2014.5.25.だれでも渇いているなら、
聖書 ヨハネ7:37~39
題 だれでも渇いているなら、
暗唱聖句ヨハ 7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる
はじめに
水曜日にアッセンブリー新潟キリスト教会の土屋康子先生が来られました。そして、会堂建築と家族の救いの証をしてくださいました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言うみ言葉は本当に成就するのだと励まされました。家族が20人救われたそうです。
土屋先生は今新たなビジョンを持って進んでおられます。それは一日、24時間の祈りを捧げる教会になりたいというビジョンです。そして今、教会は、一日6時間祈ることができるようになっているそうです。朝5:30~7:30まで、昼1時~3時まで。夜8時~10時までだそうです。教会に来て祈る人たちはそれぞれ都合のよい時間を選んで祈りにくるそうです。青年と男性たちは仕事の都合上、夜に来るそうです。2時間はあっという間に過ぎるそうです。メッセージはありません。ただ来て祈るだけです。でも、この祈りが始まってからは、テレビやネットの時間を減らして、ラインからも解放されて、霊的に成長しているそうです。自分たちもテレビを見なくなったと言われました。メディヤは霊的に汚れた思いを運んでくるので、良くない。メディヤから解放されて健全になりましたと言うことでした。
もうすぐ、ペンテコステの日がやってきます。飢え渇いて主を待ち望みましょう。
1.だれでも渇いているなら
夏の終わりの仮庵の祭りの時でした。仮庵の祭りは3大祭りの一つで、9月、10月の乾季の終わり頃の祭り。夏の終わりはもっとも乾燥していて、すぐ、のどが渇きます。この日は特別な日(シムハットトラー:モーセの5書を読み終え、読み始める日)でした。湧き水を汲んで来て、エルサレムの神殿に、捧げる日でした。湧き水は生ける水と呼ばれていました。きっとギホンの泉から汲まれてきた水だったのでしょう。この祭りは非常に楽しく、感謝にあふれ、聖書の巻物を抱いてダンスをしながらお祝いする日でした。多くの人々がエルサレムにやってきました。
その時、イエス様は言われました。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける川の水が流れ出るようになる。」
イエス様はここで「だれでも渇いているなら」と呼びかけています。のどの渇きを感じるこの季節、そして、特に泉から水をくみ上げてくる日を選んで言われました。「だれでも、渇いているなら、わたしのもとへ来て飲みなさい。」「だれでも、渇きを感じるなら」と言っておられます。反対に、渇きを感じない人もいたわけです。
牛や馬を飼う場合、水飲み場までは連れていくことができますが、のどが渇いていない牛や馬は水を飲んでくれません。どんなに飲まそうと思っても無理です。人間の場合も同じです。その人が渇いていなければ、水を飲みたいとは思わないのです。あなたの魂は渇いているでしょうか。
イエス様はここで、霊的な飢え渇きのことを話しておられます。「霊的に本当に飢え渇いているものはだれでもわたしのところに来て飲みなさい。」と言っておられます。霊的な恵みを求めている人をイエス様は招いておられます。ちょうどサマリヤの女の人のように、飢え渇いている人を探しておられるのです。
2. その人の心の奥底から
イエス様は言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と。心の奥底に平安や喜びのある人は幸いです。イエス様は言われました。どのような人が喜びや平安の泉をいただくのか、それはイエス様のところに行って、主イエスを信じる人です。
プロサッカーのカカ選手はクリスチャンです。彼はこう言っています。
「イエス様を信じていることで何が違うのか。それは、どんな状況にあっても喜びに満ちた心をもてることです。どんな状況に直面しても、最終的には必ず人生の勝利の道があります。この真実は、平安、安らぎ、心の安定、そして幸せを与えてくれます。イエス様がわたしの人生を導いてくださっていることを確信しているので、その思いは揺らぎません。神さまは、いつも最高のものを与えてくださる父親のような方です。」
3.生ける水の川が流れ出るようになる。
イエス様は「心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。「生ける水の川」とは何でしょうか。これは聖霊のことです。十字架にかかる前に「わたしは助け主を送る。」と弟子たちに約束されました。助け主とは聖霊のことです。聖霊は「御霊」とも訳されています。39節に「イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。」と説明されています。イエス様は、まだ十字架にかかっておられませんでした。イエス様は彼の兄弟たちに「わたしの時は来ていません。」と言われました。「わたしの時」とは十字架の時でした。私たちが、イエス様から約束の恵みを頂くには順番がありました。まず、イエス様が私たちの罪を背負って十字架につけられる。そして墓に葬られる。3日の後、復活され、その後、弟子たちに現われました。40日後に天に帰られました。その後、聖霊が注がれるという順番でした。この仮庵の祭りの時はまだ聖霊は注がれてなかったのです。天に昇られる時、イエス様は命令されました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマをうけたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4~5)
生ける水の川があふれでるまでは少し時間がかかりました。しかし、この約束は真実でした。弟子たちは主イエスの昇天後、エルサレムの二階座敷で父の約束を待ったのです。120名の人々が集まって祈りました。そこに聖霊が激しい風のような音をたてて天から降りてこられたのです。
それ以来、主イエスを信じる者の心の中には「その人の心の底から生ける川の水が流れ出るようになったのです。」
主イエスを信じた時、わたしたちの心の中に聖霊が来てくださいます。そして心の中に住んでくださいます。このことを「御霊の内住」と言います。聖霊が心の内側に住んでくださるのは大きな恵みです。この時、心の中をどのくらい聖霊様に差し上げるか、どのくらい明け渡すかによって、聖霊様の存在状況が違ってきます。祈りによって、心の全存在を聖霊に明け渡す時、聖霊の存在が溢れ、もう心の中にしまっておくことができないという状態になります。その時、異言が出てきます。心の底から生ける水の川が洪水のように外へ流れ出るといった状況が生まれます。聖霊の存在を内側にとどめておくことはできません。外に向かって、恵みと祝福を川のように流していくのです。それは素晴らしい喜びです。「あなたがたは喜びながら救いの井戸から水を汲む」(イザヤ12:3)(フォークダンスのマイムマイムの歌はこの聖書の個所を歌ったもの。)という聖書のことばを体験するようになります。井戸の水をくみ出すにはポンプの中に水をためておかなければなりません。これは呼び水です。これがないと水は出てきません。この水は聖書のみことばです。み言葉と祈りを絶やすことなく、心に与えておくならば、この喜びの泉から、いつでも救いと喜びの水を汲むことができます。
4.異言を語るようになった証
もうすぐペンテコステの日がやってきます。
2週間ぐらい前に、私の友人のK先生が聖霊のバプテスマを受けられました。先生はもともと異言を受け入れない教団出身の先生ですが、わたしたちと交流するようになって聖霊への飢え渇きが起こってきました。K先生は聖霊のバプテスマを受けたいと思って、3週間ほど前に、3日間断食祈祷をされました。3日間の断食も初めての経験でした。
体が回復した頃、松山から友人のG先生が若い信徒の方を連れて訪問してくださり、K先生の教会のメンバーの方と良い交わりを持ってくださいました。とても良い交流会だったそうです。その時、G先生はK先生の為に「天のことば」という本と、おみやげを持って来てくださいました。とても愛にあふれていました。自分はなんと愛がないのだろうかと思われたそうです。交わり会が終わった時、自分の教会の信徒が良い司会をしたので、とても誇らしく思い、心の中で「司会、上手でしょう。」と自分のことのように少し高慢な気持ちになったそうです。
土曜日の夜になって、何となくその「天のことば」を読みたくなりました。異言は欲しいのですが、心の中では少し異言を馬鹿にしていたところがありました。「今までやってきたのだから、無くてもやっていける」と言うのがありました。ところがその本に「異言はその人の内側の霊をたてあげる。異言の祈りはサタンが盗めない。求める人には100%与えられる。」と書いてありました。読んでいるうちに祈りたくなってきました。悔い改めて、祈っていたら、異言が出てきたのです。意識もはっきりしています。何も変わったことはありません。しかし、心に喜びが湧いてきたのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」今も続いています。毎日30分異言で祈っています。今まではそんなに長くは祈れませんでした。しかし、今はあっという間に過ぎていきます。K先生は今新たに伝道情熱が与えられ、がんばっておられます。
使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
皆さん、来週は徳島聖会です。聖霊の満たしを求めて祈りましょう。霊的に、飢え渇かなければ、神さまは何もできません。飢え渇いて、祈り、心の準備をしましょう。