ボランティア演奏日記 「あきらとマドンナ」

訪問先でのハーモニカ演奏の記録と、時折、趣味の旅の様子等掲載しています

90歳ご婦人が大いに語る 12/25(月)HJI様No.67 Xmas会

2023年12月25日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 今年最後の訪問となりました
振り返ってみると月平均7件のご依頼を頂き
新規に演奏のご依頼を下さった方が10か所ありました
コロナ前に比べ6割程度のご依頼件数ですが
内容は、濃くなってきて満足な一年間でした

今日は、恒例のクリスマス会が開催されました

演奏曲は「ジングルベル・有楽町で逢いましょう・
さざんかの宿・雪椿・私は街の子・星の流れに・津軽海峡冬景色
サンタが街にやってくる・君恋し・ダンスパーティの夜・
街のサンドイッチマン・見上げてごらん夜の星を・
風雪流れ旅・きよしこの夜」で丁度1時間でした。

終了してから皆様とのティータイムでケーキも頂きましたが

90歳を超えている元気なご婦人・・・
私に・・・・
「アナタ、年金で生活しているの?今は音楽で食べてるの?」(笑)

「いやぁ~ボランティアですのでカネにはなりませんが」

どうもご自分はアパートをお持ちのようでかなりのお金街のよう・・

「主人はね、県庁の役人で面白みのない人間だったのよ!
私は民謡を習っていて・・たのしかったわ!!
師匠は女性だったけど、お酒が好きでねぇ~
忘年会では四斗樽を抜いて大騒ぎ・・・人生楽しまなきゃ~ねぇ・・・・
お蔭で、”早めに主人が亡くなってくれた” ので、なお、よかったケド」・・・

「アナタ・・それは言い過ぎじゃないの?」と
横のご婦人が助け舟・・・・

「おカネを持っては死ねないから、大いに使って楽しまなきゃ~キャははは・・・」

いやはや、最後に貴重なご意見を賜り良かった?です)^o^(

とどのつまりは・・
「アナタは、人を笑わせて楽しませているから極楽へいけるわよ~・・」

逞しい女性は嫌いではナイですが・・が・・・
ありがたいお言葉を苦笑しながら承って訪問を終えました

最期にチョコレートケーキのお土産まで頂きました
正に「メリー・クリスマス」(笑)!(^^)!(^^)/
楽しい訪問でした
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Xmas会で演奏 12/24(日)PSNK様No.1 人が見ていなくても・・

2023年12月24日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 昨年演奏した同系列の施設での我々の演奏ををご覧になって
こちらの施設でのXmas会で演奏して欲しいとご依頼を頂き
本日、初めての訪問となりました。


大手住宅メーカーの系列の老人施設ですが
先月打ち合わせの為にここを訪問した際に
約束時間より早く到着したので建物より少し離れた所で待機・・・
その際に玄関から、身体の不自由な高齢男性が現れました
ついで付添いの女性職員も・・・
足の不自由な男性の方はリハビリでしょうか・・・
器具につかまってゆっくりゆっくり・・
付き添うだけでも大変だと思いますが
イヤや顔一つ見せるでなく笑顔で手を貸して散歩させていました。
結構長い時間でしたが途中でベンチに座らせて休ませながら
見ていると、その女性職員は、実に思いやりのある態度で
付き添っていらっしゃるのを拝見し感心しました
他人が見ていない所でも入所者に対し
このような素晴らしい態度ならこの施設は、良い施設だろうと思いました



ところで今日はXmasバージョンで衣装も賑やかにしてみました
「星の界・・」から始まった演奏・・
クリスマスっぽい衣裳ですが、高齢の連れ合いにも良く似合って
皆様にも喜んで頂けたようです!(^^)!

男性の方の中には、背広と赤いネクタイ・・・
胸にはポケットチーフ・・おしゃれないで立ちの紳士も・・・
高齢になってもこうありたいものだと感心しました
1時間の演奏でしたが、喜んで下さった方も多く
遠くまで出かけた甲斐がありました

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鶴田浩二さんは努力の人 「街のサンドイッチマン」12/22(金)UD様No.12

2023年12月22日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 今日は30分の演奏ですので気楽です
Xmas関係の曲は「ジングルベル」のみで
あとは、津軽海峡冬景色等歌謡曲にしました

街のサンドイッチマン(作詞:宮川哲夫/作曲吉田正 唄:鶴田浩二)
も演奏しましたが私の好きな曲の一つです
私を可愛がってくれた小学校の担任が鶴田さんに良く似ていて、
そんなことも関係していたのかも知れません


 鶴田浩二さんは、一世を風靡した俳優さんですが
歌も数多くヒット曲を出していらっしゃいます
鶴田浩二さんの歌を数多く作曲した吉田正さん・・
吉田さんは、お酒が全く飲めなかったそうですが
鶴田浩二さんに「酒を飲まなくては良い歌は書けないよ・・」と
強引に吉田先生を誘そい、夜の街に出かけていたそうです
最期には、吉田さんは、鶴田浩二さんよりお酒が強くなってしまった・・
という逸話があるようです

吉田さんの奥さんのお話を聞いてみると
「鶴田さんは、レッスンにも真面目で熱心で
夜遅く来て朝方までレッスンを続けたことも多く」て
さすがの吉田さんもへろへろ・くたくた
「もう・・いいんじゃない?」といっても
もう少しお願いしますと納得がいくまでレッスンを続けられたそうです

「あのくらいの熱心さを他の歌手も持っていたら・・」とも語っていました

又、鶴田浩二さんは
映画出演でも他の人のセリフを全部暗記していたと言うから驚きです
ひとは見かけでは分からない部分が沢山あります
こんな話を聞けたのも「吉田正音楽記念館」を訪れたからです・・
訪問して良かったと思いました

今日も皆様の笑顔を拝見で来て安堵しました
1月のオファーも頂きました

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「おまえに」唄:フランク永井 12/19(火)STM様NO.1 初めての訪問

2023年12月19日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 今回は、以前同系列の施設で勤務されていたMさんから
お声がかかり訪問の運びとなりました
転勤されても、我々に声を掛けて頂き感謝しています


今日は、地域の皆様にも来ていただけるように「カフェ」を開催
施設も比較的あたらしいので第一回目だそうです
そのお気持ちに応えるべき演奏にも力が入りました

前もって美空ひばりさんのファンの方がいらっしゃると
お聞きしていましたのでひばりさんの曲を3曲
”私は街の子・柔・みだれ髪”を選曲に加えました
ひばりちゃんファンのおばぁちゃん・・・
感極まって涙を流して喜んで下さいました(^^)/

他にもフランク永井さんの曲・・
「おまえに/有楽町で逢いましょう」も選曲しましたが
作曲者の吉田正さんと言えば「異国の丘」が有名です



茨城県日立市に”吉田正音楽記念館”がありますが
”かみねレジャーランド”と隣接している見晴らしの良い高台にあります
入場料は無料です。(10月に訪問しました)

歌手のフランク永井さんは、元々ジャズ歌手でしたが
吉田さんが1年がかりで口説いて歌謡曲を歌うようになったそうで
このようなエピソードは、
音楽館の2Fにあるブースで
吉田さんの奥さんが色々な歌手について語っていらっしゃいます
パソコンからイヤホンで奥さんの肉声を聞く仕組みになっています

他の高名なジャズの歌手は、話にも乗ってこなかったらしいのですが
フランク永井さんがOKした時は、大喜びされたそうです



そんな事もあってか、フランク永井さんが
女性トラブルで自殺未遂をされた後も(かなりの後遺症が残った)
折りを見て見舞いに出かけられ生涯変わらぬ友情を示されたそうです

「おまえに」(作詞:岩谷時子、作曲:吉田 正、唄:フランク永井)

1 そばにいてくれる だけでいい だまっていても いいんだよ
  ぼくのほころび 縫えるのは おなじ心の 傷をもつ
  おまえのほかに 誰もない そばにいてくれる だけでいい

2 そばにいてくれる だけでいい 泣きたいときも ここで泣け
  涙をふくのは ぼくだから おなじ喜び 知るものは
  おまえのほかに 誰もない そばにいてくれる だけでいい

3 そばにいてくれる だけでいい 約束をした その日から
  遠くここまで 来た二人 おなじ調べを 唄うのは
  おまえのほかに 誰もない そばにいてくれる だけでいい

人間窮地に落ちると、
信頼できる人が「そばにいる」ことが
どれだけ有難いことかよくわかります
フランク永井さんも吉田さんがそばについていたことで
心強かった・・・のではと思います。

1時間の演奏も無事に終了出来てホッとしました
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ダンスパーティの夜 12/13(水)URA様No.6 追いかけて・・・

2023年12月13日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 先月に次いで6回目の訪問となりました
皆様にも顔を覚えて頂き笑顔で歓迎され嬉しく思いました

昭和歌謡の中では、「林 伊佐緒さん」の名は避けて通れません
林さんの代表曲の一つ
”ダンスパーティの夜”作詞:和田隆夫、作曲・唄:林伊佐緒)
を選曲の一つに加えてみました。

私も子どもの頃に口ずさんだ記憶がありますが
未だに懐かしく好きな歌です
皆様も口ずさむ方が多く、若い方はご存じないかも知れませんが
高齢の方の思い出の一曲となっているようです

1 赤いドレスがよく似合う 君と初めて会ったのは
  ダンスパーティの夜だった 踊り疲れて二人で
  ビルのテラスに出てみたら 星がきれいな夜だった

2 燃える想いを秘めながら そっと唇ふれたのも
  ダンスパーティの夜だった 甘くせつないブルースよ
  何にも言わずに頬よせて 二人いつまでも踊ったね

3 熱い泪をためながら 君が別れを告げたのも
  ダンスパーティの夜だった はかない夢とあきらめて
  忘れましょうと言った君 星が冷たい夜だった

 戦時下、「国民精神総動員」が進むと、
昭和15年に「ダンスホールはわが国の醇風美俗を破壊し、
何ら益するところがない」というので、次々と閉鎖・・・
 
戦後に生活にやや余裕が出てくると、
社交ダンスはまた盛んになり・・・
ダンスパーティは、男女の出会いの場となったようです。

今日も皆様に喜んで頂いたようで安堵しました
見送りに下階まで降りてきた女性職員の方・・・
挨拶して一度は中に入られましたが・・・・
なぜか、道路まで我々を追いかけてきて・・・
「失礼ですがおいくつ?でしょうか?・・・
元気の源は何でしょう・・・教えて下さい」と・・・・
笑ってしまいました。
トシを言うと・・
御利用者の方とほぼ同じくらいですね!・・と・・
だから昭和の心で歌謡曲を演奏?できるのですが・・(笑)
この調子では、来年もお依頼を頂けそうです(^^)/






 
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「星の流れに」 12/11(月)AIAI様No.106 反応も良く・・

2023年12月11日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 ♪:ジングルベル:♪を、皮切りに今日の演奏が始まりました
12月と言うとせわしさの中に、
どこか哀愁を帯びた曲を選曲したくなります

「紅(あか)とんぼ(唄:ちあきなおみさん)」等を演奏したいのですが
以前演奏した際に、「こんな曲は知らない」といわれたことがあり
一般の方はもちろん高齢者にも馴染みが薄いようなので
以来プログラムには入れていません
私の好きな一曲なのですが・・・残念です!

その中で、今日は久しぶりに
「星の流れに(作詞;清水のぼる:作曲;利根一郎)」を演奏しました

作詞した清水みのるさんは、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、
東京日日新聞(現在の毎日新聞)に掲載された
元従軍看護婦だった女性の手記を読んだそうです
内容は、
彼女は、奉天から東京に帰ってきたものの
焼け野原で家族もすべて失われたため、
「娼婦」として生きるしかないわが身を嘆いていたという
清水さんは、戦争への怒りや、やるせない気持ちを詞にしました。



「星の流れに 身をうらなって どこをねぐらの 今日の宿
 すさむ心で いるのじゃないが 泣けて涙も 枯れ果てた
 こんな女に 誰がした ・・・・・

 飢えて今頃 妹はどこに 一目逢いたいお母さん
 ルージュ哀しや 唇かめば 闇の夜風も泣いてふく
 こんな女に 誰がした・・・・」
 
当初、テイチクではブルースの女王として地位を築いていた
淡谷のり子に吹き込みを依頼しましたが
「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られ、
そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた
「菊池章子」に吹き込みを依頼したところ
彼女は歌の心をよく把握し、
戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げたのです

元々の題名は『こんな女に誰がした』でしたが
GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき
題名を『星の流れに』と変更して発売・・・

”発売後の反響”
レコード発売当初は全く売れませんでしたが
作品のモデルであった娼婦たちが歌詞に共感を覚え、
彼女たちの間で歌われることが多くなり、
当時、新宿の「ムーラン劇場」で上演されていた風刺ショーで
この歌が使用されるようになってからじわじわと火が付いて、
1949年(昭和24年)の春頃からヒットの兆しを見せ始め、
ついには大ヒットとなりました
また、田村泰次郎原作の小説『肉体の門』が映画化された際も、
この曲が挿入歌として使用され、ヒットの一因を担うこととなったようです
(参考;ウキペディアから)

色々な曲の裏に秘められた逸話をお話しながらの一時間でした
今日は、何時もより大勢の方がいらっしゃいましたが
皆様の反応も良くほっとしました
1月のオファーも頂き帰途につきました


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飯盛山の「さざえ堂」と白虎隊

2023年12月08日 | 車中泊の旅
 12月は10日過ぎから訪問が本格的ですので、その間時間が空くので
福島の旅で訪れた「会津若松」の一部をご紹介してみました

国宝「さざえ堂」・・・
飯盛山市営駐車場に車を止め徒歩数分のところが入口です
かなり階段を登らなければなりませんが・・
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有料のスロープコンベアがあり(¥250)ますので
足に自信のない方は利用すると良いでしょう・・

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「さざえ堂」は寛政8年会津若松市の飯盛山に
建立された高さ16.5m、六角三層のお堂です
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正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます
当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、
その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です

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昔は、その独特な2重螺旋のスロープに沿って

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西国三十三観音像が安置され、
参拝者はこのお堂をお参りすることで
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三十三観音参りができるといわれていました

また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、
たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという
世界にも珍しい建築様式を採用したことで
平成8年に国重要文化財に指定されました。


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飯盛山と言えば「白虎隊」・・・
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1868年8月南麓の林の中で鶴ヶ城をのぞみ自決・・
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明治17年に19士の墓が建てられて
その後会津各地で亡くなった31士の墓も建てられています
白虎隊でただ独り生き残った方がいましたが・・・
飯沼貞吉さんです。
生き残ったことで悩む定吉さんは、長州で暮らしていましたが
恩師で沼津兵学校の藤沢次謙(つぐよし)の言葉・・・

「死んだ者たちよりも、生き残った者の方が、はるかについらい
美しいのは死ではなく、生き残ったつらさを乗り越える力だと
私は思っている」という、言葉に励まされ・・・

その後逓信省に入り北海道の通信の発展に寄与し
晩年は仙台の方で暮らし、生涯、白虎隊について語ることは無かったそうです


駅前から周遊バス「あかべえ」に乗ろうと思いましたが
ガイドブックに掲載されているボンネットバスではなく
普通の車両でしたのでやめました

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中町駐車場に車を止め、野口英世通りを散策・・・
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野口英世青春館などがありました
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会津の漆器を販売している「あいずや大生」さんで買い物
奥さんが大変感じのよい親切な方でおまけまでつけて頂きました。
帰宅後、漆器のカップを愛用していますが
使い心地も良くキャンプにも持参して
味噌汁などをいれる器にしてもいいなと思っています(^^)/


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昼は「料理旅館 田事」で”ぜんまいせいろわっぱ飯”を賞味・・・
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会津の味は「田事」にあり・・の宣伝通りの美味しさでした

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檜原湖ぞいにある、裏磐梯リゾート「猫魔温泉」で入浴
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本日は「こたかもりオートキャンプ場」で宿泊しました
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管理人から
「いまの季節、来る人も少ないけど大丈夫?」等と言われましたが
檜原湖の側でリラックスできるキャンプ場でした
ただ、女子トイレの一つが中から開けれなくなるハプニングが・・・
どうも鍵が壊れていたようで・・・なかで大声で叫ぶつれあい・・
外から開けてやったところ、慌てて出てきた顔を見て思わず笑ってしまいました

旅から帰宅してTV番組(車中泊の旅)の中でこのキャンプ場が紹介され
管理人が映っていていました。
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管理人がタレントを見送ってぎこちなく手を振っている場面でしたが
笑ってしまいました(^^)/

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こんなことは普通は行っていません・・・
ヤラセ?(演出)ですねあれは・・きっと!・(笑)


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軍歌と「古関裕而記念館」 12/8は、太平洋戦争開戦日

2023年12月06日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
 12/8は太平洋戦争の開戦日です 
1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、
日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、
3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。

「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報
「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信され、
戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して
、攻撃の成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電された。

元々は、ワシントンで交渉していた野村・来栖両大使が
アメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていたが、
最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、事実上奇襲攻撃となってしまった。
アメリカ軍は「リメンバー・パールハーバー」を戦争遂行の合言葉とした

戦前の古関裕而さんは、
露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」等の軍歌をヒットさせ、
「軍歌の覇王」と呼ばれていました

10月に福島市入江町にある「古関裕而記念館」を訪問しました



平日にもかかわらず駐車場が満車状態で訪れる人も多いようです
NHK朝ドラ「エール」の影響も大きいものと考えられます

建物の外観は、名曲とんがり帽子(鐘のなる丘)を連想させるデザインとなっていました


1Fは、ロビー風になっていて

2Fが展示室になっています

撮影は禁止となっていますので写真は出せませんが
系統的に分かりやすい展示がされています

軍歌→戦時歌謡? 流行歌と軍歌は別物ではなく地続き???
レコード会社は、ご当地ソングが流行れば「地方小唄」を、
そして戦争が起これば「軍歌」を、
それぞれ“売れる商品”としてリリースし、
作曲家の古関裕而さんも、満洲事変や第一次上海事変に際して、
「満州征旅の歌」「肉弾三勇士の歌」などの軍歌を作っているのです。
山田耕筰も、中山晋平も、古賀政男も、みな同じでした。

戦時歌謡という考え方は誤解を招くと
古関さん自身が自伝で次のように述べています
”戦時歌謡など一切を「軍歌」あるいは「軍国歌謡」と呼んでいるが
「露営の歌」は大衆の心から生まれた曲であり、
軍の命による軍歌ではないのである

「露営の歌」(唄:伊藤久男)
”勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは
 手柄立てずに死なりょうか 
進軍らっぱ聞くたびに 瞼にうかぶ旗のなみ♪”

いわゆる国民一般が歌う歌は戦時歌謡なのである”と・・・
(出典:古関裕而著『鐘よ鳴り響け』)

つまり、戦時歌謡は「大衆の心から生まれた曲」として
流行歌と同じように扱われ、軍歌から切り離されているということです

当時のレコードにはジャンル名が添えられていましたが、
「愛国歌」「国民歌」「時局歌」「軍国歌謡」などはあっても、
「戦時歌謡」という表記は見かけたことがありません。
ちなみに、「露営の歌」の場合は「軍歌」とされていました。

コロムビアの新譜案内。「露営の歌」は「軍歌」とあります
戦後、キングレコードで軍歌レコードの制作などに関わった長田暁二氏は、
「戦時歌謡」を「昭和36年の筆者の造語」と告白しています(『戦争が遺した歌』)

また、日本最大の国語辞典である『日本国語大辞典』では、
軍歌がつぎのように適切に説明されています
軍歌とは・・・
”兵士の士気をふるい立たせ、あるいは軍事思想を普及するために作られた歌曲
行進曲風のものが多く、時代により流行歌ともなる”
(出典:『日本国語大辞典』デジタル版)

実は、古関裕而自身は、自伝でも「軍歌や時局歌」について
「仕事なのだとわり切って引き受け、時勢の流れにまかせていた」と書いているのです。
(参考引用 辻田真佐憲氏の記事)


古関裕而さんは、戦後になっても
「長崎の鐘・栄光の架橋・君の名は・イヨマンテの夜」等の名曲を残されています。
伊藤久男さんとは、古関さんの奥さん”金子さん”が
同じ大学で学んでいた関係もあり親友でした
野球に関連する応援歌も多く残されていて
野球殿堂入りをされ記念の品々も展示されていました


私達は、8月や、12月には時折軍歌も演奏しますが
出来るだけ「大衆の心から生まれた歌」に近いものを選曲しています。
私の好きな「暁に祈る」も、折を見て又演奏したいです


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「奥飛騨慕情」 12/1(金)ikiki様No.111

2023年12月01日 | 音楽ボランティア ハーモニカ演奏
今日から12月に入りましたが
クリスマスソングは今一つピンとこない雰囲気なので
冬の演歌を中心に30分演奏しました
その中でも・・・


奥飛騨慕情:(作詞・作曲・竜鉄也)を久しぶりに演奏しました
「竜鉄也」さんは、中学2年の時にはしかの後遺症で左目の視力を失い、
26歳の時に落下物が右目を直撃し完全に視力を失いましたが
紆余曲折を経て演歌師に転身、 73年に作詞・作曲した「奥飛騨慕情」が話題となり
250万枚を超す大ヒットとなりました。

1)風の噂に 独り来て
 湯の香恋しい 奥飛騨路
 水の流れも そのままに
 君はいで湯の ネオン花
 あゝ奥飛騨に 雨が降る

2)情けの縁に 咲いたとて
 さだめ悲しい 流れ花
 未練残した 盃に
 面影揺れて また浮かぶ
 あゝ奥飛騨に 雨が降る

 奥飛騨は、何回か行きましたが特に冬景色は美しく
ロープウエイに乗って展望台から見る雪山と
空の蒼さが印象に残っています

又、夏は穂高に登ったことがありますが
その時に山荘で出会った看護婦さんの言葉を忘れることが出来ません
彼女曰く
「多くの方を看取ってきましたが、今わのきわに・・・
ああ・・元気なうちにアレもすればよかった!これもすればよかったと・・
後悔の言葉を発する方が多いです。
だから私は自分のやりたいことがあればすぐ実行に移すことにしています」
こんな内容でしたが、奥深い言葉でした。

定年になったら〇Xするつもりだ・・来年になったらXXしたい・・等
よく聞く言葉ですが、明日の事は分かりません
やるかやらないかは、勇気と決断次第・・・
と言っても難しいことですが・・

今日も皆様と楽しい時間を過ごしましたが
久々に施設の代表にもお会いできてよかったです!(^^)/






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