葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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鶴彬の顕彰碑建立運動「旧豊多摩病院近辺の公園に建立を」

2020年07月02日 | 幸徳秋水・鶴彬

淀橋区柏木町(新宿区北新宿4丁目)にあった、東京府立豊多摩病院近辺の公園に鶴彬の顕彰碑を建立する運動が始まっています。問い合わせは治安維持法犠牲者国家賠償請求同盟(略・国賠同盟)新宿支部・阿部俊雄(090-2724-5583:abe5569@gamma.ocn.ne.jp) 

鶴彬を顕彰する会

北新宿4丁目を地盤にしている、故新井康文自民党区議に打診をしたことがありました。豊多摩病院は伝染病隔離病院だったので地元では良い印象は持たれていない。戦後は苦労しながら区画整理事業をすすめ、柏木公園は事業用地によって造られた公園なので、豊多摩病院で病死した方の顕彰碑建立は賛同できないと話されていました。しかし、新井区議や町の古老の方々も鬼籍に入られていますので、現在の町民の心証は変化してることを期待しています。

 野方警察署での鶴彬のようすについて、平林たい子の『砂漠の花』の中に一部の描写が記されている。
 留置中に病に罷った鶴彬は、豊多摩病院へ監視付きのまま入院する。
 八月二十五日付の書簡には、
 〝啓、赤痢を得て表キへ入院してゐます。昨暮十二月三日以来漸く得た解放です。″と記している。続いて八月二十九日付のそれは、〝発病以来、重湯と林檎の汁で細々と命をつなぐのみです。いづれお礼は全快の上で親しく御拝眉の上で〟
とある。これが、鶴彬の絶筆となった。

【再掲】西日本新聞がふれていなかった部分を転載します。
楜沢健著『だから鶴彬 抵抗する17文字』151~152頁より。
8月、獄中で赤痢に罹り、未釈放のまま淀橋区柏木町(注:新宿区北新宿4丁目)豊多摩病院(注:隔離病院)に移される。9月14日午後3時40分頃死去。死因に関しては「川柳人・鬼才『鶴彬』の生涯」に、次のような興味深い証言が掲載されている。
*(証言)元731部隊に従事し、伝染病棟の医師でもあった湯浅謙氏は、数年前広島で開催された「七三一部隊展」の折に、川柳「和」同人の質問に対して次のように答えている。
(回答要旨)1937年頃(丸太)は傷病兵に対する隠語であった。―留置場で普通の赤痢で死亡することは皆無である。とても考えられない特異な例だ。赤痢菌添加物を食べさせ実験してから、赤痢菌多量接種して死亡させる、は考えられる。―皇軍による罪科の殆どは証言者が現れ解明されているが、特高関係については未だに誰も証言してくれない。だから特高の本当の任務内容が闇の儘である。証言者が現れたら赤痢菌を接種されたかどうか検討がつくのだが―。鶴彬は(七三一部隊用語の)マルタ一号にされたのではないでしょうか。
中国人の生体解剖に携わった湯浅謙は、終戦後に戦犯として投獄された。帰国後、自らの戦争責任を証言する講演活動を続け、昨年2010年11月2日に94歳で亡くなった。

 

 

金沢鶴彬会が金沢市卯辰山公園内に建立した鶴彬顕彰碑(撮影管理人)

楜沢健著「だから、鶴彬」67~66頁より解説文

暁を抱いて闇にゐる蕾

墨を刷る如き世紀の闇を見よ

暁の曲譜を組んで闇にゐる

シュルレアリスム的な騙し絵のような作品
1 ▼ 空が明るくなり、徐々に夜が明けてくる。「暁」は、宵、夜中につぐ、夜の第三段階目を指す。すなわち、夜明け。きのうとはちがう新しい一日、新しい時間がようやくはじまろうとしている。と思ったら、そうではなかった。暁は巨大な闇に包み込まれ、包囲されていた。じつはまだ辺りは真っ暗闇なのだ。その巨大さにくらべれば、暁は両手で抱きかかえられる程度の、小さく、弱々しいものでしかなかった。
2▼ 夜明けを迎え、どんどん広がる空の明るさが、一転して、小さな蕾に吸収されていく。気がつくとあたりは闇だらけ。まるでクローズアップでとらえていた暁が、ロングショットに切り替わっていくとともに、巨大な闇に包囲されている様子が明らかになっていく映画のワンシーンのようだ。光も夜明けも、じつは蕾の中に閉じ込められていて見えない。しかし、にもかかわらず闇と拮抗する暁の鮮やかさ、力強さ、神々しさが読者の脳裏に深く刻み付けられる。狐につままれた気分にさせられる、シュルレアリスム的な騙し絵のような作品といってよい。
3▼ この句は、発表がちようど二・二六事件と交差している。事件後、治安対策を理由にメーデーの開催は禁止となる。すでに労働運動は壊滅させられ、前年の天皇機関説事件により、言論と思想の息の根も完全に止められてしまった。戦争の地ならしが着々と進められ、気がつけば、あたりは闇だらけ。この闇のもつ絶望的なまでの深さ、濃さ、果てしなさを理解せずして、鶴彬の世界を真に享受することはできない。この絶望的なまでに深く、濃く、果てしない闇を理解せずして、それと拮抗する「暁」の鮮やかさ、力強さ、神々しさを真に享受することはできない。
 4▼ この句は、1965年に没後27周忌を記念して、金沢市の卯辰山公園の句碑に刻まれた。表記は初出と異なり、直筆の短冊に記された「暁を抱いて闇にゐる蕾」が用いられている。

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第5回 新宿・平和のための戦争展 後援・新宿区・新宿教育委員会

2014年「新宿・平和のための戦争展」の「平和川柳」に応募しました作品です。 
                    
鶴彬 いまを詠みけり 五七五
  
市ヶ谷は 見ざる聞かざる 秘密法 

PAC3  見てはいけない フェンス越し 

靖国の 遺児が目覚めた 秘密法
 
子どもらは 国と国との いじめだと
 
自衛隊 九条(くじょう)に守られ 銃をもつ

世界の目 安倍の行く先 血のにおい

シーサーの 口に噛まれし 普天間を

嶋島(しまじま)は 古き漁民の 道しるべ

大臣(でぇじん)の 椅子が欲しさに 鶴鳴かず
*創価学会会長(当時)池田大作氏がある集会で、公明党から何人もの大臣が誕生すると演説をしたときに「でぇじん」と訛ったことが有名なエピソードとなりました。

信濃町 平和のお経 闇の中

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楜沢健著『だから鶴彬 抵抗する17文字』より

川柳作家鶴彬「エノケンの笑ひにつゞく暗い明日」 「志村けん笑ひにつゞく暗い明日」

川柳作家鶴彬作品から「半島の生まれ」 ・「ヨボと辱しめられて怒りこみ上げる朝鮮語となる」他

川柳作家鶴彬作品から「屍のゐないニユース映画で勇ましい」「手と足をもいだ丸太にしてかえし」他

(続く)

 

 

 

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