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>リテラ<朝ドラ『まんぷく』への「憲兵を悪く描くな」攻撃は異常!

2018年11月02日 | 歴史探訪その他

>リテラ<朝ドラ『まんぷく』への「憲兵を悪く描くな」攻撃は異常! 首絞め、逆さ吊るし…本当の憲兵や特高の拷問はもっとヒドい
この論考に小林多喜二の事例が書かれていますが、共産党員ではありませんでしたが反戦川柳作家鶴彬の事例もあります。
特高警察の拷問の末、中野区野方署で赤痢に罹り、隔離病院の淀橋区柏木(現・新宿区北新宿)豊多摩病院で死亡しました。
新宿区内に、鶴彬顕彰碑を建立する運動があります。

金沢市卯辰山に建立された鶴彬顕彰碑
暁をいだいて闇にゐる蕾」1936年3月初出



憲兵のこわーい実話からの散文詩です。
・・・・・・・・・・・・・・
竹矢来  京 土竜 「しんぶん赤旗」1989年2月4日付「読者の文芸」に初出

  岡山県上房郡 五月の山村に
  時ならぬエンジン音が谺(こだま)した
  運転するのは憲兵下士官
  サイドカーには憲兵大尉
  行き先は村役場

  威丈高に怒鳴る大尉の前に
  村長と徴兵係とが土下座していた
  --- 貴様ラッ!責任ヲドウ取ルカッ!
  老村長の額から首筋に脂汗が浮き
  徴兵係は断末魔のように痙(けい)攣(れん)した

  大尉は二人を案内に一軒の家に入った
  ---川上総一ノ父親ハ貴様カ コノ 国賊メガッ!

  父にも母にも祖父にも
  なんのことか解らなかった
  やっと理解できた時
  三人はその場に崩れた
  総一は入隊後一カ月で脱走した
  聯(れん)隊(たい)捜索の三日を過ぎ
  事件は憲兵隊に移された
  憲兵の捜査網は二日目に彼を追い詰めた
  断崖から身を躍らせて総一は自殺した

  勝ち誇った憲兵大尉が全員を睨み回して怒鳴った
  --- 貴様ラ ドウ始末シテ天皇陛下ニオ詫ビスルカッ!
  不安気に覗き込む村人を
  ジロッと睨んだ大尉が一喝した
  ---貴様ラモ同罪ダッ!
  戦慄は村中を突き抜けて走った

  翌朝 青年団総出の作業が始まった
  裏山から伐り出された孟宗竹で
  家の周囲に竹矢来が組まれた
  その外側に掛けられた大きな木札には
  墨(ぼつ)痕(こん)鮮やかに

  国賊の家

  ---あの子に罪ゃ無ぇ 兵隊にゃ向かん 
  優しい子に育ててしもた
  ウチが悪かったんジャ
  母親の頬を涙が濡らした
  ---わしゃ長生きし過ぎた 
  戦争せぇおこらにゃ 
  乙種の男まで 兵隊に取られるこたぁなかった
  日露戦争に参加した祖父が歎いた

  ---これじゃ学校に行けんガナ
  当惑する弟の昭二に
  母は答えられなかった
  ---友達も迎えに来るケン
  父親が呻くように言った
  ---お前にゃもう 学校も友達も無ぇ 
  ワシらにゃ 村も国も無うなった
  納得しない昭二が竹矢来に近づいとき
  昨日までの親友が投げる石(いし)礫(つぶて)が飛んだ
  ---国賊の子!!
  女の先生が 顔を伏せて去った

  村役場で歓待を受けていた大尉は
  竹矢来の完成報告に満足した
  ---ヨシ 帰ルゾ 
  オ前ラ田舎者ハ知ルマイカラ 
  オレガ書イトイテヤッタ
  アトハ 本人ノ署名ダケジャ
  彼は一枚の便箋を渡して引き揚げた
  大尉の残した便箋は
  村長を蒼白な石像に変えた
  石像は夜更けに 竹矢来を訪れた

  三日後 一家の死が確認された
  昭二少年の首には 母の愛の正(しよう)絹(けん)の帯揚げ
  梁(はり)に下がった大人三人の中央は父親
  大きく見開かれたままの彼の眼は
  欄(らん)間(ま)に掛けられた
  天皇・皇后の写真を凝視していた

  足元に置かれた 便箋の遺書には
  「不忠ノ子ヲ育テマシタ罪 一家一族ノ死ヲ以ッテ 
  天皇陛下ニお詫ビ申シ上ゲマス」

  村長は戸籍謄本を焼却処分した
  村には 不忠の非国民はいなかった

・・・・・・・・・・・・・・

(了)




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