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A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜

2022年08月27日 | 安倍・菅・国葬・統一協会

A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・夫岸信介と統一協会=勝共連合の系譜を追ってみたい。

日本共産党中央委員会出版局刊「原理運動と勝共連合」から笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会の系譜の系譜が分かる。P20~P23を抜粋。

(一)勝共連合の日本上陸
 勝共連合が日本へもちこまれたのは、一九六七年である。この一九六七年という年は、一月の総選挙で自民党がはじめて得票率で過半数を割った年であり、ひきつづく統一地方選挙でも、首都東京での革新都政の実現、長野県塩尻市での共産党員市長の誕生など、七〇代の政治革新の事業にむかって一連の前進が開始された年であった。これにたいして、自民党財界など反共勢力も一 九七〇年の安保条約の固定期限終了時の危機を訴え、右翼暴力集団がつぎつぎに結成されるなど日本の右翼陣営の新設.再編成がおこなわれた年でもあった。
 勝共連合は、こうした政治舞台のうらで、統一協会と日本の右翼陣営との奇怪な野合によって創設された。そして、笹川、児玉、赤尾敏をはじめとした右翼のボス、A級戦犯容疑者の岸元首相、侵略戦争に積極的に加担した社会大衆党の流れをひく春日一幸前民社党委員長など過去に暗い古傷をもった反共・反動支配層へつぎつぎとくいこみ、影響力をひろげていった。この、日本の右翼運動、反共・反動勢力との結合について,かれら自身が、「国際勝共連合の歴史ーー燃え上れ勝共の炎」(勝共連合機関誌『世界思想』七六年新春号)のなかで詳細に告白している。とりわけ冒頭の「創設期」なる部分は、勝共連合の目的やねらい、統一協会教祖・文鮮明とCIA秘密エージェント児玉とのつながりなどをあからさまにしめしているので、その冒頭部分を紹介しょう。
 「本来撈共連合は、一九六五年(昭和四十年)日韓基本条約締結直後日韓両国の反共首脳会談によって発足する予定であったが、韓国政府が出国を拒否したために実現せず、三年間設立が延長されたことは、実に残念であった。何故なら三年間設立が早ければ、共産勢力を凌駕していたにちがいないからである。
     一九六七年六月ようやくにして日韓両国の反共首脳会談が実現し、韓国側文鮮明氏、劉孝元氏、日本側は笹川良一氏、児玉誉士夫氏代理白井為雄氏、市倉徳三郎氏らが出席して、山梨県本栖湖畔の全日本モーターポート競走会連合会の厚生施設【注】で『第一回アジア反共連盟結成準備会』が開催され、勝共運動日本受入れの合意が成立した。同時に民族陣営の大同団結による仮称アジ ア反共連盟の結成準備と、同施設において日本青年講座が開催され、統一協会の久保木修己(統 一協会会長)、小宮山嘉一(当時全国大学原理研究会会長)両氏が出席した。しかし、反共愛国民族統 一戦線を目的とするアジア反共連盟の結成は、民族陣営の不一致により、ついに実現を見なかっ た。
  しかしわれわれは、同じ頃、文鮮明氏をはじめとする十六名の幹部を韓国から招き、日本統一教会の幹部百二十名が参加して、渋谷区松濤ーのーの二の同教会本部ホールに於て、六月十七日より七月一日に至るまで、大修練会を開催し、理論武装の強化を計った。七月一日の修練最終日は全修練生が東京都西多摩郡五日市町に集結し、城山に登り、遠くアジア大陸に夢をいだきなが ら、超民族的アジア国家建設の理想に燃え、ほほを赤く染め、秋川渓谷に降りて、結団式を行ったのである。……中略……
 その後、反共連盟の結成について何の動きも無くなった。そこで同年十一月頃、久保木修己氏が渋谷区松濤の統一教会本部に沢浦秀夫、野村健二、.阿部正寿、庫田隆善の各氏を招き、国際勝22 共連合結成準備会議が行われ、国際勝共連合の前身、勝共啓蒙団が結成され、初代事務局長に沢浦秀夫氏が就任した。初期の勝共活動は勝共遊説隊の街頭活動が中心であった。
  その後、韓国より李相憲著『新しい共産主義批判』の原稿を入手し、野村健二、阿部正寿氏等 が中心となって日本語に翻訳し、出版した。さらに日本の反共人士として著名な故高谷覚蔵氏をはじめ多くの先生方の指導を受け共産革命の惨禍から祖国を救う残された唯一の道は、共産主義の理論的矛盾と、革命の実態を誠実に国民に説得する以外にないという結論に達し、理論団体として、研究を積み重ねた。
  翌一九六八年四月一日、本栖湖会談の精神に基づき笹川良一氏を名誉会長に、久保木修己氏を会長に迎え、国際勝共連合を結成した。発足と同時に本連合出版の『新しい共産主義批判』を各界各層の指導的立場の人に贈呈した。」(原文のまま)
ここには、もう注釈の必要がないほどの日本の右翼と統一協会の接近・野合そのものの歴史と、その産物としての勝共連合誕生の経過と事情とが語られている。また、国際勝共連合事務総長梶栗玄太郎執筆となっているこの文書は、日本共産党と科学的社会主義の理論と運動の"制圧"、"打倒"をめざす勝共連合の不発に終わった日本の"右翼大連合構想"の赤裸々な告白でもある。

・・・・・・・・・・・・

【注】ウイキペディア「1966年から2001年まで、全国モーターボート競走会連合会(現:日本モーターボート競走会)が運営する本栖研修所や競艇の育成センターがあり、湖面を使って練習が行われていた(2001年以降は福岡県柳川市に「やまと競艇学校(現:ボートレーサー養成所)」として移転)。競艇界では「本栖」という言葉が、やまと移転前の競艇研修所のことを指す隠語として使われていた。」

河出書房新社刊図説東京裁判より「GHQ東京裁判の終結を宣言」
 七人の絞首刑が執行された翌日の昭和二十三年十二月二十四、GHQは巣鴨に拘置されている他のA級戦犯容疑者の釈放を癸表し、併せてA級戦犯を裁く極東軍事裁判はこれで終了すると声明した。
 すでに多くの「A級戦犯容疑者」は二年半の間に釈放されていて、この日巣鴨プリズンや自宅などに拘禁されていたA級戦犯容疑者は次の十九名であった(ABC順。地位は 戦前のもの)。
安倍源基(元企画院次長、元内務大臣)
安藤紀三郎(元内務大臣)
天羽英二(元情報局総裁)
青木一男(元大東亜相)
後藤文夫(元内相)
本多熊太郎(元駐華大使)
石原広一郎(元石原産業社長)
岩村通世(元法相)
岸 信介(元商相)
児玉誉士夫(元児玉機関長)
葛生能久(元黒龍会会長)
西尾寿造(元北支那派遣軍総司令官)
大川周明(著述家)
笹川良一(元国粋大衆党首)
須磨弥吉郎(元スペィン公使)
多田 駿(元北支那方面軍司令官)
高橋三吉(元軍事参議官)
谷 正之(元内閣情報局総裁、外相)
寺島健(元逓相)
  この十九名のうち多田は十二月十六日に、本多は十八日に死去している。この結果、終戦直後にA級戦犯容疑で拘禁された約六十名の中で、この日以後も拘束されていたのはGHQ裁判にかけられている元連合艦隊司令長官豊田副武海軍大将と、元俘虜情報局長官田村浩隆軍中将の二人だけになった。

①「笹川良一」②「児玉誉士夫」③「岸信介」に続く。

 

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