阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

希望の天国

2016-04-27 21:40:41 | Weblog

2016.4.24.希望の天国

聖書 黙示録21:1~5

題  希望の天国

暗唱聖句 Ⅱペテロ3:13

「 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

はじめに

イエス様を信じている私たちは、死んだらどこへ行くのでしょうか?ヨハネはパトモス島で、聖霊によって新しい天と地である天国の幻を見て、それを書き記しました。その書物がヨハネの黙示録です。イエス様を信じている人が行く天国って、いったいどんなところなのでしょうか?天国は神様が共におられる所です。故立岩兄は天国に行きました。天の故郷に帰って行ったのです。今日は、午後、彼の記念会をしますので、天国について考えてみたいと思います。

 1. 天国は神様が共におられるところです(21:3)

ヨハネは新しい天と地である天国の幻を見ました。今、地上にいる私たちは神様を見ることはできませんが、天国では私たちは王なる神様の民となり、神様が私たちと一緒に住まわれるのです。

 天国は真の神様がおられる所です。天国は「第三の天」あるいは「パラダイス」と呼ばれます。パウロは生きたままで「第三の天」に引き上げられたと記録しています。(Ⅱコリント12:1~4)「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。 12:3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」

パウロは謙遜に自分のことを「キリストにある一人の人」として紹介しています。パウロは実際に天国を経験したわけですから、天国は実際にあるということです。天国は実際に存在しているわけです。天国があるということは地獄もあるということです。天国はある、それでは探しに行きましょう、地図を持って来てください、地球の裏側かもしれません・・・などと言える所に、天国があるわけではありません。天国は地図の中では捜すことができません。グーグルマップにも載っていません。なぜなら、天国は私たちの知っている時間や空間を超えた所にあるからです。それは多次元の世界です。「どこどこにある」と言えるものではありません。天国は神の住まい、神が共におられる所です。聖書は「神は私たちと常に一緒におられる。遠くにおられるのではない。」と言っています。そして「神に近づきなさい。」と言われています。神は近くにおられるのです。と言うことは天国も近くにあるともいえます。私たちの国籍は天にあるのです。神が住んでおられる所に、私たちの国籍もあります。何いう不思議なことでしょうか。聖書は天国がどこにあるかは言っていません。その代わりに、天国に、どうしたら入れるかということを教えています。

天国にはイエス・キリストを自分の救い主として信じるならば、入ることができます。また、今日のところは、天国はどんなところかを教えています。これは使徒ヨハネが見た幻を通して、私たちに与えられた啓示です。やがて、この幻が地上に成就する日がやってくるのです。

2.天国では、すべての痛みや悪が取り去られます。(21:4~5)

 ヨハネは幻を見ました。新しい天と新しい地が天から下ってきたのです。そしてその時のことを記録して、私たちに残してくれました。天国では私たちは神の民になり、神様が私たちと一緒に住んでくださるのです。

 神様は私たちの痛みや悲しみを知っておられ、慰め主として私たちの目の涙をまったくぬぐいとって下さいます。天国ではもはや死もなく、悲しみも、叫びも、苦しみもありません。なぜなら古いものは過ぎ去り、全てが新しくなるからです。神の御座についておられるイエス・キリストが、「見よ。わたしはすべてを新しくする。」と言われました。天国では二度と死ぬことはなく、永遠に生きることができ、神とともに住むことができるのです。神は愛です。愛のある所には喜びがあります。ですから、悲しみも、叫びも、苦しみもないのです。

黙示録の21章、22章にはヨハネが見た幻が、絵を見るかのようにはっきりと記録されています。天の都はどんなところだったのでしょう。

 聖なる都が神のみもとを出て、天から下ってきた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石のようであった。都には城壁があり、12の門があり、それらの門にはみ使いがいた。イスラエルの12部族の名前が書いてあった。この都は宝石で作られており、門は真珠でできている。また都の大通りは透き通ったガラスのような純金だった。この都は神の栄光によって光り輝き、太陽も月の明かりもいらない。

(黙21:23)「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」

22章には、水晶のように光る命の水の川が流れていて、ヨハネはその幻を見ました。その川は神と子羊との御座から流れて、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、命の木があって、12種の実がなり、毎月、実ができました。その木の葉は諸国の民をいやすのです。イエス様はいわれました。この命の水の川から、飲みなさい。そうすれば、もう渇くことがないと。

(ヨハネ7:37~38)「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」この命の水は神の聖所から流れている聖霊の川です。

(黙示22:17)「渇く者は来なさい。命の水が欲しい者は、それをただで受けなさい。」と言われています。

 天国はこのように素晴らしい所です。天国にはいりたいと思いませんか。聖書はどのようにして天国に入るのかを教えています。

(黙示21:27)「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」

3.天国には、子羊の命の書に名前が記されている人が入れます。(21:8,27)

小羊とはイエス様のことです。いのちの書に名前が記されている人とは、イエス様を信じている人のことです。イエス様を信じていのちの書に名前が記されている人は、天国に入ることができます。聖書はイエス・キリストの十字架と復活を信じるならば、永遠の命を得ると言っています。永遠の命があるので、天国に入ることができるのです。イエス様の救い(十字架と復活)を信じないで、罪や汚れを持ち続けている人は、天国に入れません。

(黙21:8)「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」地獄と言うのは神様と切り離された所です。神は愛ですから、神の愛と恵みのない所ですね。

 どんなことをした人が天国に入れないで、火と硫黄との燃える池の中に入れられると思いますか?・・・・21:8 を読むと、「おくびょう者」が罪のリストの一番にきています。「おくびょう」ってどうして一番にあげられているのでしょう?・・・どうしておくびょうになってしまうのでしょう?・・・・神様を信じる時、おくびょうは小さくなり、神様を信じきれない時、おくびょうは大きくなります。神様の約束は力と愛と勇気です。パウロは言いました。(Ⅱテモテ1:7)「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」

実は神様を信じない、信じきれないってことが大きな罪なのです。イエス様を信じないで、ここに書いているような罪を犯し続けるときは、天国には入れません。しかし、イエス様を信じる時、すべての罪が赦されて、小羊のいのちの書に名前が記されて、天国に行けます。

4.結論:イエス・キリストを救い主と信じている人は、罪がゆるされて素晴らしい天国に入ることができます。

(ヨハネ3:16、17)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 子羊の命の書に名前が記されている人だけが神の都に出入りすることができるのです。神は、イエス・キリストを通して、私たちにすばらしい特権を与えてくださいました。感謝しましょう。また、この特権を、自分だけのものにするのはもったいないですね。他の人にも、この良いニュース、福音を知らせてあげましょう。


聖霊に満たされたステパノ

2016-04-20 17:03:57 | Weblog

2016.4.17.聖霊に満たされたステパノ

聖書 使徒6:8~15,7:54~60

題  聖霊に満たされたステパノ

暗唱聖句

(エペソ4:32)

「 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 はじめに

 熊本地方は大きな地震があり、41人亡くなった方々があるそうです。もっと出てくるかもしれません。本当にお気の毒だと思います。神様の守りと慰め、励ましがあり、この大きな試練を乗り越える力を与えてくださいますようにお祈り致します。後で、地震関係の報告をし、しばらくお祈りの時間を持ちたいと思っています。

 今日はステパノが殉教する時、普通だったら、赦すことのできない人々の事を神に「赦してあげてください。」と願って死んで行った時のことです。

私たちの中に、「あのことだけは、赦せない」ことってありますよね。「あやまったら赦してあげよう」と思うこともありますね。でも、赦せない心を持ったままだと苦しいですね。どうしたら人を赦すことができるのでしょうか?聖霊はその力を与えてくださいます。 

1. ステパノは、聖霊に満たされた人でした(使徒6:3、5)

 イエス様は「聖霊のバプテスマ」を受けなさいと言って、天に昇って行かれました。そのあと、弟子たちは二階座敷に集まって祈り始めました。10日後、突然、天から聖霊が下ってこられました。 弟子たちは聖霊に満たされ、大胆に証を始めました。そして、エルサレムに3000人の教会ができたのです。この教会は家々に分散して、家庭集会を守っていました。

 教会が誕生して、しばらくしてから、問題が起こりました。それは、ギリシャ語を話すユダヤ人たちが、ヘブル語を話すユダヤ人たちに対して、「自分たちのやもめに対して、食料の分け前が十分に与えられていない。おざなりにされている。」と苦情を言いだしたからです。12使徒たちはその問題を解決するために、信徒の中からリーダーたちを選ぶことにしました。

12 使徒を助ける働きをするために、信徒の中から7 人が選ばれました。リーダーを助ける人ってどんな人が良いと思いますか?たくさんいる信徒の中で、その7 人を選ぶ基準として、御霊と知恵に満ちた人、そしてみんなからの評判が良い人、しっかりとした信仰を持っている人が選ばれました。その中にステパノと呼ばれる人がいました。ステパノは素晴らしい人でした。

(使徒6:8)「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」彼は語る時はいつも神の知恵と御霊によって語っていましたので、誰も対抗することができませんでした。

2. ステパノは、御使いのような顔をしていました(6:10-15)

ステパノは聖霊によってイエス様のことを人々に語りました。しかし人々は、ステパノを襲い、議会に引っ張ってきました。人々は偽りの証人を立てて、ステパノが言ってもいないことを言ったと話し出したのです。そこにいた人々はステパノのことを悪く言うので、きっとステパノは怒ったり悲しんだりしているだろうと思って、ステパノの方を見つめました。しかし、なんと、人々がステパノの顔を見ると、まるで御使いの顔のようにおだやかな聖なる顔をしていたのです。

自分のことを悪く言われることは、とっても嫌なことだと思います。しかもみんなの前で偽りの証人が立てられ、嘘までつかれています。それでもステパノは、おだやかに、自分の語る番を待ちながら、全てを神様にゆだねていました。そこにいる人々が驚くほど穏やかな様子でした。そして、自分の番が来た時、聖書のメッセージを堂々と解き明かしました。

3. ステパノは、人々を赦しながら殉教しました(7:54-60)

ステパノは人々に聖書のメッセージを語りましたが、それを聞いていた人々は自分のことを悪く言われたように思い、はらわたが煮えくりかえるぐらいに怒りました。しかし聖霊に満たされたステパノは、天におられるイエス様を信仰によって見つめました。そして、「イエス様は神の右に立っておられます」と言いました。それを聞いた人々は、大声で叫びながらステパノに殺到し、町の外に追い出して石を投げ始めました。人々はステパノを石打ちの刑にしたのです。

無実なのに石打ちの刑にあいながら、それでもステパノは「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。石を投げつけている人々の罪の赦しを祈りながら、殉教していきました。

殉教というのは、イエス様を信じる信仰のゆえに命を失ったとみなされる死のことです。最近のニュースでは、シリアでISISに占領されていたアル・カラティンの町(ダマスカスから北へ100キロ)がシリア軍によって奪回されました。町には300人のシリア正教のキリスト教徒が取り残されていましたが、そのうち21人が、イスラムへの改宗を拒否して虐殺されたと司祭が証言しました。

 ステパノの祈りの言葉は、イエス様が十字架の上で祈られた祈りに通じています。「主イエスよ。私の霊をお受けください(7:59)」は、「父よ、わが霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。(7:60)」は、「父よ、彼らをおゆるしください(ルカ23:34)。」

イエス様を信じて聖霊に満たされている人は、キリストの心を心とする事ができるのです。キリストに似る者とならせていただけるのです。「赦す」ということは、聖霊の力を受けなければ難しいものです。しかし、聖霊の力に満たされるなら、不思議とできるようになるのです。

4.結論  聖霊に満たされる時、人々を赦す力が与えられます。

ステパノが素晴らしい人だから、自分のことを悪く言う人々を赦せたのではありません。聖霊がステパノに罪の赦しを祈る力を与えていたのです。「いや私にはあのことはゆるせない」と思うことがあるかもしれません。そのことこそ、人間の力ではなく、聖霊の力が必要なところです。聖霊は、人々を赦すというイエス様の心を与えてくれます。

 私は長い間赦せない人がいました。従兄弟です。多分5~6歳の時のことです。私たちは川へ3人か4人で遊びに行きました。川の縁にススキの草が繁っており、その間に花が咲いていました。それを従兄弟が欲しいと言って、身を乗り出したのです。でも下は川淵、「危ない」と引き止めたのですが、構わず、身を乗り出して、川に落ちたのです。幸いにして、近くにいた叔母が助けてくれ、命には別状はありませんでした。しかし、私と兄は、おじいさん、おばあさんにとても怒られ、せっかんされたようです。怒られたのは覚えていないのですが、理不尽な仕打ちで悔しさと心の傷が残ったのです。長い間、忘れていたのですが40歳ぐらいから、このことが思い出されて、それから苦しむようになりました。赦せない苦しみです。この事を思い出しながら「○○ちゃんを赦します。」と何度も何度も宣言しながら祈りました。すると何年か、過ぎた頃、自然と忘れ、赦すことができていました。赦すことができると、その縛りから解放され、自由になります。赦したり、赦されたりするとその問題から解放され、忘れるようになります。忘れることは素晴らしいことです。神様も「私はそむきの罪をもはや覚えていない。思い出しもしない。」と宣言されています。これは私の力ではありません。聖霊の力です。

私の母教会の牧師は怒るので有名でした。しかし、良い所もありました。夜には怒った人を赦すことにしていたそうです。翌日まで怒りを持ち越さないことをモットーにしていたと牧師夫人が語っておられました。

 5.適用

悪口を言われたら、言い返したくなります。意地悪をされたら、仕返しをしたくなります。「相手があやまったらゆるしてやろう」と思います。でも、相手があやまらなかったとしても、その人を赦す力を聖霊は与えてくれるのです。もちろん間違っていることは間違っていると言うことは必要です。でも、赦すことも忘れてはいけません。イエス様も私たちが悔い改める前に、罪を赦してくれました。愛するよりも先に愛してくれました。そんなイエス様を見つめながら、聖霊によって赦す力を頂きましょう。今、「あのことだけは赦せない」と思っていることを、十字架のイエス様を思いながら一緒に祈りましょう。聖霊なる神様は、赦す力を与えてくれます。

赦す力をいただく前に、自分の心の傷をいやしてくださるようにお祈りしましょう。他の人に意地悪された辛い経験を十字架の力によって癒してくださるようにお祈りしましょう。その後で、赦す力を与えてくださるようにお祈りしましょう。

それから、夫婦の関係は親しいので、つい喧嘩してしまいます。喧嘩して長い間、口を利かないようにしたら、家の中が暗くなります。喧嘩したら赦すことを忘れないようにしましょう。

愛することは赦すことです。イエス様が十字架の上でその見本を見せてくださいました。自分の力ではなく、聖霊の力によって、神の恵みによって、敵を赦すことができるようにお祈りしていきましょう。

(エペソ4:32)

「 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 


イエス様はどこに?

2016-04-12 22:24:29 | Weblog

2016.4.10.イエス様はどこに?

聖書 使徒1:3~11

題  イエス様はどこに?

 暗唱聖句 使徒1:11(抜粋)

 あなたがたを離れて天にあげられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。

 はじめに

素晴らしい生き方をした人は、立派なお墓があります。でもイエス様にはお墓がないのです。墓跡はエルサレムに2つ残っています。一つは聖墳墓教会の中にあり、もう一つは「園の墓」として公開されています。しかし、お墓はありません。どうしてだと思いますか?それは復活されたからです。園の墓の入り口には「彼はここにはおられません。」と書いてあります。

 1. 復活されたイエス様は、弟子たちにお会いになりました(1:3)

イエス様の復活は、伝説や作り話しではありません。40日間という具体的な期間、最初はイエス様の復活を信じられなかった弟子たちに現れ、甦ったこと、生きていることを数々の証拠によってお示しになられたのです。

①  ルカ24:13~43

主が復活された日、二人の弟子たちはエルサレムからエマオという村に下って行きました。その途中で、ある男の人が近づき、一緒に歩いてくださいました。そして、「何を話しているのか」と聞いてくださったのです。弟子たちは、十字架の事件や女の人たちが「3日目の今朝、主は復活された」と言った事などを話しだし、信じられないと言いました。すると、その人は聖書の話をして、イエス様の事がわかるように説明をしてくれました。そして、その夜、一緒に夕食を取る時、パンを裂かれたのです。その時、2人の霊の目が開かれて、その人が復活されたイエス様だとわかりました。びっくりしました。二人は急いで、エルサレムに戻ってその話をしました。自分たちも、イエス様に会ったのだと言ったのです。そうこうしているうちにイエス様が彼らの真ん中に現われて立ってくださいました。手も足も肉体もあったので、焼いた魚を一切れ、召しあがられました。

②  (ヨハネ21:1-14)

 弟子たちは故郷のガリラヤに帰って来て、元の仕事であった漁師の働きをしていました。ある日の夜、一生懸命働きましたが、何もとれませんでした。そこへ、復活されたイエス様が言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろしました。

イエス様の言うとおりに舟の右側に網をおろすと153 匹のおびただしい魚が獲れました。

そして、弟子たちは復活されたイエス様と朝の食事をしたのです。食事の準備をしてくださったのはイエス様でした。

③  パウロの告白:(Ⅰコリント15:3~8)

パウロにとって最も大切なことは、キリストの十字架の死と葬り、そして3日目のよみがえりでした。「ペテロに現われ、12弟子たちに現われ、その500人以上の人たちに同時に現われました。その中の大多数は今も生きていますが、すでに眠った者もいます。」とパウロは書いています。そして、何よりも大切なことはパウロ自身にも現われてくださったということです。彼は神の教会を迫害した人でしたから、イエスの敵になる人でした。しかし、その彼に現われてくださり、彼の罪をゆるし、パウロを大使徒として用いてくださったのです。新約聖書は復活の主に出会った人たちの証言なのです。

 蘇生と復活は違います。イエス様によって、「死人の生き返り」を体験したラザロも、癒された後、やがて死にました。これは蘇生と言います。しかし、イエス様は神の子として、死人の初穂として、甦られ、今も生きておられます。永遠に生きる、これは復活です。

 イエス様が復活して、生きておられるので、私たちはイエス様によって救われています。そして、教会があるのです。教会があるということが、イエス様が生きておられる証拠です。もし、生きておられなかったら、教会は2000年前につぶれていたと思います。しかし、2000年前に起こった、イエス様の復活から、今日まで、教会の数は増え続けているのです。不思議ではありませんか。イエス様が生きておられる証拠です。

 アメリカインディアンのメル・ボンド先生は終りの時代になると、イエス様が自分を現わしてくださる、しばしば出現してくださるようになると証しておられます。弟子たちに自分を現わしたように、確かな存在感をもって、出会ってくださる、信じて祈ることだ、信じて期待することだと言われています。彼の著作である「イエスの出現」には、イエス様と出会った証がいくつも書いてあります。わくわくしながら読みました。

 その中の一つです。ある時、ケネス・へーゲン先生の集会に参加しました。多くの立派で有名な牧師たちが1500人以上集まっている集会でした。その時、へーゲン先生は「目と目があった人に油注ぎを祈ってもらいなさい。」と言われたそうです。自分が見渡した時、部屋の後ろの方にいた守衛さんのような格好の人と目が合いました。彼はこんな人には祈ってもらいたくないと思いました。立派な牧師に祈ってほしいと思ったのです。でも、誰も彼に目を留める人はいませんでした。仕方なく、彼はその守衛風の男の人に祈ってもらいました。彼は静かな声で祈っていたので、何と祈ったのかはわかりませんでした。しかし、祈り始めると、電気ショックの時のような力が流れてきて、足が床から10センチぐらい上がってしまいました。こんなに油注ぎをもらったことはありませんでした。なぜか、顔を見ないまま別れて3~4歩、歩いたところで、後ろを振り向いたら、その人はいませんでした。広い会堂ですから、いくら走ってもいなくなることはできません。メル・ボンド先生は、今の人はイエス様だったと気がつきました。自分は牧師以上の人に油注ぎを祈ってもらったのだという確信がやってきました。それからミニストリーが変わりました。癒しや奇跡、救いが多く起こされるようになったのです。

2.イエス様は弟子たちに約束されました(1:4-8)

 イエス様はやがて天に昇られるのですが、私たちを一人ぼっちにはされませんでした。もう一人の助け主である聖霊を送るという約束をされました。私たちが聖霊の力(聖霊のバプテスマ)を受けることを約束されたのです。聖霊の力を受けると、イエス様が甦ったこと、今も生きておられることを人々に証しする証人になることができます。

イエス様は私たちが聖霊の力を受けるという約束をされました。聖霊なる神様は、私たちの目には見えませんが、イエス様を信じる人の心に住んで下さり、力を与えてくれます。だから私たちは「イエス様がどこかに行ってしまった」とか「目に見えないから生きていないんじゃないか」と思う必要はありません。聖霊の力を受けることができるのです。人間の約束は、守られないこともありますが、イエス様の約束、父なる神様の約束は、必ず実現します。

「聖霊の力」の「力」は、「デュナミス」という言葉が使われ、ダイナマイトの語源となった言葉です。しかし、ここでは、破壊的な力という意味ではありません。長血の女性がイエス様の衣に触った時にイエス様から出た力(ルカ8:46)、救いを得させる神の力(ロマ1:16)も同じ言葉が用いられており、人を癒し、建て上げ、救う、大きな力です。

3. イエス様は、天に昇っていかれました(1:9-11)

イエス様は弟子たちに約束をされた後、みんなの見ている前で天に上げられ、雲に包まれて見えなくなってしまいました。しばらく天を見上げていた弟子たちのそばに、白い衣を着た人が2人立っていました。そして「もう一度、今見たような様子で、イエス様はおいでになられます」と言いました。

天とは、空の上のどこか、宇宙のどこかということではなく、父なる神様のおられるところのことです。イエス様は何となくどこかに行かれたのではなく、父なる神様のそばにおられるのです。

(ローマ8:34)「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

そしてイエス様は天に昇って行かれてそのままずっと天におられるのではなく、もう一度天からおいでになります。

再臨される場所を総合的にみると、聖書の中にはボツラ(イザヤ34:6,63:1、エレミヤ49:13~14、その他)と言う場所に現われ、その後オリーブ山に立たれる(ゼカリヤ14:4)となっています。ボツラはヨルダンのペトラのことです。

4.結論  イエス様は、確かに甦られ、天に昇られ、もう一度お出でになります。

イエス様の復活は作り話しではなく真実です。またイエス様は、どこか遠いところに行ってしまわれたのではなく、天に昇られました。地上にいる私たちには聖霊の力が与えられました。やがてもう一度イエス様はこの地上に戻って来られるのです。このことを再臨と言います。2000年前、ベツレヘムにお生まれになったときのことをキリストの初臨と言います。今の時代、私たちは、キリストの再臨を待ち望んでいる状態なのです。その再臨の時、私たちもイエス様と同じ栄光の身体によみがえるのです。そして、イエス様とともに神の国で永遠に生きることができるのです。これは私たちの希望です。

5.適用

①イエス様が今も生きておられることを信じていますか?

イエス様は死んでいなくなった神様ではなく、今も生きておられることを感謝しましょう。

②イエス様が今も生きておられることを信じられない人がいたら、一緒にお祈りをしましょう。

イエス様は弟子たちに一番分かりやすい方法で、イエス様が甦ったこと、生きておられることを示されました。信じられない人は、「イエス様が生きておられることを、私にもわかるように体験させて下さい」と一緒に祈ろう。約束の聖霊が働いて、きっとイエス様を体験することができます。 

③  聖霊の力を頂こう。

イエス様が生きているおられることを体験した人は、そのことを家族や友だちにお話ししましょう。そのための勇気や力を聖霊なる神様が与えてくださいます。


大宣教命令に従う

2016-04-05 22:21:13 | Weblog

2016.4.2.大宣教命令に従う

聖書 マタイ28:5~10、16~20

題  大宣教命令に従う

暗唱聖句:マタイ28:19

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

 はじめに

先週はイースター、復活祭で、イエス様がよみがえられたメッセージでした。今週はよみがえられたイエス様が与えられた宣教命令です。私たちはこの宣教命令に従ったイエス様の弟子たちの宣教によって、救われました。私たちもこの宣教命令に従う弟子になりましょう。

 1. イエスさまは、弟子たちにお会いになりました(28:1~10、16~17)

イエスさまが、十字架にかかられてから3日目の朝、マグダラのマリヤたちは、イエスさまのお墓を見に行きました。すると主のみ使いが現れて言いました。「恐れてはいけません。イエスさまは、もうここにはおられません。よみがえられたからです。」イエスさまは、復活なさったのです! 主のみ使いは、続けて女の人たちに言いました。「急いで行って、弟子たちに、イエスさまが復活されたことを知らせなさい。そして、ガリラヤでお会いできるということを、伝えなさい。」女の人たちは、びっくりしましたが、大喜びで、急いで弟子たちに知らせに走って行きました。

その道の途中、今度は、イエスさまご自身が、彼女たちに現れてくださいました。彼女たちは近寄って、イエスさまの足に抱きついて、礼拝しました。女の人たちから、それを聞いた11人の弟子たちは、エルサレムからガリラヤに移動しました。

 ガリラヤに移動した理由:①イエス様の命令、②エルサレムは弟子たちにとっては危険な場所だった。祭司長たちが兵士たちに多額のお金を与えて、イエスの弟子たちが遺体を盗んだという噂を流すようにしたので、この疑いで捕らえられ、処刑される可能性も出てきていました。③ガリラヤは弟子たちの故郷でした。かって、弟子たちはガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤは弟子たちの生活の場であり、宣教活動の拠点でした。イエスは彼らの生活の原点、また宣教の召しの原点である所に弟子たちを集められたのです。試練に遭い、人生に迷う時、出発の原点に立つ事が大切です。弟子たちはイエス様に従う決心をした場所に立って考えることになりました。そこで復活の主に出会い、再出発をすることになるのです。私たちも信仰の原点に立って、十字架と復活を黙想しましょう。そこから、もう一度、救いの恵みを想い巡らし、考えましょう。救いの恵みを一つ、一つ、数えてみましょう。

 弟子たちはイエスさまの指示された山に登って、イエスさまを待ちました。すると、イエスさまが、弟子たちに現れてくださいました。弟子たちは、イエスさまを礼拝しました。

 2.イエスさまは、「弟子としなさい」という大切な命令を与えてくださいました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:18~20)」

「わたし(イエスさま)こそ、本当の神です。だから、すべての者はわたしに従うべきです。

ですから、地上のすべての者が、みことばに従って生きる弟子になるようにしなさい。

*弟子としなさい。(一番大事な動詞)

弟子のなすべきこと

①.世界中のだれもが、わたしの福音をきくように、行って伝えなさい。(行く)

②.そして、福音を信じるように、導きなさい。(バプテスマを授ける)

③.また、わたしがあなたがたに教えたすべてのことを、しっかりと守って生きるように教えなさい。(教える)」

(インマヌエルの主の約束)わたしは生きていて、あなたがたがこの命令を成し遂げることができるように、いつもともにいて助けます」

 聖書の神は「わたしはいつもあなたとともにいる」と言う約束を守り続けています。アブラハムの時代から、今日に至るまで、一貫した忠実さで守られています。イエス様は「見よ。私は世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束されました。永遠の約束です。

 3.結論:復活されたイエスさまは、大宣教命令を与えてくださいました。

ですから、私たちもイエス様の命令に従いましょう。

①  大宣教命令に従う。

イエスさまは、復活し、今も生きておられます。過去のお方ではありません。今もリアルに生きておられるのです。そして、イエス様は権威を持っておられます。ですから、イエスさまの権威に、すべての者が従わなければなりません。イエスさまのことを伝えましょう。そして、この命令を成し遂げるために、復活のイエスさまが、私たちとともにいてくださるのです。イエスさまの「権威」と「聖霊の助け」によって、宣教が拡大されました。ですから、世界中に教会があるのです。イエス様が真理の方だからこそ、あなたにも福音が届いたのです。あなたも、この命令に従って、イエスさまの弟子となりましょう。そして、世界の人々を弟子とする働きに参加しましょう。イエスさまが、ともにいて助けてくださるから大丈夫です!

 ②「弟子としなさい」の命令を守るために、まず自分がイエス様の弟子になりましょう!

 次の3つのことができるように、自分自身を訓練しましょう。また、教会全体で、この弟子訓練をして行きたいと思っています。

(a).「行って」 積極的に、たくさんの人と友だちになって、イエスさまのことを伝えるきっかけや関係をつくることです。イエスさまの弟子を増やすには、たくさんの人と出会い、イエスさまのことを伝えるチャンスをつくる必要があります。人を愛せるように、人間関係作りができるように、なりましょう。たくさんの友人の中から、良くお祈りをして、神様によって示された人に福音を伝えましょう。一年に、2人に福音を伝え、その人たちが洗礼を受け、成長するまで導くと、教会はやがて、大きな実を結ぶようになります。救いの業は神様がなされます。私たちは神様と人々の間を取り持つ祭司の役割をします。勇気を出して、出て行って、福音を伝えましょう。家で閉じこもらない。教会にも閉じこもらいようにしましょう。

(b).「バプテスマを授け」聖書から福音をしっかりと説明して、イエスさまを信じるように導くことです。よく聖書を学び、暗唱聖句をしましょう。

(c).「教える」 信じただけでなく、みことばに従って生きる人になるように、よく教えることです。教えるというのは、口頭で教えるだけでなく、自分がお手本を見せ、しっかり訓練する必要があります。まず自分が、イエスさまを愛して、みことばに従う信仰生活を送りましょう。

 

(d).復活を信じましょう!

 イエスさまは、本当によみがえりました。もし、イエスさまが、十字架で死んでくださっただけなら、私たちは、依然として、罪の支配の下にいると言われてしまうかもしれません。死は、罪の結果だからです。しかし、イエスさまは、死に打ち勝ったのです。死を打ち破ったということは、罪の支配を完全に打ち破ったということです。ですから、私たちの罪は本当に赦され、罪から解放されているのです。赦された恵みがすでに福音です。この恵みはイエス様だけから来る恵みです。赦されるとすべての縛りから解放され、次に進むことができます。後ろの物を打ち砕き、降り捨て、前に向かって、進んで行くことができるのです。これが永遠の命の中に入れられた自由です。イエスさまだけが、私たちに、本当の永遠の命を与えることができます。

 証: 渡辺兄(名寄聖書キリスト教会員)

 渡辺さんは、今、77歳です。昭和32年(1957年)に札幌神召キリスト教会で、友人に導かれて、信仰を持ちました。そして18歳(59年前)で洗礼を受けました。

渡辺さんの内に生きているみ言葉は「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16:15)です。これはイエス様を信じた時からずっと生きて働いているみ言葉です。その理由は、教会や祈祷会、聖会などで、聞いたからです。「あなたがたが救われたのは素晴らしい恵みです。しかし、神様が私たちクリスチャンに対して一番喜んでおられることは、クリスチャンが神の言葉をまだ聞いていない多くの人々にのべ伝えることである。」ということです。福音の種を蒔くことが、神さまに一番喜ばれる事だと教えられました。のべ伝える者がいなければ、神様の救いがなされません。私(渡辺さん)が救われたのは友人を通して、福音が伝えられたからです。

北海道教区ができた頃の聖会は、札幌、岩見沢、紋別の3つの教会で、信徒たちも含めて30人ほどでした。8畳間2つの部屋に集まって、そこで祈りました。また聖会が終わるとすぐそこが食堂に変わったり、宿泊場に代わったりしました。牧師も信徒もいっしょに雑魚寝をしました。2泊3日の聖会で寝食を共にして、祈りました。そして、北海道の開拓のために祈り続けようと、聖霊に満たされ、御霊に押し出されて、それぞれの教会に帰るのでした。

 神様はその祈りに答えてくださり、今日、素晴らしい教会が北海道に13も与えられました(アッセンブリー教団の教会)。心から感謝いたします。

 しかし、まだまだ、福音を知らない人々が、私たちの周囲にたくさんおられます。地域の状況が変化しようとも、これからも聖霊様に導かれ、福音を携えて出かけたいと思います。

「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。(ゼカリヤ4:6)

            (渡辺さんの証:アッセンブリー誌4月号より転載させていただきました。)