ボランティア演奏日記 「あきらとマドンナ」

訪問先でのハーモニカ演奏の記録と、時折、趣味の旅の様子等掲載しています

「兵庫県豊岡市 出石の旅」出石城と皿そば

2024年10月09日 | 

 少し時間が出来たので一泊2日の旅に出ました

まず数十年ぶりに「出石」に立ち寄りました

豊岡市出石町は、「古事記」「日本書紀」にも名前の見える歴史の古い町で

但馬開発の祖神ともいわれる新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が、

垂仁天皇3年に渡来してこの地を拓いたと伝えられ、

町名も、天日槍の宝物である『出石小刀』に起因したといわれています。

 

室町時代になると、「太平記」にも登場する山名時氏(ときうじ)が但馬地方を制圧し、

その子時義(ときよし)は、宮内の此隅山(このすみやま)に本拠を構えました。

山名一族は 、日本全国66カ国中11カ国を治さめ「六分の一殿」と呼ばれましたが

明徳の乱により一族の内紛を起こし、その後わずか3カ国の守護となってしまいました。

時義の孫宗全(そうぜん)はその勢力を盛り返し、応仁の乱では西軍の大将となりました。

しかし、戦国時代に入って、山名氏はその勢力を失い、

山名祐豊(すけとよ)の時に織田軍の羽柴秀吉に攻められ此隅山城は落城しました

祐豊は城を有子山に移し守りを固めましたが、

1580年に秀吉の弟秀長(ひでなが)により有子山城は落城、山名氏も滅ぼされました。

秀長は城を木下昌利に守らせ、その後城主は青木甚兵衛、前野長康と変わったのち、

播州竜野から小出吉政(よしまさ)が領主として封ぜられ五万三千石を領し、

その子吉英(よしふさ)の時に山城を廃し、

山麓に平山城を築き城下町づくりを行いました。

小出氏は九代、約100年間続きましたが後縦ぎがなく断絶し、

宝永3年(1706)に松平氏は、信州上田の仙石政明(せんごくまさあきら)と国替えとなりました

仙石氏は七代にわたって出石藩を治めましたが、天保6年(1835)の仙石騒動により、

三万石に減封され明治に至っています。

出石の伝統工芸である出石焼はこの江戸時代中期に始められ、

また、特産の出石皿そばは、仙石氏が信州からそば職人を連れてきたのがはじまりとされています。

出石城跡

 

200段近い石段を登り、朱の鳥居をくぐると稲荷神社があります

 

手前にも鳥居があり狐の石像がありました

 

奥の本殿の狐の石像は”耳”が片方なくどこか凄味がありました

城下を見下ろせば、まるで江戸時代を思わせる城下町ならではの町並みが広がります。

 

 

 

辰鼓楼は、明治4 年(1871)旧三の丸大手門脇の櫓台に建設されました。

明治14 年に医師、池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは、

時計台として親しまれ、今では3 代目の時計が時を刻み続けています

 

 

出石の皿蕎麦

出石にくれば、思い浮かべるのは「皿そば」・・・ですが・・・

私の同行者は、へそまがりなのか?天邪鬼なのか?長年連れそっても不明ですが

”耳を疑う一言” 「アタシ・・ラーメンが食べたい~ぃい」

尻を蹴飛ばしてやろうと思いましたが暴力はご法度!!・・・自制・・・!!

しかし、見渡してもラーメン屋は見当たらなく「皿蕎麦」のお店ばかり・・・

少し中心地から離れたお店に入りました

お店の壁にかかっていたオブジェ・・・なまず?でしょうか・・・

可愛いのでおもわずパチリ!

ソバは出石焼きの白地の小皿に盛る形式が確立され通常1人前は5皿で出されます

そして1皿単位で追加注文が可能です。(ここの店は3皿から)

出汁と共に複数の薬味にて、お好みの味で食べるようになっていますが

説明文が英語で書いてあり外国人の観光客が多いことが分かります

歩きくたびれた相棒の機嫌を取るには「ソフトクリーム」が一番です

このような店舗が増えているのは女性に迎合?した現在の観光地の特徴かも・・(笑)

又、電気で動くレンタルカートも見かけました

30分¥2200?位でしたがこれを利用するのも面白いかも知れません

 

 

コメント (4)
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