2017.3.26.十人の皮膚病の癒し、しかし感謝したのは?」
聖書 ルカ17:11~19
題 十人の皮膚病の癒し、しかし感謝したのは?
暗唱聖句
Ⅰテサロニケ5:16~18
「 いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
はじめに
今日は重い皮膚病にかかった人が、イエス様に病気を治していただいて、感謝した時のお話です。私たちは病気にかかると早く治りたいと思います。痛かったり、苦しかったりするとなおさら早く癒されたいと願いますね。癒されたら、感謝しますか。そのまま、当たり前だと思って、生活を続けますか。今日のお話は、10人の重い皮膚病の人がいやされたのですが、なんと感謝を現わす為に帰って来たのは一人だけでした。イエス様は一時がっかりされましたが、感謝した人を祝福して、救ってくださいました。
1.10人の重い皮膚病の人
ある日、イエス様の一行はエルサレムに向かって旅をしておられました。今のように、高速バスもありません。電車もありません。歩いて行く旅です。途中で、ガリラヤとサマリヤの堺にある、ある村に入られた時のことです。ここには村の名前は出ていません。恐らく、ユダヤ人やサマリヤ人の共同体から、追い出された重い皮膚病の人たちが住んでいた村ではなかったかと思われます。イエス様の時代、重い皮膚病は「らい病」だと言われていました。ツァラアトは口語訳では「らい病」と訳されています。でも、実際には、どういう皮膚病なのかはっきりわからないために、新改訳ではヘブル語の読み方をそのまま使うことになったようです。これらの皮膚病は感染する恐れがあるため、一般の居住区から隔離されていました。隔離された所に住んでいたのです。イエス様が立ちよられたのは、そういう村だったのではないでしょうか。この人々はもう一つのいやな言葉を叫ばなければなりませんでした。それは「私は汚れた者です。」という言葉でした。叫んで、人々を近づけない、健康な人々に感染しないように気をつけなければならなかったのです。ですから、一度、この重い皮膚病に罹ったら、病の苦しみの他に、「社会から断絶させられる」という悲しみや孤独の苦しみ、経済的な苦しみが重なって行きました。
イエス様が、この村に入った時、10人の重い皮膚病の人々に出会いました。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、叫びました。「イエス様、先生、どうぞ、憐れんでください。」と、病の癒しをお願いしました。彼らはイエス様が多くの病人を癒されたことを噂で聞いて知っていたのです。
2.イエス様に従った十人の重い皮膚病の人たち
十人の重い皮膚病の人たちが叫んだので、イエス様は彼らをご覧になりました。
イエス様は彼らを見て言われました。「行きなさい。そして、自分の身体を祭司に見せなさい。」彼らはびっくりしました。まだ、治っていません。しかし、イエス様はまるで治ったように、「祭司に見せて、祭司が清められていると認めてくれたら、家に帰ることができるから。」という思いを込めて、「祭司に見せるように」言われたのです。この病気は神にのろわれ、汚れた、特別な病気だと思われていました。ですから、病気が治ったかどうかを調べるのは祭司の役目だったのです。治ったかどうかを調べて、家族のところへ帰ってよいかどうかを決めるのは祭司たちの仕事でした。
ところが、祭司たちはこの村にはいません。祭司たちはエルサレムの神殿で働いていました。エルサレムまで少なくとも3日間はかかります。その間、宿屋には泊まることはできません。彼らは汚れている者だったからです。もし人に会うなら「私たちは汚れている者です。」と叫ばなければならない身分です。彼らは悩みました。しかし、他になすすべもありません。イエス様がいやしてくださると信じて、エルサレムに行く決心をしました。イエス様のお言葉に従順に従ったのです。
3.途中で癒された。
彼らはエルサレムに向かって歩き出しました。十人の人たちは、エルサレムに向かって歩いているうちに、気分が良くなってきました。身体に力が出てきました。体中にあったおできも少しずつ減って治ってきました。そうこうしているうちに、大きな声が出るようになりました。喉も良くなってきたのです。一緒にいる人たちを見ると、いつの間にか皮膚がきれいになっていました。
10人の人々はエルサレムへの道を急いでいるうちに、完全に病気が良くなってしまったのです。それはイエス様を信じて、イエス様の言うことに従ったからです。皆は「イエス様って、何と素晴らしいのだろう。神様、感謝します。ハレルヤ!」と喜びました。大きな声をあげて感謝したのです。
その時、一人のサマリヤ人は病気が治ったので、他のユダヤ人の9人に言いました。「すぐイエス様のところに戻って、お礼を言おう。」ところが、9人は言いました。「そんなことより、まず、エルサレムの神殿に行って、この身体を祭司に見せよう、そして治ったことを認めてもらおう。そうすれば、家にも帰れるし。・・その後でイエス様にお礼に行っても遅くはない。」
サマリヤ人は「認めてもらうことよりも、まず、イエス様のところに帰ってお礼を言おう。」と言いました。病気は治りました。そのことで意見が分かれました。サマリヤ人はまずイエス様にお礼を言うことにしました。しかし、あとの9人のユダヤ人たちは祭司に見せて、皮膚の癒しを確認してもらうことを考えました。イエス様にお礼を言うより、祭司のところへ行くことを選んだのです。
サマリヤ人は仲間たちと別れて一人でイエス様のところに帰って行きました。それは皮膚病を癒してくださったお礼を言うためでした。帰りながら、嬉しくて、道を走ったり、立ち止まったり、ジャンプしてみたり、両手を天にあげて見たりして、創造主を賛美しました。また大きな声で「ハレルヤ! アーメン!」と賛美しました。10人は清くされたのですが、1人のサマリヤ人だけが「自分がいやされたのがわかって」大声で神をほめたたえながら、引き返してきたのです。それは「自分がいやされたのは、神がいやしてくださったからだ」とはっきりわかったからです。
4.ひれ伏して感謝した
この人は、とうとう、イエス様のいる所に帰ってきました。イエス様を見ると、地にひれ伏して言いました。「ありがとうございました。ありがとうございました。あなたのおかげで、私の病気が治りました。お礼が言いたくて戻ってきました。」と大きな声で言いました。イエス様はこの人を見て優しく、にこにこしていました。でも悲しそうに言いました。「治ったのは十人ではなかったのかね。他の9人はどこにいますか。」
それからこの人に言いました。「立って行きなさい。あなたは私を信じたから治ったのです。」と言いました。イエス様は10人を愛していました。しかし、帰って来て、イエス様に「ありがとうございました。」とお礼を言って、イエス様を喜ばせたのは、このサマリヤ人一人だけでした。
サマリヤ人はユダヤ人にとって外国人でした。そして、ユダヤ人からは差別されていた民族でした。しかし、そんな自分をイエス様が憐れんでくださって、重い皮膚病を癒してくださったと思ったら、いくら感謝しても感謝しきれないのでした。
5.神様に感謝を捧げるために帰ってきたのは一人だけでした。
感謝を捧げるために帰ってきたのは一人だけでした。イエス様は帰ってきたサマリヤ人を喜んで迎えてくださいました。ここに1対1のイエス様とのつながりができました。イエス様は言われました。「立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを治したのです。」と。「あなたを治した」という言葉は、口語訳では「救った」となっています。彼はイエス様と顔を合わせてお礼を言い、個人的なつながりを持ちました。そして救われたのです。彼の生活は病の惨めな生活から、一度に喜びに溢れた人生に変えられたのです。
イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と。「信仰」とは何か、それは、このサマリヤ人が、自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったことです。信仰というのは「自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見て行くこと」ではないでしょうか。
6.クリスチャンの生活
このサマリヤ人の態度はとても私たちクリスチャン生活の模範になります。私たちも神様とのつながりの中で、神様の働きをたくさん見させていただいています。恵みの中を歩いているのです。イエス様は21節で「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と言われました。サマリヤ人が救われて喜んでいるのを見て、イエスさまも喜ばれました。神の救いの喜びが広がっているのを見たり、聞いたりして、私たちは喜ぶのです。その中に神の国の現実を見るのです。信仰と救い、賛美と感謝、など神の国でなければ、味わうことのできない喜びや平安を分かち合うことが大切です。
昨日、轟先生が信仰の秘訣を教えてくださいました。それは毎日寝る前に寝ながら感謝することだそうです。
まず真理の言葉、すなわち聖書の言葉の中から、好きな言葉を選びます。たとえば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」という言葉をイメージとして、敷布団の上に置いて、その上に自分を置きます。そうすると自分は真理の言葉で守られています。それから、感謝のお祈りをします。その時、領収証の祈りをするのです。つまり、神が祈りに答えてくださったものとして、感謝して行くというものです。この10人の皮膚病の人たちはまだいやされていないのに、癒されると信じて、エルサレムに向かって歩き出しました。私たちは神の子ですから、すべてが満たされていくと信じて、感謝の祈りを捧げて歩むというものです。そうしたら毎日が嬉しいといわれました。クリスチャンは一番幸せでなければならないと言われました。
すべてが願いどおりになるというのではありません。たとい、願いがかなわなくても、現実をありのまま、受け入れて、肯定的に生きて行くことができたら、それは祝福されている生き方です。神に愛されている、その愛に答えようとしている生き方がクリスチャンの生き方です。神様に愛されている、このことに応答して行く生き方、それは何物にも変えられない喜びなのです。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」
いつも感謝の中で生活できる人生は素晴らしい人生です。あなたもこんな生き方を選び取りませんか。
とどろき先生は続けて言われました。
「これが大切!『月曜から土曜日までが本当の礼拝、本当の礼拝は職場、家庭で行うもの、
日曜日の礼拝は証会のようなものだ。がんばりなさい。』と言って、派遣のお祈りをするのです。」