阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

だれでも渇いているなら、

2014-05-26 23:00:35 | Weblog

2014.5.25.だれでも渇いているなら、

聖書 ヨハネ7:37~39

題  だれでも渇いているなら、

暗唱聖句ヨハ 7:38

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる

はじめに

 水曜日にアッセンブリー新潟キリスト教会の土屋康子先生が来られました。そして、会堂建築と家族の救いの証をしてくださいました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言うみ言葉は本当に成就するのだと励まされました。家族が20人救われたそうです。

土屋先生は今新たなビジョンを持って進んでおられます。それは一日、24時間の祈りを捧げる教会になりたいというビジョンです。そして今、教会は、一日6時間祈ることができるようになっているそうです。朝5:30~7:30まで、昼1時~3時まで。夜8時~10時までだそうです。教会に来て祈る人たちはそれぞれ都合のよい時間を選んで祈りにくるそうです。青年と男性たちは仕事の都合上、夜に来るそうです。2時間はあっという間に過ぎるそうです。メッセージはありません。ただ来て祈るだけです。でも、この祈りが始まってからは、テレビやネットの時間を減らして、ラインからも解放されて、霊的に成長しているそうです。自分たちもテレビを見なくなったと言われました。メディヤは霊的に汚れた思いを運んでくるので、良くない。メディヤから解放されて健全になりましたと言うことでした。

もうすぐ、ペンテコステの日がやってきます。飢え渇いて主を待ち望みましょう。

 

1.だれでも渇いているなら

夏の終わりの仮庵の祭りの時でした。仮庵の祭りは3大祭りの一つで、9月、10月の乾季の終わり頃の祭り。夏の終わりはもっとも乾燥していて、すぐ、のどが渇きます。この日は特別な日(シムハットトラー:モーセの5書を読み終え、読み始める日)でした。湧き水を汲んで来て、エルサレムの神殿に、捧げる日でした。湧き水は生ける水と呼ばれていました。きっとギホンの泉から汲まれてきた水だったのでしょう。この祭りは非常に楽しく、感謝にあふれ、聖書の巻物を抱いてダンスをしながらお祝いする日でした。多くの人々がエルサレムにやってきました。

その時、イエス様は言われました。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける川の水が流れ出るようになる。」

イエス様はここで「だれでも渇いているなら」と呼びかけています。のどの渇きを感じるこの季節、そして、特に泉から水をくみ上げてくる日を選んで言われました。「だれでも、渇いているなら、わたしのもとへ来て飲みなさい。」「だれでも、渇きを感じるなら」と言っておられます。反対に、渇きを感じない人もいたわけです。

牛や馬を飼う場合、水飲み場までは連れていくことができますが、のどが渇いていない牛や馬は水を飲んでくれません。どんなに飲まそうと思っても無理です。人間の場合も同じです。その人が渇いていなければ、水を飲みたいとは思わないのです。あなたの魂は渇いているでしょうか。

イエス様はここで、霊的な飢え渇きのことを話しておられます。「霊的に本当に飢え渇いているものはだれでもわたしのところに来て飲みなさい。」と言っておられます。霊的な恵みを求めている人をイエス様は招いておられます。ちょうどサマリヤの女の人のように、飢え渇いている人を探しておられるのです。

 

2.          その人の心の奥底から

イエス様は言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と。心の奥底に平安や喜びのある人は幸いです。イエス様は言われました。どのような人が喜びや平安の泉をいただくのか、それはイエス様のところに行って、主イエスを信じる人です。

 

プロサッカーのカカ選手はクリスチャンです。彼はこう言っています。

「イエス様を信じていることで何が違うのか。それは、どんな状況にあっても喜びに満ちた心をもてることです。どんな状況に直面しても、最終的には必ず人生の勝利の道があります。この真実は、平安、安らぎ、心の安定、そして幸せを与えてくれます。イエス様がわたしの人生を導いてくださっていることを確信しているので、その思いは揺らぎません。神さまは、いつも最高のものを与えてくださる父親のような方です。」

 

3.生ける水の川が流れ出るようになる。

 イエス様は「心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。「生ける水の川」とは何でしょうか。これは聖霊のことです。十字架にかかる前に「わたしは助け主を送る。」と弟子たちに約束されました。助け主とは聖霊のことです。聖霊は「御霊」とも訳されています。39節に「イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。」と説明されています。イエス様は、まだ十字架にかかっておられませんでした。イエス様は彼の兄弟たちに「わたしの時は来ていません。」と言われました。「わたしの時」とは十字架の時でした。私たちが、イエス様から約束の恵みを頂くには順番がありました。まず、イエス様が私たちの罪を背負って十字架につけられる。そして墓に葬られる。3日の後、復活され、その後、弟子たちに現われました。40日後に天に帰られました。その後、聖霊が注がれるという順番でした。この仮庵の祭りの時はまだ聖霊は注がれてなかったのです。天に昇られる時、イエス様は命令されました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマをうけたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4~5)

 

生ける水の川があふれでるまでは少し時間がかかりました。しかし、この約束は真実でした。弟子たちは主イエスの昇天後、エルサレムの二階座敷で父の約束を待ったのです。120名の人々が集まって祈りました。そこに聖霊が激しい風のような音をたてて天から降りてこられたのです。

それ以来、主イエスを信じる者の心の中には「その人の心の底から生ける川の水が流れ出るようになったのです。」

 

主イエスを信じた時、わたしたちの心の中に聖霊が来てくださいます。そして心の中に住んでくださいます。このことを「御霊の内住」と言います。聖霊が心の内側に住んでくださるのは大きな恵みです。この時、心の中をどのくらい聖霊様に差し上げるか、どのくらい明け渡すかによって、聖霊様の存在状況が違ってきます。祈りによって、心の全存在を聖霊に明け渡す時、聖霊の存在が溢れ、もう心の中にしまっておくことができないという状態になります。その時、異言が出てきます。心の底から生ける水の川が洪水のように外へ流れ出るといった状況が生まれます。聖霊の存在を内側にとどめておくことはできません。外に向かって、恵みと祝福を川のように流していくのです。それは素晴らしい喜びです。「あなたがたは喜びながら救いの井戸から水を汲む」(イザヤ12:3)(フォークダンスのマイムマイムの歌はこの聖書の個所を歌ったもの。)という聖書のことばを体験するようになります。井戸の水をくみ出すにはポンプの中に水をためておかなければなりません。これは呼び水です。これがないと水は出てきません。この水は聖書のみことばです。み言葉と祈りを絶やすことなく、心に与えておくならば、この喜びの泉から、いつでも救いと喜びの水を汲むことができます。

 

4.異言を語るようになった証

もうすぐペンテコステの日がやってきます。

2週間ぐらい前に、私の友人のK先生が聖霊のバプテスマを受けられました。先生はもともと異言を受け入れない教団出身の先生ですが、わたしたちと交流するようになって聖霊への飢え渇きが起こってきました。K先生は聖霊のバプテスマを受けたいと思って、3週間ほど前に、3日間断食祈祷をされました。3日間の断食も初めての経験でした。

 体が回復した頃、松山から友人のG先生が若い信徒の方を連れて訪問してくださり、K先生の教会のメンバーの方と良い交わりを持ってくださいました。とても良い交流会だったそうです。その時、G先生はK先生の為に「天のことば」という本と、おみやげを持って来てくださいました。とても愛にあふれていました。自分はなんと愛がないのだろうかと思われたそうです。交わり会が終わった時、自分の教会の信徒が良い司会をしたので、とても誇らしく思い、心の中で「司会、上手でしょう。」と自分のことのように少し高慢な気持ちになったそうです。

 土曜日の夜になって、何となくその「天のことば」を読みたくなりました。異言は欲しいのですが、心の中では少し異言を馬鹿にしていたところがありました。「今までやってきたのだから、無くてもやっていける」と言うのがありました。ところがその本に「異言はその人の内側の霊をたてあげる。異言の祈りはサタンが盗めない。求める人には100%与えられる。」と書いてありました。読んでいるうちに祈りたくなってきました。悔い改めて、祈っていたら、異言が出てきたのです。意識もはっきりしています。何も変わったことはありません。しかし、心に喜びが湧いてきたのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」今も続いています。毎日30分異言で祈っています。今まではそんなに長くは祈れませんでした。しかし、今はあっという間に過ぎていきます。K先生は今新たに伝道情熱が与えられ、がんばっておられます。

 

使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

皆さん、来週は徳島聖会です。聖霊の満たしを求めて祈りましょう。霊的に、飢え渇かなければ、神さまは何もできません。飢え渇いて、祈り、心の準備をしましょう。


目をさましていなさい。

2014-05-24 11:31:03 | Weblog

2014.5.18.目を覚ましていなさい。

聖書 使徒20:7~11

題  目を覚ましていなさい。

 

はじめに

今日も顔先生のメッセージです。短くまとめました。

1.リレーのバトンタッチ

 体が弱っている時こそ、神さまは力をくださいます。子供たちは単純な信仰をもっています。神は喜びの神です。永遠の命が宿っています。ここに集まっているのは神が集めてくださったからです。しかし、私たちは弱いので、時々後押ししてもらう必要があります。

 ある国でお姫様の婿探しが行われました。王の娘婿になるには勇敢な人でなければなりません。そこで、ある競技大会を行いました。大勢の若者たちが集まってきました。王は川向こうに座っていました。「婿になる人はこの川を泳いで渡ってください。一番になった人に娘を上げます」と王様は言いました。

 ところがこの川にはワニがたくさん泳いでいました。入ったら食べられそうです。みんな怖くなって、川に飛び込むのをやめました。そしたら一人の人が飛び込みました。その人は必死に泳いで向こう岸につきました。王様は喜んで彼を迎えました。「あなたは勇気のある人です。」とほめてくれました。しかし、その人は言いました。「いいえ、誰かが僕を押したおしたのです。川にはいってしまったので、ワニに食べられないように、必死になって泳ぎました。」

 私たちは時には後押しをしてもらう必要があります。牧師になった人は多くの場合、自分でなった人はいません。誰かに後押しをしてもらって、牧師になっています。神の招きがあった時、私たちはおくびょうなので、後押ししてもらう必要があるのです。日本人は遠慮深いので、後押しする必要があります。

リレーをする人は最後にバトンタッチをします。バトンを渡す時はいっしょに走りながらバトンを渡します。年配の人は「天国は近い、天国は近い」と言いながら走っています。どうやって若い人にバトンを渡そうかと考えながら、走っています。

2.ユテコ

 パウロはトロアスで話をしていました。パウロの説教はとても長かったのです。夜まで続きました。真夜中も続きました。若者であったユテコは窓に腰をかけていました。ひどく眠気がして、とうとう眠り込んでしまいました。熟睡してしまいました。

この人は若い青年です。若い青年は霊的に眠りこけています。眠り込み、熟睡し、最後には死んでしまいます。皆さんは若い人にバトンタッチをしたいと願っていますか。

 若い人に話を聞いてもらうには、まず、先生が若い格好をしなければなりません。それでも、話は聞かないでしょう。でも、服装は見ています。若い人は知識よりも、自分たちのことをわかって欲しいと思っています。

 ある日、若者がやってきました。彼が初めて来た時、エイズにかかっているということでした。しかも重い状態でした。そしてホームレスの生活をしていました。彼がエイズにかかっていると告白した時、彼を抱きしめました。その後、あやまりました。なぜなら、彼は牧師の子供でした。だから、牧師を代表して、あやまったのです。その子の親である牧師は貧乏と忙しさの中で彼を育てることができず、施設に預けたのです。彼はかまってもらえず、愛してもらえず、孤児院で育ちました。だから、教会を恨んでいました。顔先生は彼の前で心からあやまって、その若者を引き取って、いっしょに住んでいます。今、彼は心も体も癒されつつある状態です。

 子供たちは私たちの宝です。今の若者はぐっすり眠っています。ここでは青年が眠りこけたと書いてあります。年寄りではありません。ユテコが眠りこけて3階から落ちてしまったのです。

ここで何を警告しているか、どんな年齢の人にも必要なことです。油断すると、信仰から落ちるのです。彼が眠っているのは体だけではありません。霊が眠っているのです。どうしたら、眠らないようにすることができるでしょうか。

パウロの話。

誰かが落ちていますよ。・・・・上にいる人が、気がついて降りてきました。死んでいるよ。と声をかけました。パウロは身をかがめて抱きかかえました。周りの囲んでいる人に言いました。「心配することはないよ。」周りの人はあなたが長い説教をするから死んだのですとは言いませんでした。パウロは「まだ命がある。心配しないで。」と言いました。なぜなら、いのちは神ものです。人の命は神だけが管理しておられます。神から選ばれたと確信していたパウロです。「心配することはありません。彼の魂は生きています。」パウロはもう一度抱きしめて祈りました。立ちあがって説教を続けました。

ユテコは生き返りました。パウロがもう一度抱きしめて祈ったからです。

 いろんな若者が来ました。

ある日、美しい女性が入ってきました。輝くようにきれいな人でした。教会のスタッフがその人を案内して,肩に手をかけました。それを見た自分はとても怒って、礼拝の後、彼を呼びだして怒りました。彼は言い訳をしていましたが、私は聞き入れませんでした。すると、彼は泣き出してしまいました。

「先生、誤解です。あの人は男性です。女性の格好をしているだけです。友達です。」というのです。その人は教会員の賛美リーダーの弟でした。賛美リーダーの人はそんな弟を恥ずかしいと思って教会に誘うことはありませんでした。

このような若者たちが集まってきています。

神さまは私たちに献身を迫っておられます。

献身とはどういうことでしょうか。それは、私たちの体を生きたまま捧げることです。ゆだねると言うことを知ってほしいのです。あなたは優秀ですが、逃げてしまうところがあります。あなたは優秀ですが、隠れてしまうことがあります。人の陰に隠れていれば安全だと思っているのでしょうか。神はすべてをご存知です。

劇:後ろを見ないで倒れて見ましょう。(後ろには4人の人が危なくないようにいます。本人は知らない。見えない。これは神の保護を表わしています。)その時、神様を信頼して倒れることができる、そういうことです、献身とは。

私も献身と言うことを知らないで神学校に行きました。台湾から日本にやってきました。それは失恋したからでした。お金もなかったのでお金のことばかり考えていました。神学校で十字架と救いを知りました。ある日、2週間高熱が続きました。

その時祈りました。3つ。

①            台湾バナナが食べたい。

②            台湾の漢方薬が飲みたい

③            お金が欲しい。

 

その日の午後、突然、中国人が訪問に来ました。

彼は手の中に台湾バナナをにぎっていました。

彼の手の中には台湾の漢方薬をもっていました。

彼の手の中には3万円という大金がありました。

このことを通して、神は生きておられる。この方にすべてを捧げたいと思いました。

皆さんここで眠りこけてはいけません。献身することを決心しましょう。

ローマ12:1

「 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

エペソ6:18

「 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」


信じるなら、神の栄光を見る。

2014-05-13 16:53:21 | Weblog

2014.5.11.信じるなら、神の栄光を見る。

聖書 ヨハネ11:38~44

題  「信じるなら、神の栄光を見る。」

 暗唱聖句 ヨハネ11:40

「イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」

はじめに

1.信じるなら神の栄光を見る。

2.石を取り除く

3.解放

4.証

 

はじめに

 先週の4日から6日まで、私は四国教区のファミリーキャンプに参加しました。今まで、四国教区は高知県の中村の幡多青少年の家でキャンプをやっていましたが、今年は場所を変えて、高知県の工石山青少年の家で行いました。幡多は海辺で、近くの海には本当にクジラが住んでいます。一方、工石山は標高1,176メートルの高い山で、まだまだ寒く、暖房が入っていました。夏はクーラーがなくても涼しく、気持ちが良いそうです。

 講師には、台湾のアッセンブリーの理事長をしておられる顔金龍(エン・チンロン)先生をお招きしました。エン先生の奥様の丸山陽子先生はアッセンブリーから派遣されている宣教師です。陽子先生が中国語から日本語に通訳をしてくださいました。また、このキャンプに中国人留学生の求道者が参加していました。母国語でメッセージが聞けるのはなんと幸いなことでしょうか。彼は最後には献身を表明していました。

 このキャンプでは最初から神の恵みが注がれて、聖霊の臨在の深い集会でした。聖霊のバプテスマを受けた子供がいましたし、癒しの奇跡も起こりました。脳卒中で半身不随の人が、癒しを求めて前に出てこられました。麻痺した手がだんだん上がるようになり、足も動くようになり、笑顔も出てきました。そして、イエス様を信じますと告白して帰られました。私も2年間痛んでいた右腕が完全に癒されました。帰って来てからも痛くないのです。ハレルヤ!

 顔金龍先生のメッセージから~

1.信じるなら神の栄光を見る。

 私たちはクリスチャンになって喜びを持つべきです。私たちは喜ぶために集まってきました。喜びを求めなければなりません。喜びはどこから来るのでしょうか。聖霊から来ます。私たちは祈りを通して、栄光から栄光へと変えられて行きましょう。

神に近づいて、家内は美しくなったと思います。私の父は亭主関白だったので、私も亭主関白になりました。私は長い間、家内が美しいということに気がつきませんでした。しかし、私は変わりました。今では家内をほめることができます。神さまはなぜ口を造ってくださったのでしょうか。それはお互いにほめ合うためです。

「信じるなら、神の栄光を見ることができる。神の栄光を見るなら、私たちも栄光から栄光へと変えられるのです。」

 ある地区で今年も雨が降りませんでした。地区の人たちが、「雨が降るように祈ろう」と言って集まりました。祈り会の間も太陽が照っていました。ある子供は何かを持って来ていました。大人たちは何も持って来ていません。その子供は傘を持って来ていました。子供は言いました。「私は祈ったら、雨が降るので、傘を持ってきました。」と。

この子供の信仰を見て、「信仰とは何か」を学びました。私たちはもともと信仰を持っていたのですが、何か阻むものが出てきて、信仰を失ったのです。阻む物を取りのぞいて、信仰を回復させなければなりません。

 2.石を取り除く

 ヨハネ11章の出来事です。

ベタニヤにはイエス様がいつも立ち寄られる家があり、家族のようなお付き合いをしておられました。その家にはマルタ、マリヤ、ラザロの兄弟姉妹が住んでおりました。ある時、ラザロが病気になり死んでしまったのです。マルタもマリヤも非常に悲しみ、「イエス様がここにいてくださったら弟は死なずに済んだでしょうに」と言いました。やがて、イエス様がやって来られました。みんなが泣いているのを見て、イエスさまも涙を流されました。そして、彼をどこに置いたのかと言われました。ラザロはもう墓に入れられて4日になっていました。イエス様は墓に来られました。そして、「その石を取りのけなさい。」と言われました。マルタは言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。死んで4日もたっていますから。」

このマルタのことばは医学的には正しいのです。確かに4日経っていたら腐っているでしょう。暑いイスラエルのことですから。主イエスはマルタに「石を取りのけなさい。」と言われました。私たちにも「信じない石(意志)があります。」私の妻はすばらしい人です。でもよく喧嘩をしました。生活習慣が違うからです。私は台湾の原住民、妻は日本人です。妻の趣味は電気製品を修理することです。ある時、シンクの穴が詰まりました。私は修理をしようとして2時間働きました。しかし、直せませんでした。その後、妻と交代しました。妻は5分間でシンクの中の管に詰まっている物を取りだし、修理してしまったのです。管をはずしました。その中には何年間の分の石や骨や何か腐ったものなどいろいろ詰まっていました。あなたたちの中にも管が詰まっているかもしれません。神の器は、神の管です。今までの不信仰を取り除いて、癒していただくべきです。

  私は劣等感が強くて、17年間、妻に心を開いていませんでした。妻は神学校の成績もよく、学歴も自分より高かったのです。私は劣等感があったので、どこにも行きたくありませんでした。新婚旅行にも行きませんでした。ある時、香港の友人から、「香港に遊びに来てください」と言われました。罪滅ぼしに妻と子供たちを連れて香港に行きました。まず、教会に行きました。教会にはポスターが貼ってあって、「顔金龍、癒しの集会」と書いてありました。「だまされた」と思いました。普通の説教をして帰ろうと思いましたが、前の方には具合の悪い人たちが並んでいました。私は後ろに行って、「私には出来ない」と祈りました。妻がそんな私の手を引いて前に来ました。一番前の兄弟の所に来ました。彼のために祈りました。確信はありませんでした。ところが、彼は動けなかったのに、歩き始めました。初めての経験でした。神は弱い人を用いて、神の栄光を見させてくださいました。「あなたの手で、石を取りのけなさい。」「自分の手で石を取りのけなさい。」不信仰の石を取りのけるのです。イエス様はどのように言いましたか。「信じるなら、神の栄光を見る。」

人々は石を取りのけました。誰が取りのけたのかはわかりません。石を取りのけた人が神の栄光を見ることができるのです。「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか。」

 3.解放

 私たちは開拓教会でしたので、最初は誰もいませんでした。夫婦2人と犬だけでした。この犬は私の説教を聞いたので天国に行きました。私たちはお金に困っていました。少ないお金でやりくりしていたので、お米も一度にたいてそれを少しずつ食べました。お金のことでよくケンカをしました。ある日、手元には500円しかありませんでした。妻はそれを私に渡して、「これで生活してください。」と言いました。しかし、その500円を失くしてしまいました。その500円のことでケンカし、別々の部屋で生活しました。その時、「貧しいですから栄光を現わしてください。」と祈りました。犬が近づいて来ました。その犬が何かをくわえていました。すると、500円をくわえていました。これを通して神さまは私たちを喜ばして下さいました。その時から、神は私たちを貧乏から解放してくださいました。今、私たちは何人もの子供たちを預かって、養っています。お金がなくても、何人も養うことができます。本当に大金持ちです。私たちの天の父は、天に宝を持っているお方です。私たちの父は天にいてすべての資源を持っておられます。どこに行ってもかわいい神の子供です。イエス・キリストを信じるならば、すべての資源も受け継ぐことができます。お金はない。差別もある。しかし、決して貧しくはならない。南山に一つの家があります。お金はない人が、自分の家を提供してくれました。

  私の父は95歳です。釣りが大好きです。ある日、釣りを何時間もした後で、朝食を食べました。急に朝ご飯を食べたので、心筋梗塞を起こしてしまいました。兄から電話があって「父は死んだ。」と泣きながら言いました。私は会議中でした。牧師たちは「帰ってください」と言いましたが、帰らないでみんなで立って祈りました。2時間後、電話があって、「父が息を吹き返した。」と言うことでした。後で聞いたことですが、2人の外国人の医者がやってきて、心臓マッサージをして病院に送ったそうです。捜しましたが誰も彼らを見た人はいません。お礼がしたかったのです。天使だったかもしれません。私たちは貧しくないのです。

11章の43節に「ラザロよ。出てきなさい。」と言われた時、どうやって出てきたのでしょう。葬られた時はぐるぐる巻きです。手も足も体もぐるぐる巻きです。きっとラザロはピョンピョン、飛びながら、出てきたかもしれません。ラザロは生き返ったとしても、出てくるのは難しかったはずです。私たちの考えや理性ではイエス様が言ったことを説明することは難しいのです。私たちの信じている方はすばらしい方なのです。私たちの理性を超えています。イエス様は彼らに言われました。「ほどいてやって帰らせなさい。」ほどかれたラザロは解放されました。いろんな縛りから解放されましょう。私たちは心の貧しさから解放されました。

 4.証

ある少年が町に引っ越してきました。少年は水泳が好きでした。しかし、町には川がありません。少年はマンションの屋上に飲み水を入れるタンクがあるのを見つけました。兄と妹を誘って泳ぎました。水はきれいでした。そのタンクの水は電気で救いあげるようになっていました。どこに電気があるのか知りませんでした。その少年の右腕が電気の線に触れました。彼は感電してしまいました。兄は感電した弟を見て父に知らせました。父は「どうして見張っていなかったのか」と言って兄を殴ったそうです。弟は死んでしまいました。医者もどうすることもできませんでした。しかし、その父親はあきらめませんでした。何時間も祈りました。家に連れて帰って来てからも祈りました。信じるなら生き返ると信じました。この少年は生き返ったのです。神は父親の信仰に答えてくださいました。

実を言うと、この少年が私なのです。私の右手にはやけどの跡があります。これは、その時のやけどの痕です。普通だったら、何時間も頭に酸素が行ってないので、頭がおかしくなるはずです。しかし、感電してから、もっと頭が良くなって、クラスで3番になりました。

 

神は私たちの信仰を見てくださるのです。私たちは弱い者ですが、神は私たちを用いたいと思っておられます。まず、石を取りのけましょう。不信仰の石を取り除きましょう。

そしてぐるぐる巻きからも解放されましょう。何かに縛られている物があれば、そこから解放されましょう。十字架の上で打ち砕いてください。

私たち自身が神の命に満たされましょう。そして生き返りましょう。


死者の復活2

2014-05-06 21:19:42 | Weblog

2014.5.4.死者の復活2

聖書 1コリント15:50~58

題  死者の復活2

暗唱聖句

Ⅰコリント15:52

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 はじめに

1.蒔かれたからだ

2.御霊のからだ

3.変えられるからだ

 はじめに

 今はイースターの季節ですから、復活について学んでいます。復活はないと言う人たちに対して、パウロは「復活はあるのだから、正しい生活をしなさい。罪から離れなさい。」と助言しています。

そして今日の質問は「死んだ人は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだでくるのか。」と言うことです。この質問に対して、パウロは英知を持って答えています。

パウロに与えられたこの復活を説明する知識と知恵に感動しています。

 1.蒔かれたからだ

まず、パウロは死んだ人がどのように復活するのかについて説明しています。このことが理解できると、私たち人間がなぜ死ぬのか、死んだあとどうなるのかもわかってきます。

 パウロは復活についてたとえ話をしています。まるでイエス様のようです。イエス様はたくさんのたとえ話をされました。パウロの例えは麦の種の例えです。

でも、日本人には稲の話が良いかもしれません。今は田植えの季節です。誰にでもわかります。まず、種もみを選びます。これを地に蒔くとどうなりますか。種もみは腐って、かたちがくずれてきます。しかし、新しい芽をだします。新しい芽だけでなく、根も生え出ます。種もみのからだはどこへ行ったのでしょう。種もみのかたちは崩れ去り、腐って、見えなくなりました。その代わり、かたちの違った緑の植物の苗が育ちました。夏まで緑の植物として、成長します。そして、時が来ると花を咲かせ、稲穂が実り、黄色くなって、収穫となります。最初の種は死にました。しかし、その死んだ種から新しい新芽ができたのです。最初の種が死ななければ、新しい種はできないのです。これは復活する時の体に似ています。

 2.御霊のからだ

どのようなからだで復活するのでしょうか。結論から先に言うと、復活する時は御霊の体になると言っています。御霊の体は栄光の体です。

種にはいろいろな種があります。稲のもみと麦の種も違います。朝顔の種とひまわりの種も違います。苗のかたちも花も違います。朝顔はつるですが、ひまわりはまっすぐにのびて行きます。植物でもこのように違う体を与えられました。同じように動物の身体も違うものを与えられました。猫と犬のからだは違います。人間と鳥はかたちもからだも違います。魚の肉と牛の肉も違います。太陽の美しさと月の美しさは違いますし、星の美しさも違います。神はそれぞれのものを輝きや美しさが違うように造られました。

ですから、天上のからだもあるし、地上のからだもあるのです。

 死んだ人の復活も同じです。自然の体でこの世に生まれ、超自然の体に復活させられるのです。自然の体である肉体があるように、超自然の体である霊的体もあるのです。

この地球では確かに自然の血肉のからだで生活しています。この血肉の体はアダムから引き継がれたものでした。アダムは土から造られましたので、人間は土にかえります。しかし、第二のアダムであるキリストは天から降りてこられた方なのです。ですから、人間は誰でもアダムに似て、朽ちる体を持っていますが、キリストを信じ、生まれ変わったものは誰でも、キリストに似るのです。そして、朽ちない御霊の体が与えられます。私たちクリスチャンはやがて御霊の体に復活させられるのです。

 3.変えられるからだ

私たちのからだは肉体を持ったまま、神の国に入ることはできません。朽ちるものは朽ちないものを受け継ぐことはできません。

私たちクリスチャンは死んでおしまいではありません。これは真理です。やがて、キリストが再び来られる時、復活するのです。

世の終わりのラッパが鳴るとき、たちまち、死んだクリスチャンが復活します。その時、生き残っているクリスチャンたちは栄光の体に変えられるのです。すなわち、朽ちることのない新しい御霊の体に変えられるのです。この時、「死は完全に敗北させられた。永久に死を滅ぼされる。」というイザヤ25:8の預言が成就します。「死よ。おまえの力はどこにあるのか。(創造主訳ホセア13:14)」と言うホセアの預言も実現します。

 イエス・キリストは復活して永遠に生きる者になられました。私たちもイエス様のように復活して永遠に生きる者となるのです。

 最初の人であったアダムの体は土から造られました。そして、鼻から息を吹き込まれて初めて生きる者となりました。その身体は血肉の体であり、自然界のみで生きることができました。神さまはそれを見て良しとされ、すべては良かったのです。このアダムと比べて、主イエスは生かす御霊となったと言っています。私たちの体は血肉の体ですが、主イエスの十字架と復活を通して、私たちは永遠に生きる者としていただいたのです。イエス・キリストを信じる者は、みんな御霊の体を持つという約束を受けています。主イエスの復活は、私たちが将来経験するモデルのようなものです。地上におられた時は、全く私たちと同じ人間の身体でした。血肉の身体でした。しかし、復活した時は霊的な、永遠に生きる体に変わっていました。それと同じように、復活する時には御霊の体に変えられるのです。

 私たちの体は、朽ちる体であり、卑しい体であり、弱い体であり、血肉の体です。しかし、復活の時には変わります。朽ちない体、栄光の体、強い体、御霊の体に変わります。神のみ国においては、その身体を持って、常に神に仕え、神を礼拝し、賛美することになります。

今の体は完全ではありません。しかし、復活の体は美しく、完全な体に変えられるのです。痛みのない、栄光と力に満ちたからだです。そして、それはイエス様と似た体です。イエス様はすべてにおいて私たちのモデルです。このことが理解できたら、わたしたちに何が起ころうとも希望があります。この希望を持って主の業に励みなさいとパウロは進めています。ですから、この福音の上にしっかり立ってください。

 58節「 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」