2015.10.25.御霊の実:寛容を身につける
聖書 ガラテヤ書5:22~26
題 御霊の実:寛容を身につける
暗唱聖句 コロサイ3:12
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」
はじめに
先週、藤先生ご夫妻をお迎えして、幸いな特別集会を持つことができ、感謝いたしました。ハープの音を始めて聞いた方もいらっしゃることでしょう。優しい、落ち着いた音色で、心に平安を与えるような感じでした。何よりも、特別集会に、家族の方をお迎えすることができたことを感謝したいと思います。祈って家族を導くチャンスを待っていたら、主がちょうどよい時に、家族に救いを与えてくださると言う確信をいただくことができました。聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という約束のことばがあります。主の真実を信頼いたしましょう。
1. 御霊の実
中澤啓介先生という方が御霊の実についてこのようなことを書いておられました。「キリスト者の内には、御霊によって『第二の天性』として、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』(ガラテヤ5:22~23)などの実が結んでいくのです。これらのキリスト者の人格は、新しい世界でキリスト者が『復活のからだ』を受けるとき、その人の特質として引き継がれて行くでしょう。」そうしますと、この御霊の実こそ、永遠に残る神様からのプレゼントともいえます。そして、もっとも大切なものではないでしょうか。
パウロ先生は、御霊の実がはっきりわかるように、肉の行いと比較しておられます。
(ガラテヤ5:19~21)「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」
この肉の行いは性的な罪、偶像礼拝、怒りや争い、お酒などを飲んで騒ぐことなどにわけられます。パウロ先生はこんなことをしている人たちは、神の国に属していないと言っているのです。ここでは「神の国を相続することはない」と言っています。
ここは、とても大切な教えです。肉の行ないをしている者は、自分がいくら救われていると主張していても、救われてはいないのです。信仰によって義と認められた人は、同時に御霊によって新たに生まれました。御霊がその人を導くようになるのですから、その人には必ず聖霊の実が結ばれるようになります。しかし、肉の行ないをしているのであれば、本当にその人が救われているのかどうか、疑ってみなければいけません。
本当に救われているならば、その人の古い人は十字架の上で死んだのです。生きているのは聖霊によって生まれ変わった人です。ですから、御霊によって導かれ、自然と御霊の実が実ってくるのです。
(ガラテヤ5:22~23)「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれているところに注目してください。私たちの行ないは肉に属するものです。しかし、御霊がなしてくださることは、実、すなわち自然に育ってくるものなのです。私たちが、キリストのうちにいこい、キリストにかたく立ち、キリストのうちにとどまっているのであれば、自然と愛が与えられます。私たちが、愛ではなく憎しみ、怒りがあるのであれば、私たちが、心から主の力を信じることができていないからです。御霊に拠り頼むことができていないからです。私たちが、ありのままの自分を主にさしだし、自分には何もできないことを認め、主に心の王座を明け渡すときに、主が私たちに代わって、これらのことを行なってくださいます。
2.御霊によって生きる
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:24~25)
パウロ先生は、また信仰の原点に戻るように促しています。信仰をもって福音を聞いたときに戻ってください。そして、自分はキリストとともに十字架につけられ、死んでしまった者だと思いなさい。イエス様が私として、あなたとして、一体となって、死んでくださったのです。今ある自分は復活の主と共に新しく生き返った者です。だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。このことに立ち戻ってください。御霊によって生きたのですから、同じように御霊によって進みましょう、と言っています。天の視点で生きるのです。
こうして、キリストにある自由を保つためにはどうすればよいかを見ていくことができました。それは、「キリストのうちにとどまる」ということと「愛によって仕える」という二つの原則に立つことです。非常に単純なことです。しかし、偽教師は「これこれ、このようなことを行なえば、あなたは幸せになれます。祝福されます。」という歪められたメッセージを持ち込んできます。それに影響されるのが、私たちなのです。嘘の教えに影響されないでください。パウロが宣べ伝えたところの十字架と復活の福音にしっかりと立ちましょう。それは、み言葉にしっかり立つということです。そして、この自由を愛によって仕えるために用いましょう。
3.寛容
今日の強調点は「寛容」です。寛容を辞典で調べましたら、このように書いてありました。「心が広くて、よく、人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などを厳しく責めないこと。」又、「異なる意見、行動などを許容すること」。聖書には「愛は寛容であり、愛は親切です。」(Ⅰコリント13:4)と書いてあります。又、同じところで、愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)と書いてあります。英語の聖書を見たら、「がまん強い」という英語が「寛容」と翻訳されていました。英語の例文にこんな文章がありました。「幸せな結婚生活を維持するために、最も必要なものは、おそらく、寛容と忍耐であろう。」寛容と忍耐が親しい人間関係の鍵になるようです。
寛容の寛は訓読みでは「くつろぐ」と読みます。「くつろぐ」とは、心や体が、ゆったりして、楽になることです。ですから、寛容とはお互いに、くつろげる関係にあることではではないでしょうか。
神様との関係もくつろいだ、親密な関係ができたら、力を抜いて「天のお父様、アバ、おとうちゃん」と呼べる関係になります。
教会や職場、家庭の中での関係も、寛容さは大きな人間関係の要素になります。しかし、これは「御霊の実」です。人の努力ではありません。キリストにつながっていさえすれば、必ず、変えられて、良い実を結ぶのです。
(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(エペソ4:2~3)
「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
ある人が「寛容」について、このように表現していました。「残念ながら、ただ一つ大切なことを、学び忘れているんです。寛容な心です。学校では、寛容ということは教えてはくれません。教えてくれる人も少なくなりました。でも、とても、大切なことです。これは、ある意味では、愛の心です。寛容な心は、人を、大きく包み込んで行く心であり、愛の心です。嵐のとき、いろいろな動物が、雨宿りする大きな大木であり、避難してくる人を包み込もうとする愛の心です。
寛容な心を持っている人のところにはいろいろな人が、自然と集まってきます。それは、寛容な人は、人を責めることなく、他人の欠点に、目をつぶり、かばってあげれる心優しき愛の心です。」
寛容は御霊の実であり、御霊によって歩む時に、実るものです。もし、私たちの心が狭く、いつも厳しく、自分の力で頑張っていたら、それは、御霊によるものではありません。「主よ、私の力ではできません。すべてをあなたに明け渡します。どうぞ、寛容な心を与えてください。」と祈りましょう。主は求める者に与えてくださいます。
(Ⅰコリ13:4)「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」
(コロサイ3:12)
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容(かんよう)を身につけなさい。」