まず先に鹿島の捏造者調べ続
伏見貴族(三菱商事・三井物産など)が相馬藩の人間を使うように仕向け
三菱商事方面が相馬藩の人間を相馬が使ってたように仕向けた この時藩主という血統はイギリス加担した相馬恵胤以下、相馬永胤(滋賀・横浜)
相馬側で北畠顕家の第三子は相馬藩主の血統だと捏造やってたから
うちが北畠顕家の子だと、相馬利益にして相馬利権に出来ると思われてた
相馬側が吉左衛門の即位を知ってて、相馬藩主の血統に顕家の血が入ってると嘘拡散・闇で工作員らがカツアゲ強盗窃盗 相続の強奪をやってきてる
伏見の派生が鹿島SAできた方面を巣にしてただろ?
そこの墓地知ってたから調べにいって見つけた伏見禰宜の墓石複数
あそこの協力者は渡部 西 その渡部の中に吉田の名使ってる家がある
これが鹿島の家に女中で入り込んでた女で吉田の名 この親戚が黒木六郎
この吉田(黒木親戚)と黒木六郎の娘(タツ婆)が源孫殺した側
この吉田ミツという婆の家系の墓がココにあった 探しに行ったら無くなってた 吉田ミツが源孫死んだ後黒木と光の間に入ってた黒木親戚
この吉田婆が自分幼少時の世話した人 殺害者達に世話されて洗脳されていく光景を思い浮かべたら脳内錯乱してくる
吉田ミツの息子が黒木の諏訪神社の近所に家あって住んでる
吉田ミツの息子と身内になってる渡部はこの鹿島のテリトリー出身
鹿島のそこのエリアの伏見禰宜は京都の伏見貴族の遠戚か代理
京都の伏見貴族とは旧皇族と言いながらアキヒト達の血統は伏見の後裔
大日本帝国の海軍陸軍の本体 伏見
実質相馬は顕家(吉左衛門)の仇だ
仇側(相馬・黒木・門馬・青田・岡田・藤田)らが偉大であるように、うちに働かせて、闇でうちが相馬の血統だと捏造してた安倍晋三方面
だから三菱商事の支援が昔あったんだ
相馬と顕家の子は因縁の関係性でどうしたって相馬の血が顕家の血にならない
どんどん出てくる知り得た苗字や名が うちの持ち物盗んで藩主へ貢ぐ側になってるのがわかるはず その藩主とは最終的にこの国の皇族らを作った組織
あたしが助けるべきは元従業員らではなく、最後までこっちに尽くした人で
こういう連中からイビリや陰口の被害にあってた人だ
元従業員で退職金を出してやりたい人が1人だけいる
元従業員が相馬藩側である限り 子孫末代根絶やしにするぐらいの腹だ
ガキがいようが関係ない
元従業員の方面に吉左衛門の名パクってる家 仏像盗んだ関係者がいる
元 親方だと思うならしかるべき対応できたはずだ 微塵もない
相馬藩側が関東軍な為 当然医者関係が出てくる
つまり どうあっても相馬藩と縁切りする必要がある
優秀だと言って待遇受けた家の一部は工作員として使えるから
待遇受けてただけだ 関東軍時代の軍医の方面と思われる
相馬藩の昔の村長らが うちの金を戸籍上捏造した上で身分成りすましして金を使いこみ、さらに請求して金を払わせるという蛮行を繰り返した
※偽名の山 偽名のあげく石碑を建てる あたかも実在したように
実在しても戸籍上の出目がインチキ 実在した人物正当化は、それ以前の捏造
を正当化することになる
※偽名で自分の家の戸籍を作り、その戸籍が顕家の子と繋がってるようにでっちあげ藩の中での地位をアピ―ル こっちがそういう目に合い、他人が顕家の子に成りすましをずっとやってる、これが藩主家臣側にいて1人いたらみんなで分担し分担者がそれを隠すようにそれぞれ1文字使ったり金がある権力があるフリをする その為の遺品窃盗 その為の金の要求 あくまで、自分の権威作りに使うのは隠し、藩の公共で金や情報を使うという言い回しパターン
真野連中(真野結社)は村長や宮司集団の
乗っ取り犯罪者メンバー
天皇を自演してたのは鹿島の只野一郎朝鮮人の家
ここから真野結社が吉左衛門の名を相馬藩家臣に使わせ、成りすましが複数出て、さらに只野一郎犯罪者の同じ苗字を分担し、只野・但野・唯野で集団使い込みをし、吉左衛門を軟禁し洗脳、金を出させていた
只野一郎の家の兄弟が相馬の只野商事
🌸某ブログにあった 郡豊太郎 浪江幾世橋 明治3生まれ 郡コオリ
浪江エリアでは財があったようで薬屋を創業、肥料屋兼業
磐城水源株式会社、双葉たばこ小売商組合長 県会議員 浜街道劇場組合加盟
顕家の子は相馬昌胤だと捏造した浪江の幾世橋エリア 首謀者は郡豊太郎で別名只野(但野)
由五郎だった可能性高い 郡は郡・相馬・但野・只野の苗字を使い分けしてた
急に金持ちになるのもおかしい あの郡源左衛門だ たぶん
この郡が戸籍に入り込んで捏造した時期は吉左衛門殺害(見込み)の後
北海道北見紋別の切符入れが残っている
由右志だと思ってたヤツどうやら由右エ門(由エ門)
それらが香川県に多田野の出先を作って香川県高松で高松宮の出目を作った それに埼玉の秩父が出目作りを協力し、天皇家の秩父宮・高松宮が出来た
伊達側で、ある時期香川県小豆島方面に行ってたな?
あの時期だ だから伊達(山口)宗城(山口直勝の息子)
が出世したんだ
文四郎はこいつらの仲間うちだったんだ 文四郎の顔はアキヒト祖父の顔
そしたら與惣治も殺人犯に育てられたようなもの
与惣治は文四郎の子ではない 吉左衛門の抱いてる赤ん坊が與惣治(写真)
うちも黒木婆が乗っ取り犯グループだった 光爺も源孫きょうだいと言えない
戸籍見たら日本国籍とだけなってる
気のせいか 喜和子の家に光の名があった物を見た気がしたんだが
見つけられない
同時に どういうわけか このゼンリン地図だと喜和子の家の苗字になってる
喜和子の家は勝手に分家申請をして但野から但野に変えてる
ゼンリン地図編集者が間違ってると思ってたが森顕(御子神社宮司)これは
存在してたのを発見した 森昭文の父親か?
それ以前から但野姓が乗っ取り加担してた疑いあって、その理由は鹿島寺内の道路沿いに石碑が建ってる その石碑に但野與吉って彫ってある
※相馬に與兵衛来て1村を作ったんだby相馬藩👈嘘 與惣治のが急に湧いたように捏造 これは與惣治の事だ 文献はその後改ざんし作られてる
当時渡辺という富豪がいた👈相馬で有数な渡辺富豪はいない いたらその子は議員か医者になってるはずだから
嘘吐き老害達はとぼけているが、どうも與惣治の名は 与宗治という人いたと言われて付けた感じがある でも、これだって与宗・だぞ?
あの石碑に 與って彫ってある これはうちの與惣治の1文字使った親戚アピールかもしれないし 戸籍をそのテリトリーで掴んでたかもしれないんだ
ー捏造売名工作ー
清算書や書類に出てくる只野・但野・唯野の苗字と、下の名前
組み合わせの名 これに桑折・郡の2人は吉左衛門の親を自称してた2つ
それに幾世橋や渡部、渡辺と菊池 これに門馬と青田が加わってる
田村市の田村か 鹿島の昔の町長 これが田村市筆頭工作員 子供は医者
永渡与惣兵衛も名前パクリ 真野連中の仲間だったんだな あのエリア
この与惣って文字は 過去の与宗治・與惣治の1文字ずつ取って使ってる
舘野家はパクリした家だから うちを嫌う
バレると「うちは真似なんてしてないわよ💢」ってキレだすパターンだ
👈森鎮雄の本「相馬略史」と鹿島町「鹿島町の神社と仏閣」の本から見つけ出した 1つのキーワードがあった
森:天明凶年に村民脱走したが、この年中與兵衛という者がやってきて
荒蕪地を開拓し1村を築いた
また、文化年中、中村城下に半井(なからい)法橋という名医がおり、渡辺平八は町内第一に富豪であった
文政元年には学堂がはじめて作られ講所と名付け海東友助をもって、その長とし次いでその高弟錦織良蔵を任じたP65
※海東友助は唯野友助 その子が錦織は捏造 相馬事件に出てくる錦織
海東は別姓:津田の可能性あり 東春日井郡長鈴木寿三郎の相方
👈鹿島町の本「鹿島町の神社と仏閣」
①明治36年山形県の鈴木寿三郎の八沢浦開拓権利を県より得たが、日露戦争勃発で中止。そこで岐阜県養老町の郡会議議長、郡農会長等の要職を務め地方の名士で自ら50ヘクタールの大地主でもある山田貞策と会い八沢干拓構想が出来上がった
只野正蔵に面会し、八沢浦世話人会18人、沿岸各村長の八沢村長・天野有常、日立村長・唯野真太郎、磯部村長・島卯兵衛、相馬郡長・金指清と会見し、官用地の払いさげ、公有水面の埋め立て許可等を行い前代未聞の干拓事業第1歩を標したP40-41
②永渡八幡神社は文政3(1820年)に永渡の与惣兵衛をはじめ、惣八・治右エ門・要蔵の4人により南柚木上大明神宮第14代鈴木次喜志摩守を斎主とし、勧請したもの
舘野家の祖先永渡与惣兵衛の氏神として崇敬していた神様を新に社殿を建て
村の鎮守とし新地の守り神とした
※ここに岐阜が出てくる 只野一郎の家で美濃守の称号使ってたのは、この郡会議議長・郡農会長との結託をしたからでは? 郡って苗字の事か
情報が欲しいところだ 相馬郡長なら、相馬郡エリアの長という意味
それじゃないと思われる ウィキに養老町の当時情報が出てない
消したんだな 明治36年頃の岐阜養老町の関係者情報必要
1時間位は待った 岐阜の郡
郡会議議長、郡農会長は苗字だな?
岐阜大垣 郡義巳 現在
岐阜大垣 郡義人 現在
んじゃ鹿島にいた天理教鹿島町分教会「郡貞義」は仲間
血は繋がってるかわからない
あった場所 鹿島天理教分教会は鹿島の御子神社・森昭文のすぐ後ろ
「遠藤義夫」天理教中村分教会は仲間うち
郡はコオリと読む 桑折町を出目としてるコオリ一派の郡の方だが
岐阜県大垣市の主要村長メンバーだったか
岐阜と名古屋で結託 岐阜の郡〇〇が天理教布教
山形の鈴木寿三郎。。は嘘で鈴木寿三郎は名古屋 結託者が津田応助
東春日井郡長鈴木寿三郎
山形県の鈴木寿三郎の八沢浦開拓権利
源孫遺書によれば 昔相馬の殿さまに 「お前の名が気に食わない!!」と騒がれて名を変えさせられた こう書いてあった
しばらくして、また名を戻した 与宗治に戻したと書いてあったと思う
この1文だけで 相馬藩主側が、いや家臣集団がイビリにイビリ尽くしてたのがわかるだろう?
この藩主が岡田 藤田 堀内 青田 幾世橋 木幡 門馬こういう血統だが
それと別に廻船業初めてから相馬藩主に言われ 何かを作らせられた
でも、その後大損させられた こう書いてあった
うちで菱垣廻船やってる時に この態度あるか? 相馬藩主が天皇でも自演してたかのように
吉左衛門はうちなんだ 他所で隠してるのは相馬藩の家臣集団がうちと立場を入れ替えてたんだ 影で 相馬藩家臣側にいた2家の只野は但野と唯野と只野一郎の家 只野一郎の家で顕家の子顕成が多田野を継いだと嘘ついてすり替えしたのは江戸中期から この江戸前ー中期、顕成が多田野を継いだと言いだしてる
当家に入った枳風は外人でキフウ大公の後裔 この当時の物を全部盗んで焚書した京都と只野一郎の家と相馬藩 枳風キフウが松尾芭蕉の芭蕉庵作るのに出資してただけだから門徒のリストに入れられても俳句家メンバーの遺作の中に
俳句がない
只野一郎の家で顕成が多田野を継いだと言う事で、立場がうちの親ポジションになり、相馬藩主側が金を欲すると「藩主の命令だ」という口実使って親のような態度で恐喝強行してたと思われる 只野一郎の家で恐喝窃盗
その入れ替え時期 どんな手段で入れ替えてるのかっていうのが犯罪なんだ
源孫の遺書から江戸に入る前か江戸になった頃が開始のようだ 廻船業
その頃の相馬藩主は誰か
豊臣秀吉の天下統一って言われた後で見た場合
相馬利胤ー慶長7年「我が家は桓武天皇の後裔平親王である!」と発言
これにかこつけて天皇自演するには無理がある 古すぎるのと平親王なんて
中東人前に言えるのか?って話
大変だ安倍の名出てきた
安倍主水ー慶長16年行方郡太田村より標葉郡棚塩村に移る(原発予定地だった買収地を水素工場にしたエリア)
安倍貞任の後裔で安倍大学の時重胤に仕え、以来相馬におって、武功あり
この家の家宝には天國小剣と家系があるという 森鎮雄P47 ←大嘘
相馬中村神社近くに安倍姓と阿部姓がいる これも同じパターン
天國はうちにあった刀だが相当な地位の人間じゃないと持てない品物だから
安倍姓が持つ話が嘘 というか、うちにあったんだ 盗んだ?
牛渡一家が霊山落城の時の仏を23代にも渡って持っていると嘘ついたコレのパターンに近いのでは?
岡田八兵衛宣胤ー慶長2年小高郡岡田塁より行方郡泉村町畑の館におる
岡田七郎兵衛胤房ー行方郡信田沢村内城山の頂におる
相馬及胤ー橲原村細入野館におる 義胤の次子で徳川秀忠に仕えたが当村に蟄居した←当村ってどこ
相馬忠胤(勝胤)
相馬昌胤 泉田村に居館 その地を幾世橋と名付けた
相馬叙胤 相馬昌胤世継ぎなく佐竹義処の子 義珍を養子にした名は叙胤
相馬尊胤 相馬昌胤の拉致られた子 千代松をもらって尊胤と命名
北目嘉胤 仙台市小田原 借用主S48年5月14日(相馬嘉胤のつもりか)
寛永2年領主利胤は45歳で逝去し、その子大膳亮義胤が後を継いだ
寛永12年には標葉郡泉田村に老を養っていた長門守義胤(利胤の父)が88歳で逝去
安倍晋三がどうしても相馬義胤はお前のとこだって思ってたんだろうけど
流れちゃんと知れば どうあっても相馬の血にならないの
そもそも 相馬義胤長門守は、顕胤の後に盛胤が産まれて その親も盛胤でないと困る!!って雰囲気みたいだが無理だ💢
盛胤ー顕胤ー盛胤ー義胤ー利胤って 捏造してんだ 顕胤なんていないから
領主は藩主と違うんだ 真野長者の領主くらいで相馬藩藩主にでっちあげ
その血が次の相馬藩主に受け継がれ 俺達はその子孫だ!!!利権欲しさ
相馬の名が天皇になった事はない 自称する事あっても
その自称すら大問題 麻生信子が皇族って地位に入り込んだあげく 俺らの孫ってやってるから中途半端に皇族側ではない近親者として いるだけだ
顕胤とされてる人間を桑折側が式部少輔だと言った
その為に森鎮雄の本には式部少輔だと書かれてる 桑折側が認めてたんだ
顕家の子孫だって
ただし、相馬から産まれたのではなく 顕成の孫らから出てるんだ
相馬という名の利権者軍団が 顕家の子を間に挟んで天皇ぶってたんだ
神社しかり これは二度とやってもらっても困る
相馬が天皇になる事もない うちの長慶や吉左衛門の戸籍に混ざりこんで
金の搾取と 管理者ぶった地位を誇示したいだけだ
桑折犯罪者は顕胤と流布した側で 顕家の子孫の名まで奪ってる
何度も出すが森鎮雄の本から、次期ごとにその時代の武勲の名の1文字を
相馬〇胤の〇へ ハメてただけ
実績は捏造
経産省へ棚塩への水素の話 安倍晋三が欲して発動したんだな わかったわ
この本で
浪江に郡豊五郎がいた明治3年生まれ(明治3年生まれでも20年後でも大日本帝国側としての捏造すり替えできるしな)幾世橋生まれ
そうなると、郡の苗字は桑折町から出て浪江 鹿島 相馬にあったのは確定
今度、森鎮雄の本から郡をさがす 郡と書いてコオリと読む
桑折と書いてコオリと読む
発音と外国でのサイン筆記が同じになる これは外人相手だと相手を騙せる
日本人社会で違和感持たれないできたから 中朝人はラッキー
違和感もったあたしは被害者だから とことん調べ尽くす
郡の名は桑折町からきてる
桑折町に昔 郡役所があった あの伊達エリアは福島県バイパス通り
それと別の伊達エリアは三春 田村が伊達と交わった史からきてるが
①1300年代 霊山記略には寄合衆に桑折はあっても、郡はいない
②寛文年中 土工監 郡勘右衛門 代官書筆吏 梅田喜右衛門 P51
ー寛文時代の役人ー
立野市右衛門
渋沢源右衛門
原七右衛門
小泉彦兵衛
寺島五郎兵衛
小丸(日下石)富沢堤指揮
ー慶安2年時代の侍ー
島新五左衛門 宝蔵院流槍術師範 P53
岡部五郎左衛門
荒井弥市右衛門
志賀三左衛門
志賀八右衛門
鴇田新五兵衛
ー元禄10年ー
星甚左衛門 吏庁 相馬昌胤の子菊千代を拉致し国見山の下に殿舎を作ってここに移した
ー元禄12年ー郷吏
松岡六左衛門 新沼開墾指揮
富沢杢兵衛 南屋形
佐藤佐之助(代官)南屋形
里正紺野吉左衛門 南屋形
杢右衛門七右衛門(村長)南屋形
ー寛文3年ー
軍司 大江又左衛門が江戸から来て兵学伝授
ー宝暦4年ー
佐藤惣太夫 浪江請戸漁港 国吏
阿部久太郎 ″
ー文化11年ー
綿屋七郎左衛門
ー天明3年 大飢饉ー
加賀 越中両州の移民を入れさせた
浪岡吉左衛門の死亡時期
田中城(館)鹿島真野村の戦で桑折がそこを城主だと言い出して顕家の子孫が出て行ってる推定年齢が死亡年推測と合致する為
※その戦の後に顕胤の話題がないのはいなくなってるから
何度も出すが最初に津軽へ行ったのは顕信の孫:親能(父が守親)
1337年顕家霊山出発 伊勢経由で大阪へ向かう為
1337年松代出産顕成を産む
1338年顕家大阪で死亡21歳、訃報入り松代と顕成霊山脱出
1340年顕成宇津峯城に入り
1353年宇津峯城へ集団攻撃あり脱出
1353年顕信の守親陸奥大守その子親能は出羽の津軽に入り浪岡郷に寄りて
浪岡を称す 霊山記略P138 守親は伊勢国司扱いされてるから伊勢勢
1354年仮)顕成(玉野式部少輔)に第一子誕生熙成
1357年熙成親王立太子(後村上天皇崩御が近いためとされ後裔なさそうな
記述からの立太子と書かれているからこれは後村上の息子ではない
存在が即位)顕成の子が仮で3歳で見込んでいるが無理やり立太子さ
せた感じが霊山記略にあると推定が合致する
1368年長慶天皇即位※顕成(玉野式部少輔)この時30歳で推定
長慶天皇は仮)14歳
1369年仮)長慶天皇 仮15歳 仮)息子貞成親王誕生
1383年長慶天皇から後亀山天皇へ禅譲※後亀山(貞成が熙成の子だと、
貞成が即位時年齢は14歳で長慶が45歳)
1389年神器争奪戦の口実、神器を後小松に継授
1393年顕成死去(玉野式部少輔)56歳
1394年長慶天皇死去?推定で40歳
1406年岩松義政真野入り
1498年明応大地震
空白の115年
〇多田野吉左衛門の1人 妻:多田野の娘
吉左衛門を称した人物に郡山の新田顕成が見込まれる
郡山で多田野の娘と結婚し、吉左衛門を名のりだしてると見込みあり
遭遇場所は安積・西田・猪苗代方面
森鎮雄と西が結託し顕胤の妻を、西と芦名に加工してるが顕胤は捏造
これが多田野吉左衛門の名の始まり時期と思われる
これが田村清顕・田村月齋らの方面に隠居してたうちの人だろう
1520年熊野大地震 那智熊野堂倒壊と津波被害
〇浪岡吉左衛門になったか? 妻:伊達植宗の娘
1521年仮)顕成の子孫(仮名:親成)誕生※鹿島に寄り真野長者と真野治め
相馬藩で顕胤と勝手に流布してた存在
1521年顕胤が相馬領主となった!と書いてるのは森鎮雄
1542年田中城(館)の戦 城主顕胤とされた存在は顕家子孫
妻の家が伊達植宗の家
桑折側では式部少輔と言ってたが式部少輔とは顕家の最初の子・
顕成を指す 妻は伊達植宗娘
1571年死亡浪岡吉左衛門と称す者(仮で親成)
①福島県伊達市領内で第1波青森へ移住1354年第2波1393年 霊山記略より
②青森移住、北畠顕信の孫 顕能が浪岡を称した最初
③青森に行ってるは顕家の倍以上の寿命と、子供・孫の戦の逆恨み逃亡?
➃青森浪岡の始祖は北畠顕信の孫で顕能と記録されてないとおかしい
浪岡を称した始祖が顕能 城主顕能と書かれないといけない
この時浪岡には城がなかった あっても記録を消し上書きでゴチャゴチャ
➄なぜか行岡城主「親成」とある霊山記略 行岡とは浪岡(地名)になってる
織田信長の息子の信雄は伊勢北畠と同化 森可成と豊臣秀吉と組み石田と組む
島津義弘は浅野長政を攻める 森可成