阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

御霊の実:寛容を身につける

2015-10-25 22:03:13 | Weblog

2015.10.25.御霊の実:寛容を身につける

聖書 ガラテヤ書5:22~26

題  御霊の実:寛容を身につける

暗唱聖句 コロサイ3:12

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」

 はじめに

 先週、藤先生ご夫妻をお迎えして、幸いな特別集会を持つことができ、感謝いたしました。ハープの音を始めて聞いた方もいらっしゃることでしょう。優しい、落ち着いた音色で、心に平安を与えるような感じでした。何よりも、特別集会に、家族の方をお迎えすることができたことを感謝したいと思います。祈って家族を導くチャンスを待っていたら、主がちょうどよい時に、家族に救いを与えてくださると言う確信をいただくことができました。聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という約束のことばがあります。主の真実を信頼いたしましょう。

 1.     御霊の実

  中澤啓介先生という方が御霊の実についてこのようなことを書いておられました。「キリスト者の内には、御霊によって『第二の天性』として、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』(ガラテヤ5:22~23)などの実が結んでいくのです。これらのキリスト者の人格は、新しい世界でキリスト者が『復活のからだ』を受けるとき、その人の特質として引き継がれて行くでしょう。」そうしますと、この御霊の実こそ、永遠に残る神様からのプレゼントともいえます。そして、もっとも大切なものではないでしょうか。

 パウロ先生は、御霊の実がはっきりわかるように、肉の行いと比較しておられます。

(ガラテヤ5:19~21)「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

 この肉の行いは性的な罪、偶像礼拝、怒りや争い、お酒などを飲んで騒ぐことなどにわけられます。パウロ先生はこんなことをしている人たちは、神の国に属していないと言っているのです。ここでは「神の国を相続することはない」と言っています。

ここは、とても大切な教えです。肉の行ないをしている者は、自分がいくら救われていると主張していても、救われてはいないのです。信仰によって義と認められた人は、同時に御霊によって新たに生まれました。御霊がその人を導くようになるのですから、その人には必ず聖霊の実が結ばれるようになります。しかし、肉の行ないをしているのであれば、本当にその人が救われているのかどうか、疑ってみなければいけません。

本当に救われているならば、その人の古い人は十字架の上で死んだのです。生きているのは聖霊によって生まれ変わった人です。ですから、御霊によって導かれ、自然と御霊の実が実ってくるのです。

(ガラテヤ5:22~23)「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

 肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれているところに注目してください。私たちの行ないは肉に属するものです。しかし、御霊がなしてくださることは、実、すなわち自然に育ってくるものなのです。私たちが、キリストのうちにいこい、キリストにかたく立ち、キリストのうちにとどまっているのであれば、自然と愛が与えられます。私たちが、愛ではなく憎しみ、怒りがあるのであれば、私たちが、心から主の力を信じることができていないからです。御霊に拠り頼むことができていないからです。私たちが、ありのままの自分を主にさしだし、自分には何もできないことを認め、主に心の王座を明け渡すときに、主が私たちに代わって、これらのことを行なってくださいます。

 2.御霊によって生きる

 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:24~25)

 パウロ先生は、また信仰の原点に戻るように促しています。信仰をもって福音を聞いたときに戻ってください。そして、自分はキリストとともに十字架につけられ、死んでしまった者だと思いなさい。イエス様が私として、あなたとして、一体となって、死んでくださったのです。今ある自分は復活の主と共に新しく生き返った者です。だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。このことに立ち戻ってください。御霊によって生きたのですから、同じように御霊によって進みましょう、と言っています。天の視点で生きるのです。
 こうして、キリストにある自由を保つためにはどうすればよいかを見ていくことができました。それは、「キリストのうちにとどまる」ということと「愛によって仕える」という二つの原則に立つことです。非常に単純なことです。しかし、偽教師は「これこれ、このようなことを行なえば、あなたは幸せになれます。祝福されます。」という歪められたメッセージを持ち込んできます。それに影響されるのが、私たちなのです。嘘の教えに影響されないでください。パウロが宣べ伝えたところの十字架と復活の福音にしっかりと立ちましょう。それは、み言葉にしっかり立つということです。そして、この自由を愛によって仕えるために用いましょう。

3.寛容

 今日の強調点は「寛容」です。寛容を辞典で調べましたら、このように書いてありました。「心が広くて、よく、人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などを厳しく責めないこと。」又、「異なる意見、行動などを許容すること」。聖書には「愛は寛容であり、愛は親切です。」(Ⅰコリント13:4)と書いてあります。又、同じところで、愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)と書いてあります。英語の聖書を見たら、「がまん強い」という英語が「寛容」と翻訳されていました。英語の例文にこんな文章がありました。「幸せな結婚生活を維持するために、最も必要なものは、おそらく、寛容と忍耐であろう。」寛容と忍耐が親しい人間関係の鍵になるようです。


 寛容の寛は訓読みでは「くつろぐ」と読みます。「くつろぐ」とは、心や体が、ゆったりして、楽になることです。ですから、寛容とはお互いに、くつろげる関係にあることではではないでしょうか。

神様との関係もくつろいだ、親密な関係ができたら、力を抜いて「天のお父様、アバ、おとうちゃん」と呼べる関係になります。

教会や職場、家庭の中での関係も、寛容さは大きな人間関係の要素になります。しかし、これは「御霊の実」です。人の努力ではありません。キリストにつながっていさえすれば、必ず、変えられて、良い実を結ぶのです。

(ガラテヤ2:20)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

(エペソ4:2~3)

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

 ある人が「寛容」について、このように表現していました。「残念ながら、ただ一つ大切なことを、学び忘れているんです。寛容な心です。学校では、寛容ということは教えてはくれません。教えてくれる人も少なくなりました。でも、とても、大切なことです。これは、ある意味では、愛の心です。寛容な心は、人を、大きく包み込んで行く心であり、愛の心です。嵐のとき、いろいろな動物が、雨宿りする大きな大木であり、避難してくる人を包み込もうとする愛の心です。

寛容な心を持っている人のところにはいろいろな人が、自然と集まってきます。それは、寛容な人は、人を責めることなく、他人の欠点に、目をつぶり、かばってあげれる心優しき愛の心です。」

 

寛容は御霊の実であり、御霊によって歩む時に、実るものです。もし、私たちの心が狭く、いつも厳しく、自分の力で頑張っていたら、それは、御霊によるものではありません。「主よ、私の力ではできません。すべてをあなたに明け渡します。どうぞ、寛容な心を与えてください。」と祈りましょう。主は求める者に与えてくださいます。

 

(Ⅰコリ13:4)「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

(コロサイ3:12)

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情、慈愛、謙遜、柔和、寛容(かんよう)を身につけなさい。」

 

 


全人的安息

2015-10-22 22:05:00 | Weblog

2015.10.18.全人的安息

聖書 マタイ11:28~29

題  全人的安息

説教:藤正信師(ミッションあどない・いるえ)

 

暗唱聖句 マタイ11:29

「 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

 

YMCAのロゴを知っていますか。逆三角形のうえにYMCAと書いてあります。あの逆三角形の意味は何かというと、身体と魂と霊を表しており、「私たちは、青少年に対して心も体も霊も健全になるように活動しています。」という意味です。

 人間は身体と魂と霊から造られています。父、御子、聖霊の三位一体の神に似せてつくられたからです。人間は3つの部分からなっている統一体です。(創世記1:26,27,2:7)この統一体をこわそうとしたサタンはアダムとエバに罪を犯させました。

その結果、この統一体は分裂状態になりました。このままの状態で死ぬと霊は神の元に行きます。身体は土に帰ります。魂は地獄に行くと言う分裂状態です。 

  イエス・キリストを信じ、受け入れた人は、その時、何が起こっているでしょうか。

① 霊が生き返る。②キリストがその人の中に住まわれる。③霊・魂・体の救いが起こる。・・・霊の救いが起こる。義認。霊は一回で救いが完成する。魂は罪の力からの救いを受ける。一度で完成しない。毎日きよめられる必要がある。身体は死ぬ時、一時的に土に帰るが、復活する。身体は栄化する。

 

モーセの幕屋について

モーセの幕屋は全人的救いについて、わかりやすく現わしている。幕屋の外側には外庭がある。幕屋の内側には聖所と至聖所がある。3つの区分に分かれている。

外庭には供え物を焼く祭壇と洗盤がある。この外には人間で言うなら、身体にあたる。

聖所には金の燭台、パンの備えの台、香の壇の3つがおいてあった。金の燭台は意思を表す。パンの燭台は知性を表す。主を知ることは知恵の初め、聖なることを知ることは悟り・・・。

香の壇は感情を表す。手話の賛美を始めて見た。すばらしい。私たちは嬉しい。神がここにおられると感じる。祈り、感謝、礼拝を捧げる。ところが、次の日は雨で、うっとしい。車に泥跳ねをかけられた、悔しいなど。上がったり、さがったりの不安定なところです。

次の至聖所には神と大祭司だけが入ることができます。大祭司でも、一年に一回だけです。霊と魂と身体に対する安息です。至聖所は、霊に対する安息を意味します。イエス様を信じた瞬間から救われています。霊は安息を与えられています。安息に入っています。

(マタイ11:28)「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 

Sさんの話、20年ほど前のことです。

私は車にマタイ11:28を書いていました。すると、一人の男性がこの聖句を読んで、「おれも安息が欲しい。これは本当か」といって、ドアをたたきました。どこでもよいから乗せて行ってくれということでした。私はその人を乗せて、栃木の自分の家まで連れて行きました。車の中で、酒の臭いとホームレスの人のような汗臭い臭いがしました。車の窓を開けて運転し、家につきました。お風呂に入れてあげ、自分の下着と洋服を出してあげました。そして3カ月一緒に生活をしました。そのうちに彼はイエス様を信じ、救われました。3カ月後、もう十分に休んだ、さあ仕事をしようと言って仕事に行きました。そして、たくさんのお給料をもらいました。すると、この人は酒が好きなので、酒を買って飲み、再び、公園や、道の横などに寝てしまい、とうとう、帰ってこなくなってしまいました。

いったいどこに問題があったのでしょうか。

霊は救われていました。これはイエス様を信じた瞬間から救われています。身体は元気でした。マタイ11:29を読んでみましょう。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

ここに、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と書いてあります。ここには「イエス様のくびきを負って、イエス様から学びなさい」と書いてあります。「そうすれば、平安がくる。」と。

Sさんの問題は、霊は救われていたのですが、魂がイエス様に従っていませんでした。魂の中には意志決定がはいっています。どうしてもお酒をやめることができませんでした。残念ながら、Sさんの安息は霊だけで、魂の安息は得られていなかったのです。これは全人格的な安息に入ったとは言えない状態です。

身体に与えられる安息は、この世では完全ではありませんが、癒しが与えられます。魂はイエス様と共に生きている時だけの条件付きの安息です。魂が安息に入る方法、7つの条件のうちの1つを紹介します。それは、自分の思い煩いをやめることです。

思い煩いは、電車の中で荷物を背負ったまま、座っている状態の人がいますが、そのようなものです。私たちがこの思い煩いを取り除いてくださいとお願いする時、神は介入して、取り除いてくださいます。

 御言葉によって守られる。

私は家が貧しかったので、中学、高校と新聞配達をしていました。朝刊、夕刊、集金ととても忙しく、部活をすることはできませんでした。朝も3時か4時には起きて行かなければなりません。冬は真っ暗です。でも、み言葉に励まされて、怖いと思うこともなく平安を保つことができました。

 心の中に平安を持つ方法

困難な中にも安らぎを持って生活する人はたくさんいます。パウロとシラスは悪いこともしていないのに、鞭で叩かれたあと、牢屋にぶち込まれました。彼らは痛みの中で、神に賛美を捧げていました。安らぎの本質です。ダニエルは妬まれて、おとしめられました。そして、ライオンの穴に投げ込まれました。しかし、穏やかでした。安息を持っていました。

聖書の中心はイエス・キリストです。十字架にかけられました。いばらの冠を家具せられました。イエス様は100%人間でした。どんなに痛かったことでしょう。侮辱され、平手でぶたれました。その前の夜は裁判で一睡もしておられません。ヨハネに母マリヤの世話を託されました。苦悩の真っただ中で、「私の持っているこの平安をあなたがたに残していきます。この平安はこの世のものではありません。」と言われました。神のくださる平安は誰も奪うことがありません。

 長崎の西坂で殉教した2人の若者がいました。磔で処刑されました。若い子どものような少年に、「イエスを信じないと言ったら養子にしよう」と言ったら、何と自分で磔の方に歩いて行ってしまったそうです。

  アブラハムは素晴らしい約束をどのようにしていただくことができましたか。契約によってです。(創世記15:9~12,17~18)

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創15:6)

イエス様は十字架の上で命をかけて、「安息」を与えてくださった。イエス様がくださると言われた安息を持ってほしい。

(メッセージは要約です)


祈りによるペテロの救出

2015-10-13 13:52:17 | Weblog

2015.10.11.祈りによるペテロの救出

聖書 使徒12:4~17

題  祈りによるペテロの救出

 

暗唱聖句 エペソ6:18

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

 

はじめに

 9~10日の2日間、アグローの西日本大会が神戸栄光キリスト教会で行われたので、徳島アグローからも3人出席いたしました。週末に出かけると、礼拝の準備ができなくなるので、大きな心の闘いでした。しかし、参加して本当に恵まれ、霊的に新しくされました。50人位参加していたようです。浜松から九州までの超教派の教会から集まっていました。アグローは祈りの戦士、勇士たちを育てる女性の集まりです。世界中に草の根のように存在している国際的なグループで、本部はアメリカにあります。そして、3つの使命を持っています。1つは「男女の和解」と言って、男性と女性が一致協力して、主の栄光を表すことです。2つ目はイスラエルのために祈ること、3つ目はイスラムからの解放のために祈ることです。

アグローの集会の楽しみは、礼拝と賛美です。賛美を通して主を礼拝し、主の臨在を心ゆくまで味わうことができると言う、奥深さがあります。ある時は優しく、ある時は激しく、ある時は沈黙の中で、主の臨在を味わう、そういう時です。魂と霊で感じて、心の中に神様の確かな臨在感を覚えていくのです。この体験が多くなるほど、神様の存在が近くになります。神様と親密な関係になって行くのです。このような体験を味わうと主が本当に生きておられて、私たちと共に生きていてくださる、私たちの生活の中に神の存在があると言うことを確信するようになります。皆さんに味わってほしい体験です。そうなると、試練にも強くなります。試練が問題では無くなるのです。試練が成長の糧となり、後で、他の人を励ますことができるようになります。神がその試練を用いられるようになります。

アグローの女性たちは苦労しながらも、主に守られ、闘い、勝利を勝ち取っています。そして、たくましく生きています。また、キラキラ輝いて、美しい人たちばかりです。主の栄光が一人一人の心の中に輝いておられるからです。

 

さて、今日は祈りについて語りたいと思います。

1.祈りについて

 神様は人間を特別な者としてお造りになりました。他の動物と全く違うことが一つあります。何かわかりますか。それは、祈りができる霊的な世界を持っている者として造られたのです。神様が神に似せてつくられた者、これが美しい人間だったのです。

(創世記1:27)「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神は人間に霊を授け、神の霊と交わることができるようにされたのです。そして神の愛と正義をこの世にもたらすものとされたのです。男と女が一致して神の栄光を表すように造られました。その最初のプロセスが結婚、出産に伴う家族の形成でした。家族が幸せであること、これが神の願いです。サタンはこれをこわすことに必死になっています。負けてはなりません。主に祈って、神の知恵と力によって解決していくのです。

そんなわけで、私たちに与えられた神様のプレゼントは「祈りができる。神様を呼び求めることができる。」事です。私たちは、神様を知る前から、祈りができるように造られていますから、祈ります。神様はその願いを聞いて、私たちに神の御一人子であるイエス・キリストと出会うことができるようにされました。

(詩篇62:8)「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

そして、今、教会で、皆で賛美し、天地を創造された神を礼拝しているのです。

祈りは誰でもできるものです。難しいものではありません。最初は自分の願いについて祈り始めます。これは自然なものですが、霊的に赤ちゃんの状態の祈りです。これだけで生きている人もあるかもしれません。自分中心の祈りです。「これ欲しい、あれ欲しい。こうして、ああしてください。」いつまでたっても、霊的に子どものままの状態です。

皆さん、自分の祈りの言葉を思い出してください。どうでしょうか。

 もう少し、大人になりましょう。少し大人になると、他の人のために、とりなしのお祈りができるようになります。他の人のために、代りにお祈りすることです。これはとても大切です。祈りは、神の御手を動かします。神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。疑わないで祈ることです。

 さらに、もっと成長して、霊的な祈りの人になる場合、神様の御心を尋ね求める祈りをすることです。神の心を聞く祈り、そして教えられたことを実行することです。自分中心の願いを捨てて、神さま中心の生活に切り替えます。アグローはこのことを強調します。そして、神の支配をひろげて行くのです。神様が支配される世界を広げて行くことを神の国をひろげると言います。それだけでなく、神様と親密になること、神との関係に隔ての壁がないようにして行く、きよめられていくようにする、神との間に透明な関係を造ることを目指しています。イエス様は教会の花婿です。教会は花嫁です。私たちクリスチャンは、花嫁ですから、キリストの花嫁です。キリストの花嫁にふさわしくなるように整えられていくのです。それは礼拝を通して、またクリスチャン通しの交わりを通して、整えられていきます。ですから、礼拝に出席すること、クリスチャン同士交わることは、自分の霊的な成長のために、とても大事です。

 

2.とりなしの祈りについて

 「とりなしの祈り」というのは他の人の代わりに祈ることです。私が子どもの頃、悪いことをすると、柱にくくりつけられました。すると、おばあちゃんがお父さんに「許してやってくれ。もう反省しているから。」と謝ってくれました。とりなしてくれたのです。そして、許されて、自由になりました。ここではとりなし手が、おばあさんでしたが、私たちの霊的なとりなし手はイエス・キリストです。イエス様は今でもとりなしていてくださいます。

(ローマ8:34)「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

(Ⅰテモテ2:5)「 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

イエス様は十字架にかかって、私たちをあらゆる罪の縄目から解放してくださいました。今では、神の作品として、訓練され、豊かに用いられています。イエス様がとりなしをしていてくださるので、私たちもとりなしの祈りができます。なぜなら、神の霊である聖霊が私たちのうちにあって、とりなしの祈りをしてくださるからです。とりなしの祈りは大切です。私たちはお互いにとりなしの祈りをしましょう。大丈夫です。聖霊様が助けてくださいます。

(ローマ8:26~27)「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

 

 使徒の働きの12章では「ペテロは捕らえられて牢に閉じ込められていました。」そして、ヘロデ王は過ぎ越しの祭りが終わるとペテロを殺そうと思っていました。牢は厳重な警戒態勢がとられており、16人の兵士が監視についていました。また、ペテロは鎖につながれ、おまけに二人の兵士がすぐそばにいて見張っていました。助けることは不可能でした。

  その間、教会はどうしていたでしょうか。(使徒12:5)「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」12節「ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大勢の人が集まって、祈っていた。」教会ではみんなが集まって熱心に祈っていたのです。すると、どうなったのでしょうか。

 ヘロデがペテロを殺そうとしていた前夜、突然、光が牢を照らし、主の使いがペテロのところにやって来て、ペテロをつついて起こしたのです。そこには左右に二人の兵士がおり、戸口には複数の番兵たちがいたのです。それにもかかわらず、御使いは、ペテロを起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。すると鎖が手から落ちたのです。帯を締め、靴をはいて、御使いについて行きました。ペテロもまるで幻を見ているかのようでした。現実のことには思えませんでした。しかし、御使いがついて来なさいと言ったのでついて行きました。すると、兵士のいる所をいくつか通り過ぎ、鉄の門のところに来ると、その門がひとりでに開いたのです。外に出た時、御使いは離れて行きました。その時、ペテロは我に帰って、主が御使いを使わして下さったことがわかりました。

 神様は教会の熱心な祈りを聞いてくださいました。ペテロを牢の中から救ってくださったのです。

このペテロと同じような体験をした中国人の兄弟がいます。名前はブラザー・ユン、彼は16歳で宣教者の召しを受けて立ちあがり、中国共産党の迫害の中でキリストの救いと奇跡の福音を伝えていました。公安警察は彼を捉え、牢獄にぶち込み、拷問をしました。3回目の投獄の時のことです。彼は本当に殺されそうになるくらいの拷問を受けていました。足は鉄の棒で殴られて砕かれ、ぜんぜん、歩くことはできませんでした。彼はただひたすら神に祈っていました。もし、逃げられるなら逃がしてほしいと。彼の家族、友人が彼のために祈っていました。ある日、その日がやってきました。突然、今だと言う確信が来て、なぜか立ちあがったのです。歩けました。門番はいたけれど、自分のことが見えていなかったような感じでした。門はひとりでに開きました。彼はいくつかの門を通り越して、外に出ることができたのです。すると、そこにはタクシーが待っていました。ユンはそのタクシーにのって、友人の家に行きました。そこで、タクシー代をもらって、運転手に払ったのです。運転手はそのまま、走り去っていきました。その後、大雨が降り、彼のにおいは道路から消し去られてしまいました。警察犬も見つけることはできませんでした。彼は、今、中国から出て、福音のために働いています。

 ユン兄の場合にもとりなしの祈りがささげられていました。とりなしの祈りは聞かれるのです。教会は熱心祈る共同体でなければなりません。私たちも祈りましょう。

 アグローの集会でなされた証です。ある婦人の御主人が前立腺がんにかかってしまいました。奥さんは、なぜか、これで主人は救われると言う確信が来て、喜びがやってきたそうです。検査の結果、10か所を調べた結果、みんな7~9(正常4)の間だったそうです。完全にがんに侵されていました。選んだ治療法は女性ホルモンを打つことでした。一回目を打ちました。その結果を、検査する前の日がアグローの集会の日だったそうです。そこで、癒しを宣言して、感謝の祈りをしてもらったそうです。すると翌日のPSAの結果がなんと0.2だったそうです。一年後0.1、2年後0.1, 今0.0になったそうです。アグローの祈りは聞かれます。ハレルヤ!と証されました。

 アグローの祈りだけでなく、私たちの祈りは聞かれます。教会員が心を合わせて熱心に祈る時、主は祈りに答えてくださいます。奇跡を与えてくださいます。今までも、たくさんの祈りに答えてくださいました。疑わないで祈り続けましょう。来週は特別集会です。講師の藤正信先生、藤和子先生のために、また、求道者、新来会者が来てくださるように祈りましょう。


マケドニヤに渡ってきて助けて!

2015-10-06 21:49:59 | Weblog

2015.10.4.「マケドニヤに渡ってきて助けて!」

聖書 使徒の働き16:1~10

題  「マケドニヤに渡ってきて助けて!」

暗唱聖句 使徒16:9

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願(こんがん)するのであった。」

 

はじめに

私たちの生活はいつも願ったとおりに行くと言うものではありません。突然、悲しみや不幸が訪れることもあります。また、ビジョンを持って、前進している時、行き詰まる時もあります。平和な日々が送れるとしたら、それは神の恵みです。感謝しましょう。しかし、そうでなくなった時、私たちはどうしたら良いでしょう。

(詩篇121:1~2)「 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。」

そうです。私たちの目を天と地を造られた神に向けることです。助けがやってきます。十字架につけられたイエス・キリストは苦難のしもべであり、死から、よみがえられたお方です。ですから、うまくいかなくなった時は、イエス・キリストのことを黙想しましょう。十字架と復活を黙想してください。きっと、解決の糸口が見つかります。主は、あなたを知っておられ、助けようとしておられるからです。

 

1.うまくいかなくなった時

パウロとバルナバは小アジヤ地方(現在のトルコ地方)で第一回目の伝道をし、多くの異邦人たちが救われたのを喜び、アンテオケの教会に帰ってきました。アンテオケの教会に帰ってきていると、ユダヤから来た人たちがこう言っているのです。「イエス・キリストを信じるだけでなく、モーセの律法を守って、割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教え始めたのです。パウロとバルナバはこの間違った教えに反対しましたが、大論争に発展し、解決しませんでした。せっかくイエスの御名を信じる信仰のみで救われてきたのに、ここで行いによって救われるという教えが入ってきたら、大変なことになります。アンテオケの指導者たちは、代表をエルサレムに送り、そこで話し合って解決してもらうことにしました。そこで、第1回目のエルサレム会議(使徒15章)が行われました。そして、多くの議論の結果、「主は差別されない、信仰によって救われる」と言うことになりました。「神は片より見ない方で、ユダヤに人も異邦人にも、聖霊を与えて、同じように清めてくださったのだから、イエス・キリストの恵みによって救われている。」そして、異邦人のためには、次の3つのことに気をつけるように手紙を書きました。「①偶像に供えた物は食べないこと。②絞め殺した動物の肉を血のついたままは食べないこと。③そして、不品行は避けなさい。性的な罪は犯さないように。」と言う3点でした。一つの大きな問題が話し合いによって解決されました。問題があれば、話し合いで解決すること、それは大切なことです。

パウロとバルナバはこの問題が解決されたことを喜びました。再び、アンテオケに帰り、アンテオケの教会を励まし、み言葉を教え、宣教しました。しばらくの間、彼らはアンテオケにとどまっていましたが、そのうち、前に伝道した小アジヤの人々はどうしているだろうかと気になり、2人で相談し、見に行くことにしました。ところがここで又問題が起こりました。バルナバはマルコをつれて行きたいと思いましたが、パウロは反対しました。以前の伝道旅行の時、マルコは辛くなって途中で帰ってしまったからです。そこで、バルナバはマルコをつれてキプロス島へ行きました。パウロはシラスを連れて小アジヤに行って伝道することにしました。二人の指導者はここで別々の地域の伝道を行うことになりました。そして、それぞれ祈ってもらい、祝福してもらって、伝道旅行に出かけることになりました。賜物や性格、伝道の目的が違う場合は、別々の方法で、伝道をしても良いと言うことです。バルナバは忍耐の人で、パウロを育てた人です。そのパウロがバルナバから独立して、これから、本格的にパウロの宣教が始まります。

パウロは主に期待して、シリヤ、キリキヤ地方を通り、通りがかりの教会を励ましました。パウロはルステラで若いテモテと出会いました。パウロはこのテモテが気に入りました。テモテはこの地域の信者たちに評判の良い人でした。パウロが行こうとしていた地方にはユダヤ人がたくさん住んでいました。そのために、テモテにユダヤ人であるしるしの割礼を受けさせました。なぜなら、テモテの父親がギリシャ人だったからです。母親はユダヤ人でした。第一回エルサレム会議で、割礼はしなくてもよいことになりましたね。なぜ、パウロはそれを知っていながら、テモテに割礼を受けさせたのでしょうか。それはテモテがユダヤ人であること、主の民であることを表すためでした。交わりの時に割礼を受けていた方が、より深い交わりができると考えたからです。

パウロはこう考えました。

(1コリント9:19~22)

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

 9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

 9:21 律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

 9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」

わかりやすく言いうと、パウロはユダヤ人に対しては「ユダヤ人のようになり、日本人には日本人と同じようになってつき合いなさい。」と言っているのです。

ある日、ユダヤ人のメシヤニックジューと呼ばれているクリスチャンが日本にやってきました。私の友人は、その人をお寿司屋に連れて行ったそうです。すると、律法では禁じられているイカやタコ、貝なども平気で食べていたと言うのです。払ったお寿司代2万円だったそうです。イスラエルでは、彼は律法を守っており、タコやイカなどは決して食べません。ちょっと律法に厳格なメシヤニックジューなので、日本で食べた物を聞いて驚きました。パウロ流にやったのかと思いました。

ここで学ぶことがあります。パウロは相手に合わせて、相手の奴隷になったと言うのです。それは、その人たちに福音を伝えるためと言います。私たちは長くクリスチャンを続けていれば、いるほど、クリスチャンらしいところを見せようとがんばって、キリスト教の律法を押し付けようとします。しかし、ノンクリスチャンには、キリスト教の規律のようなものはわかりません。伝道をそこから始めようとするなら、失敗します。普通の人にとっては、キリスト教会は敷居が高く、一人では入れないような雰囲気を持っているそうです。ですから、誰かが誘って、一緒に来る必要があります。

パウロの言っていることをわかりやすく言うとこういうことです。「相手の大事にしているものを大事にしなさい。相手をそのまま、愛しなさい。受け入れなさい。」と言うことです。お互いに裸の人間として、付き合うのです。弱い人には弱い人のように優しく話すのです。これが伝道の始まりです。そして、信頼関係を造るのです。信頼関係なしに伝道はできません。伝道以前の問題です。家族間では特に信頼関係を築いて、良き証人になりましょう。相手の大事なものは大事にしてあげましょう。

 

2.マケドニヤに渡ってきて、助けてください。

さて、パウロはさらに進んで、小アジヤの方へ行こうとしましたが、伝道の門は閉じられてしまいました。聖霊が御言葉を語るのを禁じたと言うのです。しかたがないので、トロアスの港にやってきました。パウロはどうしてよいのか、わからなかったと思います。自分が行こうとしていた道は完全に閉ざされたのです。皆さんの中にも、こういう経験はあると思います。神様の御心だと思って、喜んでその道を進んでいたら、急にその道が狭くなって、行きどまりになってしまった。さあ、どうしよう。

そういう場合には焦らないことです。神様は何か大きな計画を持っておられます。じっと待つことです。次のことが示されるまで、ゆっくり休みながら、待つことが良いと思います。原点に帰ることも良いと思います。にぎっていたものを離すのです。そして、主に御心を聞いたら良いと思います。

パウロは神に祈りました。「こんなはずではなかったのに、神様、どうしたら良いでしょうか。」と。次の道が示されました。

その晩、パウロは幻を見たのです。どんな幻であったかと言いますと、それは、一人のマケドニヤ人が立っている幻でした。彼は、「マケドニヤ地方に渡って来て、私たちを助けてください。」と、懇願したのです。パウロは、これを主の御心だと確信しました。そして、トロアスからマケドニヤ地方に渡っていくことにしました。そして、マケドニヤ地方の大きな町であるピリピで伝道が始まることになるのです。

神様は一つの扉を閉められたら、また次の扉を開けてくださいます。心配しないでください。どちらも良い道です。ただ、自分の思い通りにはならなかったので、自分の目にはベストには見えないかもしれません。しかし、神が開いてくださった道はベストの道です。神はたとえセカンドベストと思えるものも、ファーストベストに変えてくださいます。

ここでは「マケドニヤ人」が助けてと言っています。私たちにとって、どこがマケドニヤでしょうか。あなたの近くに「助けて!」と言っている人はいませんか。その人に福音を届けるのが、私たちの使命です。福音というのは神様の愛です。愛を届けるのです。18日には素晴らしい伝道者のご夫妻が来られます。藤正信先生と和子先生です。今私たちの教会のために、一生懸命準備をしておられます。期待して、家族、友人、知人を誘いましょう。又、当日の天候が祝福されるようにお祈りください。

 

3.助けてと言えた時が助かる時

先日、ホームレス支援団体の奥田知志先生の講演会を聞きに行きました。奥田先生は27年間もホームレスの人々の支援をしておられます。そして、「助けて!」と言える国を目指しておられます。

 日本では子どもが「助けて!」と言えないでいる国です。そして、子どもが自殺する国で、その数も年々増加してきました。1月、4月、9月が自殺する人が多い、その中で、自殺する子どもが一番多いのが9月1日だそうです。ある日、図書館で「そんなに学校に行きたくないなら、図書館においで!」という広告が出たそうです。これは大きな反響を呼びました。なぜ、子供なのに「助けて!」と言えないか、それは大人が「助けて!」と言えないからだそうです。そういえば、日本では「助けて!」とは言えないで、過労でも死ぬまで、一生懸命働きます。「助けて!」と言える社会づくりが必要だと言っておられました。

 奥田先生も「助けて」と言えない一人でした。ところが息子さんがいじめから引きこもりになったそうです。だんだんエスカレートして、もう、父親の自分では助けることができなくなりました。ある日、息子が突然、「僕はここへ行って住みたい」といったそうです。それは沖縄の石垣島のもっと向こうの島でした。二人でそこに行きました。宿に泊まったら、村の人が来て、話を聞いてくれました。息子は2時間ぶっ続けに自分の思いを語りました。するとその人は「私たちと一緒に住んだら良い。」と言ってくださったそうです。その時、奥田先生は初めて「助けてください。」と言いました。なぜ言えたか、これ以上抱えていると息子を殺しそうだったからです。そして息子は1年半ここでお世話になって、回復しました。今、自分のことばで、自分の考えを語ることができるようになりました。

 人は「助けて!」と言えてはじめて、他の人を「助ける」ことができます。お互いに「助けて!」と言えるようになりたいものです。「助けて!」と言った時が助かる瞬間なのです。「助けて」と言えないで苦しんでいるいる日本のマケドニヤ人に福音が届きますように祈りましょう。助けてと言えないで苦しんでいる人たちに、特別集会のチラシが届くようにお祈りしましょう。そして、そういう人たちが、福音に触れることができるようにお祈りください。