたわけではありません。むしろ、神を愛し、家族を愛することを教えたと思います。しかし、悲しいことが起こってしまいました。今日の物語は世界で初めて起こった殺人事件です。

 

1.神は私たちの心を見られます。

アダムとその妻エバは一人の男児を授かりました。二人はエデンの園から追い出された時、救い主(メシヤ)が女性から生れると約束されていたので、メシヤが生れると期待していました。そして、「私は主によってひとりの男子を得た。」と言ってカイン(「得る」と言う意味)と名前をつけました。カインは畑を耕すものとなりました。二人は長男は、きっと、メシヤだと思ったのですが違っていました。そこで、むなしさを感じた二人は次男が生まれた時アベル(むなしいという意味)と名前をつけました。アベルは羊を飼うものとなりました。

ある時期になって、神を礼拝する日がやってきました。その時、兄のカインは地を耕して得た畑の作物を、神に捧げました。弟アベルは羊を捧げました。それも、飛びきり上等の、一番良いものを捧げました。

神はアベルの捧げものを喜び、目を留められました。そして、アベルの捧げものを受け入れられました。なぜかカインの捧げ物は受け入れられませんでした。なぜ、カインの捧げ物は良くなかったのでしょうか。

(ヘブル11:4)「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

カインとアベルの違いは神を礼拝する心、信仰の違いです。そのあり方が捧げものに現われたのです。私たちが礼拝する時、神は私たちの心を見られます。私たちの心の飢え渇きを見ておられ、ご存じなのです。

神様は私たちの心を見られます。私たちがどういう態度で神に接するか、神は御存じなのです。

神は預言者サムエルにこう言われました。ダビデがまだ少年であった頃の話です。ダビデの兄弟は他にもたくさんいました。体格もよく、立派でした。しかし、神はサムエルに言われたのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)

 

2.  神は素直な心を喜ばれます。

 カインとその捧げものには神が目を留められなかったので、カインは不満と怒りでいっぱいになりました。そして顔を伏せ、神の顔を見ることができませんでした。神である主は言われました。「なぜ、怒っているのか、なぜ、顔を上げないのか。あなたが正しいことをしていたら、受け入れられている。正しくないことをしたではないか。もし、正しくしていないなら、罪が戸口で待ち伏せしている。罪があなたを誘惑している。しかし、あなたはそれを治めなければならない。」と言われました。

しかし、カインは悔い改めることをしませんでした。自分の礼拝の姿勢が良くなかったということを認めなかったのです。

旧約聖書では罪を赦してもらうための捧げ物は動物の捧げものと決まっていました。動物を殺して、血を流したのです。「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)「命は血の中にあります。」罪をゆるしてもらって、命に生きるためには動物の血を流す必要があったのです。カインはそれを知っていながら、そうしなかったのです。自己流の捧げものをしました。きっと、弟から羊を買うのも嫌だったのでしょう。アベルは羊を捧げました。これは後になって、来てくださるイエス・キリストのことを現わしています。「見よ。神の子羊」と叫んだバプテスマのヨハネの事を思い出してください。

 

カインの心はいらだちと嫉妬、怒りでいっぱいになり、罪の誘惑を抑えることができませんでした。怒りや嫉妬はサタンの誘惑を受けやすい材料になります。(ヤコブ1:20)「 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」と聖書は教えています。怒りを爆発させて良いことは何もありません。この頃のテレビドラマはとても暴力的な場面が多いですね。よくないです。真似しないでください。

旧約聖書のソロモン王は知恵に満ちた人でした。彼がこう言っています。

(箴言16:32)「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

神は怒りに燃えたカインに向かってこう言っておられます。「罪が戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創4:7)

この言葉には私たちも耳を傾けなければなりません。カインは神の言葉に耳を傾けませんでした。そしてとうとう恐ろしいことをしてしまったのです。カインは弟アベルを野原に誘い出し、弟アベルに襲いかかり、彼を殺してしまいました。

私たちは誘惑に負けるのではなく、自分の心を治めて、コントロールしなければなりません。私たちには助け主である聖霊が心の中に住んでおられます。神に喜ばれる方を選択することができます。誘惑された時、一呼吸おいて、結果を考えてみることです。結果が平和につながるかどうか、考えてみましょう。

 

3.神は憐れみ深く悔い改めを待っておられます。

神はカインがアベルに対してやったことのすべてをご存知でした。主はカインに「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」と問われました。カインは「知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」と嘘をつきました。アベルを殺したのに「知らない」と嘘を言ったのです。神様に対しても生意気な口答えをしています。悔い改めなかったので、罰を与えられました。土地がのろわれて、収穫したくても収穫できないようになる、と言う呪いが与えられました。「あなたはさすらい人になる。」という宣告を受けました。

カインは神の御顔を見ることができなくなったので、「咎が大きすぎて、背負いきれません。」と告白しています。

そして、自分も殺されると嘆きました。

すると、憐れみ深い神は、カインを見捨てず、守ると約束されました。

(創世記4:15b)「そこで【主】は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」

神はカインのような大きな罪を犯した人の命でさえ、惜しまれました。そして、カインが殺されることのないように一つのしるしをつけて守ってくださったのです。

 

私たちに対する神の愛はどうでしょうか。

パウロは言っています。(エペソ1:13~14)「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」

カインに一つのしるしがつけられたように、私たちには聖霊の証印が押されています。

イエス・キリストを証する霊が私たちの内におられるのです。その方によって、パウロは言いました。「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)と。パウロにはイエスの焼印が押されていました。私たちにも、同じように十字架の焼印が押されているのです。十字架の焼印によって、私たちは神に買い取られた者です。それゆえ、私たちは神のみ国に属する者ですから、誰も神の愛から切り離すことはできません。

4.結論:どんな罪人をも神様は待っておられます。

この殺人事件は、アダムとエバから生れた最初の人間、カインが罪の中に生れたことを物語っています。そしてこれは霊的なDNA として、私たち人間の性質となりました。人間は良いことをしたいという願いはあるのですが、行いにおいては神の目に良しされることはありません。そこで、父なる神は、神の一人息子を遣わし、イエスを十字架につけて、人間の罪を赦ししてくださいました。これは神様の方法です。私たちが罪の罰を受けるはずなのですが、それを息子のイエスが背負うことになったのでした。彼はひとかけらの罪もない方でした。その方が全人類の罪を背負って、十字架にかかってくださったのです。それによって、アダムとエバから引き継いだ罪の呪いは解決され、その呪いから解放してくださいました。今や、人間は個人的にイエス・キリストに出会い、彼を信じる時、すべての悪、呪い、罪から解放されます。ここに福音(グッドニュース)があるのです。イエス・キリストの焼印が、すべての人に、滅びではなく、勝利、永遠の命を与えることができます。そして、み国を受け継ぐことができるのです。あなたはイエス・キリストを信じていますか。もし、まだでしたら、今日、イエス・キリストを受け入れましょう。

お祈り

「天のお父様、イエスさまを与えてくださり、ありがとうございます。どうぞ、生まれながらの罪と今までの人生で犯した罪を赦してください。今日から、イエス・キリストを、私の主として、信じます。イエス様、どうぞ私の心にお入りください。(私の心に来てください。)そして、豊かな人生へと導いてください。よろしくお願い致します。」


罪の結果と

2016-07-15 21:16:00 | Weblog

2016.7.10.罪の結果と救い

聖書 :創世記 3:7~24

題  :罪の結果と救い

暗唱聖句:(Ⅰヨハネ1:9)

「 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

はじめに

先週はアダムとエバが蛇に誘惑されて、とうとう、善悪の木の実を食べてしまったところまででした。食べてはいけないと命令されていた木の実を食べてしまったアダムとエバ、いったいどうなってしまったでしょうか。神様に怒られたでしょうか。

 

1.罪を犯したアダムとエバは神から隠れました。

 ヘビは誘惑する時、まるで神様のようになれるといって嘘をつきました。エバはそれを信じて食べたのです。しかし、その結果は嘘でした。彼らがわかったのは「裸である」ということだけでした。それ以上に賢くはならなかったのです。彼らは急いでイチジクの葉をつづり合わせて、自分たちの腰を覆いました。そして神から隠れました。

神は彼らに声をかけられました。

(創世記3:8~10)

「3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

神はここで人に呼びかけておられます。「あなたは、どこにいるのか。」と。神は全知全能なのでアダムとエバの居所は知っておられました。しかし、あえて、ここで語りかけられたのです。それはアダムとエバが自分のいるべき所にいなかったからです。彼らはいつも神のみ前にでて語り合っていました。今や、それができないのです。それは子供が親の言うことを聞かないで、悪いことを行い、失敗した時のようです。子供はきっと親に怒られまいとして隠れているでしょう。そんな光景です。人は恐れの心を持って隠れているのです。

 

「あなたはどこにいるのか」これは今日に至るまで、神が私たちに呼びかけておられる言葉です。神は御子の十字架を通して、あなたの救いを待ち望み、顔と顔を合わせて語り合う、その日を待っておられるのです。

主は言われました。「あなたがたが裸であることを教えたのは誰か。食べてはならないと言っておいた木からとって食べたのか。」と質問されました。アダムは「あなたが連れてきた女が、あの木からとってくれたので、私は食べました。」アダムは自分の意思で食べたことを認めないで、エバのせいにしました。ここで、アダムとエバの一致が壊れてしまいました。サタンの策略は二人の一致をこわすことでした。もし一致して働くならば神の栄光が現わされたからです。二人が仲間割れをしたら、神の栄光を現わすことはできません。サタンはそこを狙っているのです。

今日の教会に適応するならば、教会は神の花嫁です。そこで、不一致と争いがあるなら、それこそ、サタンの思うつぼです。私たちはサタンの策略に乗せられているのです。教会は神の花嫁ですから、一致を保ち、互いに愛し合うことです。

 

神は女に言われました。「あなたは何ということをしたのか。」女は答えました。「ヘビが惑わしたのです。それで食べたのです。」エバも自分の罪を認めようとはしないで、蛇のせいにしました。

彼らはそれぞれ言い訳をして、自分の罪を認めませんでした。神様に謝らなかったのです。そこで、神は3人にそれぞれ刑罰を与えられました。

 

2.神の刑罰

神が与えられた刑罰です。

ヘビ:他の生き物より、のろわれると言われました。確かにヘビは他の生き物より、特に嫌われる存在となりました。そして「ちりを食べるようになる」と言われたのです。これは惨めな敗北者の姿を表します。ここでのヘビに対する刑罰はサタンに対するものと考えられます。

神は創世記3:15で、原福音と言うものを宣言しておられます。「創 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これはサタンがメシヤの生れを妨害する。イエス・キリストのかかとにかみつく。しかし、主イエスはこの蛇の頭を踏み砕く、すなわちサタンを足の下に踏み砕くと宣言しておられるのです。死からよみがえられたイエス・キリストはすでにサタンの頭を踏み砕かれました。主イエスの力には打ち勝つことはできません。

 

女:主は二人を創造された時、「生めよ、増えよ。」と祝福されました。出産は祝福であり、苦しみの伴わないものであったはずです。しかし、この時から、出産には痛みと苦しみが伴うようになりました。その上、彼の助け手として造られた女の立場が、支配される立場に変わってしまったのです。夫は妻を支配するようになってしまい、調和を失ってしまいました。

 

男:男に対する刑罰は厳しいものでした。彼はそれまでエデンの園で、豊かな生活を楽しんでいました。耕した畑にはいろいろな作物がたくさん実を結びました。しかし、彼は食物を得るために一生苦しんで労働をしなければならなくなりました。「顔に汗を流して糧を得る」と言っています。そして、肉体の死が宣言され、「ついに、土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

 

このようにして、人間の中に「死」と言うものが入ってきました。(ローマ5:12)「 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」

すべての人が死ぬものになったのです。死というものは罪の象徴と言えるかもしれません。

(エペソ2:3)「 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

私たちはアダムとエバの罪、神にたいする不従順の罪と言うものをもらったまま、生れてきたのです。神に対する不従順の遺伝子を持って生れついたのです。ですから、「義人はいない。一人もいない。」のです。アダムとエバはエデンの園から追い出されてしまいました。神と人間の間には断絶が起こりました。人間は神の怒りを受けて、のろわれたままでしょうか。そうではありません。神は愛です。

 

3.神は救いの計画を備えてくださいました。

神は堕落してしまった人間にために救いの計画を備えてくださいました。

(創世記3:21)「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」

神はアダムとその妻のために、動物の皮で体を覆うものを作って着せてくださいました。この時、彼らの罪のために、動物の血が流され、動物の命が犠牲にされました。この動物は最初の犠牲の捧げものになりました。神は二人を滅ぼさないで、動物の血を流し、毛皮で被い、赦して下さいました。後になって、イスラエルの民は牛や、羊、ヤギなどの家畜を罪のいけにえとしてささげるようになりました。ここにも、動物の血が流され、命が捧げられています。そして、ついに、神は、神の御一人子であるイエス・キリストをお遣わしになり、罪のいけにえとされました。イエスさまは十字架の上で血を流し、命を捧げ、人間の罪をあがなってくださいました。(Ⅰヨハネ1:7b)「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 

(ヨハネ3:16)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

この計画は神様が最初から持っておられた愛の計画でした。神はエデンの園で罪を犯したアダムとエバを愛し、その子孫を愛し続けられました。サタンに聞き従う性質の人間に対しても忍耐深くあられ、救いの道を備えてくださいました。

 

(ローマ3:23~25)「3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」

 

4.結論:人間はアダムの罪により、罪を持つようになりましたが、神はすべての人に救いの計画を備えてくださいました。

 

(ローマ16:20)「 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」

 

この言葉は創世記3:15のことを意識して言われたものです。私たちにはイエス・キリストの権威が与えられています。ですから、その権威を使って、サタンを踏み砕くことができるのです。

人間は誰でも罪人ですが、誰でもイエス・キリストを信じるなら救われます。救いは神の恵みによるのです。(Ⅰヨハネ1:8~9)「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

私たちにはすべての悪から救われ、力強く歩むことのできる信仰というものが与えられています。

パウロ先生は次のように言いました。

(ローマ1:16~17)

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 

私たちが良く言う言葉の中に「この地を勝ち取る」、「み国が来ますように。」、「天に御心がなるように、地にもなりますように。」と言うのがあります。これはアダムとエバがサタンの言葉に従った結果、この地がサタンに支配されていることを表しています。サタンの支配から人々を救い出すことを、魂を勝ち取ると言います。サタンの支配であるこの世では、人間には迷い、誘惑、苦しみがあるのです。しかし、神は私たちを救ってくださいます。この計画は変わりません。神を信頼していきましょう。神が支配しておられる神の国(み国)を建て上げることが教会の使命です。


自由意思と誘惑

2016-07-07 17:38:31 | Weblog

2016.7.3.自由意志と誘惑

聖書  創世記3:1-7

題   自由意志と誘惑

 暗唱聖句 ヤコブ1:14,16

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

 

はじめに

先週、南紀キリスト教会にシンガポール・セルの研修会に行きました。南紀では、3年計画の研修会でしたが、とうとう最後の研修会になってしまいました。この3年間、スティーブン・タイ先生、マーガレット・タイ先生ご夫妻がトリニティ教会のセルについてわかりやすく教えてくださいました。3年一回りして、やっと全体がわかったような気がします。このプログラムは本当によく考えられており、何よりも愛に満ちていることです。すべてのクリスチャンが霊の子どもを生みだし、すべてのクリスチャンが神と人との間に立って、祭司の役割をするように聖書は教えており、それを実行できるようにしたのが、このシンガポール・セルです。南紀キリスト教会はこのプログラムを取り入れて、10年間の内に100人が洗礼を受けたそうです。そして、今リーダーが50人ぐらいいると言われていました。リーダーになれる人が50人いるということは新しく教会に来た人をお世話できる人たちが50人いるということです。牧師が50人いるのと同じです。本当に神様が働かれるということを実際に体験して、楽しく伝道しています。リーダーは苦労するけれど、やり始めたら、楽しくて止められないと話しておられました。これは実際にセルをやりながら、覚えて行くのが一番早道だと思います。今、礼拝後にやっているセルはセルの極一部です。セルはやっぱり1時間半ぐらいあった方が充実するそうです。そのうちに、一週間の中でセルを始められたらと願っています。お祈りください。

 さて、聖書の話に替わります。

 先週までの話です。神はまず天と地を造られました。そして、人間が住めるように天地を創造してくださいました。この地球に人間が住めるようになった時、神は人間を造ってくださいました。最初にアダム、またアダムだけでなく、その助け手である女性のエバをも造ってくださいました。神は男性と女性が力を合わせて、神の栄光を現わすように創造されたのです。そのすばらしく造られたアダムとエバに近づいてきたものがあります。何でしょうか。それは誘惑です。

 

「ウソをついてはいけません」、「意地悪をしてはいけません。優しくしなさい。」と何度も教えられて、「もう絶対しない!」と決心します。しかし、しばらくたつと「ちょっとくらいイイかぁ~」とすぐに心が揺れてしまうことはありませんか?そんな時、あなたの心の中で、何が起こっているのでしょうか?

誘惑ですね。どんな時に誘惑されるのでしょうか。どうしたら、誘惑に打ち勝つことができるのでしょうか。

 

1. 神さまは人間にひとつだけ命令を与えました。

 2章にエデンの園について書いてあります。エデンの園と善悪の知識の木について説明します。エデンの園は、水の恵み豊かな、美しい木々の生い茂る土地、幸せな楽園です。アダムはエバが造られる前から、エデンの園に置かれました。そして、エデンの園を耕して、耕作にいそしんでいたのです。それは楽しい充実した働きだったと思います。しかし、一つだけ、約束事がありました。神はアダムに一つだけ禁止命令を与えておられました。

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と命令されていました。

善悪の知識の木の実に毒があって、それを食べると死ぬとか、知恵を与える不思議な力あるのではありません。善悪の判断は、神がなさることです。人間の真の「善悪の知識」とは、神のみことばに聞き従うことです。(箴言1:7)「主を恐れることは知識の初めである。」

逆に、神の命令に違反して、この実を食べるということは、人が神に代って、自分勝手に善悪の判断をする「自己中心」の生き方に転向してしまうことを意味していました。 

他のことは自由でしたが、善悪の知識の木から取って食べることだけが唯一、禁止されていました。その木は園の中央にあり、手の届くものでした。ですから、その実を取って食べるか、食べないかは、すなわち、神の命令に従うか、従わないかの選択です。人間には自由意思と言うものが与えられていました。人間は、自由意志を働かせて、すすんで神の命令に従う方を選ばなければなりません。

神はあなたに、無理やり力ずくで、命令に従わせるようなことはなさいません。あなたが、誘惑に負けないで、あなたの意思で、神を愛して従う方を選ぶことを望んでおられるのです。そうでなければ、神は、ロボットを作り、必ず従うようにプログラムすればよかったのですから。

 

2. ヘビは悪がしこいやりかたでエバを誘惑しました。

 サタンはヘビの悪賢い性質を利用して、エバを巧妙に誘惑しています。もし、ヘビが「食べろ、食べろ」と直接的な言い方をしたり、サタンがエバの口に無理やり木の実を押し込もうとしたなら、エバはもっと抵抗したのではないでしょうか? 誘惑は知らないうちに私たちの考えに忍び込んでくるから恐ろしいのです。サタンは「いかにもサタンです」という姿では近づいて来ません。(Ⅱコリント11:14)「サタンさえ、光のみ使いに変装するのです。」天使のような姿をして近づいてくるのです。甘い言葉でささやきかけるのです。甘い言葉には気をつけることです。

 聖書のみことばを正確におぼえて、そのとおりに守ることが大切です。

・ヘビの格好をしたサタンは直接に命令を受けたアダムではなく、エバを誘惑しています。アダムとエバが一つになって、歩むと神の栄光が現われます。そうなるとサタンの存在は無視されます。何とかして、2人の一致を妨げ、神に従うことからも離れさせようと思いました。そして、戦略を練って近づきました。・ヘビはエバに「本当に言ったのか?」と問うことによって、疑いと過剰な不安を与えています。

・エバは神を弁護しようとして、「死ぬといけないから」と微妙な言い換えをしました。ヘビは「決して死にません」と力をこめて言いました。

サタンは神の言葉に疑いを持たせることに成功しました。・

「その実を食べるとあなたがた人間が神のようになりますよ」と誘惑したのです。神が、その実を食べさせないようにしているかのように、神のことばに疑いをもたせました。

誘惑と言うのは「人を迷わせて、人を神からはなれさせようとすること」です。誘惑に陥らないようにするには、み言葉に信頼を置くことです。また目を覚まして祈ることです。神を第一にすることです。常識的に考えて悪いことは、悪いことですから、してはいけません。

エバはヘビの質問に答えるとき、神が言ったことに少し付け加えたり、変えてしまったりしました。もしエバが、この時、ヘビのペースにはまらず、神のみことばを正確に言い返していたら、どうなっていたでしょうか?創世記3:2-3と創世記2:16-17を比較してみましょう。

創世記3:2~3 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

創世記2:16~17「 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。

ここにははっきりとした事が2つ書かれています。一つは善悪の木の実は食べていけない、それから、二つ目は食べると死ぬ。」明確にわかっていたら、きっと、罪を犯してはいなかったかもしれません。み言葉には魂を救う力があります。(ヤコブ1:21)

一つだけ「してはいけない」と言われると、それをしたくなるのが、人間ですが、ここでは神の言葉を守るかどうかが、生死の選択だったのです。それは神に従うか、サタンに従うかの選択でした。そして、人間はとうとう誘惑に負けてしまいました。その後、人間の世界に死が入り、人間の罪とサタンの誘惑の中で人は苦しむようになりました。神との断絶が始まり、神の存在が遠くになったのです。

 この断絶を取り除くために来られたのが神の御子イエス・キリストです。主イエスはよみがえりの力を持って、すべての罪から私たちを解放してくださいます。

3.人間には自由に選ぶ意志が与えられています。

 神に従わないことの方が、楽しく見えてしまうことはたくさんあります。楽に見えることもたくさんあります。神に従うことには損するように見えることもあります。「神さまに従わなくても死なない、また罪を犯しても赦してもらえる」と考えることは、誘惑に乗せられてしまった状態です。エバは目の欲と神さまのようになりたいという傲慢な思いに従ってしまいました。またアダムはエバが食べて、自分にも分けてくれたので、食べてしまったのです。他の人も食べたから、自分もチョットくらい食べてもかまわない」とおもってしまい、自分の立場や責任を忘れてしまうこともあります。心の油断が立場や責任を忘れさせるのです。

(Ⅰヨハネ2:16、17)「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」

イエスさまもサタンの誘惑に遭われました。その時、み言葉を持って、打ち勝っておられます。

み言葉には魂を救う力があります。

 

4.結論 誘惑に負けないで神様の御言葉に聞き従おう

 時々、テレビやラジオでよく耳にするような誘惑が目の前にやってきた時、ちょっとでいいから、なめてみようかなと言う気持ちになってしまいます。そしてなめた後、その恐ろしさに気がつきます。その時は遅いのです。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など、まさに誘惑がいっぱいの世界に住んでいます。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

わたしたちも、エバがヘビにそそのかされたのと同じように、サタンの誘惑に惑わされることがあります。そんな時、神さまのことば・教会で教えてもらったことを正確に思い出して、誘惑に打ち勝ち、何が何でもそのとおりに従いましょう。今までの罪は全部イエスさまが赦して下さいます。みことばの力で誘惑に勝てるようにお祈りしましょう!!

み言葉はあなたがたのたましいを救うことができます。神様を愛して、神に従う方を選びましょう。良心の感性が高められるように、いつも目を覚ましてお祈りしていましょう。甘いささやきには気をつけて!


ワンモア・チャンス

2016-07-02 15:32:32 | Weblog

2016.6.26.ワンモア・チャンス

聖書 ルカ 13:6~9

題 ワンモア・チャンス

説教 郡 美矢先生(三滝グリーンチャペルの牧師)

 イエス様を信じてない友達と一緒にイタリアを旅行した時のことです。

今から2000年前、西暦79年に、イタリアのポンペイで火山が大噴火し、翌日には火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まりました。一晩で1万人の都市が消えたポンペイの悲劇にその友達は、なぜ、神様は私たちを愛していると言いながら、このような災いを下したのか、何の罪もないのに、なぜ罰するのかと聞いてきたことがあります。皆さんなら、どう答えますか?

 今日のたとえ話を正しく理解するために、背景的な事情になっている所、13:1~5までを読んでみます。

ある人たちがイエス様のところにやって来て、報告をしました。

①  ガリラヤ人達の血が、彼らがささげようとしていたささげものの血と混じってしまった。

当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトが部下に命じて神殿でいけにえを献げていたガリラヤ人を殺し、その血をいけにえに混ぜたと言うのです。

②  シロアムの搭が突然倒れて、たくさんの人がケガをして、18人の人が死んだ。 

そのニュースを聞いた人達はきっとこう思ったでしょう。「殺されたガリラヤ人もシロアムの塔の下敷きになった18人も不幸だ。しかし、そのような不幸に遭ったのは彼らが神に対して何か大きな罪を犯したからだろう。その罪を神は裁いて犠牲とされたのだ」と。そのように思ったのは止むを得なかったと思います。なぜなら、旧約聖書には「神の戒め・教えを守る者は神の祝福を受けるが、守らず、神に背く者は神の裁き・呪いを受ける」ことが繰り返し書かれているからです。そこから因果応報的な考え方がユダヤ人を支配しました。ヨハネ福音書9章で、生まれつき目の見えない人を見た弟子がイエス様に尋ねます。

 「先生、この人が目の見えないのは両親が罪を犯したらからですか、本人が罪を犯したからですか」と。どんな供え物より優れている

これは典型的な因果応報の考え方ですが、この時も群衆はピラトに殺されたガリラヤ人もシロアムの塔の下敷きになった18人も神に対して罪を犯したから神様は彼らを裁き、犠牲とされたのだと思ったのです。

それに対して主イエスはこう言われました。「決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ皆、同じように滅びる」と。ここで主は犠牲となった者達が特別に罪深かったということはないと強く否定されます。因果応報的な考えを強く否定されるのです。これはヨハネ福音書9章で主が「この人の目が見えないのは本人が罪を犯したためでも両親が罪を犯したためでもない。神の御業が現れるためである」と言われた通りです。その上で主は「あなたがたも悔い改めなければ皆同じように滅びる」と言われます。これはどう理解したらいいのでしょうか。ここで重要なのは「悔い改める」の意味です。

「悔い改める」

悪事を犯したことを悔いるとか反省するという意味ではなく、本来生きるべき場に帰ることです。神様との愛の交わりの中に帰ることです。これは元来「方向転換する」の意です。自己から神へ方向転換することを意味します。つまり、主は今こそ神に立ち帰れと言われているのです

「考え方を変える」

「からだの向きを変える」

ワンモア・チャンスの神

考え方を変えてください。

悔い改めてください。

一度のチャンスではない。

もう一回のチャンス。ワンモア・チャンス

しかし、私達はなかなか神様の所に帰って行こうとしません。神様の方を向き、神と共に生きて行こうとしません。そのいう私達を神様は忍耐強く待っておられること、また、主イエスが神に執り成してくださっていることを主はたとえ話で語られます。それが13:6~9です。「ある人がぶどう園にいちじくを植え、その実がなるのを期待し、3年間待ち続けられたが、実がつかなかった」。これは神が、私達が神に帰って来るのを待っておられることを告げています。いちじくとは脇役を意味します。神は主役も脇役もなくすべての者が神に立ち帰り、それぞれの実をつけることを期待しておられるのです。しかし、なかなか実がつかないので遂に神様は切り倒すことを決意します。しかし、番人は「今年もそのままにしておいてください。もう一年待ってください。私が木の周りを掘って肥しをやってみます」と主人に申し出ます。番人とはイエス様です。主が実をつけない私達を神に執り成し、待つように頼むばかりか掘って肥しをやってみますと頼みます。このような私たちのために、「まだ切り倒さないでください。私がもっともっと愛し、手をかけて育ててみますから」と言ってくださる方がいる、それがイエス様です。主は私達に恵みを施し、神に立ち帰り、実をつけることを祈っておられます。

 それは、チャンスがもう一度与えられるという福音です。しかも、その新しいチャンスは「わたしが一生懸命にお世話し、肥料もやりますから」と熱心に神様にとりなしてくださるイエス様と共にあるのです。私たちの人生がこれまでどんなに失敗に満ちたものであっても、私たちはイエス様と共にもう一度人生をやり直すことができるという福音なのです。

「このいちじくは少しも実をつけない、それはあなたのことですよ」と言われるとカチンとくるけれども、御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。という毅然とした言葉を聞かされると、「参りました」と言わざるを得ないのではないでしょうか。

「もう一年、もう一年そのままにしてやってください」

イエス様が私たちのために、天の父なる神様に嘆願する言葉です。十字架を背にしてイエス様が父なる神様にとりなしてくださる言葉です。最後まで変わらない。本当に罪深い者、同じ失敗を繰り返す者の私であっても、なおイエス様が十字架を背にしてとりなしてくださる、本当にあわれみに満ちた言葉です。

Ⅰコリント 13:7

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛はいつまでもなくなることはありません。

ヨナのお話し(旧約聖書から)

神の愛の忍耐

  「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(9節)。

  エゼキエル書第18章には、神様は悪人がその悪によって滅びることを喜ばない。悪人が悔い改めて神に立ち帰り、善を行って生きることを喜ぶと書いてあります。

  また、イエス様も「わたしが来たのは義人をまねくためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言われました。

罪深い世界を前にして、本当に戦っておられる神様の心。裁きを遅らせ、裁くことをしないで、すべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えて、私たちの悔い改めを待っていてくださる天の神様の心。

 私たちも神様のこのような忍耐に満ちた愛をいただいて、証しのわざに励むものでありたいと思います。