阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

主イエスの大宣教命令

2017-05-25 20:53:35 | Weblog

2017.5.21.主イエスの大宣教命令

聖書 マタイ28:16~20、マルコ16:15

題 主イエスの大宣教命令

暗唱聖句 マルコ16:15

「 それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」

 

はじめに

 イエス様はエルサレムで復活直後、み使いたちを通して、弟子たちにガリラヤに行くように命令されました。ついに、弟子たちはガリラヤに来てイエス様に出会ったのです。ガリラヤ地方は弟子たちの故郷であり、活動の拠点でした。

ヨハネの福音書ではガリラヤ湖の岸辺に主イエスが立ち、漁をする手助けをされました。弟子たちは153匹の魚が取れたことを記録しています。その後、イエス様と和解の食事をしました。イエス様との間にできていた溝も消え、愛のきずなも回復し、前よりいっそう、イエス様との関係が深くなりました。弟子たちは山に登りました。どこの山に登ったのかは書いて有りません。しかし、主イエスに支持された山に登りました。多くの信者たちが集まってきました。ガリラヤ地方は、イエス様の信者たちが一番多い所でした。復活したイエス様がおられる、イエス様に会える事を期待して集まってきました。この時、一度に500人以上集まってきたのです。すごいですね。今日はそこで話されたイエス様の命令についてです。イエス様が出された命令は、大宣教命令です。

 

1.大宣教命令が語られた時の状況

500人以上の人が集まったというのはどこでわかるでしょうか。

Ⅰコリント15:6に情報があります。

「 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」

キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われました。これはガリラヤの山の上の事が証として伝えられていました。1か所に大勢がいて、イエス様を見たのです。キリストを見たというのは幻ではありません。本当に、復活の主が現われてくださったので、見たのです。そしてこの手紙が書かれた時には、まだ、見た人たちが生き残っていた時でした。ですから、確かめようと思ったら、確かめられる事ができた時でした。この手紙を書いた人はパウロです。

マタイの福音書はマタイが書きました。この500人の中に11人の弟子たちは含まれています。ここに立っておられるキリストは復活されたキリストです。

 

 弟子たちはイエスにお会いした時、礼拝をしたのです。ひれ伏して礼拝しました。弟子たちが礼拝しているのはここが初めてのことです。11人の弟子たちにとって、復活された主イエスが神であることは、当然のことでした。復活ということ自体、神でなければできないことです。

ここには「しかし、ある者は疑った。」と書いてあります。疑う人が出てもおかしくありません。初めて復活したイエス様を見る人は不思議に思い、疑うでしょう。これは11人の弟子たちのことではありません。11人の弟子たちはガリラヤ湖で一緒に朝食を食べ、信頼関係が回復しているからです。11人の弟子たちも最初は復活を信じることができませんでした。ですから「ある者は疑った。」と本当の事が書いてあるのです。真実な記録です。

 

2.大宣教命令の内容

(マタイ 28:18 )「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』」

 

イエス様は近づいて、驚くべき宣言をされました。イエス様が天地の権威を持っておられるということです。この権威は、正式なルートからもらった権利や力の事です。復活のイエスは、父なる神からその権威を授けてもらいました。サタンにはこの権威はありません。

この権威には新しい意味があります。イエス様は地上で生きておられる時も、多くのしるしと不思議を持って、ご自分の権威を現わしておられました。たとえば、悪霊の追い出し、いやし、奇跡など・・・。その時は父なる神の権威のもとに、多くのしるしを行っておられました。しかし、ここでは、復活のキリストが天に坐しているものとして語っておられます。父から与えられた権威というものは、天と地を支配する権威の事です。天にある資源や力を自由に用いることができます。限界のない権威です。

「お小遣いあげるよ。いくら欲しい?」と聞かれた場合、いくらと答えますか。1万円ぐらい?

ここで言う限界のない資源というのは、1000万円以上の価値のあるものです。わたしたちは神様の資源をあんまり使っていないのです。人間の思惑が働いて、神の偉大さを人間のレベルまで、引き下げて、考えることが多いからです。神は私たちが考えるほど、小さくはありません。偉大な方です。

 この権威に基づいて、イエス様は弟子たちに大宣教命令を与えられます。

この宣言によって、疑っていた人たちの心もとけて、イエス様を信じ、その権威を認めました。お金も、軍隊も、何もない500人の集団が、イエス様の命令に従って世界中に福音を届け、世界を神の国にするための働きに取りかかるのです。どのようにして始めるのか、それはペンテコステの聖霊の力によって、なされて行きます。きちんと準備されて、事は着実に進んで行っています。

19~20節

 「28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」

①    大宣教命令のゴール(目標)は弟子づくりです。

「弟子としなさい。」が動詞です。一口で言うと「弟子を作る。」事です。「行く」「バプテスマを授ける。」、「教える。」はすべて分詞形(ing)です。福音の対象となる人たちは「あらゆる国々の人々」です。異邦人も対象になります。これはユダヤ人にするためではありません。異邦人は異邦人の性質のまま、宣教して行きます。これがキリストの世界宣教計画です。弟子たちがこのことを理解するのに、使徒の働きの15章のエルサレム会議が必要だったのです。エルサレム会議は、福音はユダヤ人だけでなく、異邦人にも与えられている祝福の福音であること、そして異邦人は異邦人のままで、神に、受け入れられることを保証しました。

 

②    「行く」

出ていって、福音を伝えることです。迫害で出ていくようになるという意味も含まれています。中国は迫害がひどかったので、信徒たちは一か所にいることができなく、散らされて行きました。その散らされた人々が散らされた所で福音を延べ伝え、その結果、今日、中国のクリスチャンは共産党員よりも多くなりました。

福音の内容は、パウロがⅠコリント15:3~4で教えているものと同じです。

Ⅰコリント15:3~4

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」

 

③    「バプテスマを授ける。」

これは救いの条件ではなく、弟子となるための一過程です。バプテスマを受ける時には、その人は、すでに、イエスを自分の救い主だと信じています。このバブテスマは、弟子のプロセスの始まりです。キリストの命令です。ですから、大きな意味があります。信じていても、洗礼をうけていなければ、弟子になる過程には入っていないのです。何かの事情のある人は別ですが、一般的には洗礼を受けて、弟子としての第一歩を歩み始めます。バプテスマは、「父、子、聖霊の御名によって。」授けます。御名は単数(三位一体の神の為)になっています。これはバプテスマによって、信者は三位一体の神と同一化して行くからです。一つになるからです。

*神は父である。

*イエス・キリストは主であり、救い主である。

*聖霊は内に住み、力を与え、教えてくださる助け主です。

 

④    「教える。」神の国の全体を教えなさい。

信者に導くだけでは不十分です。聖書全体、特にキリストの命令に着いて教える。弟子訓練のゴールは、キリストに似た弟子を育てることです。正しく、聖書を理解でき、自分の力で考え、判断する力をつける。そのためには組織的な学びが必要です。クリスチャンになったら、できるだけ、組織的な聖書を学ぶ環境を整えるのが良いと思います。教会として取り組むことです。

 

20節b

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

大宣教命令に伴う約束がなされています。あなたは孤独な戦いを一人でするのではありません。いつも、復活のキリストが共に戦ってくださるのです。それは世の終わりまで一緒にいてくださるという意味です。世の終わりとは「キリストの再臨」までということです。全世界に福音が伝えられたある時点で、キリストの再臨が起こります。この大宣教命令の約束は、キリストの再臨の約束まで続いています。

 

結論

イエス様の大宣教命令のゴールは弟子作りです。弟子は世界へ出て行って、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、イエスが命じておられたことを守るように教えます。主はいつもともにいて、戦ってくださいます。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ここには4つのallがあります。

①    いっさいの権威(all authority )

②    あらゆる国の人々( all nations  )

③    すべてのこと(all things )

④    いつも(always )

 これは、大宣教命令の規模を表しています。

イエスは主なり、本当の上司はイエス様です。

世の組織の上に神の権威があり、私たちの主、上司はキリストです。ですから、大胆に福音を伝えましょう。

 


ペテロを回復させるイエス、その2

2017-05-20 15:19:06 | Weblog

2017.5.14.ペテロを回復させるイエス、その2

聖書 ヨハネ21:15~25

題  ペテロを回復させるイエス、その2

暗唱聖句

Ⅱペテロ1:5~7

「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」

 

はじめに

 ガリラヤ湖に帰ったペテロたちは、漁師に帰るべきかどうか迷ったあげく、漁に出ることにしました。しかし、残念ながら、その夜は1匹も取れませんでした。がっかりしたペテロたちに、岸の方で「舟の右側に網をおろしなさい。」と教えてくれる人がいました。その言葉に従って、舟の右側に網をおろすと、たくさんの魚がとれました。その声の主はイエス様だったのです。ペテロは、イエス様だとわかって、上着を着て、湖に飛び込み、岸に向かって、急いで泳ぎました。他の弟子たちは、小舟をひいて岸までやってきました。ペテロは魚の入った網を舟に引き上げました。数えてみると153匹の大きな魚でした。岸では、イエス様が炭火を起こして、朝食を用意しておられました。パンと魚の朝食でした。魚は炭火の上でおいしそうに焼けていました。今とれた魚も、炭火の上に加えられました。ペテロたちはイエス様から朝食の招待を受けて、驚きながらも嬉しく、自分たちは赦され、愛され、受け入れられていることを確信しました。なぜなら、この弟子たちはイエス様が十字架に架けられた時、イエス様を見捨てて逃げ去った人たちです。でも、この朝食は主人にあたる人からの招待なので、特別な食事でした。和解の食事だったのです。イエス様が弟子たちを愛して、準備してくださった食事でした。ですから、誰も「あなたはどなたですか。」と尋ねる人はいませんでした。イエス様だとわかっていたからです。

 

1.ペテロを回復させるイエス様(15~17節)

「21:15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを(A)愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを(B)愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを(A)愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを(B)愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。

 21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを(B)愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを(B)愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを(B)愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 

イエス様は食事が終わると、ペテロに話しかけられました。お叱りの言葉ではありませんでした。優しく、「あなたはわたしを愛しますか。」と尋ねられたのです。最初は他の弟子たち以上に愛するかと尋ねられましたが、次の2回目からは、比較しておられません。ペテロは「私があなたを愛することはあなたがご存知です。」と答え、「イエス様を愛している」と告白しています。イエス様が3回、「愛していますか」と尋ね、ペテロが3回、「愛しています。」と答えました。このコミニュケーションの中で、ペテロは心がいやされて行ったのです。なぜなら、カヤパの官邸で、ペテロは3回、「イエスを知らない。」と否定しました。しかも炭火の前で否定したので、イエス様は炭火の前で、3回、「あなたはわたしを愛しますか。」と聞かれたのです。ペテロはそのことを思い出し、心を痛めて、3回、「主を愛します。」と答えています。

ここで、「愛します」という動詞の使い方が気になる人がいると思います。「Aの愛します」は「アガパオー(神の愛)」、「Bの愛します」は「フィレオー(友情)」です。少し前の聖書解釈ではこの違いについて、たくさんの説明がありました。しかし、イエス様はギリシャ語で話していたわけではないので、あんまり気にしなくてもよいのではないかという解釈が出てきました。イエス様はヘブライ語か、アラム語を話されたのです。2つの動詞の使い分けは文学形式の手法と考えられるそうです。私の尊敬するN師がイスラエル聖書大学のデビィッド・フリードマン師(彼は学者です。)に聞いたところ、そういう答えが帰ってきたそうです。A-B, A-B,B-Bの文学的手法ではないか、7:3ぐらいでそう考えてもいいのではないかと言っておられました。

 

2.ペテロの再召命

ペテロはイエス様に従う前はガリラヤ湖の漁師でした。3年半前、漁をした時、同じような経験がありました。その時も、一晩中漁をしたのに、一匹も取れなかったのです。しかし、明け方、イエス様に「深みにこぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」と命じられ、その通りにしたら、たくさんの魚がとれました。その時、主イエスは「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間を取るようになるのです。」(ルカ5章1~11))と言われました。イエス様はペテロを伝道者として、召されました。今回、イエス様はペテロに、新しい使命を与えておられます。それは「羊飼い」としての召命です。ペテロは人生の季節の変わり目に立たされているのです。

(1)  わたしの子羊を飼いなさい。

(2)  わたしの羊を牧しなさい。

(3)  わたしの羊を飼いなさい。

ペテロは失敗したと思っていました。しかし、弱さを自覚したペテロに、癒しを与え、そして、新たなる出発となる召命を与えられました。子羊は初心者の信徒のことです。羊は一般信徒です。羊飼いとして召しておられます。一般信徒に対しては堅い食物を与えて、霊的に成長させるように命令されています。

人生には節目というものがあります。モーセは40歳の時、自分の力でエジプトの奴隷になっているイスラエル人を救おうとしましたが、失敗しました。それから、40年間、荒野で羊飼いをしました。その後、神は80歳になったモーセを、「イスラエルを救いだすリーダー」として召されたのです。その時、モーセほど謙遜な人物はいなかったと言われています。神の力によって歩む砕かれた心になった時、新たなる出発が与えられるのかもしれません。

 

3.ペテロの死を予告するイエス様(18~23節)

21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

 

「まことに、まことに、あなたに告げます。」という言葉は大切なことを語られる時に、使われています。ここでイエス様は、老年になってから起こることを預言されました。老年になると、苦難に遭遇すること、殉教の死を遂げることを予告されました。ペテロは、殉教の死を通して、イエス様への愛を示すのでした。イエス様はペテロに「わたしに、従いなさい。」と言われました。殉教の死の予告の後に「従いなさい。」と言われた主イエスに、彼は残りの全生涯をかけて従う決心をしたのです。そして、最後まで従い通しました。ペテロは十字架に逆さにつるされて死んだという教会の伝承があります。

 

4.他人と比較しなくてもよい。

 

 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。

 21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」

 21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 21:23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。

 

ペテロと一緒に行動していたのは若いヨハネでした。「イエスが愛された弟子」というのはヨハネのことです。ペテロはヨハネを見て「この人はどうですか。」と尋ねました。ペテロはヨハネの事が気になって仕方がありませんでした。ペテロは良く働くリーダーです。ヨハネは若くて、ゆったりした性格で、しかも霊性は高いものを持っていました。

イエス様は再臨の話をされていた可能性があります。それで、「ヨハネは生きて、イエス様の再臨をみるのでしょうか。」と聞いたのかもしれません。しかし、イエス様はペテロを叱られました。「ヨハネに何が起ころうとも、それは、あなたには関係ありません。あなたはわたしに従いなさい。」と言われたのです。ヨハネもそれを訂正しています。ヨハネが死なないと言われたのではなく、「あなたには何のかかわりがあるか」と言われただけなのです。

 私たちは一緒に行動している身近な人と比較する癖があります。遠い関係の人と比較することは、あんまりありません。しかし、手の届くところで生活している人とは比べ安いのです。しかし、イエス様は「人と比べないで、あなたはあなたとして、わたしに従って来なさい。」と言っておられます。イエス様の召しに従って進んで行くと、あなたとイエス様との祝福された豊かな人生を歩むことができます。それは苦難が無いという意味ではありません。苦難があっても、豊かな人生を歩むことができるのです。

 

5.その後のペテロの歩み

①    「わたしの子羊を飼いなさい。」

ペテロはこの命令に対して、Ⅰペテロの手紙を書いて、命令を果たしました。子羊とはまだ霊的に幼い信徒のことです。

Ⅰペテロ2:1~2

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

②    「わたしの羊を牧しなさい。」

ペテロは使徒たちの中でリーダーとなり、初代教会で、群を監督しました。

③    「わたしの羊を飼いなさい。」ペテロはⅡペテロの手紙を書いてこの命令に答えました。Ⅱペテロの手紙の内容は短いですが、み言葉の乳以上に素晴らしいものです。毎日の生活の中でとても役に立つ御言葉です。

Ⅱペテロ1:4~7

1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 

Ⅱペテロの手紙の最後には、このように書いています。

(Ⅱペテロ3:18)「 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」

 

ペテロは生涯にわたって、群を養い、主イエスに従い通しました。困難が降りかかれば、その都度大きく成長して行きました。そのことを通して彼は言ったのだと思います。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」と。

あのせっかちであわてん坊だったペテロが成熟して、ペテロ書簡を書いたのですから、驚きです。神は私たちにも「主に従うことを通して、成長しなさい。」と命令しておられます。

また、弟子たちに自らをあらわしてくださった主は、「あなたは、わたしを愛しますか。」と聞いておられます。主の赦しと和解の愛は人知を超える愛です。しっかり、主の愛に応答しましょう。「私もあなたを愛しています。」と。


ペテロを癒し、回復させるイエス様

2017-05-11 21:22:19 | Weblog

2017.5.7.ペテロを癒し、回復させるイエス様

聖書 ヨハネ21:1~17

題  ペテロを癒し、回復させるイエス様

 

暗唱聖句ルカ22:32

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

はじめに

5月の連休、いかがでしたか。私はアッセンブリー教団の全国聖会に参加しました。2日~4日まで、市川市文化会館で開催されました。聖会Ⅰと聖会Ⅲは理事長の寺田先生、聖会Ⅱと青年大会はドミニク・ヤオ先生のメッセージでした。寺田先生はアッセンブリー教団創立75年の時には2万の信徒がいる教団になりたいというビジョンを掲げておられました。ドミニク先生は「私たちはペンテコステの教団だから、十字架と復活だけにとどまらないで、ペンテコステの信仰に立つように、ペンテコステの神学は宣教の神学だ」と言っておられました。弟子たちはペンテコステの日に集まって祈っていました。すると、突然、聖霊に満たされました。そして素晴らしい働きが起こってきました。教団が一致して祈るなら素晴らしいことが起こる。心一つにして集まる時、必要が満たされて行く。

聖霊は慰め主であり、力を与えるお方でもあります。聖霊の力によって歩まなかったなら、形式的になり、信仰が形骸化していく。聖霊によって歩む時、奇跡が起こる。心地よいところから出ていきなさい。出ていくなら祝福されます。新しい、季節が来ています。座っていては何も起こりません。ペンテコステの信仰をもって進んで行くことです。

 

1.ペテロを癒し、回復させるイエス様

A.岸辺に立つイエス様

弟子たちはガリラヤに帰ってきました。それはイエス様がガリラヤに行くように言われたからです。またガリラヤは彼らの故郷でした。その故郷に帰ってそこに立つのは、原点に替えるという意味で、大切なことです。そこへ、イエス様は弟子たちに姿を現わされました。3度目のことです。

この時の弟子たちの心は混乱しており、生活に不安を覚えていました。それは彼らの教師であり、メシアだと思っていた人が十字架にかけられ殺されたからです。しばらく前にはイエス様をローマから解放してくれるメシアと思っていました。しかし、ユダが裏切り、イエス様は逮捕されました。その時、リーダーであったペテロもイエス様をカヤパの官邸の炭火の前で、3度拒否しました。イエス様は十字架にかけられ死なれましたが、復活して、2度も弟子たちの前に現われました。弟子たちはこのことについてどのように理解して良いかわからなくなっていました。これから、どのようにして生活して行くのか、見当がつきませんでした。

ガリラヤで、この弟子たち7人は一緒にいたようです。この日、7人が一緒でした。彼らはもともとガリラヤ湖で漁師をしていた人たちです。

シモン・ペテロはイエス様に会うのを待っていましたが、待ちくたびれて、漁に行くと言いました。これは単に漁をするということではなく、漁師という職業に帰るという意味でした。きっと、ペテロは思ったことでしょう。イエス様を裏切った自分の失敗は赦されない、または、私は失敗者だ、そして家族を養うために働かなければならないと思っていたことでしょう。ペテロは早く次の生き方を見つけなければならないと思っていたと思います。ペテロが漁に行くと言うと他の6人も一緒について行きました。これはペテロがリーダーの性質を持っており、リーダーだったということです。

しかし、その夜は何もとれませんでした。夜から朝にかけて漁をするのですが、とれませんでした。一匹もとれなかったのです。それには神の摂理(計画)が働いていました。

取れないということが神の御心だったようです。私たちの力が尽きた時、神が私たちに働いてくださいます。弱さを知ることで、神を信頼し、神が働きやすいように自らへりくだることができます。神に頼ることができます。ペテロはこの時、魚が一匹も取れなかったので、次に進む第一歩になったのです。思わぬ悪いことが起きたと言って、がっかりしないでください。神様はそれをよいことに変えてくださいます。

 

4~6節

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

 

イエス様は岸辺に立っておられたが、それがイエス様であることがわからなかった。まだ暗かったか、遠い所に立っておられたためかもしれません。

主イエスは「子供たちよ。」と呼びかけ、舟の右側に網をおろすように命じました。普通、舟の右側には網をおろさないそうです。左側におろすそうですが、主イエスの助言に従って、網をおろしました。するとたくさんの魚が取れ、網を引き揚げることができないほどの大漁でした。ペテロは、最初にイエス様に従う召命を受けた時のことを思い出しました。

 

(ルカ5:4~11)

話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。

 5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

 5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。

 5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

 5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。

 5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。

 5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 

ヨハネ21:7~8

最初にその人がイエスさと気がついたのはヨハネでした。イエス様の復活を最初に信じたのもヨハネでした。(ヨハネ20:8) ペテロは上着をまとって湖に飛び込み、泳いで岸に向かいました。泳いで早くイエス様に会いたかったからでしょう。ペテロはすぐ行動する人なので、上着を着て飛び込みました。他の弟子たちは、網を引いて岸までたどり着きました。100メートル足らずの距離だったからです。

 

(9~11節)

21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

 21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

 21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

 

岸には朝食の用意がなされ、炭火の上で魚が焼かれていました。弟子たちがとってきた魚も炭火の上に載せられていました。弟子たちも働きにも「ごくろうさま」という意味が込められていました。ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げました。そして数えたら153匹の大きな魚がいたのです。当時は小さな魚は湖に戻して、大きな魚だけ取っていました。網も破れませんでした。イエス様は網が破れるようなことは命じられません。だから、イエス様の声を聞いたら、従って進んで良いのです。これは小さな奇跡でした。どうして魚を数えたか、それは皆で分けるためでした。

12~14節

21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

 21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

 

イエス様は弟子たちを食事に招きました。弟子たちはイエス様だとわかっていたので、誰も「あなたはどなたですか。」とは尋ねませんでした。主人であるイエス様がパンと魚を用意されました。これは、ユダヤ地方の和解、仲直りの食事の方法です。この食事は弟子たちに強い印象を残しました。弟子たちはイエス様を捨てて、逃げ去った人たちです。でも、このようにイエス様の方から、食事の用意をして、もてなしてくださるのを見て、赦され、受け入れてくださっていることを感じました。この食事でイエス様と弟子たちの絆が回復し、よりいっそう絆が強くなったのです。(使徒10:39、コルネリオのところの証にもこの食事の事が出てくる。)

でも、皆、黙って食事をしていました。

 

2.ペテロを回復させるイエス様(15~17節)

 

 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 

弟子たちは不信仰を叱られると思っていました。しかし、イエス様はペテロに向かって「わたしを愛しますか」と尋ねられたのです。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えています。イエス様は他の弟子と比較されましたが、ペテロは比較していません。

イエス様は「子羊を飼いなさい」と言っています。以前、弟子たちを召された時には「人間を取る漁師にしよう」と言って、伝道者として召されました。この場面では羊を飼うように召されたのです。子羊ですから、まだ信仰の幼い者たちに柔らかい霊の食べ物を与え、成長させる働きに召されたのです。

16節

イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

 

イエス様はまた、同じことを聞かれました。「あなたは私を愛しますか。」ペテロは最初と同じように答えました。イエスさまも比較を止めました。イエス様はペテロに「私の羊を飼いなさい。」と言われました。羊は一般の信徒のことです。ここでイエス様はペテロを牧者として召しておられます。イエス様の計画の中に「教会が生まれる」という計画がありました。教会が生まれる時には牧師が必要です。その準備をしておられたのです。

 

17節

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

イエス様は2度目と同じように「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれました。イエス様が3度ペテロに聞いたのは、ペテロが3度イエス様を拒否したからです。ペテロは心を痛めました。イエス様を拒否したのは、カヤパの官邸で炭火にあたっている時でした。彼はそこでイエス様を知らないと3度拒否したのです。そのとき、鶏が鳴きましたね。ですから、なお、ペテロは心を痛めたのです。そして、今度はガリラヤ湖の炭火の前で「イエス様、あなたを愛します。」と3度、答えたのです。

イエス様が生前、弟子たちと、最後の食事をされた時、ペテロに言われました。

(ルカ22:32)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロはイエス様の愛によって癒され、兄弟たちを力づける働きをするようになります。イエス様は「わたしの羊を飼いなさい。」と命じました。「わたしの羊」とは一般の信者のことです。堅い食物を食べることのできる信徒たちです。いつまでも柔らかい食事を食べる幼子であってはなりません。

 

まとめ

1.ペテロはイエス様の和解の食卓に招かれました。そして、和解しました。主イエスは同じように私たちにも和解の食卓を備え、和解に招いてくださいます。イエス様はわたしたちにも「わたしを愛しますか。」と聞いてくださいます。そして、愛をもって私たちの心の傷を癒してくださいます。

2.ペテロはイエス様と愛のある和解の食事を通して、霊的回復が与えられ、変わりました。ペテロは心から主を愛し、羊飼いとしての任務を全うしました。最後には逆さ十字架の刑について、殉教したと伝えられています。

 霊的回復はわたしたちにも変化を与えます。霊的に回復し、成長するとイエス・キリストの助けなしには何も行えないと思うようになります。「イエス様、あなたが先頭に立ってください。私は従います。」というようになります。また、神様への奉仕には愛が必要、神と人への愛なしには奉仕はできません。愛を動機づけとして奉仕をしてください。他の人と比較する必要はありません。それぞれの賜物を捧げるとき、主が用いてくださいます。


わたしの平安を与えます。

2017-05-05 22:00:23 | Weblog

2017.4.30.わたしの平安を与えます。

聖書 ヨハネ20:19~31

題  わたしの平安を与えます。

 

暗唱聖句 ヨハネ14:27

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

 

はじめに

主イエスは、週の初めの日に復活されました。聖書には、復活したイエス様が現われてくださったと、10回記録しています。復活の当日に5回、そしてその後40日間の間に5回です。10回出現されたのはいつか、確かめてみましょう。

①    マグダラのマリアに(マルコ16:9~11)

②    女たちに(マタイ28:8~10)

③    エマオの途上の2人の弟子たちに(ルカ24:13~32)

④    ペテロに(ルカ24:32)

⑤    トマスを除いた使徒たちに(ヨハネ20:19~25)

⑥    トマスを含めた使徒たちに(ヨハネ20:26~31)

⑦    ガリラヤ湖畔で7人の弟子たちに(ヨハネ21章)

⑧    500人以上の信者たちに(1コリント15:7)

⑨    ヤコブに(Ⅰコリント15:7)

⑩    オリーブ山で使徒たちに(使徒1:3~12)

 

今日は⑤、⑥の使徒たちに現われたイエス様のお話です。5回目と6日目は一週間間隔があいています。どんなにイエス様の出現が待ち遠しかったことでしょう。

 

1.復活のイエス様の出現

(ヨハネ20:19~20) 

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』

 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

日曜日の夜のことです。エルサレムのある場所で、弟子たちは食事のために集まっていました。おそらく2階座敷で集まっていたのでしょう。クレオパともう一人の弟子もエマオから急いで帰ってきました。それは復活された主イエス様に出会ったからです。その証を聞いたばかりの時、イエス様が現われてくださったのです。イエス様が皆の真ん中に立って、「シャローム、アレイヘム。あなた方の上に平安がありますように。」とあいさつをされたのです。部屋は鍵がかけてあり、誰も入ってくることができないようにしてありました。ユダヤ人の指導者たちが彼らを探して、逮捕しようとしていたからです。弟子たちは自分たちも十字架の刑にされるのではないかと恐れていました。鍵がかかっていたにも関わらず、イエス様は入って来られました。

イエス様の復活のお身体は私たちの身体とは違って、どこにでもはいったり出たりできる身体でした。しかし、私たちと同じように肉体があり、生きておられた時の特徴を見ることができました。イエス様は手の釘あと、脇腹の槍の傷を弟子たちに見せられました。

 

(ルカ24:36~43)

「24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。

 24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。

 24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、

 24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」

弟子たちはイエス様を見て、喜びましたが、最初は幽霊ではないかと恐れました。イエス様は弟子たちの不信仰を優しく叱りました。それは復活のイエス様を見たという人たちの証を信じることができなかったからです。見たという人たちは、ここまでの間に女の人たち、クレオパとその友人、ペテロがいます。

イエス様は自分の手と足を見せて、霊ではなく肉体を持っていることを示されました。それでも、彼らは信じることができませんでした。嬉しさはありますが、イエス様を見ても信じられなかったのです。イエス様は、肉体を持っていることを示す為に、焼いた魚を召しあがられました。

 イエス様はもう一度「シャローム」といい、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言って、弟子たちにイエスの権威を授け、派遣することを宣言されました。

 

2.トマスの信仰とイエス様の愛

さて、12弟子の一人であった、トマスという弟子はイエス様が来られた時、そこに一緒にいませんでした。それで、トマスに出会った時、「私たちは主に出会った」と言いました。しかし、トマスは信じることができずにいました。

ヨハネ20:25「それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません』と言った。」

 

このことがあってから8日が過ぎました。弟子たちは相変わらず鍵をした部屋の中にいました。そこへイエス様が来られたのです。

イエス様は「シャローム」と言って、彼らの中に立たれました。そして、トマスに向かって言われたのです。

「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』」

 

イエス様はトマスの言葉を聞いておられたのです。まっすぐ、トマスの疑問に答えておられます。それだけで十分説得力がありました。おそらく、手の傷跡を見るまでもなく、目の前におられるイエスさまをみて、大満足だったと思います。

トマスはイエス様を見て、イエス様を礼拝したのです。トマスはイエス様が神だとすぐにわかったので、礼拝しました。イエス様はトマスの不信仰を赦して、トマスの礼拝を受け入れてくださったのです。イエス様はトマスを受け入れてくださいました。イエス様は私たちの不信仰も赦し、受け入れてくださるのです。

しかし、トマスのように疑ってばかりいると、真理を見失います。科学者でも見えないものや触れることが無いものを信じています。

イエス様は言われました。「あなたはわたしを見たから、信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」この言葉は有名ですね。覚えましょう。

 

3.ヨハネの福音書を書いた目的

30~31節にはこのヨハネが福音書を書いた目的が書かれています。ヨハネの福音書は、20章で終わりでしたが、21章が後で追加されたのです。

 ヨハネの福音書はマタイ、マルコ、ルカの福音書の後で書かれました。ヨハネはこの3つの福音書、共観福音書に書いてある奇跡をよく知っていました。これらの四福音書には35の奇跡が記録されています。ヨハネはその中から7つの奇跡(しるし)を選んで、記録しました。現代人は奇跡を信じない人が多くいます。そして合理的に説明しようとします。しかし、イエス様の時代には実際に多くの奇跡が起こされ、弟子たちは、数多くの奇跡を見て、イエス様を信じたのです。

ヨハネがこの福音書を書いた目的は2つです。

①      イエスが神の子キリストであることを信じるため。

②      信じて、イエスの名によっていのちを得るため。

 

4.結論

①           信じない者にならないで、信じる者になりなさい。

イエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。トマスも含む使徒たちは、全員が復活されたイエス様を見たので信じました。イエス様は、私たちの信仰を励ます為に、私たちがわかるようなところまでへりくだり、降りて来て、信仰の体験をさせてくださる事があります。トマスの体験は、主の恵みにより、主が近づいてくださった良い例です。

イエス様は言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

(ヘブル11:1)「 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」「さて、信仰とは将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、まだ見ていないものの確実な証拠を見る目である。(2節)創造主を信じた昔の人々は、この信仰によって良い評判を得た。」(創造主訳ヘブル11:1~2)

 

②わたしの平安を与えます。

イエス様は復活後弟子たちに現われた時、「シャローム、アレイヘム(平安があなたがたにあるように。)」と、19節から31節の短い間に3回も「シャローム」と声をかけておられます。シャロームは普通の日常的なあいさつです。しかし、イエス様は生前、特別なことを約束されました。(ヨハネ14:27)「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言われました。ここにある平安は死を打ち破り、永遠に続く平安です。困難があっても、苦しみがあってもこのイエス様が与えてくださった平安、「イエス様の平安」は、だれも取り去ることができません。復活の主は特別にこの平安を持って一人一人を祝福されたのです。恐れおののいている弟子たちに、愛と平安を持って、現われてくださったのです。「わたしの平安を与えます。」という言葉はなんと力強い言葉でしょう。

 

(ヨハネ16:33)

「 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」世とはサタンの支配の世界のことです。この世界を主イエスは十字架の死によって打ち破り、打ち勝ってくださいました。そして、よみがえられたのです。誰にも縛られない、自由、解放があります。

 

イエス様が私たちと交わりをされる時、「シャローム」と声をかけ、この特別な平安を与えてくださる事を信じましょう。目には見えませんが、主は私たちと共におられるのです。イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは神との平和、和解を持っています。この和解によってもたらされる平安こそ、イエス様が言われる「わたしの平安」なのです。この平安を単純に信じて受けとりましょう。主の愛の恵みによって、平安をいただくことができるのです。どんなに不信仰なものであっても、悔い改めて、主を礼拝するならば、主はトマスのように受け入れてくださいます。心から主をほめたたえ、礼拝いたしましょう。