2016.4.24.希望の天国
聖書 黙示録21:1~5
題 希望の天国
暗唱聖句 Ⅱペテロ3:13
「 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
はじめに
イエス様を信じている私たちは、死んだらどこへ行くのでしょうか?ヨハネはパトモス島で、聖霊によって新しい天と地である天国の幻を見て、それを書き記しました。その書物がヨハネの黙示録です。イエス様を信じている人が行く天国って、いったいどんなところなのでしょうか?天国は神様が共におられる所です。故立岩兄は天国に行きました。天の故郷に帰って行ったのです。今日は、午後、彼の記念会をしますので、天国について考えてみたいと思います。
1. 天国は神様が共におられるところです(21:3)
ヨハネは新しい天と地である天国の幻を見ました。今、地上にいる私たちは神様を見ることはできませんが、天国では私たちは王なる神様の民となり、神様が私たちと一緒に住まわれるのです。
天国は真の神様がおられる所です。天国は「第三の天」あるいは「パラダイス」と呼ばれます。パウロは生きたままで「第三の天」に引き上げられたと記録しています。(Ⅱコリント12:1~4)「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。 12:3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
パウロは謙遜に自分のことを「キリストにある一人の人」として紹介しています。パウロは実際に天国を経験したわけですから、天国は実際にあるということです。天国は実際に存在しているわけです。天国があるということは地獄もあるということです。天国はある、それでは探しに行きましょう、地図を持って来てください、地球の裏側かもしれません・・・などと言える所に、天国があるわけではありません。天国は地図の中では捜すことができません。グーグルマップにも載っていません。なぜなら、天国は私たちの知っている時間や空間を超えた所にあるからです。それは多次元の世界です。「どこどこにある」と言えるものではありません。天国は神の住まい、神が共におられる所です。聖書は「神は私たちと常に一緒におられる。遠くにおられるのではない。」と言っています。そして「神に近づきなさい。」と言われています。神は近くにおられるのです。と言うことは天国も近くにあるともいえます。私たちの国籍は天にあるのです。神が住んでおられる所に、私たちの国籍もあります。何いう不思議なことでしょうか。聖書は天国がどこにあるかは言っていません。その代わりに、天国に、どうしたら入れるかということを教えています。
天国にはイエス・キリストを自分の救い主として信じるならば、入ることができます。また、今日のところは、天国はどんなところかを教えています。これは使徒ヨハネが見た幻を通して、私たちに与えられた啓示です。やがて、この幻が地上に成就する日がやってくるのです。
2.天国では、すべての痛みや悪が取り去られます。(21:4~5)
ヨハネは幻を見ました。新しい天と新しい地が天から下ってきたのです。そしてその時のことを記録して、私たちに残してくれました。天国では私たちは神の民になり、神様が私たちと一緒に住んでくださるのです。
神様は私たちの痛みや悲しみを知っておられ、慰め主として私たちの目の涙をまったくぬぐいとって下さいます。天国ではもはや死もなく、悲しみも、叫びも、苦しみもありません。なぜなら古いものは過ぎ去り、全てが新しくなるからです。神の御座についておられるイエス・キリストが、「見よ。わたしはすべてを新しくする。」と言われました。天国では二度と死ぬことはなく、永遠に生きることができ、神とともに住むことができるのです。神は愛です。愛のある所には喜びがあります。ですから、悲しみも、叫びも、苦しみもないのです。
黙示録の21章、22章にはヨハネが見た幻が、絵を見るかのようにはっきりと記録されています。天の都はどんなところだったのでしょう。
聖なる都が神のみもとを出て、天から下ってきた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石のようであった。都には城壁があり、12の門があり、それらの門にはみ使いがいた。イスラエルの12部族の名前が書いてあった。この都は宝石で作られており、門は真珠でできている。また都の大通りは透き通ったガラスのような純金だった。この都は神の栄光によって光り輝き、太陽も月の明かりもいらない。
(黙21:23)「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」
22章には、水晶のように光る命の水の川が流れていて、ヨハネはその幻を見ました。その川は神と子羊との御座から流れて、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、命の木があって、12種の実がなり、毎月、実ができました。その木の葉は諸国の民をいやすのです。イエス様はいわれました。この命の水の川から、飲みなさい。そうすれば、もう渇くことがないと。
(ヨハネ7:37~38)「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」この命の水は神の聖所から流れている聖霊の川です。
(黙示22:17)「渇く者は来なさい。命の水が欲しい者は、それをただで受けなさい。」と言われています。
天国はこのように素晴らしい所です。天国にはいりたいと思いませんか。聖書はどのようにして天国に入るのかを教えています。
(黙示21:27)「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」
3.天国には、子羊の命の書に名前が記されている人が入れます。(21:8,27)
小羊とはイエス様のことです。いのちの書に名前が記されている人とは、イエス様を信じている人のことです。イエス様を信じていのちの書に名前が記されている人は、天国に入ることができます。聖書はイエス・キリストの十字架と復活を信じるならば、永遠の命を得ると言っています。永遠の命があるので、天国に入ることができるのです。イエス様の救い(十字架と復活)を信じないで、罪や汚れを持ち続けている人は、天国に入れません。
(黙21:8)「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」地獄と言うのは神様と切り離された所です。神は愛ですから、神の愛と恵みのない所ですね。
どんなことをした人が天国に入れないで、火と硫黄との燃える池の中に入れられると思いますか?・・・・21:8 を読むと、「おくびょう者」が罪のリストの一番にきています。「おくびょう」ってどうして一番にあげられているのでしょう?・・・どうしておくびょうになってしまうのでしょう?・・・・神様を信じる時、おくびょうは小さくなり、神様を信じきれない時、おくびょうは大きくなります。神様の約束は力と愛と勇気です。パウロは言いました。(Ⅱテモテ1:7)「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」
実は神様を信じない、信じきれないってことが大きな罪なのです。イエス様を信じないで、ここに書いているような罪を犯し続けるときは、天国には入れません。しかし、イエス様を信じる時、すべての罪が赦されて、小羊のいのちの書に名前が記されて、天国に行けます。
4.結論:イエス・キリストを救い主と信じている人は、罪がゆるされて素晴らしい天国に入ることができます。
(ヨハネ3:16、17)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
子羊の命の書に名前が記されている人だけが神の都に出入りすることができるのです。神は、イエス・キリストを通して、私たちにすばらしい特権を与えてくださいました。感謝しましょう。また、この特権を、自分だけのものにするのはもったいないですね。他の人にも、この良いニュース、福音を知らせてあげましょう。