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阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

ソドムの滅亡から救われたロト

2016-11-29 22:13:58 | Weblog

2016.11.27.ソドムの滅亡から救われたロト

聖書 創世記 19:15~29(1~29)

題  ソドムの滅亡から救われたロト

 

暗唱聖句 ローマ6:23

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 

はじめに

今まで、アブラム中心にストーリーが展開してきました。今日はアブラムとずっと一緒に旅をしてきた甥のロトに焦点を当ててお話したいと思います。

アブラムはカナンに飢饉があった時、エジプトにのがれましたが、またカナンへ帰ってきました。そしてカナンで最初に天幕を張ったベテルとアイの間の所まで来ました。そこに祭壇を築き、主の御名によって祈り、住むことにしました。しかし、そこはアブラムとロトの家族が共同生活をするには狭かったのです。彼らは両方とも羊や牛の群をたくさん持っていました。すなわち、家畜に与える青草が十分ではなかったのです。そのために、ロトの羊飼いたちとアブラムの羊飼いたちの間に争いが起こりました。そこで、アブラムはロトと別れることにしました。そして、ロトに最初の選択権を与えました。あなたが好きな所を取りなさい。私はあなたの残りの土地を選ぼうと言いました。「あなたが右だったら、私は左を選びます。」と言ったのです。

ロトはまだ若く、人生経験も少なかったので、目に見えるところで判断しました。目に見える所に青草がたくさんあったのでしょう。ヨルダンの低地を選びました。そして、ソドムの近くに天幕を張り、だんだん、ソドムの人々の習慣に染まって行きました。そのうちにソドムの町の中に天幕を移し、町の門に座るようになりました。町の門に座るというのは、町の人たちの相談にのるような立場になっていたということです。ソドムの人々は罪深く、神を恐れない悪い人々でした。

アブラハムはヘブロンに天幕を移して、マムレの樫の木のそばに住みました。そこに、主のために祭壇を築き、礼拝をしました。アブラハムは主を中心に礼拝のある生活を続けました。

 

1.ソドムの町

アブラハムの甥のロトはソドムに住んでいました。彼は最初、町の外に住んでいましたが、だんだん町の中に入って行ったのです。きっと、町の中の方が商売繁盛したのでしょう。その経済的な安定のために、町の中はロトにとって魅力的に見えました。しかし、道徳的には耐えられないほど腐敗していました。アブラハムと生活していたロトは神中心の生活をしていました。神との交わりで、清い喜びのある生活をしていたはずです。ところが、ソドムの人々は神に敵対して生活していたからです。ですから、ロトは苦しんだと思います。しかし、娘たちはソドムの男性に結婚させていました。町の中に婿がいたという言葉でわかります。そのほかに、まだ結婚していない2人の娘がいたのです。

ある夕方のこと、2人の主の使いがソドムの町へやってきました。ロトは彼らの持っている雰囲気から、すぐ、特別な主のみ使いだとわかりました。そして、「今晩はこの家にとどまって、一緒に過ごしてください」と引きとめたのです。そして、ご馳走をつくって、もてなしました。どんなに素晴らしい夕食と交わりの時間だったことでしょう。

ところが夕食が終わった頃、すべての町の者たちが若いものから、年寄りまで集まって来て、ロトの家を取り囲んでしまいました。そして、この外から来た2人を捕まえて、乱暴をしようとやってきたのです。町の人々は「この男の人たちを知りたいのだ。」と言っていますから、性的な乱暴を働くために集まったのです。ロトはお客を守ろうとして、自分の娘を犠牲にして差し出そうとしました。父親が、娘を犠牲にするなど、良くない行動です。町の人々も、この二人が神の使いだとは気が付きませんでした。このソドムの町は霊的にも、精神的にも荒れ果てていました。

ロトはどうしてよいかわかりませんでした。ロトはこの町の習慣にはなじめませんでしたが、かなり悪影響を受けてしまいました。私たち人間は一緒に過ごす人たちに大きな影響を受けます。ですから、一緒に遊んだり、過ごしたりする人たちを選ばなければなりません。この所、元依存症の人たちとの交わりがありましたが、彼らが言いました。「最初は自分の考えや行いが悪いという考えがなかった、神を信じるようになって、だんだん悪いと気がつくようになってきた」と話していました。

ですから、ロトはみ使いがこの町を滅ぼすと言っても、嘘のように思えて、信じることはできなかったと思います。ましてや、婿などはもともとソドムの人たちです。滅ぼされる理由さえ、わからなかったと思います。

 

2.み使いの憐れみとロトの救い

 ロトはお客を守ろうとして、自分が乱暴されそうな状態になってしまいました。その時、み使いが目つぶしをまいて、町の人々を混乱させ、ロトを家の中に連れ込み、戸を閉めました。人々は中に入ることはできませんでした。

二人はロトに向かって言いました。「あなたの身うちの者がいますか。あなたの婿や娘、息子などを皆ここから連れ出しなさい。私たちはこの町を滅ぼそうとしているのですから。主が私たちを滅ぼすために遣わされたのです。」と言いました。ロトは滅亡の予告を伝えに行ったのですが、誰も信じませんでした。ノアの洪水の時のようです。ロトもためらっていました。夜明けになってきました。み使いはロトとその妻の手、そして、2人の娘の手を取って、町の外に連れ出し、町の外に置きました。そして言いました。「命がけで、逃げなさい。後ろを振り返ってはならない。この低地のどこにも立ち止まってはいけない。あの山に逃げなさい。さもないとほろびてしまう。」するとロトは言いました。「山に逃げることはできません。あの小さな町に逃れさせてください。命を助けてください。」と懇願しました。み使いは言いました。「よろしい。あの町、ツォアルに逃げなさい。」と言いました。ロトとその妻、2人の娘は必至で走って逃げました。ロトがツォアルについた時、主は硫黄の火をソドムとゴモラの町の上に天から降り注がれました。町と住民と植物も動物も皆滅ぼされました。

ロトの後ろにいたロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になってしまいました。今でも死海の南の方にロトの妻が塩の柱になって立っているのが見えます。この付近一帯は山全部が塩の山です。

翌朝、早く、アブラハムは、かって主の前に立ったその場所に行きました。(創世記19:27)

そこは(創18:16、22、)アブラハムがみ使いにソドムとゴモラを滅ぼすと聞かされて、「どうか、悪人と一緒に善人を滅ぼさないでください。」ととりなしをしたところでした。彼は甥のロトを助け出したかったのです。

その時、アブラハムが見た光景はすさまじいものでした。ソドムとゴモラ、そして低地の方は、まるでかまどの煙のように、その地方全体に煙が立ち上っていました。

神はアブラハムを覚えておられました。そしてアブラハムがとりなした祈りを覚え、その約束を守られたのです。

アブラハムのとりなしの祈り(創18:22~33)

もし、その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでください。もし、45人いたらどうでしょうか。また40人だったらどうでしょうか。30人だったら・・・。20人だったら。・・・32節「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに10人見つかるかもしれません。すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その10人のために。」

主はアブラハムと語り終えられると去って行きました。アブラハムも去って行きました。そこに立って、アブラハムはソドムの町を見下ろしながら、ロトのことを案じていました。アブラハムのとりなしの祈りゆえにロトは助けられたのです。神の憐れみのゆえでした。とりなしの祈りは重要であり、力があります。誰かの事を思い出したら、とりなしの祈りを捧げましょう。

 

ソドムとゴモラの滅亡は町の人々にとって突然でした。その間には幾度となく警告が発せられていたと思います。しかし、人々は滅びるという認識がありませんでした。

(Ⅰテサロニケ5:2~3)

 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 5:3 人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」

終りの日はだんだん近づいています。陣痛は出産まじかになると間隔が狭くなってきます。この頃の地震の多いこと、何と表現して良いのかわかりません。突然、地震や津波に襲われることがあるかもしれないのです。神は何を用いて裁きをなさるかはわかりません。

「目を覚ましていなさい。」と聖書は言っています。

 私たちは裁きにあって終わりではないのです。イエスさまが復活されたように、時が来れば、復活をして、再創造された地球のどこかで、イエスさまと共に生活をするのです。千年王国という時代がやってきます。それはキリスト王国の時代です。永遠の世界に続く世界があるのです。子羊の命の書に名前が書いてある人たちだけが、入れる永遠の命の世界があります。そのような素晴らしい世界をもたらすために来てくださった方がイエスさまです。クリスマスはその始まりなのです。

 

3.神に従う人は救われます。

ロトたちがみ使いと約束したツォアルの町に着くと同時に、神の裁きが始まりました。「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるように、それは死の裁きでした。神の罪に対する徹底的な裁きが描かれています。神に従ったロトたち以外に、ソドムで助かった人々はいませんでした。しかし、油断してはなりません。罪の誘惑は絶えず私たちの心の中に、誘惑をしかけてきます。ロトの妻はその誘惑にかかり、神との約束を守れませんでした。そして、塩の柱になってしまいました。ロトと娘2人は救われました。

 

4.罪の支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)

 神は徹底的に罪を嫌われるお方です。私たちも徹底的に罪から離れる決心をする必要があります。しかし、ロトの妻のようになるのではないかと恐れが来るかもしれません。だからこそ、自分の力で離れる決心をしないで、ロトのように神に助けをいただいて、罪から離していただくことが大切なのです。神は助けを求める者を必ず助けてくださいます。罪に支配されてはなりません。

 

(Ⅰペテロ5:8~9)「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」

 

暗唱聖句 ローマ6:23

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」


アブラハム契約

2016-11-23 20:00:38 | Weblog

2016.11.20.アブラハム契約

聖書 創世記17:1~12

題  アブラハム契約

 

暗唱聖句 ガラテヤ 6:14a

「 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」

 

はじめに

イサクが生まれる時はアブラハムが100歳、サラは90歳でした。今日は、「アブラハム契約」について学びます。この事を知っておくと聖書が理解しやすくなります。アブラハムの事については、覚えておられると思いますので、そんなに難しくはないと思います。

1.契約

「契約」と言うのは二人の当事者同士の約束事で、法律的な拘束力をもつものです。

聖書は契約の書物です。神が人間に約束された契約の書物です。古い方を旧約、新しい方を新約と呼んでいます。新しい契約はイエス・キリストによる無条件の救い、愛の契約です。新しい契約についてはエレミヤ書31:31に出てきます。

「 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ31:31)」

この聖書の神は「天地を造られた神」です。この神が人を救うために、アブラハムを選び、契約を結ばれました。神が人類に何を約束されたのか、今日は神がアブラハムと契約されたことについて学びます。

2.信仰の義認

アブラムはウルに住んでいた時は偶像礼拝者でした。しかし、神の声を聞いて、カナンに向かって、移動して行きました。しかし、高齢になっていた父テラのために、ハランで15年間滞在しまいました。父親が亡くなったので、75歳の時、ハランからカナンに向かって再び新しい歩みを始めました。その時、神の祝福の約束を受けました。創世記の12章で3つの約束がなされました。

①           アブラハムの子孫が祝福される。(創12:1~3、13:16,15:5)

②           アブラハムに土地が与えられる。(創12:7、13:15,15:7.15:18)

③           アブラハムを通して異邦人も祝福を受けるようになる。(創12:3)

アブラムがカナンについた時は76歳になっていました。妻のサライは66歳です。だんだん、子供が与えられにくい年齢になってきました。アブラムは神に向かって、「奴隷のエリエゼルが跡取りになるのでしょうか」と聞いています。すると、神は「そうではない。あなたの身から出る者が跡取りになる。」と言われました。そして、外へ連れ出し、満天の星空を見せて、言われました。「星を数えなさい。」星は数えられません。神は、彼に、「あなたの子孫はこの星の数のようになる。」と言われたのです。アブラムはそれを聞いて信じました。神が語られたことを信じたのです。ここで、「神を信じることによって正しいものとされる(信仰義認)」という救いの教理ができました。

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創15:6)」人は信仰により、恵みによって救われるのです。私たち、クリスチャンは「イエス・キリストが私たちを救うために十字架につけられたこと、死なれたこと、3日目によみがえられた事を信じる」信仰によって救われています。

アブラハムは「子孫が空の星のように増えることを信じて」救われました。私たちはイエス・キリストの十字架を信じて救われました。あなたはイエスさまの十字架の救いを信仰によって受けとっていますか。 

3.血の契約(76歳、星空を見た同じ日)

 神はアブラムと契約をされました。その当時の契約は血の契約といって、動物を切り裂いて、向かい合わせにして置く、その向かい合わせにした動物の真ん中を当事者同士が通りすぎて契約を結ぶというものでした。もし契約を破ったら、動物のように、切り裂かれ、命を奪われるというものです。ですから、契約には命がかかっていました。これは血の契約と言われています。十字架につながっています。十字架でイエスさまは血を流されました。

 アブラハムは途中から眠くなってきました。深く眠っていましたが、なぜか、意識がありました。寝ていたのですが、何が起こったのかわかっていました。神が降りて来られたのです。

(創15:17)「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」たいまつの上に煙を立ててぐつぐつ煮えている鍋が通り過ぎたというのです。これは、神の栄光の臨在、光でした。神だけが通りすぎられたのです。最近では日本語で「シャカイナ・グローリー」と呼ばれています。アブラムは寝ていたので、通ってはいません。これは神の側からの一方的な契約でした。(片務(へんむ)契約)このアブラムとの契約は神だけで結ばれた永遠の契約です。

人間は失敗します。神は人間の失敗にも関わらず、救ってくださるという契約です。新約の新しい契約も無条件の契約です。

この後に土地の約束を与えておられます。神がイスラエル民族に約束された土地です。

(創15:18)「その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』」

ですから、現在のイスラエルの国はアラブ人ではなく、ユダヤ人に与えられた土地です。イシュマエルの子孫であるアラブ人には中東にたくさんの土地を与え、石油の油田を与えて祝福しておられます。

4.10年後のアブラムとサライの失敗

 アブラムは86歳になり、妻のサライは76歳になりました。神は子孫が空の星のようになると言われましたが、最初の一人が生れません。二人は焦りました。そして、「ハガル」と言うエジプトで手に入れた奴隷の女に子供を産んでもらうということを考えました。生れた子はサライの子として育てるというものでした。これはその当時、法的には正しいとされていたことでした。しかし、神の方法ではありませんでした。ハガルはみごもりました。これがアラブ人の先祖になりました。当時、子供のいない女はさげすまれました。ですから、ハガルはとても傲慢になりましした。サラは腹が立って、夫のアブラムを責めました。ハガルはサライにいじめられて逃げ出しました。しかし、神に「サライの元に帰って、へりくだって仕えなさい」と言われ、家に帰りました。そしてイシュマエルが生れました。神は彼の子孫を増やすと約束されました。その性質も預言されました。(創16:12)「 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

1948年にイスラエルが建国されるとアラブ人がイスラエルを攻撃するようになり、またイスラエルが報復するということを繰り返し、すべての人の手も、アラブ人に逆らうことになってしまいます。もし、ハマスやヒズボラがイスラエルを攻撃しなければ平和がやってきます。もしイスラエルが攻撃に対して、反撃しなければ、イスラエルは絶滅させられてしまいます。

アブラムはイシュマエルが13歳になるまで、彼を約束の子だと思っていました。ですから、とてもかわいがっていたと思います。

 

5.契約更新:それから13年後、イシュマエル13歳、アブラム99歳、サライ89歳

アブラムはイシュマエルが生れてから、イシュマエルを約束の子どもだと思って、大事に育てていました。ところが神は言われました。「あなたの妻が男の子を生む」と言われたのです。

名前をアブラムから「アブラハム」へ変えてくださいました。それは「多くの国民の父」と言う意味の名前で、事実、多くの国民になるという約束を伴った名前でした。また、サライの名前も「サラ」となると言われました。彼女は「国々の母」となると言われました。名前は変わったことは新しい人生への再出発でした。

アブラハムは「子供が生まれる」という話を聞いて、心の中で笑ったのです。「百歳のものに子供が生まれようか。サラにしても、90歳の女が子を産むことができようか。」イシュマエルで十分だと思っていたのですすると神は言われました。(創17:19)「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』」。「イサク」には「笑う」という意味があります。

 

6.割礼

アブラハムに神は3つの約束をくださいました。子孫と土地と祝福です。この契約は永遠の契約です。神は永遠に子孫のためにも彼らの神になると言われました。契約を守るためにアブラハムとその子孫に、「男子はすべて割礼を受けなさい。」と言われたのです。割礼では血が流されます。血の契約の象徴(しるし)です。とても痛いのです。生れてから8日目に受けます。今でもユダヤ人は生れた子供が男の子であったら、生後8日目に割礼を受けさせます。8日目には新生児の免疫力が一番高くなるときだそうです。普通安息日には何もしませんが、割礼は安息日にも行われます。私たちは重要な契約書は金庫の中に入れておきますが、アブラハム契約のしるしは自分の身体に刻むことです。割礼の傷跡を見るたびに、神との契約の民であることを思いおこすのです。割礼は民族としての神との契約です。

アブラハム契約は人類の歴史が続く限り、存続します。今も有効です。しかし、異邦人は割礼を受ける必要はありません。使徒の働き15章のエルサレム会議で「異邦人は割礼無しにする」と可決されたからです(使徒15:20、29)。割礼は救いを受ける力ではありません。割礼は感謝の応答です。洗礼に似ています。洗礼は救われる条件ではありません。洗礼は救われた感謝の応答としてなされるものです。

ユダヤ人であったパウロは「肉の割礼は重要ではない。心の割礼こそが大切である。」と言っています。それは魂が砕かれていることです。ユダヤ人は割礼を誇ったために十字架が見えなくなってしまいました。

(詩篇51:17)「 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

パウロ先生は言っています。

(ガラテヤ5:6)「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

(ガラテヤ6:14~15)

「 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
  割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

 

 


多く赦された者

2016-11-17 21:34:22 | Weblog

。」2016.11.13.ティーンチャレンジ

聖書 ルカ7:36~50

題 多く赦された者

説教:木崎智之先生

 

はじめに

待ちに待ったティーンチャレンジの皆さんが来てくださいました。ご家族とインターンの方々と現在訓練中の方など、全部で6人のチームできてくださいました。私たちの教会では久しぶりにたくさんの方々をお迎えして、にぎやかな、礼拝になり、主の御臨在を楽しみました。お昼の愛さん会には小僧寿しとおすまし、そのおすましの具がたくさんあって、何と豪華だったことか、エビ、しいたけ、とうがん、サツマイモ、ニンジン、ねぎ、旬のまったけも入っていました。それから、カニもありました。デザートは柿、ミカン、パイナップルなど、山のようにおいしいものがありました。

 

証1:K.E. 兄(未信者の家の子供)

 私は3年前にティーンチャレンジに来ました。先月インターンを卒業しました。

私は15歳から薬物を始めました。満たされない思いを抱えていました。薬物やお酒をやって、幸せを求めました。しかし、それは一時的でした。何度も少年院を出たり、入ったりしました。少年院で優等生になって、外泊の許可をいただきました。外泊の許可をもらうというのは並大抵のことではありませんでした。しかし、少年院を出るとまた失敗するのでした。

18歳の時、覚せい剤に手をつけました。何度もがんばってやめようと思いましたが、止められませんでした。

イエス・キリストに出会うまで、神がいるということを考えたことはありませんでした。神様の愛を見て、周りのクリスチャンを見て、神様がいるかどうかわからないけれど、方向を変えました。神を信じようと思いました。神を知りたいと思って、祈り始めました。すると、今まで悪いと思った事のないものに、罪意識を感じるようになりました。純粋になりたいと思いました。変化がなくても祈り続けました。悪いこと、良いことの価値観が変わりました。景色を見て感動するようになりました。小さい安心を幸せだと思うようになりました。愛されていると思うようになりました。2015年1月18日に洗礼を受けました。私の好きな聖句を一つあげます。

Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

これからもイエスさまと一緒に生きて行きます。神にゆだねて行きたいと思います。

 証2.H兄

両親はクリスチャンです。ですから、私はクリスチャンホームで育ちました。小さい時から、教会に行き、ある程度の年齢になると奉仕もしました。小学生の時、洗礼を受けました。しかし、個人的な神との関係がなかったので、教会に行くのが苦しくなりました。

 大学生になった時、解放感を感じました。好きなことができると思いました。そのうちにギャンブルに熱中するようになりました。最初は自由だと思ったのですが、ギャンブルに支配されてしまいました。完全に依存症になっていました。ギャンブル依存症です。何とかしようとがんばったのですが、無理でした。山の中で生活したら、ギャンブルと手が切れると思いましたが、仕事が終わってから、3時間かけて山から町へ下り、パチンコ屋に行きました。新しい趣味、スポーツをやったらよいと思って、走ることにしました。これはパチンコ屋に行く足を速めることになりました。15~6時間働いたら、止められると思いましたが、仕事が終わってから、徹夜でマージャンをし、その翌日はそのまま仕事に行きました。キャッシュカードを誰かに預けたらよいと思い、預けましたが、だめでした。自分で又再発行して、お金を使うのでした。ギャンブルのために自己嫌悪に陥りました。ギャンブルするのは楽しいかと言うと楽しくないのです。泣きながら走って行き、泣きながらやっているのです。負けて悔しくて、大声で泣くこともありました。しかし、やめたくても、止められないのです。自由に生きてきたはずなのに、ギャンブルに支配されて、どうにもならなくなりました。人生に失望しました。

 自分ではどうすることもできないので、周りの勧めもあって、ティーンチャレンジにやってきました。最初は失望しました。祈りと賛美とみ言葉だけでした。規則正しい生活と作業がありました。1ヵ月はやる気がありませんでした。こんなことで治るとは思えなかったのです。

ある日、暗唱聖句に出会いました。

ピリピ1:6「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」

その時、ふと気がつきました。自分は神のもとに戻ってきているという事実に気がついたのです。神と向き合う決心をしました。今までのような関係ではありません。神に思いっきり、叫びました。ある時はののしり、ある時は泣き叫び、心にあることを全部吐き出しました。

ある日、気がついたら、変えられていました。

1.食べ物の好き嫌いが無くなっていました。

2.田舎が好きになりました。

3.両親を憎んでいましたが、赦すことができ、良い関係を持つようになりました。

4.希望があります。 

5.自由があります。

以前は、キリスト教は退屈だと思っていました。しかし、今では最高です。神と共に生きることは、最高にエキサイティングな生き方です。

(ヨハネ8:32)「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 

メッセージ(木崎先生)

ティーンチャレンジは、1958年にディビッド・ウィルカーソン師によってはじめられました。彼はアッセンブリー教団の5代目の牧師でした。いつものように2時間テレビを見て過ごしていましたが、ふと、神様にこう言ったのです。「もし、30分以内に電話がかかって来て、このテレビを売ってくれと言われたら、手放します。すると30分以内に電話がかかってきました。仕方がなく、テレビを売り、その代わり、お祈りをすることにしました。3週間後、「マイケル・ファマーが殺された」という記事が新聞に載りました。ニューヨークで起きた事件でした。ディビッドはこの少年たちに福音を伝えなさいと言っておられるように感じました。800kmの距離です。(2~3週間祈って、神が語りかけてくださる感覚を大事にして欲しいと思います。)

ニューヨークに行って福音を伝えたい。そういう思いがこみ上げてきました。教会に話すと教会が許してくれました。ニューヨークに行って、この事件に関係ある裁判が行われている所に手続きなしで踏み込んで行ったために、大きな事件になり、タイム誌にでかでかと写真入りで報道されることになりました。「きちがい牧師、裁判所に乗り込む。」この事で、危うく、牧師職を失うところでしたが、赦されました。

また祈り続けていると、また声がします。「ニューヨークへ行け。」と。

この声に従って、再び、ニューヨークへ行きました。すると、新聞に載ったおかげでニューヨークのギャング街の少年たちが友達になってくれました。失敗したと思う時、まだ失敗かどうかはわかりません。神はその失敗を後でお使いになるかもしれないのです。

このニューヨークでニッキー・クルズが救われました。彼は残忍な人で、バットで人をたたくのが飯より好きと言う人でした。1958年7月ブルックリンでバットと聖書を交換しました。もうバットが不要になったからです。そして、彼は伝道者になりました。50年後の2008年二人は再会しました。これ(ニッキーの写真)は50年後のニッキ―です。彼は牧師を続けています。同じメッセージを続けているのです。

ディビッドは救われた多くの若者たちのクリスチャンライフがうまくいかない、彼らがクリスチャン人生をうまく生きられない事に気が付きました。そこで、共同生活をする。ひたすら、賛美、賛美、聖書、祈りの生活の中で変えられて行く、そのため、ティーンチャレンジのシステムができて行ったのです。

多く赦された人は多く愛するようになる。赦された時、感動するのです。赦されたので、イエスさまの為に多くの事をしたくなるのです。赦されるためには何もしなくてよいのです。イエスさまが十字架にかかって死んでくださいました。そのために、私たちの過去の罪も現在の罪も、将来の罪も赦されているのです。

私たちの心が変えられたので、イエスさまが喜んでくださる事をしたいのです。そのように変えられたので、何かをしたいのです。

もし、教会員で、仕方がないのでその奉仕をするとか、それをして許されたいとかいうのであれば、それは宗教です。クリスチャン生活は宗教ではありません。

心が変えられているので、何かをやりたいのです。

私たちは、本当は多く赦された者です。確かに犯罪は、犯していないかもしれません。しかし、神の目から見たら、罪の重い、軽いはありません。みんなイエスさまを必要としています。

「愛は感情だけではない。行動だ。」とディビッド・ウィルカーソンは言いました。

この女の人(ルカ7:47、48)は多くの事をしました。多く赦されたので、多くの事をしたのです。多く赦されたので、多くイエスさまを愛したのです。

心が変えられたので、多く愛するようになったのです。多く赦された、少なく赦されたというのはありません。みんな、多く赦されているのです。私たちはみんな多く赦された者です。

ルカ7:47,48「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

 7:48 そして女に、『あなたの罪は赦されています』と言われた。」


神のアブラハムへの約束

2016-11-10 21:58:51 | Weblog

2016.11.6.神の約束

聖書 創世記15:1~6

題  神のアブラハムへの約束

 

暗唱聖句 創世記17:1

「 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」

 

はじめに

アブラムは生れ故郷のウルの地から父親を含む家族、親類を連れて、神が示された約束の地へ向かって、出発をしました。約束の地であるカナンはとても遠い所にあり、1000kmの移動の後で、ハランと言う所に住みついてしまいました。そこで15年滞在し、お父さんの死後、再び、カナンの地を目指して、500kmの旅をし、ついに、約束の地カナンに到着しました。そして、そこで新しい生活が始まりました。

神はアブラムに「このカナンの地を与える(創世記12:7)」と語りかけてくださいました。13章に行くとさらに「カナンの地をあなたとあなたの子孫に与える」と語られました。主が現われ、語ってくださるたびに、アブラムは主のために祭壇を築いて、礼拝しました。

 

1.「子孫が増える」という神の約束

さて、アブラムは約束の地、カナンで生活を始めました。しかし、思っていたより、いろいろな困難がありました。飢饉に遭い、一時エジプトに身を寄せました。しかし、再び、カナンの地に帰ってきました。そこで、甥のロトと別れ、別々の生活を始めました。その間に他民族との争いがあり、ロトが捕虜に連れ去られ、それを取り返しに、北部のダンまで追跡し、ロトとその家族を取り返してきました。

 そうしたアブラムの様々な戦いをごらんになった神は、アブラムに声をかけて、彼を励ましてくださいました。

「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15:1)神は幻のうちに「わたしが盾となってアブラムを守るから、大丈夫だよ。」と語ってくださいました。盾は攻撃の矢から守るためにあります。さまざまな攻撃から神が守ってくださるという意味です。アブラハム同様に、主は私たちも守ってくださいます。

 

しかし、アブラムには深刻な悩みがありました。それは、子供がいないことでした。彼には、名前をエリエゼルというとても忠実で賢い奴隷がいました。アブラムは特別に彼を本当の息子のように可愛がっており、信頼していました。甥のロトは別のところで生活しているので、後継ぎにはなりません。それに、アブラムもだんだん老人になってきました。焦ってきはじめました。そこで、神に尋ねたのです。「奴隷のエリエゼルが後継ぎになるのでしょうか。」と。神は答えられました。「そうではない。あなたの自身から生れる者が、あなたの後継ぎになる。」と仰せられました。そして、アブラムを外に連れ出して、夜の空を見上げるように導かれました。

15章5,6節「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』

 15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

皆さんは夏の夜空に星がいっぱい光っているのを見たことがありますか。冬はもっときらきら光っていますね。私は星空の美しい田舎で成長しました。星は数えることができません。その星を見せて、神は「あなたの子孫はこのようになる。」と約束をされたのです。アブラムは素直にその言葉を信じました。そのために「主はそれを彼の義と認められました。」神がアブラムを正しい、問題なしと認め、神が彼を受け入れてくださったのです。

 

アブラムは赤ん坊が生まれるという希望をしっかり持ちました。しかし、どのようにしてそのことが起こるのかはわかりませんでした。そこで、アブラムも妻のサライさんも人間的な計画を立てて、奴隷の女、ハガルを通して、子供を授けてもらおうと思いました。そして、イシユマエルという男の子が生まれました。ハガルにイシユマエルが生れた時、アブラムは86歳になっていました。しかし、この方法は神の御心ではありませんでした。あとで、いろいろな問題が起きてきました。

 

2.アブラムの新しい名前、アブラハム

アブラムはとうとう99歳になってしまいました。アブラムの妻、サライは彼より、10歳年下でしたが、89歳になりました。しかし、まだ、子供がいませんでした。人間的に考えて、この年では、もう子供を産むことは不可能でした。そんなアブラムに神は現われ、彼に語りかけてくださいました。

(創世記17:1~5)「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

 17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。』

 17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。

 17:4 『わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

 17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。』」

神は「全能の神」として、ここにご自分を現わされました。「私は何でもできる神である。私に不可能なことはない。わたしは、あなたとの約束を必ず果たす。あなたはわたしに忠実について来なさい。」と言われました。さらに、あなたの子孫はおびただしく増えるという子孫繁栄の約束を繰り返しました。それは、神がアブラムとの約束を覚え、守っていると彼を励ますためでした。

 

神はアブラムに新しい名前を与えられました。それは、彼が「新しい人生を歩み出す」というしるしでした。名前には力があります。アブラムはアブラハムと言う名前をいただきました。その意味は「多くの国民の父」です。アブラハムの子孫と言うことだけではなく、信仰を引き継ぐ人々が彼から生れるということでした。そして、神が永遠に彼らの神となられるという約束でした。アブラムはこの時、もう子供のいないアブラムではなく、たくさんの子孫を持つアブラハムに神の恵みによって、変えられたのです。

また、妻サライにも新しい名前がつけられました。サラと言う名前が与えられました。サラと言うのは「国々の母」と言う意味だそうです。

創世記17:15~16「また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。

 17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」来年の今頃、彼女は男の子を生む。名前はイサク(笑うという意味の名前)、神はこのイサクと契約を結ぶと言われました。

 

3.アブラハムの子供が生れる日が近づく(18:1~15)

 3人の旅人がアブラハムの所に来ました。アブラハムは、急いでテントから出て行き、地にひれ伏して、挨拶をして、「どうぞ、あなたのしもべの所に立ち寄ってください。そして少しゆっくり、くつろいでください。」と心からもてなしました。アブラハムは一目、彼らを見た時、直観的に神の使いの人たちだと思ったのではないでしょうか。なぜなら、もてなし方がとても豪華です。上等の小麦粉を使ったパン、それに柔らかくておいしいそうな子牛を殺して、料理人に渡しました。きっと、ビーフステーキが出されたかもしれません。それにミルクとヨーグルトなど、とてもおいしそうなご馳走が木の下の涼しい所に並びました。アブラハムは彼らがおいしそうに食べるのを見ながら、給仕していました。

食べ終わると、彼らはアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいますか。」彼が「天幕にいます。」と答えると、主の使いは言いました。「来年の今頃、あなたの妻サラには、男の子ができています。」サラはその人の後ろの天幕の入り口で、その話を聞いていました。アブラハムとサラは年を取っており、もう妊娠することは不可能でした。サラはその知らせを聞いて、「こんな年寄りに、赤ちゃんが産めるはずがない。」と心の中で笑ってしまいました。神がその笑いを見逃されるはずはありません。「どうして笑うのか」と言われました。サラは急いで、「いいえ、笑いませんでした。」と言いましたが、「いいえ、あなたは笑った。疑わないで、信じなさい。神にできないことはない、必ず、生れる」と約束してくださいました。

 

4.結論

神はアブラハムが信じられるように、また信じ続けられるように、何回も励まし、神との約束を思い出させてくださいました。それと同じように、私たちにも神は、励ましと助けを必ず与えてくださるのです。

暗唱聖句 創世記17:1

「 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」

私たちが信じ、信頼している方は全能の神です。神にできないことはありません。神は100歳のアブラハムと90歳のサラに男の子を授けてくださいました。私たちも信じ続けるなら、必ず、その約束を果たしてくださいます。

 

ローマ4:18~21「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

 4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

 4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

 

アブラハムは75歳の時に、主の約束を握って、ハランを出発しました。実際に自分の赤ん坊を腕に抱いたのは100歳、25年後のことでした。

(ヘブル10:36)「 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」


アブラハムの出発

2016-11-04 19:46:16 | Weblog

2016.10.30.アブラハムの出発

聖書 創世記12:1~8

題  アブラハムの出発

 

暗唱聖句 ヘブル11:8

「 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

はじめに

先週まで、パウロの伝道旅行についてお話ししました。パウロはローマに行きたいという志を持っていました。すると神は、囚人と言う形を持ってローマに導き、しかも囚人という身分のままで、十分に福音を伝えたのです。主に与えられた幻を持って進むということは何と素晴らしいことでしょうか。危険や苦しみもありますが、何もしない人生より、何倍も充実した人生を送ることができます。

 今日から「信仰の父」と言われる「アブラハム」について学んでいきます。彼もまた、天地の創造主から「この地を去って、カナンの地に行け」という幻をいただき、その召しに従った人です。最初から偉大な人物だったわけではありません。主と共に歩むうちに、神の品性が彼の内に宿り、彼は成長して行ったのです。

 

1.神はアブラムに、神を信頼してついて来なさい、(従いなさい)と言われた。

今日の個所は12章から始まっていますが、アブラハムの家族の事を知りたいと思ったら、11章の27節から呼んだ方がわかりやすいです。テラと言うのはアブラムのお父さんの名前です。アブラムと言うのはアブラハムの生まれながらの名前で、17章5節から名前が変わり、「アブラハム(多くの国民の父)」」になります。その年は99歳でした。

アブラムは60歳頃に神の声を聞きました。

創世記12章1節「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。』」

彼は、この声を聞いて、家族を連れて、ウルから、ハランの地へ引っ越しをしたのです。なぜか。理由はありません。ただ、アブラムは神の声を聞いて、その声に従ったのです。

 

このウルと言う町はテラとアブラム一族の生れ故郷でした。このウルは現在のイラクにあります。この町は偶像の町で、月の神ナンナを拝んでいました。ジッグラットという神殿の跡が発掘されています。レンガ造りで、縦60メートル、横45メートル、高さ21メートルもある壮大なものです。この神殿の群れは巨大な建造物でした。それはこの町がメソポタミヤ最大の都市であることの証明のようなものでした。

父のテラもアブラムを連れて、その宮に礼拝に行っていたのですが、アブラムにはしっくりとはきませんでした。アブラムの先祖はノアの子供のセム、ハム、ヤペテの中のセムの家系でした。この家系は霊的な感性が豊かでした。それは神からの賜物でした。ですから、アブラムはいつか、父の生き方とは違う道を取るようになると感じていました。

 

父テラはウルで生活するようになると商売をするようになり、大変豊かになりました。また、偶像を作って売ることで、たくさん儲けていました。しかし、アブラムはこの仕事だけはしたくありませんでした。ある時、父のいない間に、父の仕事場に入って行きました。そこにはたくさんの偶像がありました。アブラムは片手に木槌を持っていました。そして、部屋の中に置いてあった偶像たちを残らず、たたき割ってしまったのです。そして、玄関にあった一番大きな偶像に木槌を握らせておきました。お父さんのテラがその部屋に入った時、びっくりすると同時に怒って、アブラムにいました。「いったいどうしたのだ。おまえがやったのか。」アブラムは答えました。「お父さん、留守の間に、偶像たちがお互いに喧嘩したのです。この大きな偶像が腹を立てて、他の偶像をたたき壊しました。」すると父は言いました。「何をばかな。偶像に命や力があるはずがない。」彼は答えました。「じゃ、お父さん、お父さんはどうして偶像を礼拝しているのですか。」それを聞いて、父テラは言う言葉を失ってしまいました。そして、肩を落として、アブラムの前を去って行きました。

 

アブラムは「あの声の主に従って行こう、あの大いなる存在の方に従おう。」と心が決まりました。

そして、家族を連れて、カナンの方向を目指して、旅立ったのです。しかし、一行はハランで立ち止まってしまいました。ウルからハラン(一部ではカランと訳してある。)までは、約1000キロある、最低3カ月はかかる旅です。ハランからカナンまではさらに500キロ余りかかります。遠い道のりです。ハランはユーフラテス川の源流を超えた最北端にあります。そこはメソポタミヤの最も北に当たります。そこを超えてもっと行くと約束の地カナンに行きつくことができます。

「彼らはカナンに行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は205年であった。テラはハランで死んだ。」(創11:31~32)

アブラムは15年間このハランの地で過ごしたのでした。父テラは年を取っており、それ以上の移動が困難だったからです。アブラムは仕方なく、ここで、しばらく、住み着くことにしました。神が彼を祝福されたので、アブラムもまたここで豊かになって行きました。アブラムはウルで商人でしたから、ここでも商売をしました。しかし、ここハランはやはり月の神シンを礼拝する、偶像の町でした。彼はここをカナンへの通過点だと割り切って、次の移動のための準備をしました。その間、主の声は聞こえませんでした。しかし、「『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。』」と言われた事は忘れることができませんでした。

ついにその時がやってきました。父テラが亡くなった時がそうでした。テラの死後、アブラムは神の声に聞き従い、父と住んだ家を離れる決心をしました。それは神が自分の思い通りではなく、「わたしが示す地に行きなさい。」神に信頼して従うように言われたからです。多くの財産(羊、ヤギなどの家畜や奴隷)を持っていたアブラムにとって、行き先がはっきりしないで出て行くことは、とても大きな決断でした。カナンの地はわかりますが、それ以上の詳しいことは教えてもらえませんでした。このような状態で、出発するのは勇気が必要だったと思います。神は後にイスラエル民族にカナンの地をあげる約束もされたのです。

 

神はアブラムが神を信頼して出発できるように、祝福の約束をしてくださいました。

 

1.私が示す地に行きなさい。そうすれば・・・

2.あなたを大いなる国民とする。(この時、アブラムには子供がありませんでした。)

3.あなたを祝福する。あなたの名を大いなるものにする。あなたの名は祝福となる。

4.あなたを祝福する者を祝福する。あなたをのろう者をわたしはのろう。

5.地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

 

①アブラムはこの時、永遠の祝福の源として選ばれました。まず、神の選ばれた民族の族長として、神はアブラムを選ばれたのです。アブラムの子孫をイスラエル民族として選ばれました。そしてこのイスラエル民族の中から、メシヤ(救い主)であるイエス・キリストがお生まれになりました。十字架と復活を通して、全世界に救いがもたらされました。私たち異邦人も、イエス・キリストを通して、アブラハムの祝福に与かっています。

 

②アブラムが信仰によって、神に従う決心をしたので、現在に続く祝福があるのです。一人の人の決心が後に続く人の大きな祝福になります。

(ヘブル11:8)

「 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

③アブラムの葛藤は「私の示す地に行け。」という声が真の神の声かどうかを識別することでした。

(ヨハネ10:27)「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

また、彼は物質社会で安定した社会的地位の持ち主でありながら、すべてを神にゆだねて、未知の世界に踏み出したのでした。彼が選んだのは目に見えない永遠に続くものでした。

(Ⅱコリント4:18)「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」