アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

「相馬の偉人」作成斎藤笹舟は多分 斎藤邦吉の関係

2020-03-15 20:46:58 | 日記
原稿そっくり移していけば 画像だけでなく文面もネットじゅうに拡大される

うちの事を売ると出世してきた乞食人殺しども
東大入る頭だったか? いいや うちの関係した事を持ってるヤツらが
待遇良かったり金を援助されたりしてた

この糞乞食らの特権

見ろ こいつだけで厚生労働省がヒット
だから麻生の事出すたび 麻生がいる財務省の末端や社保庁が騒ぎ出す

貴様ら 山程いる糞乞食の末端が、また出世したくて喧嘩ふっかけてくるって
パターンだ

そしたら斎藤邦吉が厚生労働省に入ったコネが まだ健在してるって事だ。

警察も昔はふっかけてきたもんだ あれ 知っててだったんだな
警察のトップ半殺しにしたら末端も黙るんだろ?

今のトップ誰だっけ? この前は福岡の金高特集だった あれ半端だな
その前で あいつ 大阪にいたあいつ また名前忘れた 顔覚えてるのに


斎藤 邦吉(サイトウ クニキチ)とは - コトバンク
kotobank.jp › word
20世紀日本人名事典 - 斎藤 邦吉の用語解説 - 昭和期の政治家 衆院議員(自民党);元・厚相;元・自民党幹事長。 生年明治42(1909)年6月26日没年平成4(1992)年6月18日出生地福島県相馬市学歴〔年〕東京帝国大学法学部法律学科〔昭和8年〕卒主な受賞 ...

齋藤 邦吉(さいとう くにきち、1909年6月26日 - 1992年6月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)。
自民党内では宏池会に所属し、伊東正義、佐々木義武とともに「大平派三羽烏」と呼ばれた。また、厚生族の重鎮としても知られた。
来歴・人物[編集]
福島県相馬郡中村町(現・相馬市)出身。相馬中学、一高、東京帝国大学法学部卒。内務省を経て、労働省に入り、労働事務次官等を務める。
1957年、福島県知事選に立候補するが落選する。1958年、第28回衆議院議員総選挙に旧福島3区から鈴木直人の後継者として立候補し、初当選(当選同期に竹下登・金丸信・安倍晋太郎・倉成正・谷川和穂など)。
1964年7月、第3次池田内閣改造内閣で内閣官房副長官に就任。1972年12月、第2次田中角榮内閣で厚生大臣として初入閣。自民党では宏池会(池田派→前尾派→大平派→鈴木派→宮澤派)に所属。
1978年、第1次大平内閣が誕生すると、総幹分離の原則を破って、総裁派閥ながら自民党幹事長に就任した。1979年の解散総選挙で自民党が敗北したため辞任。
1980年7月、鈴木善幸内閣に厚生大臣として再入閣するも、富士見産婦人科病院事件で乱診乱療経営をしていた病院から政治献金を受け取っていたことが発覚して、引責辞任。1982年11月、第1次中曽根内閣に行政管理庁長官として入閣。1991年11月には宮澤内閣発足に伴い宏池会の会長代行に就任している。
1992年6月18日、死去。享年82。当時浪人中の田中直紀(鈴木直人の実子)が宏池会入りして後継者となった。

で意味不明なのがこっち↓ なんで香川県 善通寺市 中村町が出てくるの?
ウィキの中開けば香川じゃねーのに何で? 

齋藤 邦吉は、日本の政治家。衆議院議員。 自民党内では宏池会に所属し、伊東正義、佐々木義武とともに「大平派三羽烏」と呼ばれた。また、厚生族の重鎮としても知られた。 ウィキペディア
生年月日: 1909年6月26日
生まれ: 香川県 善通寺市 中村町
死亡: 1992年6月18日
出身校: 東京帝国大学法学部法律学科


さらに意味不明↓ 四国じゃねーだろ!!!四国にあるって言っても蚊帳の外だ
今 そこを見る気もナシ

中村町
なかむらまち
四国の町

説明

中村町は、福島県浜通り北部に存在した町で、現在の相馬市中心部に位置する旧城下町である。 町域は、中村城下を初めとして、松ヶ江村から編入した宇多川河口右岸、太平洋と松川浦に面する地域にあたる。1896年以前は宇多郡に、1896年以後は相馬郡に属していた。 ウィキペディア



いや待てよ これか????

全讃史には「仲行司貞房之に居りき。後世行司清左衛門と言うものありて、なおその所に居りき」とあり、行司清左衛門の代までは仲村城に居たとされる。[1]
戦国時代に甲山城が築かれたことで、仲村城は廃城となったとされている。[2]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%9D%91%E5%9F%8E





西村 後回しだ

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。 

2月、義経は摂津国の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 

義経はこっち側って昔の定義は当たってるな 伊予水軍が義経についてたか
頼朝は対岸側

伊豫水軍とも書くか 師清んとこにこう書いてある
「伊予国能島に入り村上源氏を襲い伊予北畠祖」って
師清が顕家の子とは言えない 2子しかおらん 19歳で死ぬのに

しかし 昔世話になったとこへ行けと誰かが教えれば
あるいは調べていれば殺されずに済む確率は高い
まさに師清が伊予入りは昔 そのエリアと接近した何かがあるからで

仮想
仲行司貞房を、仮定で源定房(顕房の子) 当時島流しされた公家の派閥と
見た場合  

後世行司清左衛門は師清の別名だったりする?

昔、香川は皇族が流された場所だと たまに5ちゃんに出てた話と合わせて。

貞房と定房は1文字違い
ちなみに霊山略記では定房 階級は正二位大納言となっている

源 定房(みなもと の さだふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人・能書家。村上源氏顕房流、権中納言・源雅兼の四男。母は源能俊(よしとし)の娘。源雅定(まささだ)の養子[1]。官位は従二位・権大納言。堀川大納言と号す。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9A%E6%88%BF 

この定房が島流しか赴任で香川入りしてたとしたら


全部臣籍降下によっての公家

親房が果たして親か疑わしいが 顕家の顕はここからきてる 顕房
ちなみにこの定房の親 顕房になってる 顕房の親が俊房で、その親に師房
そーすると 師清の名は 師房の師からきてる


師房の階級 従一位左大臣 のちに太政大臣

雰囲気的に村上天皇時代の公家体制 四国が戦場になってたのも影響してるのか


後村上天皇派閥は逆に東北とかで 石巻に逃れたとか 山形入りしたのって
出てくる その先に青森浪岡が出てくる 浪岡と日野がセット扱いされてきてる


結果から言うに この後村上関係がうちに盛大な迷惑をかけ続け
顕成を否定し続けたあげく アキヒトらはそれで生きてた計算だ
霊山略記は第二次世界大戦の土台作りと言ってもいい
霊山略記くまなく読んでないが師清の事はちらっとしか出てない そこの部分位

しかし 仮に高松宮が師清の子孫と闇で題し皇族扱いされてたならば
これまた 大迷惑な話

2011年以降 調べて調べて アキヒトらは北朝血統だろと書いてたのに
2ちゃんでは 今の天皇は南朝方だと出るし、そう書いてるブログもあったようで
おかしい おかしいって思ってたんだよ

ここ数年だろ あれら あたしんちの戸籍の先に出てきやがる!!!!!って。
そうなれば そいつら 南朝系の血って事になるぜ?って。

北朝伏見の血は入ってんだ それに寄ってきてるヤツが元皇族か?と言えば
そうではない。民間から入ってんだ。
そいつらの定義なら 臣籍降下した皇族に近い血と・・・って計算してる?
それが外交で有利になるとも考えてたんだろ?

貴様ら 何やってきてんだ!!!!!!の話

それに群がるゴキブリもまた それで世界に通じて強いと思ってる

だから 2ちゃんで、「血の保護が大事」とほざくヤツいたんだ
そいつらの血が大事だとさ

んで憲法違反 国税を地方に配分運動 これがアキヒトらのやってきた地方の
政治介入 憲法違反のくせに存在を認められてると国税使って映画作り
公務員集団によるファンタジー系図のハッタリ数千年

高松宮が香川由来で名前とってんだ
そしたら秩父宮もだろ

その高松宮って字からして香川が出生に何か関与してる
それは地方自治体でやってるんだ 系図の作成を

鳥取久子 津軽花子 ああ 地名だ 名字が!!!! 自治体名が女らの名字で?
なんちゃら宮は 昔 公家貴族がいたとこ?

まず 相澤金之丞に促されて郡山の多田野神社に行くと、香川の多田野鉄工の
社長が今ちょっと前来て行ったばっかりだと言われたそうだ。
外野は知ってて うちの人間は隠されてた これを何と言う?
多田野神社の祭神は鎌倉五郎だ うちと敵対した鎌倉幕府の鎌倉を
うちが崇拝する訳がない それがまず うちと無関係の理由
しかし 多田野鉄工では関係があると思ってルーツを探しに来たと言ってた
らしい 当時の会長か社長だ トップが来て行った訳ね そこに。
その多田野と関係あるのは 只野一郎 息子の正教らのほうで
その多田野って源辰って言う名だから。
一郎自ら 「俺んちが直系ーー!!!」と吐いてた事は じいさんの記録でも
明らか。

その源辰の子 一郎の他のルートに 斎藤邦吉と関係してる あの事務所
只野商事

まとめて その人ら 顕家の遺産がうちにあった事とかみんな知ってて
顕成が吉左衛門だと知ってて もらうものだけ もらってたみたいね。

霊山略記で あんな事編集される
んで おかしな事に 系図の表で顕成を書いてねーの この本

よく見たら 浪岡氏祖は 顕通って書いてあるようだけど?
母 日野の萩姫で
ん???? 
母萩姫妾腹也って書いてっぜ?

まず日野は妾扱いで萩姫? 萩姫伝説の福島 磐梯熱海 そのエリアの
半径十数キロ圏内 多田野村 多田野神社 高松宮別荘 
猪苗代湖(安積調整池)
まず 組んでただろ これ
安積多田野城なんて 探しても見つからなかった
あったのは多田野神社くらい その多田野城主だってさ 源辰
見つけたのは 采女公園と寺 それが見えた高台は城跡か?と思ったが
昔は金もない 城なんて地形利用した高台に構える感じだ
あの場所 民家の脇を登って入った場所 采女公園はそこから見えた
寺を見に行ったついで発見したもの

その多田野神社で起きた事から香川が連結してたんだから高松宮はその
ルートを背乗りしたか 関係してるかだ。

んで浪岡氏のとこに どう書いてあるか
幼名竹丸 糸へんに恩と書いて何と読む? 
上總 介(じょうそう)
鎮守府にて誕生

もう は?????って感じ 

延元三年将軍顕家公泉州石津に於て戦死 顕通伊勢に居るも遂に不安を覚え
乳人櫻井監物家忠幼子を奉して避て陸奥国津軽に入り南部家に據 る(よる)
浪岡郷を賜ふている郷人呼て北畠御所又は浪岡御所と稱 するもの之也


まず 顕家が大阪入りする前に伊勢に寄った話は事実だろう
でもそれは親房が呼びつけた話で合ってると思われ それと同行したってか?
妾の萩姫が。だったら霊山城で赤子を産む頃の松代のとこから顕家が出てるのに
萩姫はどこにいたって?って話になる

これ 原稿元 青森浪岡なんだよ!!!!

顕家が霊山から伊勢まわって大阪入り
そのあとで死ぬ 当時19歳くらいで死亡だ

で? 伊勢にいた顕通が不安を覚え? 顕家の妾扱いの萩姫が伊勢にいたって?
いや 萩姫の素行は書いてねーんだ ただ顕通が伊勢から青森に移動したって
話だけ
これまた は???ってなる 松代を本妻と見た場合の萩姫妾って見方してたんだろ?その時点で萩姫って宙に浮いてるし 伊勢から青森に逃れた子ってのも
時系列は?ってなる

伊勢にいたとされてるのは顕能ってヤツで 親房の子扱いされてた人だけど。
その顕能が伊勢国司扱いされてたんだけど。

源辰がはっきり 顕成が偽名で多田野吉左衛門と名乗った事を伝えてる事と
うちに吉左衛門が名前書いたモノが残ってるのと顕家遺産がうちにあった事と
うちで即位何人もいた事から 浪岡関係ねーんだよ
んでこの前も書いた通り 豪商と言われてたのでうちであって源辰んとこでは
ないし 改易食らってる武士家系相馬でもない

んでわかってるのは 伊勢北畠ってのは武家になっていて、それが衰退のとこ
を信長が息子送り込んで継がせた それが伊勢北畠だ
伊勢国司やった北畠顕能は親房の子で顕家と兄弟ってされてきた
その顕家の兄弟って 武将オンリーになってしまった顕信のほうが濃いんだよ。
その逃げ回っただけで 後に北畠と称する事が出来るヤツと
かたや 祟り封じされた顕家直系じゃ 苦労の差が違う

あと そーいや磐梯熱海の萩姫伝説は昔ネットで確認した時、京から病も治る
と聞いた姫が入浴に来たという伝説かららしい
それにちなんで萩姫伝説とされてる 
その萩姫が霊山に籠もった時期 松代もいたのに追っかけてくるか?の事を書いてる。
萩姫が郡山から猪苗代方面に向かったのなら そっからどこ行った?
帰った?京に?
それが須賀川にいた宇津峯ならば 顕信を追いかけて通るルートでも考えられるとこの前書いた。

どこに上総? どこに伊勢? 顕信は大阪入り後 須賀川戻って その後山形
行ってるぞ? 鶴岡方面から文献が出た。
それが天童丸と称されたのは顕信の子だろと決定つけた理由。
今の山形エリアに関係してた それが青森まで北上したんだろと前に書いてる
訳だが、その前は京都入りした後 青森行ったなら こっちに戻ってると書いてる。
んで その後行き来あったヤツがいたとしてもうちの商売上青森は関係してないと
思われる理由に ロウソク屋だったらしい事から。んで神仏についても青森は
無知だったようだし それもうちの人間がやってきた事からは遠い。

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