阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

死者の復活1

2014-04-29 20:52:25 | Weblog

2014.4.27.死者の復活

聖書 Ⅰコリント15:1~11

題  死者の復活1

暗唱聖句

(Ⅰコリント15:20)

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

 はじめに

先週はイースターで、主の復活を喜びました。メッセージでは、主が、まず、個人的にマグダラのマリヤに顕現され、それから、他の弟子たちにも顕現されました。その中で、主は個人的に人格的な交わりをされている場面を見ることができました。今日も、復活された主は生きておられて、個人的な交わりを持ってくださいます。

使徒パウロがまだサウロと呼ばれていた時のことです。「主イエスが復活した」とうわさされていたエルサレムで、彼は、使徒たちを始め、多くの主の弟子たちを迫害し、捕らえ、拷問し、牢にぶち込んでいました。ところが、このサウロがイエスの弟子たちを迫害する為にダマスコに向かって旅をしていたと途中のことです。主イエスがこのサウロに劇的な顕現をされたのです。突然、天からから、まばゆい光が彼を照らし、大きな声がしました。「サウロ、サウロ、どうして私を迫害するのか。」彼が「主よ。あなたはどなたですか。」と言うとお答がありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ちあがって町の門に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」同行の人たちは、声は聞こえますが、誰も見えません。何も言えないで立っているだけでした。サウロは、目は開いていても、目は見えません。そこで、彼らはサウロの手を引いてダマスコに連れて行きました。そこでサウロは3日間、断食して黙想しました。そのようなサウロのために、彼を訪問してお祈りに来てくれた兄弟がいました。アナニヤです。彼が祈ってくれると目からうろこのようなものが落ちて、再び見えるようになりました。

サウロはこの一連の事件を通して主イエスとはっきり出会いました。復活の主が最後に顕現されたのがこのサウロです。最初にマリヤにご自分を現わし、最後にサウロにご自分を現わされました。このサウロはその後パウロと名前を変え、使徒パウロと呼ばれるようになりました。パウロは使徒たちの中でも最も活躍した人です。彼はとても優秀でしたが、非常に謙遜でした。その彼がコリントの教会の人々に出した手紙の中から、死者の復活について学びたいと思います。

1.手紙を出した理由

パウロは長い伝道旅行を3回しました。その第二回目にギリシャのコリント地方にやってきたのです。当時、コリントはアカヤの首都でした。人口は50万人以上いた大きな町でした。経済的には繁栄していましたが、道徳的には非常に乱れていました。

パウロはこのコリントで1年半腰を据えて伝道しました。その結果、コリントの教会ができたのです。その後、パウロはエペソに行きました。パウロがエペソにいる間、アポロがコリントで働いていました。その時、問題が起こると、パウロに相談したのだと思います。なぜなら、最初にコリントで伝道したのがパウロで、コリントの教会の設立者だったからです。

コリントの教会の問題は「①一致がないこと、②不道徳なこと③一部に復活はないという思想があったこと④ギリシャ人が愛する知恵や哲学の中に福音に反するものがあったこと。」などがありました。現代の教会にも同じような問題がありますね。メディヤの世界の影響から私たちを守ることは非常に難しくなりました。クリスチャンの世界観も多種多様です。コリントの教会以上のことがあるかもしれません。しかし、何が私たちを真理に導くか、それは、ただ一つ、聖書のことばです。聖書に聞き従うことです。個人的に聖書の語りかけを聞くことです。そして、神の国の価値観を身につけることです。清さと愛を。

パウロはかなり厳しい手紙を書いたのでした。このような状況の中で、今回は15章から「死者の復活」を学びたいと思います。

 2.          パウロの言う、福音とは何か。

 パウロは、自分も受けたことで、また、自分が伝えたこと、そして、あなた方も受け入れたこと、その上に立っている福音について、大切なことを述べています。私たちが立つべき福音とはパウロの言う福音なのです。

 (Ⅰコリント15:3~4)「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。

 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」

パウロは復活の事実をここでしっかり伝えています。

確認してみましょう。

①       キリストは、聖書の示す通りに、わたしたちの罪のために死なれたこと、

②       また、葬られたこと

③       また、聖書の示す通りに、3日目によみがえられたこと、

さらに、誰に現われたかまで、書いています。それはケパ(=ペテロ)に現われ、12弟子に現われ、それから500人以上の兄弟たちに同時に現われたと証言しているのです。そして最後に自分にも現われてくださったと証言しています。そして、復活の主イエスに出会った人々の中で、死んだ人もいるけれど、まだ大部分の人は生きているというのです。この手紙は復活の主に出会った人々がまだ生きているうちに書かれたものなのです。ですから、うそを書くことはできません。この復活というのは、神話ではなく、歴史的事実なのです。

 私たちに福音を教えてくださいと言われた時、何を言ったらよいのか、それはとても簡単です。「主イエスは十字架の上で罪のために死なれたこと、死んで葬られたこと、3日目によみがえられたことを信じるならば、もう救われる。」この3つです。聖書を一冊読んで覚えることは大変ですが、この3つはとても簡単です。パウロはこの3つを歴史的事実として人々に教えました。私たちも、自信を持ってこの3つのことを人々に伝えたらよいのです。しかし、人々が信じられない死人の復活があります。人々は最初にこの復活につまずくでしょう。この復活は死人が生き返ったというだけのものではありません。聖書の中には死んだのに生き返った人々のことが出てきます。代表的なものはラザロの生き返りです。ラザロは死んで4日もたっていたのに生き返りました。ラザロは一度死にました。そして、生き返りました。しかし、やがて老人になって死んで行きました。これを「蘇生」と言います。「復活」ではありません。イエス様は完全に死んで、墓に葬られましたが復活されたのです。復活された身体はもう2度と死なないのです。永遠に生きています。イエス様のからだですが、人間として生きておられた時のからだとは違う栄光の身体を持ってよみがえられたのです。500人に同時に現われることのできる不思議な栄光の身体に変わっていたのです。やがて、私たちも、この栄光のからだを頂くことができる時が来るのです。

 3.復活がないという人たちに。

パウロはイエス様が私にも現われてくださったと証しています。「私は、神の教会を迫害したにもかかわらず、神は恵みを持って近づき、救ってくださいました。そうして、今の私になったのです。私は他の使徒たちよりもたくさん働きました。それは神の恵みによるのです。あなた方の中に死者の復活はないと言っている人があるそうですが、もし、死者の復活がなければ、キリストの復活もなかったでしょう。もし死者の復活が無ければ、クリスチャンとして死んだ人たちは哀れな人たちです。滅んでしまうことになるからです。しかし、キリストは、死んだ人たちの初穂としてよみがえられました。初穂というのは最初の収穫の実のことです。最初の収穫の実は収穫祭の時に祭壇にささげられます。イエス様は復活の最初の実となられたのです。最初の実があるということはそれに続く実もなるということです。

 アダムという一人の人を通して死が全人類に入ったように、今度はキリストを通してすべての人が生かされるのです。復活には順番があります。まず、初穂であるキリストが復活されました。次はキリストの再臨の時に、キリストにつながっている人たちです。それから終わりが来ます。その時、キリストはすべての支配、すべての権威、権力を滅ぼし、国を、天地を創造された父なる神に渡されます。最後の敵である死も滅ぼされます。万物が父なる神に従う時が来るのです。

 もしそうでなければ、毎日、どうして、このような霊的な戦いをしているのでしょうか。パウロにとって、毎日が死の連続でした。迫害されて、毎日死ぬような目に遭いながら福音を伝えました。もし、復活がなければ、これらのことは無意味です。復活がなければ、明日は死ぬのだから、飲んだり食ったりして遊んで暮らそうということになります。しかし、思い違いをしてはいけません。復活があるのです。目を覚まして、正しい生活を送りなさい。罪をやめなさい。悪い友達から離れなさい。」とパウロは言っています。

 私たちにもパウロの戦いとは別の戦いがあることでしょう。家族の中で最初に主イエスを信じた人は大変な戦いをします。しかし、その戦いは決して無駄ではありません。また、肉欲を満足させるような環境からは離れましょう。私たちもやがて復活するのです。キリストの再臨の時には必ず復活することを信じましょう。そして、新しい栄光のからだを着せられて、主イエスとお会いするのです。そして、永遠に生きるのです。もう死ぬことはありません。私たちは、主の花嫁として、主に迎えられるのです。ハレルヤ!


マリアへ自分を現わされたイエス様

2014-04-22 18:07:19 | Weblog

2014.4.20.マリアへ自分を現わされたイエス様

聖書 ヨハネ20:11~18

題  マリアへ自分を現わされたイエス様

暗唱聖句

(ヨハネ11:25)

 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」

 はじめに

 現在、イスラエルでは過ぎ越しの祭りの最中であり、クリスチャンにとっては、受難週の金曜日を越し、今朝は復活祭でにぎわっています。きっと、園の墓では主のよみがえりを記念して、世界中のクリスチャンが集まって、復活の主を礼拝していることと思います。

さて、2週間前のことですが、過ぎ越しの祭りに皆既月食があり、赤い月が見られる珍しい現象が起こるとお話しました。当日、エルサレムの友人が「赤い月が見られると言われていましたが、いつもと同じ美しい満月です。」とメールをくれました。そこで、何も起こらなかったのだと思いました。

ところが、東京で赤い月が見られたのです。エルサレムでも、四国でも見られませんでしたが、東京で見られ、アメリカでも見られたようです。東京では思ったほど、赤くはなかったそうですが、それでも、いつもより、赤い月でした。ネットで「赤い月、2014年4月15日」を検索すると関連事項が出てきて、写真も見ることができます。

 

 さて、この一件よりもっとすごいことがエルサレムでは起こっています。受難週の金曜日にはビヤドロローサ(悲しみの道)と言われる所を、十字架をかついで歩く観光客がたくさんいます。世界中から集まってきます。多くの宗派の人たちが自分の思いのままに主の受難をしのびます。その中で、アメリカのあるチームの人たちは、パッションの映画のような格好で歩いていたそうです。イエス様が血だらけで、十字架を担いで歩く、その周りを群衆が囲んで、泣き叫んでいたそうです。

 この週には世界中のユダヤ人が過ぎ越しの祭りのためにやってきます。また、世界中のクリスチャンも復活祭をエルサレムで過ごそうと言って集まってきます。エルサレムはすごい人出だそうです。ユダヤ人は嘆きの壁へ、クリスチャンはゴルゴダの丘と言われている聖墳墓教会に集まっているようです。

 しかし、現実には悲しいことも起こっています。現実の世界は苦難と試練の連続のようなこともあるかと思います。その中に復活の主イエスは関わってくださるのです。

1.マグダラのマリヤはどんな人?

 このマグダラのマリヤはイエス様の十字架の刑の最後の最後まで母マリヤと共に、イエス様のそばを離れなかった人でした。イエス様の苦しみを自分のものとしたのです。イエス様の事を思い、イエス様に仕える、その思いは人一倍の強かったのではないかと思います。マルコ16:9ではイエス様がこの女から7つの悪霊を追い出されたと書いてあります。ですから、マグダラのマリヤはきっと村でも評判の悪い噂をされていた姉妹だと思います。そして、時には病気になり、時には暴れ、時には暴力をふるったりして手がつけられなかったのでしょう。本人も非常に苦しんでいたに違いありません。その彼女がイエス様によって、完全に癒されました。彼女の人生は完全に変わりました。彼女の喜びは大きかったのでした。その大きさのゆえに、マグダラのマリヤは感謝して、イエスの弟子になって、イエス様にしたがっていたのだと思います。彼女は心からイエス様を尊敬し、愛していました。この愛は、マリヤが安息日が明けると朝早くイエス様の墓にやってきたというのからもわかります。また、イエス様が墓に納められるのを見ていた、墓を確かめたというのからもわかります。イエス様は墓に葬られたのです。完全に死なれたのです。その死なれたお方が、3日目によみがえってくださいました。これこそ、信じられない大きな出来事でした。

 マリヤの愛は勇気を与えました。「わたしがイエス様の遺体を引き取ります。」と告白していることからもわかります。そして、イエス様を失った悲しみのために泣いているのです。このようなマリヤにイエス様はご自分を現わされました。

 2.イエス様の顕現

 イエス様はまず第一にこのマグダラのマリヤにご自分を現わされました。それも、肉体をもったイエス様でした。その当時、女性は証人としての地位を持っていませんでした。女性が「イエス様を見た。」と言っても正式な証人とはならなかったようです。人口を数える時も男性の数だけを数えていた時代のことです。マリヤが「主にお目にかかりました。」と言っても、だれも信じることはできませんでした。きっと、これは彼女が女性だったからだと思います。これが、ペテロやヨハネだったら、みんな信じたと思います。

 イエス様はなぜマグダラのマリヤにご自分を現わされたのでしょうか。

きっと、彼女の愛と献身のゆえだと思います。

(エレミヤ29:13~14)「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」と言われています。

彼女は身をかがめて、墓を覗き込んでいます。二人の主の使いも白い衣を着て座っていました。「わたしの主を取って行った。どこに置いたのかわからないのです。」と訴えているのです。

マリヤは後ろを振り向きました。そこにイエスさまが立っておられました。しかし、マリヤにはまだイエス様だとはわかりませんでした。マリヤの霊の目はふさがれていたのです。イエス様に出会う時、霊の目が開かれ、霊の耳が開かれます。

そのとき、イエス様は声をかけました。「マリヤ。」マリヤはびっくりして、振り向きました。間違いなく、今までよく聞いていた主イエスの声でした。羊は羊飼いの声をよく知っています。イエス様はマリヤの羊飼いでした。間違いなくイエス様の声です。振り向いたマリヤはイエス様に飛びつこうとしましたが、イエス様は「私にすがりついてはいけません。まだ、父のみもとに言っていないからです。」と言われました。

マリヤの喜びはどんなに現わしたらよいでしょうか。恐ろしくもあり、うれしくありという複雑な心だったと思います。

イエス様がマリヤに現われたのはきっと彼女の心が砕かれた悔いた心で、へりくだっていたからだと思います。そして、イエス様を愛し、イエス様を必要としていました。マリヤはイエス様を求めていました。イエス様なしでは人生を歩けなかったのです。そういう人々のところに、イエス様は来て、ご自分を現わしてくださるのです。そして、人格的な交わりを持っておられます。

復活の主は、その後、他の弟子たちにも、ご自分を現わされました。その時、一人一人の弟子たちの必要に従って、声をかけ、人格的な交わりをしておられます。トマスには脇腹を触らせました。ペテロには朝ご飯をいっしょに食べ、仲直りをし、再献身を迫られました。

復活の主は今も生きておられます。私たちが求めていくなら、ご自身を現わしてくださいます。そして、私たちの人生を変えてくださいます。暗闇の世界から、明るい輝きのある人生に変えてくださるのです。死んだような人生から意味のある人生へ、生きがいのある人生へ変えてくださいます。復活の主は、マリヤに声をかけてくださったように、私たちにも声をかけ、ご自分を現わしてくださいます。主を慕い求めましょう。

3.証

 この人は犯罪人として何回も投獄され、最後には15年の刑をうけていました。その中でイエス様に出会って、人生が変えられた人の証です。

 私(青木兄)は18歳からやくざの世界で生活してきました。10代の頃には少年鑑別所と少年院を合わせて7回入りました。成人になってからは刑務所に3回入りました。ヤクザの世界で自分の組織と縄張りを持って、日本刀を振りかざしていました。私の生活は、酒、ばくち、けんか、麻薬などのあらゆる悪に染まっていました。

 47歳の時、ある事件で逮捕され、15年の刑を言い渡されました。刑務所の中である日突然、背後から襲われ、殺されかけました。私は病院に運ばれ、手当てを受けました。そして命が助かったのです。すると病室にキリスト教の本が備えてあり、「あなたは聖書を読みなさい。」と書かれていました。そこで、聖書を借りて読み始めました。創世記から読み始めました。詩篇の23篇4節に「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから。」というみ言葉に出会った時、人生で初めて心に平安というものを感じました。私は飢え渇いて主を求めました。

  そんな時、刑務所を変わることになりました。日本のもっとも極悪人が行くと言われる熊本刑務所に移ることになりました。私はここで牧師に出会い、導かれ、2005年9月に洗礼を受けました。キリスト教の洗礼者の第一号でした。イエス様はこんな虫けらのような私でも救われたのです。

 2011年3月3日、15年の刑を終えて、釈放されました。現在私は66歳です。しかし、私には夢があります。元受刑者が再就職する場を作りたいと願っています。日本の再犯罪率は50%です。過去において、私もその一人でした。帰る場所がないということも原因の一つです。私は、その受け皿を作りたいのです。(自立準備ホーム「オリーブの家」を熊本聖書フォーラムのリーダーの清水兄と元受刑者の青木兄と熊本聖書フォーラムが主体となって設立。)

 長い刑務所生活で感じたことは、人は内側が変わらないと、「何も変わらない」ということです。この目で見、体験した中で、本当に反省し、変わったと思える人は、100%近く、信仰を持っている人です。

4.まとめ

 マグダラのマリヤにご自分を現わして、人格的な交わりを持ってくださった主イエスは、今でも私たちに現われて、私たちを救い、人生を変えてくださいます。

(ヨハネ11:25)「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」

  この兄弟の人生の前半は死んでいたのも同然でしたが、復活の主と出会った彼は生きることができるようになりました。夢があり、希望があります。彼は主にあって、「生きること」を始めたのです。復活の主が共におられることは大きな恵みです。

この復活祭の日の朝、主の復活をもう一度思いめぐらし、主に感謝しましょう。そして、復活の主のいのちを注いでいただきましょう。この素晴らしい福音を近くの家族、友人、知人に伝えましょう。


あなたは今日パラダイスに招かれている

2014-04-15 22:25:14 | Weblog

2014.4.13.あなたは今日パラダイスに招かれている

聖書 ルカ23:32~47

題  あなたは今日パラダイスに招かれている

暗唱聖句

ヨハネ3:17

「 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 はじめに

1.イエス様の苦悩を知らない民衆

2.二人の犯罪人

3.証

 

はじめに

 先週は南紀キリスト教会でセルのセミナーを受けました。セルには基本的に2つのセルがあります。一つはリーダーを育成するセル、もう一つは家族のように未信者を受け入れて、増殖するセルです。このセミナーでは、どのようにして、未信者を受け入れて増殖して行くのかというプロセスを学びました。

 私たちが今この教会で始めているセルはリーダーを育てるセルです。リーダーが育ってきたら、まだ、クリスチャンでない方も入れるセルを始めます。

 教会には家族の雰囲気の集まりと学校のように教えてもらう集まりが必要です。これがバランスよく活動していると、信徒たちは霊的に成長して行きます。どのように成長していくか、それは使徒の働きのようなしるしと奇跡が起こるのを体験するクリスチャンに変えられて行くのです。南紀キリスト教会のセル・リーダーは非常に霊的な、すばらしい人たちです。彼らが祈ると癒しや奇跡が起こるのです。でも、最初にリーダーに任命された時は、できるはずがないと思って泣いたそうです。そして、3日間断食をして、リーダーの役割を受けました。今ではリーダーをお世話するもう一つ上のリーダーとして働いておられます。「何がリーダーを続けさせてくれましたか。」と聞くと、「人が救われて、喜んでいるのを見た時、とてもうれしいので、続けることができました。」と答えてくださいました。

 教会の成長のカギは霊の親とリーダーたちの存在です。霊の親は新しい人たちを救いに導き、大人のクリスチャンになるように育てる人です。教会に霊の親とリーダーたちが育っていくと霊の子供たちも増えてきて、教会が活発になってきます。皆さんも、近い将来、霊の親になり、リーダーとして献身して行きましょう。それにはお祈りが必要です。祈りは教会の鍵です。祈りは具体的に祈りましょう。そうすれば、神さまの答えが具体的にわかります。また、自分のことだけでなく、他の人のために、また、地域の人たちの救いのためにも祈って行きましょう。

1.イエス様の苦悩を知らない民衆

 イエス様は不当な裁判を受け、ピラトによって十字架の刑が宣告されました。そして、「どくろ」という所で十字架につけられました。この時、イエス様とその右と左に二人の犯罪人が十字架につけられました。ゴルゴダ(どくろ)の丘に3本の十字架が立てられました。

 イエス様にとっては十字架にかかって死ぬことが一番大切な使命でした。この時のために、天から人間のかたちを取って降りてこられたのです。十字架にかかって死ぬことで、人々の罪を共に十字架につけ、「罪をあがなう」という大きな使命を果たすことになります。これが父なる神さまから託されたお仕事でした。ですから、人々の「十字架から飛び降りろ」という声、「自分を救え」という声、これらは大きな誘惑でした。神の御子であるイエス様には何でもできたのです。十字架から飛び降りることもできました。しかし、イエス様が十字架から飛び降りて、死刑を逃げたら、人間の罪を赦す、という霊的な神との和解は起こりませんでした。イエス様は、肉体の痛みと神に捨てられた霊的な痛みの中で沈黙し、ただひたすら耐え忍ばれたのです。

 そんなことを知らない民衆や指導者、兵士たちは主イエスに対し、悪口、あざけり、暴行、ありとあらゆる悪を行います。兵士たちはイエス様の着物をくじ引きしています。ある人たちは「十字架から、飛び降りろ。」、「自分を救え。私も救え。」と勝手なことを言っています。この人たちの姿はかっての私たちの姿です。

そんな中で、主イエスは言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないのです。」(ルカ23:34)主イエスは自分を迫害する者のために、父なる神に赦しに祈られたのです。主イエスは神の子羊として自らを捧げられました。ここに救いの原点があるのです。イエス様の頭の上には「ユダヤ人の王」という称号が掲げてありました。イエス様は眞にユダヤ人の王として、祭司として、赦しをとりなして、息を引き取られたのでした。

2.二人の犯罪人

 イエス様の左右にはもう2本の十字架が立てられていました。そこには2人の犯罪人が共に十字架にかけられていました。共に痛みと苦しみの中にいました。二人はイエス様のすぐ近くにいました。そして、イエス様を見つめていたのです。しかし、2人のイエス様に対する態度は違いました。

一人はイエス様に対して悪口を言い、ののしって言いました。「あなたはキリスト、救い主ではないか。自分と私たちを救え。」すると、もう一人の犯罪人が言いました。「お前は神様を恐れないのか。お前も同じ十字架の刑を受けているではないか。お前は自分のしたことの報いを受けているのだから、当たり前だ。しかし、この方は、何も悪いことをしておられない。無実の方だ。」ともう一人をたしなめました。そしてイエス様に向かって、お願いしたのです。

「イエス様、あなたが神の国の王になられる時は、わたしを思い出してください。」と。

すると、イエス様は言われました。「心から、あなたに告げます。真実なことを言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスは、天国、神の国です。神に支配されている場所のことです。ですから、死んでから行く場所とは限りません。私たちがイエス様を信じ、受け入れた時、パラダイスは私たちの心の中に起こります。ですから、喜びが湧いて来ます。永遠の命が私たちの中に注がれるのです。それは死んでから先の国にもつながっていきます。ですから、天国はこの世にいる時から、未来の国までつながっているのです。この永遠の命は何よりも大切な尊いものです。眞の命です。イエス様は、今日、あなたをこのパラダイスに招いておられます。イエス様を信じて心にお迎え致しましょう。主イエスはあなたの人生を祝福してくださいます。

(マタイ16:26)「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

3.証(メール配信より)

 日本の敗戦後、極東国際軍事裁判(1946年5月~1948年11月)、いわゆる東京裁判が行われました。そして、その時にたくさんの戦犯に死刑がいいわたされました。多くの国民は戦犯に対して、冷たい態度をとりました。そのような中、戦犯たちに心を砕いて仕えていた宣教師たちがいました。 そのうちの一人に、アイリーン・ウェブスター・スミスという女性がいました。

 ある日アイリーンのところへ戦犯である西澤氏の奥さんが訪ねてきて、彼に福音を伝えて、罪の赦しを得て、平安の中で死刑を受け、天国で再会できるよう、導いて欲しいと頼みました。

アイリーンは西澤氏に面会を申し込み福音を伝えました。はじめは、自分の犯してきた罪の重さゆえに、救いを受け入れることを拒んだ彼も、「イエス・キリストの血潮はすべての罪から私たちをきよめ、神様の前に赦されない罪はない。キリストの贖いのゆえに赦されない罪はない」ということばを聞いて、キリストを信じ受け入れ、獄中でバプテスマを受けて救われました。それを聞いた奥さんはとても喜びました。

それから、一週間もたたないうちにGHQ占領軍の方からまたアイリーン宣教師のところに連絡が来て、「柴野という戦犯があなたに会いたいと言っている」というのです。

何の面識もない人物でした。実は今や罪赦された喜びを爆発させている西澤氏が、拘置所の中で他の戦犯たちにキリストの福音を伝えていたのです。

柴野氏は「私も救われたい。私も避けられない死を前にして、永遠のいのちがほしい。罪が赦されるということを経験したい」と言って、あと1回しか残っていない家族との面会のチャンスをアイリーン宣教師に充てました。アイリーンは柴野氏に福音を語り、彼はたった1回の面会でイエス・キリストをはっきりと信じ救われました。

 そしてまた次の人が面会を求めてきました。今度は柴野氏が救いの喜びを伝え始めたからです。こうしてこの東京裁判の巣鴨拘置所の中では次々と戦犯たちがキリストに導かれ、14人が救われました。そして、その中の少なくとも13人は、獄中でバプテスマ、つまり洗礼を受けたのです。

西澤氏は言いました。「私の今の心残りは家族でまだ救われていない者がいることです。彼らのためにどうぞこの福音を宣べ伝えてください」。何と間もなく処刑される自分のことより、未だ永遠のいのちを持たぬ家族のことを心配していたのです。アイリーンと西澤氏は二人で祈りました。二人をじっと見張っていた看守はヘルメットを外して、自らも深々と頭を下げながら祈りました。

 

最後の面会が終わって出ようとすると、その看守が出口まで付いて来て言いました。「私は日曜学校に通っていましたが離れてしまいました。しかし、巣鴨で次々と絶望の囚人たちが輝いていくのを見てもう我慢がなりません。私たちにも福音を語ってください」。こうして憲兵隊の中に聖書研究会が出来ました。そこで沢山の憲兵隊がクリスチャンになり、後に伝道者、宣教師となって日本に来たのです!

 その後、西澤氏と柴野氏が処刑されました。その翌日に、ある将校がアイリーンのところに会いに来ました。

「昨日、あなたが導いた死刑囚たちが処刑されました。その最後はみんなに賛美歌を歌ってもらい、『神がともにおられる。死ぬのではなく、ふるさとへ帰る』と言いながら、聖書を抱きしめながら処刑されました」。その報告を聞いたときに彼女は祈りました。祈り終えて目を開けると、その将校も祈っていました。そして、「私も救われたい」と言うので、その場で彼をキリストに導いたのです。

(ヨハネ3:16~17)

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」


イエスはバラバの身代わりになって

2014-04-07 22:51:16 | Weblog

2014.4.6.イエスはバラバの身代わりになって

聖書 ルカ23:13~25

題  イエスはバラバの身代わりになって

はじめに

1.ヘロデとピラト

2.バラバ

3.沈黙の愛

 

はじめに

 温かくなり、桜が満開になりました。桃の花も満開です。日本が桜の季節になるとイスラエルではアーモンドの花が咲き、過ぎ越しの祭りの季節になります。過ぎ越しの祭りとイエス様の十字架の死刑は切り離すことはできません。イエス・キリストの十字架の死刑と復活は春の重要な出来事です。今年は4月15日から過ぎ越しの祭りが始まります。その日は普通満月で明るい夜のですが、今年は皆既月食が起こり、月が暗く、赤黒くなるそうです。非常に珍しい現象です。それから、この皆既月食がイスラエルの祭りの日に起こるというのも珍しいのです。今年は過ぎ越しの祭りだけでなく、仮庵の祭りにも、皆既月食が起こるそうです。何か、イスラエルに起こるかもしれません。イスラエルだけでなく世界にとっても重要なことが起こるかもしれません。

イエス・キリストの十字架の死刑と復活はこの世の暗闇を打ち破った霊的勝利の日でもありました。今から2000年前のことですが、この出来事が私たちの生き方と深い関係があります。

 本日の聖書の個所はイエス様の裁判の個所です。その結果、殺人と暴動の罪で捕らえられていたバラバという犯罪人が釈放されて、無実のイエス様が十字架の死刑を受けることになりました。非常に理不尽な判決です。どうしてそうなったのでしょうか。

 イスラエルの民の長老会、祭司長、律法学者たちは朝早く集まって宗教会議をしました。そして、イエス様を有罪にしてピラトのもとに連れてきたのです。イエスを訴えた訴状は3つありました。

①            国民を惑わした。

②カイザルに税金を治めることを禁じた。

③自分は王キリスト(救い主)だと言っている。

さて、ピラトはどのように対応したのでしょうか。

 

1.          ピラトとヘロデ

ピラトはイエスにユダヤ人の王かどうか質問しました。イエスはそうだとお答になりました。他にも調べましたが、何も犯罪に当たるようなことはありませんでした。イエス様がガリラヤ出身だとわかるとガリラヤ地方を治めているヘロデにイエス様を送りました。ちょうどその頃、ヘロデもエルサレムに来ていたからです。ヘロデはイエスに会いたいと思っていましたので喜びました。主イエスが行う奇跡を見たいと思っていたからです。しかし、イエス様は沈黙して何もお答えになりませんでした。祭司長や律法学者たちは激しく、イエスを訴えました。ヘロデもイエスをあざけり、侮辱しました。その上、派手な衣を着せて、ピラトのもとに返しました。ヘロデは何も罪を見いだすことができなかったのです。

ヘロデも、ピラトも残虐な人でした。普段は、敵対している人たちでした。しかし、この日は仲良くなったのです。これはいじめの構造です。一人をいじめると他の人たちはそのいじめに加わって、団結するのです。その残虐で敵対していた二人が一致してイエスの無実を証明したのです。しかし、民衆は納得しません。ますます、騒ぎ立てます。

ピラトは言いました。「あなた方はこの人を、民衆を惑わすものとして、私のところに連れてきたけれども、私が調べたところでは、あなたがたが訴えているような罪は何も見つかりません。ヘロデも同じです。見なさい。この人は死罪に当たることは何もしていません。だから、私は懲らしめた上で、釈放します。」ピラトは3度も民衆に呼び掛け、イエスを釈放しようと努力しました。しかし、多くの群衆の声に負けてしまうのでした。

この懲らしめは鞭打ちの刑でした。この鞭には鉛やガラスがはいっており、体じゅうに傷が入り、時には出血して、死んでしまうこともあるような刑罰でした。

これはイザヤの預言が成就する為でした。

(イザヤ53:5)「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 

2.バラバ

民衆の多くはピラトの声をさえぎって「十字架につけろ、十字架につけろ。」と叫びます。

「バラバを釈放せよ。この人を除け。」ユダヤの群衆はメシヤ像が期待していた者と違ったので、失望したのでした。民衆は自分たちをローマから救い出してくれる人をメシヤだと考えていました。また、指導者たちはイエスのことを「メシヤではない、悪霊付きだ」と言って、民衆に不信感を抱かせました。指導者たちを通して、イスラエルはこの時、民族として、聖霊に逆らう罪を犯したのです。イエスはメシヤであられたのに、それを受け入れず、十字架につけてしまったからです。民衆は自分では何も善し悪しを判断することのできない人々でした。一週間前のエルサレム入場の時はイエス様に対して、熱狂的な歓迎を表し、今日はコロッと違う態度を示しているのです。罪深い人間の弱さを見せられます。

バラバは暴動と強盗と殺人の罪で捕らえられていた人でした。十字架の刑につけられる予定でした。バラバにしてみたら、釈放されるなどというのは夢のようなものです。そんなことは起こらないはずでした。ところが、バラバが釈放されて、イエス様が十字架につけられることになってしまいました。バラバは一方的な恩寵によって、釈放されることになりました。バラバの罪は赦されるものではありませんでした。当然刑罰を受けるべきものでした。しかし、それが何の努力もなしに釈放され、受けるべき刑から解放されたのです。(ルカ23:25)「ルカ 23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」

 このバラバは現代では私たちクリスチャンの姿です。聖書は「義人はいない。一人もいない。」と言っています。罪人の私たちには多くの赦されない罪がありましたが、イエス様の十字架の刑よって、罪が赦され、永遠の刑罰から解放されたのです。そして神の国に入ることができるようにしてくださいました。それだけではなく、神の作品としての生き方をすることができるように祝福して下さっています。

 3.沈黙の愛

父なる神には人間を救うという偉大な計画がありました。そのために、神のひとり子をこの世に送ってくださいました。ひとり子のイエス様は父なる神の命に従って、人間になって、この世に来てくださいました。この世の理不尽な状況を受け入れて、十字架に至るまで、従順に従ってくださいました。私たちの罪の身代わりになって、十字架についてくださいました。十字架の刑に至るまでの裁判の間、ほとんど沈黙を守り、ひたすら、父なる神の命令に従って、十字架の刑を全うされたのでした。死に至るまで忠実でした。

(イザヤ53:7)「 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

(Ⅰヨハネ4:10)「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 イエス様はバラバの身代わりになりました。バラバには理解を超えた神の愛が注がれたのです。彼は罪がゆるされ、死刑から解放されました。ピラトの弱さもイエス様は自分の背に背負ってくださいました。ピラトは民衆の声を制することができなく、ついに彼らの声に負けて、正義を貫くことはできませんでした。もし暴動になったら、どうしようという心配と恐れが彼を支配したのです。それは、自分と家族の安全を守るという立場を貫いたからです。これは私たちの中にもある弱さです。私たちも人の顔色をうかがいながら、ものごとを決めることはありませんか。また、イエス様は自分を十字架につけたユダヤ人の罪も赦されました。

「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです。」(ルカ23:34)という祈りに表されています。十字架を通して、主の身もとに来る人々を拒まれることがありません。みんな赦して下さいます。今があなたの人生の分岐点です。主イエスの赦しと愛を受けて、祝福された人生を送ろうではありませんか。神の命、復活の命をいただいて、よみがえるのです。

(ピリピ2:6~9)「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」