葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

「葵から菊へ」市ケ谷刑務所編

2010年05月16日 | 幸徳秋水・鶴彬

「葵から菊へ」市ヶ谷刑務所編を編纂する上で貴重な資料が見つかった。

「葵から菊へ」鎮魂1 市ケ谷監獄・市ヶ谷刑務所
  明治の古地図を見ると靖国通りから当時の谷町、富久町にまたがる広大な土地が市ケ谷刑務所(東京監獄)、市ケ谷監獄となっている。1964年日本弁護士連合会が、市谷富久町児童遊園(新宿区余丁町4)に刑死者慰霊塔を建立している。天皇制政府に刃向かった人々、或いは冤罪の人たちの霊を慰めるためである。毎年秋の彼岸日には日弁連と市谷台町町会が慰霊の集いを行っている。都市計画道路都道環状4号線が完成すると、この慰霊塔は歩道の前面に位置することになり、新宿区平和のための近現代遺跡として改めて脚光をあびることであろう。

007

『新宿区の歴史』によれば、最初、市ケ谷監獄が設置され1875(明8)年に小伝馬町より移され、市谷町囚獄役所といい未決囚を収容した。後に既決囚を収容するに至り、1903(明36)年に市ケ谷監獄と改称し、1910(明43)年豊多摩郡野方村(現在の中野区)に移った。
  東京監獄は1903(明36)年に富久町に建物が竣工し、鍛冶橋より移ってきたもので、当初は未決囚を収容した。
1922(大11)年に市ケ谷刑務所と改称した。東京監獄に刑場を設けたのは1905(明38)年で、それまでは鍛冶橋で収容し、市ケ谷で執行した。
  高橋お伝「1979(明12)年」、稲妻小僧「1900(明33年」等が処刑された。特に忘れてはならないのは、大逆事件である。天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水等12名が処刑されたのは、1911(明44)年の1月24日~25日のことであった。
  尚、日本共産党の元宮本顕治議長も1933(昭8)年12月26日、スパイの手引きで麹町署に検挙され、その後1937(昭12)年までの約4年間、収監されていた。
【註】
1  「病の時は病監に収容され」1937年、巣鴨刑務所に移された。
2  当時正門前の市谷富久町118番地に赤色救援会(現国民救援会)があり、共産党幹部渡辺政之輔氏の母堂が近辺に住んでいて差し入れ等を行っていた。

以上が2000年に新宿平和委員会が発刊した「葵から菊へ」(絶版)の一部抜粋である。

「市ヶ谷刑務所にも不浄門があった」と先日このブログにアップしたが、その後、市谷台町の歴史に詳しい方にお話を伺いながら新たな遺物が発見された。

余丁町1番地の駐車場にある煉瓦は市ヶ谷監獄時代の煉瓦塀の跡であると教えられ写真を撮った。

015

住吉町にある安養寺の墓地に御影石製の境界石が数個ある。大谷石擁壁の上が市谷台町の住宅地である。境界石には「東京土地株式会社」と彫られていることが分かり、地元の方に聞いたところ、廣部清兵衛氏の廣部銀行が市ヶ谷監獄の廃止後、国から譲渡を受け、住宅地として販売を始めたが倒産したので「東京土地」とした。「東京土地」は「、箱根土地会社(現、国土開発)」と変遷をしたそうである。この住宅地が市谷台町である。谷町は住吉町となった。

025

 

 

019_2

016

 

 

市谷仲之町から住吉町あけぼの橋通り(旧フジテレビ下通り)に下る「念仏坂」があるが、由来には諸説がある。市谷台町の方は「市ヶ谷監獄」の刑死場で処刑される囚人を家族が谷を越した市谷仲之町の台地で念仏を唱えたのが由来だと亡父から聞いていると教えてくれた。

026

021


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 皇居東御苑と皇居外苑見学の... | トップ | チチハル毒ガス被害事件裁判... »
最新の画像もっと見る

幸徳秋水・鶴彬」カテゴリの最新記事