阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

良き羊飼いである救い主の誕生

2017-12-26 19:16:15 | Weblog

2017.12.24.良き羊飼いである救い主の誕生

聖書 ルカ2:1~21、詩篇23:1~6

題  良き羊飼いである救い主の誕生

暗唱聖句

(ルカ2:11)「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

 

はじめに

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは世界で一番喜びにあふれた祝日だと思います。なぜなら、神さまがこの世に人間として来てくださった日だからです。しかも、人間の赤ちゃんと同じように、親によってお世話されなければならない赤ちゃんとして生れてくださったのです。赤ちゃんは一人では生きることができません。親に守られ、人々に愛され、また、人間としての成長段階で、いろいろな教育を受けなければなりません。

誕生はその第一歩です。人間は一人で生れて一人で死んで行かなければなりません。イエスさまもその第一歩に歩み始められたのです。神様が人になるというのは永遠に生きておられる神が、死を経験する世界に入られたということです。それは私たちに永遠の命を与えるための第一歩でした。この赤ちゃんは神の命、そのものでした。

イエス・キリストの誕生は2000年前、中東のイスラエルのベツレヘムというところで起こりました。それは誰もわからない家畜小屋で起こりました。ところが、今では世界で最も有名なお誕生日なのです。ヨセフとマリヤはイエス様のご両親です。

 

1.羊飼いへの良き知らせ

ヨセフとマリヤはナザレの町から、数日をかけて、ベツレヘムの町へやってきました。ヨセフとマリヤは、イスラエルの王であったダビデ家の子孫でした。王ダビデの出身はベツレヘムです。そこで、この町に帰って来て、住民登録をすることになりました。今で言う、戸籍調査ですね。イエス様はこのベツレヘムでお生まれになりました。それは紀元前8世紀の預言者ミカの預言が成就したからです。このように旧約聖書には救い主についての預言がたくさんあります。ファイヤーバイブルで調べてみると116の預言がキリストの誕生とその生涯の中で成就されていきました。

聖書はイエス・キリストが貧しい家畜小屋で生れたことを記録しています。神様の子どもが王宮ではなく、家畜小屋でお生まれになりました。それは、人目につかない地球の片隅での出来事でした。この片隅での出来事を天使たちは大喜びで、祝福し、賛美をしてお祝いしました。

そのお祝いの祝宴に招かれたのは、貧しい羊飼いたちでした。ベツレヘムにいた一握りの羊飼いたち、彼らは美しい天使の大軍勢を見、その歌声を聞いたのでした。それは天国にいるような出来事だったと思います。まさに天が地上に降りてきた出来事でした。

羊飼いたちは御使いが告げてくれた良い知らせを素直に信じたのです。み使いは言いました。(ルカ2:10~12)「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

羊飼いたちはこの嬉しい知らせを受けて、急いでベツレヘムに行きました。そして家畜小屋の飼葉桶に寝かされている赤ちゃんを見つけたのです。それは、それは、かわいい男の子でした。

(ヨハネ1:14)「 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「ことば」は神です。父のみもとの「父」も神のことです。この赤ちゃんは「めぐみと真に満ちていた」のです。それだけでなく神の栄光で輝いていました。羊飼いたちは御使いが教えてくれた通りだったので、神を見上げて、賛美しながら帰って行きました。羊飼いたちはとても喜びにあふれ、魂は満ち足りて帰りました。彼らは天国がこの地上に降りてきた瞬間に立ち会えたのです。

 

2.主は良き羊飼い

この幼子は八日目の割礼の日に「イエス」と名前がつけられました。「イエス」というのは「救う」という意味です。

御使いはこのイエス様のお生まれを、まず第一番に、野原で野宿をしている羊飼いたちに告げました。「なぜだろう」と思っていました。み使いたちは天使ですから、どこへでも行くことができます。王宮にも行けるのです。しかし、王宮ではヘロデ王がイエス様の命を狙っていました。また、町の人々はローマから救いだしてくれる政治的な王を求めていました。純粋に神を求めている人々が見つかりませんでした。一般庶民は、皆、自分のことで、忙しくしていました。このような姿は、今も昔もあまり変わらないと思います。

 

イスラエルの国にはたくさんの羊がいます。羊のいる所には羊飼いがいます。今でも砂漠の中に羊飼いたちが羊を連れて歩いている姿が、よく見られます。イスラエルは世界でもハイテク産業を誇る国ですが、一方裏山の荒野に目を移すと、羊飼いの群を見つけることができます。また、羊飼いたちの住んでいるテントもあるのです。そのギャップは信じられないほどです。聖書の中には、羊飼いと羊の話が、たくさん出てきます。ヤコブも羊飼いでした。その時の苦労は大変だったようです。ダビデ王も少年の頃、羊飼いでした。ベツレヘムの野原で羊を飼っていました。その彼が巨人であったゴリアテを倒し、その後出世して王になりました。このダビデ王は神を愛して、神を第一番にしていた祈り深い王でした。それゆえ、救い主はこの家系から生まれるという預言をいただいていました。ヨセフとマリヤはこのダビデ王の家系でした。

 

聖書は良い羊飼いと悪い羊飼いについて書いています。悪い羊飼いは羊の世話をしません。弱った羊の世話をせず、羊が病気になっても癒さず、傷ついていても包帯で包まず、迷い出た羊を探しに行こうともしない、かえって、暴力をふるうのです。しかし、良い羊飼いはこの反対です。(エゼキエル34:16)「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」神が良い羊飼いになられると約束しておられます。イエス様は良い羊飼いとして、人間の世界に来てくださいました。ですから、羊飼いたちにまずご自分の存在を現わされたのは、自然な成り行きだったのかもしれません。

 

3.良き羊飼いは、羊のために命を捨てる

イエス様は言われました。(ヨハネ10:11)「10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。

 10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

 10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」

イエス様は「わたしは良い牧者、良い羊飼いです。」と言っておられます。羊飼いは羊のことをよく見張り、良くお世話をします。そして。引き続き、こう言われました。「良い牧者は羊のために命を捨てます。」と。

イエス様はこのお言葉通り、良い羊飼いとして十字架の上で自分の命を犠牲にしてくださいました。それは人間が神に対して犯した不従順の罪を清算し、神の怒りを人間に代わって受けられたからです。それはイエス様が私たち人間に対して、なしてくださった愛の極みの出来事でした。これは悪いことをした子供が、たたかれているのを見て、「彼をたたかないで、私をたたいてください。」と進み出る母親のようなものです。母親が子供を救うために、自分の命を犠牲にするのと同じです。母親と違うところは罪人であり、イエス様と関係なく歩んでいた人にさえも、ご自分の愛を分け与えてくださるという事実です。「主よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないからです。」と十字架の上で叫ばれました。神に敵の赦しを請われたのです。

(1ヨハネ4:9~10)「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

4.イエスの命をいただく者に与えられる恵み

イエス様は33歳の時、人類の罪を背負って、十字架にかかって死んでくださいました。それは、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを取り戻すためでした。人間の世界に来て、「死」を経験されたイエス様は3日目によみがえって、今も生きておられます。イエス様は生きておられるので、永遠の命を私たちに与えてくださいます。私たちが、イエス様を信じる時、永遠の命が魂の中に注がれるのです。

(ヨハネ10:28)「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」

永遠の命をいただくと「たとい死んでも生きるのです。」という言葉が理解できますし、この希望によって人生まだまだという気持ちになります。永遠の命は私たちが滅び去るのを防ぎます。

イエス様を信じるとどんなことが起こるのか。

①    神の子にされます。当然、神の愛を受けます。神の子どもとしての相続権が与えられます。

②    永遠の命が与えられます。

③    神の国にはいることができます。国籍が天にできます。命の書に名前が記されます。

④    キリストの身丈まで、清められ、性格が変えられ、成長し続けます。

 

5.証

 最近、久しぶりに友人と電話でおしゃべりしました。彼女は私が救われた頃、まだ小学生でした。現在,人生の半ばを過ぎるくらいの年齢になった頃でしょうか。とても素晴らしいクリスチャンです。彼女は若い日に同じ教会の青年と結婚しました。その時、彼は教会の役員をしており,模範青年だったそうです。「良かったな」と思っていました。ところが10年ぐらい前からでしょうか、もっと前からかもしれません。彼はアル中になり、治療を受けなければなりませんでした。公務員でしたが、公務中に缶ビールを手放すことができなくなりました。断酒会などで、治療を受けることになったようですが、なかなか治りませんでした。彼の家族は彼を見放しました。唯一、見放すことなく、寄り添ったのは妻である友人だけでした。

 久しぶりに話したので、どうしているかなと思い、「働いているのでしょう?」と尋ねました。当然、彼は働いておらず、彼女が働いて、家計のやりくりをしていると思っていました。ところが、彼女は「いいえ、働いていないのです。」と言いました。私は、「彼が働いて養ってくれているの?」と聞きました。すると「そうなんです。信じられないでしょう。神様の憐れみです。」と言いました。さらに続けて、「仕事場も、彼を見捨てないで、彼のできる仕事を与えてくださいました。もう生きていなかったかもしれないのに、命があり、平和な家庭に戻ったのです。どん底の生活の時、『今が一番良い時だから、感謝しなさい。』と言われました。だから、その時を感謝して通り過ぎました。それで、辛かったというトラウマは無いのです。神様って、素晴らしいでしょう。私たちは神様に養われたのです。」私にとって、この言葉は素晴らしいクリスマスプレゼントでした。

(詩篇23:1)「 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」主は良い牧者です。一緒に歩いて、慰め、励まし、必要の一切を満たし続けてくださる方です。主は真に良い羊飼いです。

良い羊飼いは羊のために命を捨てる、イエス様は良い羊飼いとして生涯をまっとうされました。ベツレヘムで羊飼いたちにまず御子の誕生をお知らせになったのは「イエス様が良い羊飼いである。」事を強調するためだったのでしょうか。私は思いました。「『イエス様は良い羊飼い、神様も良い羊飼いです。だから、仲間である羊飼いに、まず誕生のお知らせをしましょう』とご計画されたのではないか?」と。

 (詩篇23:1~6)

「23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

 23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

 23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。」


救い主の誕生(1)

2017-12-20 21:09:44 | Weblog

017.12.17.救い主の誕生(1)

聖書 ルカ2:1~20

題  救い主の誕生(1)

暗唱聖句 ルカ2:11

「 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方ここの方こそ救い主キリストです。」

 

はじめに

今年もクリスマスの季節がやってきました。クリスマスは楽しいものです。しかし、人の人生には何が起きるかはわかりません。悲しみの中にあったり、病との戦いがあったりすることでしょう。ベツレヘムにお生まれになった主はそのような重荷を共に担(にな)ってくださいます。なぜなら、救い主の名前は「インマヌエル」、「神が共におられる。」という意味の名前だからです。私はインマヌエルの神と共に歩くことができたことをとても感謝しています。主があらゆるところで助けてくださったからです。この主に感謝をしながら、今日もメッセージを語らせていただきたいと思います。

 

1.若枝

私は今エレミヤ書を毎日少しずつ読んでいます。バタバタして読めない時もありますが、それはそれとして、時間があるとまた座って読み続けています。エレミヤは紀元前626~586年の人ですが、40年間南ユダ王国で預言活動をした預言者です。エレミヤの時代は指導者たちの中に悪がはびこり、貧しい人々が虐げられていました。とりわけ、偶像礼拝がひどく、神殿の中さえも偶像が満ちていたと言われています。それゆえ、神の怒りはひどく、もはや、エルサレムが滅亡するのを止めることはできない状態でした。また、偽預言者たちの言うことが重んじられ、エレミヤの真実な預言は軽んじられ、迫害され、エレミヤは命の危険と隣り合わせに生きていました。エルサレムはバビロン(現在のイラク方面の地域に勢力を持っていた民族)に滅ぼされる直前でした。エレミヤはイスラエルの民に「バビロンに降伏して、バビロンに行き、そこで、家を建てて住みつき、畑を耕して、その実を食べよ。結婚し、子供を産み、増やしなさい。そしてその町の繁栄を祈りなさい。その繁栄はあなたがたの繁栄になるのだから。」と勧めます。

この勧めは日本的に言うと、こうなります。「今に北朝鮮が進軍してきます。降伏して、北朝鮮に行きなさい。そこで、生き抜いて結婚し、子供を増やしなさい。間もなく東京は全滅します。日本に残っている人たちは伝染病やききんで死に、または剣で殺されます。」こんな預言をしたら、どうでしょう。皆から、憎まれますね。そのおかげで、偽預言者や王たちから迫害を受け続けます。このような状況の中で、もう、目の前に敵が来て、エルサレムが廃墟になる直前の頃、神はイスラエルの民に、希望の預言を語ってくださいます。

(エレミヤ23:5~6)「 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。

 23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。」

神はエレミヤを通して、希望を語られます。今はイスラエルの民をバビロンへ散らしてしまうが、時が来れば、再び、群を集める。元の牧場へ帰らせ、彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。2度と彼らは失われることはない。その後にエレミヤを通して、語っておられるのが、この若枝の預言です。

「【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。」この「若枝」という言葉がメシアを指します。聖書現代語訳では、この若枝を「救い主」と翻訳しています。「若枝」というのはヘブル語で「ネツェル」と言います。「ナザレ」の村の語源になっていると聞いたことがあります。旧約聖書にはナザレという地名が出てくることはありません。しかし、このネツェルと言う言葉がナザレを表しているというのはあたっているかもしれません。原語で読むと語幹は同じですから、ほとんど同じに聞こえます。この言葉にはもう一つ意味があります。それは「子孫」です。

ここでは「ダビデの家に正しい若枝を起こす」と言われるのです。この若枝(子孫)は王となる。その王の名は「主は私たちの正義」と呼ばれる。ダビデの家系はバビロン捕囚でほぼ全滅になりそうな状況の中で、この預言が語られています。暗闇の中で語られた一筋の光です。そして続いて語られるのが70年後のエルサレム帰還の希望です。エレミヤは「イスラエルの民は70年後には帰還して、再びエルサレムを建て直すことになる」ことを語りました。(エレミヤ29:10~14)

このエレミヤの預言が語られてから、600年後ぐらいに、この預言が成就することになったのです。「若枝(ネツェル)」はナザレ(ネァツェレト)の町の乙女マリアのお腹の中に宿ります。

(ルカ 1:26~32)「1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。1:30 すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。』」

み使いは「生れてくる子」に「イエス」という名前をつけるように指示しました。「イエス」の意味は「救う」という意味です。また、「生れるものは聖なる者、神の子と呼ばれます」とみ使いは言いました。

2.馬小屋の飼い葉おけ

マリヤには婚約者がいました。名前をヨセフと言いました。最初はマリヤを疑ったヨセフもみ使いのお告げに従って、マリヤを信頼することにしました。その頃、全世界の住民登録をするようにと皇帝から命令が出ました。マリヤとヨセフはダビデの家系で、血筋もつながっていました。それで、ガリラヤの町、ナザレから、ユダヤのベツレヘムに上って行くことになりました。身重のマリヤも登録するために一緒に行きました。ベツレヘムにいる間にマリヤは月が満ちて、男子の初子を出産しました。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせました。宿屋には彼らの居る場所が無かったからです。

 エレミヤの時代から600年後に起こったことです。メシアは貧しい馬小屋で生れ、飼葉おけに寝かされました。なぜ、豪華な王宮ではなかったのでしょうか。これは神の知恵によったことです。神である方が、身分の低い、人間になり、しかももっとも貧しいところでお生まれになった、それは神の愛と謙遜の限りを表したものでした。

確かにホテルは満員でした。陣痛が始まっていたとしたら、どんなにあわてたことでしょう。かといって、設備の無いホテルの客室で出産するということは、もっと無理なことです。やっぱり、馬小屋で、静かに、誰にも見られずに密かに出産できたことはマリヤさんに取って、良かったと思います。私は助産婦ですから、出産がどんなに大変であるかわかるのです。貧しい所であったとしても、神はマリヤの命とメシアの命を守ってくださいました。

ベツレヘムには石灰岩の岩をくりぬいて作った洞窟がたくさんあります。そういう所に羊や馬やロバを入れていたようです。夏場は外で飼育していたので、洞窟は片づけられ、倉庫になっていたようです。こぎれいに片づけてあれば、ホテルのほどではないとしても、まあまあ、快適な部屋だったと思われます。イエス様が生れた時はおそらく、真冬ではなく、秋のまだ温かい季節だったのではないかと言われています。なぜなら、羊飼いが野宿で夜番をしていることができました。羊はまだ外にいた季節です。

神の子である、男の子は飼葉おけに寝かされました。この飼い葉おけも日本の飼い葉おけとは違うのです。日本のものは木で丸く作られていますが、イスラエルの飼葉桶は石で四角く作られています。この飼い葉おけに干し草をいっぱい敷いて、ふかふかした藁のベッドに、赤ちゃんは寝かされたのでした。ただ少し違うことは「布にくるまって寝ておられる」、その布が普通の布ではありませんでした。それは、旅行中に死んだ人を包むためにおいてあった布だそうです。その布でくるんだそうです。これはやがてイエス様が人間の罪を赦す為に架られる十字架の死を暗示しているものでした。ここに、神の子が天から降りてきた目的がほのめかされているのです。

人目につかない出産であったのですが、御使いは宣言しました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。あなたがたは、布にくるまって、飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」すると、み使いと一緒に、多くの天の軍勢を現われて、賛美して言いました。「ルカ2:14)「『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」

今日、私たちの心にもイエス様が生れてくださいますように。また、みどりごのイエス様を抱きしめることができますように。

3.あかし

N.S先生の証をします。なぜこの証をするかと言いますと、主は時間を超えて働いてくださる方であり、その時間も遅らせることなく、先に進めることなく、タイミング良く働いてくださる事、それは永遠の世界まで続いていることを知っていただきたいからです。

S先生の一人息子は11月9日ぐらいに、30歳の若さで、突然、天国に召されました。心不全でした。その前にお父さんが脳こうそくで倒れ、病院に入院されていたそうです、しかし、良くなって、自宅療養をしておられました。そこへ、息子の死が飛び込んできました。そして、お父さんが再び倒れ、11月24日に入院になってしまわれたようです。

入院先のA病院では、特別な治療はせずに様子観察状態でした。でも、奥さんであるN先生は毎日弱って行く夫を見て、心配でたまりません。ある日、急に「頭の手術をする」という話を聞きました。主治医は若い医者です。ご主人は75歳です。不必要な手術はしたくありません。どうしたら良いか、悩みました。そして、私に電話がかかってきました。私たちは母教会の本渡教会が同じで、霊の姉妹にあたります。私が妹です。

N先生は名古屋のB病院に「神の手」と言われるほどの素晴らしい脳神経外科の先生がいるということを知りました。その先生に見て欲しいという希望を持っていました。Aの病院の先生はすぐにでも手術をしないといけないと言うだけで、もう一つ理由がわかりませんでした。そこで、私はBの病院に電話をかけて、どうしたら名医に診察してもらえるか聞きました。名医はC病院にいることがわかり、C病院の手続きに取りかかりました。すると診察の予約をした次の日にすぐ相談に来るように言われ、相談に行くと、すぐ患者を転院させる許可をくださいました。手続きは病院同士でしてくださり、患者は救急車で運ぶことになりました。おまけに道中は主治医がつきそってくださいました。そして、そして5日後ぐらいには、脳手術がなされたのです。7時間以上の長い難しい手術でした。「神の手」と言われる名医のK先生が「難しい手術だったけど、無事に終わりました。後は水頭症にならないように祈ってもらいなさい。」と言われたそうです。

このK先生はS先生の手術をする前はオーストラリアに行かれていたようです。手術が終わったらすぐベトナムに行かれたそうです。何というタイミングだったことでしょう。少し遅かったら、もうK先生と会うことはできませんでした。神様の時間の中にしっかり守られていることが肌でわかりました。その間、全国で祈られていたのです。この祈りが聞かれたのでした。息子さんの死に対しても、主が召されたのです。N先生は言っておられます。「あの子は天使だったんだ。だから、『主与えたもう、主取り去りたもう、主の御名は ほむべきかな。』文句は言わないことにした。」「『牧師の家で育ててください。』と親が言ったので、うちに来るようになった子だよ。」現在、ピアニストだった息子のコンサートの予定だったところで、追悼コンサートが開かれ、そこで息子の証をしておられます。

(伝道者の書3:11)「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」

結論

 神は私たちの小さな心配ごとも良くご存じであり、時間がずれることなく、事を運んでくださるお方であることがわかりました。N先生のご主人の命を守ってくださいました。同じように大きな時間の流れも、神の手にあります。エレミヤから600年後のメシアの誕生、救い主の誕生を覚えておられたのです。

(エレミヤ23:7~9)「それゆえ、見よ、このような日が来る。──【主】の御告げ──その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた【主】は生きておられる』とはもう言わないで、23:8 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」

この預言は救い主が生れてから2000年経った今日、成就されているものです。イスラエルが再び建国されて、多くのユダヤ人が帰ってきています。特に北の国であるロシアからの帰還者は多いのです。十字架にかかって死んで3日目によみがえられた主は今も生きておられ、全世界に離散した民を集めておられます。

2000年前にお生まれになった救い主は、今もなお生きて働いておられます。

12月7日にアメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認めると言う宣言をしました。その後、イスラムの社会やロシアから抗議の声が上がりました。イスラエルは孤立し始めました。聖書は世の終わりの時にはイスラエルは孤立し、戦争が起こると預言されています。世界情勢はだんだん黙示録の世界に近づいてきています。

『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」

と祈りましょう。


教会の成熟・使命

2017-12-13 22:16:58 | Weblog

2017.12.10.教会の成熟・使命

聖書 マタイ6:33、ルカ18:1~8、使徒9:31

題  教会の成熟・使命

暗唱聖句 マタイ7:7

「 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 マタイ6:33

「 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

はじめに

四国聖会のメッセージの最終回です。前回のメッセージでは教会の本質は祈りです。祈りによって、主と一つになり、教会と一つになり、また兄弟姉妹と一つになって行くことができる、これが教会であると言われました。

教会が社会に立てられている理由は、ゲヘナ(地獄)はキリストには打ち勝つことができないからです。地獄に打ち勝つことができるのはイエス・キリストだけです。

ネルソン・マンデラという人は南アフリカ共和国の8代目の大統領です。彼は27年間投獄されました。1993年にノーベル平和賞をもらいました。その彼が大統領演説の中で話した言葉です。

我々が最も恐れているもの

それは自分が無力だということではない。

我々が最も恐れているもの、

それは、自分には計り知れない力がある、ということだ。

我々が最も恐れるもの、

それは光であって、闇ではない。

我々は自分に問いかける。自分ごときが賢く、美しく、才能にあふれた素晴らしい人物であろうはずがないではないか。

だが、そうあってはなぜいけない?

あなたは神の子である。

あなたが遠慮しても世界の役には立たない。

周りの人が気おくれしないようにと

あなたが身を縮めることは何の美徳でもない。

我々は、自らの内にある神の栄光を現わすために生れてきたのだ。

そしてそれは限られた人々のものではなく、すべての人の内にある!

我々が自らの内にある光を輝かせるとき、

無意識のうちに他者に対しても同様のことを許している。

我々が自分のもつ恐れから自らを解放する時、我々の存在は同時に他者も解放する。

 

私たちには計り知れない力が与えられています。

(Ⅱコリント4:7)

「 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

ヨハネ1:12「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

私たちは神の子どもとされているのです。それは特権です。

クリスチャンになる前と後とで変わったことは「祈る」という特権です。クリスチャンになる前は知らない神に祈っていました。どんな神か、わからない神に祈っていました。しかし、今では、天地を創られた神に祈る特権を持っています。

1.神の国と義を祈る。

 私には3人の子どもがいます。真ん中の子は欲しいものはいつも手に入れます。子供の特権は遠慮なく求めることができるということです。祈りは最良の特権です。祈りを持って、噛みつくこともできます。「アバ、お父ちゃん」と呼んで良いのです。

祈りの本質は、神の国と神の義を求めることです。祈りを持って求めます。祈りが積まれると、一気に崩されて行きます。エリコの城も城壁を回りながら、7日間、祈ると、その最後の鬨(とき)の声をあげた時に一気に崩れ去りました。

(マタイ6:31~34)

マタイ6:31「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 6:34 だから、あすのための心配は無用です。」

外国人が求めるものは食物や衣服などです。クリスチャンの祈りは、その次元で満足するのではなく、神の国を求めることです。

 

2.御国を求める祈り・・・終わりの時代に求めるべき祈り。

A.祈りの原点に回帰する。

(イザヤ61:1~3)「神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

 61:2 【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

 61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。」

「 義の樫の木、植え木」というのはメシア預言と言われる個所ですが、神の子たちの究極の目標です。

心の傷つきやすい人がいます。この人は真面目な人です。日本では一年間に3万人の人たちが自殺しています。最近では中高年の自殺が増えてきています。イエス・キリストは十字架にかかられました。私たちも十字架にかかっているものです。世の中ではあなたを挫折させようとする力が来ます。悪しき者がやって来るのです。

教会を通して、神の御国が現わされて行きます。御国とは神の正義が行われているところです。世の中は実績主義で成り立っています。しかし、主は忠実なゆえに用いてくださいます。

私たちは問題が起きた時に祈ります。これは間違いです。イエス様は問題のためではなく、御国の栄光を現わす為に祈りました。

クリスチャンの一番の召しは、神の国が臨んでくるとき、通り良き管となることです。神の国がもたらされる一番の近道です。

 

B.ルカ18:1~8

この祈りは、「神に対して昼夜を問わず、訴える者があるだろうか。」という問いに対するイエスの教えです。残りのものの祈りです。残りの1%の人たちの祈りによって、神の栄光が現わされています。

「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

 18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

 18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

 18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、

 18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」

 18:6 主は言われた。『不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

 18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

 18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』」

 

「やもめ」とは一人暮らしの人です。結婚して連れ合いを亡くされた方です。も歌詞のイスラエルの習慣では、やもめは連れ合いを亡くすと、家を継ぐために、夫の弟の嫁になりました。弟が、子供だった場合、成人するまで待つことになりました。成人しても結婚させられない場合、やもめは大変困りました。夫がいつまでも来ない。ですから、裁判官をたたき起してでも、訴えを聞いてほしい。やもめは、もともとは花嫁です。それが、やもめになってしまいました。花婿を切に求めている祈りでもあります。終わりの時代に起こるべき祈りです。終わりの時代にはクリスチャンはキリストの花嫁、花婿なるキリストの再臨を祈ります。最後まで祈ります。この地のやもめは、神の義のために祈ります。祈りの家や教会はその町が清められ、正義と公義が行われるように祈るのです。絶対正義というのはイエス・キリストです。終わりの時代には神への期待感が薄れてきて、不信仰に陥りやすいのです。祈りの家を通して神が祈りを聞かれる。食べ物の問題を超えて、神の国が、正義と公義が現わされます。

 

3.神の視点で祈る

エペソ2:4~5「 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」

リバイバルへの3視点。

A.この四国を神はどのように見ておられるか。

畑も最初は土づくりです。とりなしを続けます。主に期待し続けます。水の上にパンを投げ続けます。鍬を入れ続けます。人々と関わり続けます。

 

B.神の子どもの自覚と確信 ヨハネ1:12、マタイ16:18~19、マタイ5:3-10

子供には特権が与えられていて、それぞれの持ち場で力を発揮することを望んでいます。あなたは四国を統治するように委任されています。

神は皆さんを主の働きに召されました。皆さんが献身者です。一つの教会だけに留まって良いのか、しっかり自分の教会に根をおろしながら、祈りにおいては世界のために祈るのです。祈りは私たちに与えられた特権です。涙を流して、とりなす人は誰でしょうか。神の栄光がなされ、神の正義がなされるように、祈りましょう。祈りにおいて,神の領域に入るのです。地上には病がありますが、神の国には病はありません。神の領域が現わされる時、しるしと癒しと奇跡が起こります。主の正義が起こるのです。それを通して神の栄光が現わされます。

 

C 最近の世界的傾向と日本を一瞬に変える戦略

韓国にイスラム教が猛威をふるっています。イスラムが強いのではなく、キリスト教が弱いからです。イランやシリヤなどではキリスト者が爆発的に増えています。夢の中にイエス様が現われてきます。ある所ではラマダンの時、壁の中を突き抜けてイエス様が現われたとか、ふしぎなことがあります。

多くの人たちがイスラムのために祈って来ているからです。日本の場合、日本人がまず祈りだす必要があります。最大の敵は、キリスト者の特権を喪失し、敗北感の中にいるキリスト者自身です。

(エペソ2:4) しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──です。

 

結論

現実に目を留めながら、何を叫ぶか、考え願う。

福音は色づいていると語るならば、その言葉をこの地に置く決心をする。教会が覚悟を決めて祈り続ける。我らはキリストの花嫁、防人です。生ける神は花婿を求めるやもめ、あなたの祈りに耳を傾けることができます。


教会の一致

2017-12-08 12:20:21 | Weblog

2017.12.3.教会の一致(教会は一つ)

聖書 エペソ4:1~6

題  教会の一致(教会は一つ)

暗唱聖句エペソ4:3

「 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

 

はじめに

今年も12月まで主に守られたことを感謝いたします。早いですね。先月、特別集会をしました。祝福されて一人の新来会者と8人の求道者の方々が来てくださいました。この方がたがまた続けてきてくださるようにお祈りしてください。そして17日のクリスマス会に、またお誘いください。9日土曜日にはハッピースクールの子供クリスマス会があります。新しいお友だちが来ますように、お祈りください。

今日のメッセージは四国聖会の3回目のメッセージで教会の一致についてです。特に、印象的だったのは「気の合わない人がいる場合には、どうしたら良いか。あの人とはうまくやっていけないけど、どうしたら良いか。」ということについて、時間をかけて、話してくださったように思います。教会は一致して主に仕えるものです。出て行って、宣教する教会、仕える教会を目指します。

 

~土屋先生(新潟グレイスチャペルの主任牧師)のメッセージ~

 

1.一つになる。

四国の人たちの気質を知ることわざがあります。大金が入ったら、四国の人々はどうするか。

愛媛の人は「有事に備えて、買い込む。」

香川の人は「貯金をする。」

徳島の人は「商売をする。」

高知の人は「飲み明かす」そうです。

この4県の人たちが同じ場所に集まったらどうでしょうか。これだけ、性格が違ったら、考えることもまとまらず、一致するのは大変です。

アッセンブリーは210の教会があります。皆同じ教会です。天の御国では、永遠に礼拝が続けられています。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。・・・・終わりがありません。エンドレスです。」礼拝の最初は時間がわかりません。

礼拝によって、神と一つになって行きます。霊によって、神の本質を知るようになります。だんだん神と親密になって行きます。私たちは最初罪のしもべでした。しかし、今では神の僕にしてくださいました。神様は私たちを呼ぶ時、素晴らしい呼び名を与えておられます。神のしもべ、羊、神の子、長子など、いろいろな名前で呼ばれます。どんなふうに神が言われるか、ワクワクします。わたしの愛する子、わたしの友、キリストの花嫁です。これらは愛する対象として呼んでくださる名前です。

結婚して10年経つと、小言が始まります。

しかし、私は結婚してからずっと奥さんに「愛しているよ。」と言い続けてきました。なぜなら、私の奥さんは愛される経験を持っていなかったからです。父親はアル中でした。そんなわけで、自分の名前も間違って、市役所に届けられていたというのです。受験に行く時、そのことがわかってびっくりしたと言います。それを親に言っても、特別なことがあったとは思ってもらえず、無視されました。

僕が「愛しているよ。」と言うと、「えっ、それって何?」という返事が返ってきました。

私たち日本人は「君は大切な人だよ。」というより、「ダメ」と言われる方が多いですね。

 

地上の礼拝は楽しんで礼拝する者です。愛する方への礼拝です。教会には命と真理が与えられています。生けるキリストを味わうことが許されています。

アッセンブリーの滝野川の神召キリスト教会は創立90年を過ぎています。ここには生きて働かれる主がおられます。人々はリバイバルを求めて集まりました。真理が無くなったら、単なるキリスト教になります。わたしたちはキリスト教を伝えているのではありません。私たちは、私たちのうちに生きておられるイエス・キリストを伝えているのです。「礼拝が共にできることは幸いです。」主は私たちが捧げる礼拝を喜んでおられます。

 

2.教会は一つである。

(エペソ4:1~6)

「4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。

 4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

 4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」

エペソ書では教会は一つであると言っています。パウロは教会は一つであることを強調し、御霊の一致を熱心に保ちなさいと言っています。

「教会を一つとして招いている」と言われています。「四国」という言葉で、四国の人たちを一つにしています。神はあなたを教会と一つになって、召しておられるのです。人には相性が良い、悪いがあります。相性が悪い人も教会では一つです。

 ある日、顔が会議をしました。眉は下に行きたいと言いました。口はもっと上に行きたいと言いました。ある朝、水を飲もうとすると、口の位置がわからなくなり、水がだらだら出てきました。神様の計画は顔の眉や目の位置、鼻の位置、口の位置まで、良く機能的にデザインされているのです。

私は大学の専門が金属工学です。金属をすり合わせて、合金に変えます。すり合わされて、異なった良い合金になります。お互いに、認め合って、すり合って行く時、より良い合金ができます。

 主に近づき、主を知るようになるとあの人は合わないという問題はなくなります。あの人は合わないという問題は聖霊によって、乗り越えることができます。教会は召し集められた場所です。命と真理が満ち満ちて行く時、私たちは回復して行きます。ろうそくは暗いところで光ります。私は根暗な人間でした。しかし、神は根暗には創っておられません。本来の私は主と共に喜びを持って生きるように創られました。主と共に希望を持って生きる者として創られました。

 

3.初代教会の人々は神と一致して行動した。

初代教会は神様と一致しており、平和のきずなでつながっていました。「平和を作りだすものは幸いである。・・・その人は神の子と呼ばれる。」

使徒の働き8章ではエルサレムの教会に激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はユダヤとサマリヤ地方に散らされました。ピリポはサマリヤの町に下って行き、キリストを宣べ伝えました。サマリヤ人は純粋なユダヤ人ではなかったのでユダヤ人が嫌っていたところでした。ピリポはキリストを語りました。しるしと奇跡が起こり、町全体が救われ、大きな喜びが起こりました。ペテロとヨハネが遣わされて来て、町の人々を訓練しました。ピリポは主の使いにガザに下る道に出るように言われました。ピリポはすぐに従いました。「サマリヤの町の伝道はまだ不十分です」とは言わないで、主に従いました。聖霊の促しに従ったのです。ガザで出会ったのは、エチオピアの女王カンダケの高官でした。国の大蔵大臣でした。この人に福音を伝えたのです。この高官は主を信じて、洗礼を受けました。

 

次はアナニヤの信仰です。そこでアナニヤは出かけて行きました。どこへでしょうか。

使徒の働き9章17節、「 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』」

アナニヤはサウロがどんな人かを知っていました。サウロはクリスチャンを捕まえて殺すビジョンを持っていた男でした。ところがダマスコに来る途中でで「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。」という声を聞き、復活の主イエスに出会ったのでした。彼は目を痛めて、見えなくなっていました。それで、主はアナニヤに彼の所に行って、祈ってあげなさい、と言われたのでした。アナニヤは「主よ、サウロがどんなにひどいことをしたかを知っています。私は行きたくありません。」と言いました。しかし、主はアナニヤに「私が選んだ器だ。行きなさい。」と言われたので、神の言葉に従いました。そして、サウロの上に手を置きました。それは一致したことの表れでした。この当時の人々は真理を旧約聖書を通して知っていました。主が招かれた者は一つだと理解していました。手を置くのは花嫁としての行為です。

次に使徒の働きの13章1~3節「 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。

 13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」

私たちは肉の声に囚われて行きます。主に近づくと神はそこに私たちを招いてくださいます。教会では一緒に断食をしていました。すると、バルナバとサウロを聖別して、主の任務につくように召しだされたのです。あなたも教会と一つであることに感謝しましょう。あなたはキリストの花嫁です。

間もなく、忙しいクリスマスがやってきます。求道者の時は皆が良くしてくれ、尽くしてくれました。洗礼を受けた時から、お客さん待遇は終わりました。そして奉仕、奉仕になりました。私たちは一つになって主に仕える者です。

 

4.御霊に生きる最高の事は何か。

 霊的な幻を見る人もたまにはいますが、多くはありません。聖霊に満たされて歩む最高の事は聖霊の励ましによって生きることです。

言葉は神であった。キリストは受肉した神。なぜ、クリスチャンは飽きもしないで、よく聖書を読むのか。神のみ言葉は、イエス・キリストだからです。

「神のみ言葉を読んで、それに従って行こうと決心して生きること」、これが霊的な生き方です。聖書の言葉に答えることが霊的な人、答えたいと願うことが霊的な人。み言葉は研ぎ澄まされた剣(つるぎ)と同じです。

賛美においても、自分を従わせていく。賛美を通して、霊の回復が起こる。御国がおろされてくる。聖霊による励ましをあなどらない。

 

土屋先生の教会では、礼拝のために4時から来て、4時間祈っている人が幾人か、います。癒しのために祈っています。悩みのため、礼拝のため、牧師のために祈ります。牧師は完全だから、牧師になったのではありません。最高の霊的な人になる。教会と一つになる。神の声を聞いて、祈る。聖書には「上に立てられた者のために祈れ」と書いてあります。

 

5.私たちは、神の家族

私たちは神の家族です。私たちは一つです。眉毛なしには生きられません。眉毛は必要です。目にゴミが入るのを防ぎます。神は私たちを愛する者として認めておられます。

神様、ここにいる方がたが真の神様に出会うようにお願い致します。私たちの教会を用いてください。私たちは一つです。私たちは三位一体の神を信じています。聖霊は、父と子の関係を完成させてくださいます。

 

5.神の御国について

このイスラエルの地において、この民のうちに、神の御国がおろされるように。

この地から、神を求めている人々が送られてくるように。

私たちは神にあって一つです。四国にリバイバルがおこるように。終わりの時、神の恵みははなはだ大きい。

 

祈りましょう。