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ぐりぐらのフォトログ

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あいづわくわく学園 太用寺・糠塚古墳群・勝福寺・弾正ケ原 喜多方市方面【10-2】

2013年10月01日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園 太用寺・糠塚古墳群・勝福寺・弾正ケ原 喜多方市方面【10-2】

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第10回目の2は喜多方市方面から
太用寺・糠塚古墳群・勝福寺・弾正ケ原・・・
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

太用寺 清凉寺式釈迦如来立像 国重要美術品指定・・・
画像クリックでスライドショーへ

太用寺は開基年代は不明。この寺はもとは幾つもの僧房を持つ大きな寺院だったというが、
衰微、永和元年(1375)、宥海という僧によって中興されたという。
天正13年(1585)、太用寺はじめこの周辺の寺院10ケ寺が兵火に焼かれた。
幕末慶応年間にも出火焼亡、神仏分離令でで多数が神道に改宗し檀家が減ったため
わずかに釈迦堂のみが再建されて今日に至っているという・・・

太用寺釈迦堂には東北に三例しかない貴重な清凉寺式釈迦像があり、
国重要美術品・県重要文化財の指定を受けている。

太用寺の裏山の墓地には寛文・延宝期(1661~80)から幕末まで、
この地方で盛行した会津藤樹学者の墓があり近年整備されたという。


糠塚古墳群の主墳 5世紀ごろの有力者のお墓(県指定史跡)


5世紀ごろの有力者のお墓。元は周囲にも小円墳が分布していたが戦後の開発により失われ、
現存しているのは主墳の糠塚と粉(小)糠塚と山首神社の3基だけ。
平成3年航空写真撮影をしたところ、円墳だと思われていたが方墳だと判明・・・
一辺約26m、高さ5.1m、会津平坦地にある古墳の中で最も大きいという。


勝福寺観音堂 国指定重要文化財


伝説では、京都から松島へ行く途中にこの地で亡くなった「勝(すぐれ)の前」の冥福を祈って、
はるばるやってきたさる中将が、建立したものであるという。
往時には、本堂のほか、薬師堂など十指に余る堂塔伽藍が建ち並んでいたと伝えられているが、
現在のこっているのは、観音堂・仁王門・弁天堂・・・

観音堂は、享禄2年(1529)に焼失し、天文年間(1532~1554)の初期に再建着手、
永禄元年(1558)に完成したと伝えられる室町後期の建造物・・・。
会津地方の三間堂の中で、中世末期の観音堂として優れた価値を持つということで
昭和60年に約1年かけて解体修理され、当初の姿に・・・。国重要文化財指定。
不動明王・毘沙門天像、銅鐘は県指定重要文化財。


弾正ケ原 自由民権運動発祥の地


「弾正ヶ原」は、栗村弾正清正という武将の屋敷があったことからこの名前がついています。
栗村氏は、戦国武将葦名家の家臣で代々この地に居を構えていたようです。

弾正ヶ原で何があったのかと・・・
明治15年、福島県令、三島通庸が若松から、米沢・新潟・宇都宮へ至る「会津三方道路」の建設を計画し、
この三方道路建設費用としては、会津6郡の男女を問わず15歳から60歳までの人民が動員されることになり、
毎月1日10時間の労働が2年間にわたって課せられ、
それができない場合には代わりに代夫賃支払いが義務づけられました。

地元の住民が労働に駆り立てられ、労働に出られずお金も払えないと、家財を没収・・・
そんな中、計画に反対する民権派の指導者・宇田成一らが逮捕されました。

これを知った千数百人の農民が喜多方に集結、宇田成一らが拘置されていた若松警察署を目指しました。
しかし、日没のため、群衆は途中にあるここ弾正ヶ原で集会を開き、
喜多方警察へ引き返して指導者達の釈放を求めることを決定しました。
しかし、喜多方警察署での談判中、警察側と群衆との間にもみ合いが起こり、多数名が逮捕。
この事件をきっかけにして県下の自由党員の一斉逮捕が行われていくことに・・・
弾正ヶ原は、喜多方事件のきっかけとなった場所であるわけです。
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