週刊少年ジャンプ2020年9号掲載
第191話 【どちらが鬼か】
こんな感じはいつ以来だろう。
読んでいて、手も、足も、震えたのは。
気持ちが上がっているのか。
それとも下がっているのか。
分かりません。
吾峠先生はどうやら私という読者の気持ちまで「さらなる領域」に連れて行ってくれた模様です。
普段は、あらすじに沿いながら感想を綴っていくのが私の感想記事の基本スタイルです。
ですが、今回はあらすじを述べるのは無粋に感じました。
それぐらい今回の内容は凄まじかった。
多分何日か経てば
扉絵が好きすぎる とか
後藤さん?なんでこの場にいるの?ひょっとして茶々丸を連れ戻そうとして来てくれたの?だとしたら良い人すぎるよ貴方 とか
足・・・! 腕・・・! とか
遂に十二番目のヒノカミ神楽が解禁された・・・!!! とか
ヒロインの危機を助け出すとかヒーローの極みでしょ炭治郎おぉおぉおぉお とか
他にもいっぱいいっぱい語りたいことが出てくることでしょう。
ですが、今は。
無闇に語ってはいけない。
そんな気持ちです。
ただ、それでも。
これだけは今回述べなければならないでしょうね。
「人」の定義は何なのか。
「鬼」の定義は何なのか。
「人」と「鬼」の境界線はどこなのか。
今回のサブタイトルにもあるこれこそが、この『鬼滅の刃』という作品の根底的議題でしょうから。
一般的には「突出した能力を持つ者」「冷酷非情な者」そして「一つの事に精魂を尽くす者」等と定義されている鬼。
ですが。
突出した能力を持つ縁壱は、あんなにも傷付きやすい「人」でした。
冷酷非情なことを散々してきた手鬼や累や妓夫太郎・堕姫兄妹も、絶望や孤独に打ちのめされた「人」でした。
そして。
無惨を倒すというただそれだけを目的に精魂を尽くし、命を投げ出すことさえ厭わない鬼殺隊もまた、れっきとした「人」です。
その一方で「人でありながら“人”とは思えないような者」も沢山いました。
この作品のキャラクター達に感じ入る度、つくづく思います。
誰しも心の中に「鬼」はいるもの。
そしてどんな鬼も元は「人」なのだということに。
「人」と「鬼」は表裏一体。
そう私は思っているからこそ、炭治郎の、竈門兄妹の“これから”が気になってしょうがないのだと思います。
以上をもちまして、今回の感想を終えたいと思います。
果たして「今の炭治郎」はどこまで無惨と渡り合えるのでしょうか。
・・・次回も今回のような密度だったら過呼吸起こすぞきっと。(←←←)